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結婚報告は宣戦布告 《11》

 家族全員が顔を揃えた晩餐は、一部まだ落ち込んでいる人がいたものの、和やかなムードだった。

「小食ということは聞いていますけど、もっと頑張って食べてくださらないと。その身体では子供ができたときに大変な思いをすることになりますよ」

 みんなの三分の一ほどしか盛られていない私のお皿に、フルル夫人が苦言を呈してくる。これでも多いくらいなんですけど、とは言えず、私は曖昧にはいとうなずいた。

「身体が弱いのは、食べないせいでしょう? 食事は健康の源ですよ」

「はあ……」

 産前産後の苦労をひたすら食べることで乗り切った人は、熱心に食事の大切さを論じる。さすがイリスの母親だ。言ってることが同じだよ。もしかしてイリスの小言は、夫人からの受け売りなんだろうか。

「たしかに、もっと食べてほしいけど、これでもずいぶん改善した方なんですよ。前は断固として肉を食べませんでしたからね」

 イリスが笑いながら助け船を出してくれる。でもこの船、あまり頼れないな。油断するとあっさりひっくり返されそうだ。

「えー、ティトシェって肉が嫌いなの? おいしいのに」

「肉嫌いって言う人、初めて見たかも。たいていみんな好きじゃない?」

 ニノイとルーフィが分厚く切った肉を前に、驚いた顔をする。中型犬くらいはあるんじゃないかってサイズの丸焼きがテーブルの中央に鎮座していて、ちょっと正視したくなかった。脚とか形がそのまんまだからシュールだ。繊細な美しさを重視する和食文化とは相容れない眺めだよね。活け造りとか姿盛りなんてのもあるけどさ。

 みんなはおいしそうに、せっせと肉を切り取って食べていた。見ているだけで胸焼けしそうだ。

「最近は頑張って食べてるんだよな。そら、これだけ食べろ」

 イリスが切った肉を私のお皿に乗せる。うう、ちょっとしたステーキサイズじゃないか? もうこれだけでおなかいっぱいだよ。

 ちびちびと口に運ぶ。おいしいかなあ。この臭いとか脂っこさとか顎の疲れる固さとか、どうしても好きになれないけどなあ。

「大兄、明日はミチェ湖行って遊ぼうよ。長いこと泳いでないだろ?」

「いや、つい最近何度も水に落ちたけどな……そうだな、今の時季ならシマスが釣れるか。チトセ、シマスはおいしいぞ。釣ったその場で焼いて食べるのが最高なんだ」

「魚は死んだ直後より少し時間を置いた方がおいしくなるとか聞いた覚えがあるけど。どうでもいいけど、私も行くこと決定なの?」

「行きたくないのか?」

「なんでさー、ティトシェも行こうよ、楽しいよ」

「レイ兄ももちろん行くよな?」

「……私は……」

「わたくしも行きたいわ。ねえ、ジュール様? お仕事の都合つけて、久しぶりに家族全員で遊びに行きません? せっかくイリスが帰ってきているのですから」

「ふむ……そうだね。こういう機会も、今後どれだけあるかわからないからな」

「決定ー! じゃあ明日は弁当持ってみんなでミチェ湖だ!」

「……いえ、私は……」

「レイ兄、たまには外で日に当たらないと本当にモヤシになるぞ」

「……昔はそっちが死にかけだったくせに、えらそうに」

「水辺で長時間遊ぶなんて日焼けが怖いわ……シミソバカス肌老化を招くおそろしい行為よ」

「日陰に入ってればいいだろ。少しくらいは日焼けしないと、君の場合は逆に不健康だよ」

「日常生活で浴びる紫外線だけで十分以上なのよ。それ以上をわざわざ浴びる必要はないの。極度の日焼けは皮膚ガンの原因にもなるんだからね」

「なんか難しいこと言ってるけど、結局は外に出たくないんだろ?」

「……暑いもん」

「お肌の手入れの仕方なら、いろいろ教えてさしあげてよ。マフィは知っているかしら? 実や蔓から採れる汁が、肌を白くなめらかにしてくれるの。わたくしはよく外へ出ますけど、マフィで手入れしているから、ほらこのとおり」

「ぜひくわしく教えてください」

「うわ、いきなりかぶりつき」

「女ってそういう話好きだよなー」

「あの、私は……」

「ああレイシュ、土地問題でもめている村がたしかミチェ湖へ行く途中だったな? ついでに顔を出そう。あとで資料を持ってきてくれないか」

「あ、はい父上……」

「僕じゃ話をうまくまとめられなかったよ。お前がいちばん詳しいんだから、仲裁はまかせるぞ」

「……はい」

 なんだかんだとにぎやかに盛り上がるうちに、いつの間にやらテーブル上のごちそうはきれいに片づき、丸焼きも骨だけの哀れな姿になっていた。明日の予定を約束し合って、みんなそれぞれの部屋に引き取る。私も部屋に戻り、早々にお風呂に入って全身をしっかりくまなく洗った。晩餐の前に頼んでおいたから、待たされることなくすぐに入れたのがよかった。

 秘蔵の入浴剤を使って髪にも肌にもいい香りをまとわせ、あとのお手入れも念入りにする。まだ使っていなかった新品の下着と寝間着をおろし、髪を整えつつ乾かす。鏡の中に映る自分を見ていると、どんどん緊張してくるのを感じた。

 平静、平静。なにも特別なことじゃないし。いたって普通の、当たり前のことだよね。そんなに緊張しなくてもね。でもなんて言って切り出そうかな。うう、どきどきする。

 自分とにらめっこしながら考えていると、扉がノックされた。返事をすると入ってきたのはイリスだった。

「あ、もう寝支度してたのか。疲れたか? ごめんな」

 私の姿を見て、部屋に入りかけたところで立ち止まる。私はブラシを置いて鏡台の前から立ち上がった。

「ううん、まだ寝ないから。どうぞ入って」

 婚約者とはいえ、寝間着姿で向かい合うのははしたないんだろうね。何度も寝込んだ姿を見られてきたのに今さらだけど。でも夏物の薄い生地の下は素肌だから、レースの肩掛けを羽織って軽く胸元を隠しておいた。ま、一応……いきなり露骨すぎるのは下品だし。

「何か用?」

 内心ものすごくどきどきしつつ、できるだけいつもの調子に聞こえるよう普通の声と表情をとりつくろう。イリスは少し落ち着かなげに視線をあちこち移していた。

「用、ってわけじゃないけど……いや、せっかく時間があるから話でもと思って。あんまりふたりでゆっくり話せてないだろ」

「そうね。えっと……うれしいわ」

「え、あ、うん」

 うまくとりつくろえていないのだろうか。イリスは明らかにとまどっている。話をと言いつつ、まっすぐ私を見ようとしない。なんだろう、ギラギラした雰囲気でも出てる? そういうのはいやだな。あくまでもスマートに、品を失わず、さりげなくいいムードに持っていきたい。

 沈黙がおりる。しばらく悩んで、私は努力を放棄した。

 うん、最初から無理があったよね。私に高等テクニックなんてあるわけない。チャームのスキルは未習得だ。経験値も稼がないうちから結果を求めたのが間違いだった。

 自然なムード作りはあきらめる。開き直って、クールに話すことにした。

「ちょうどよかったわ。来てくれなかったら、こちらから行こうと思ってたの」

「え……そう?」

 寝間着一枚の姿で言う言葉ではないだろう。イリスはますますとまどった顔になる。ひそかに深呼吸して冷静さを保ち、私は一歩近付いた。

「他の人に言い訳する気はないけど、あなたにはちゃんと証明しておきたいから。方法はあるって言ったでしょ? 大人なんだから、くわしく言わなくてもわかるわよね? 私がまだ誰とも肌を合わせていない、純潔であることを、その身でたしかめて」

「…………」

 青い目が瞠られる。息をのむ彼に、さらに私は近寄った。ドン引きしないでね。いつもはそっちの方がスケベ心見せて迫ってくるくせに、ここで私に恥をかかせないでよ。

「あなたにだけは、疑われたくない。ちゃんと知っていてほしいの。色気のないお誘いで悪いけど、受けてくれないかしら?」

 もっと踏み出し、互いの体温を感じるほどに近くなる。両手を伸ばして彼の頬を包み込む。肩からショールが滑り落ちた。

 怖いほど真剣な顔でイリスは私を見下ろしてくる。つよい腕が背中に回され、私達の間の距離はゼロになった。私はさらに腕を伸ばして彼の首にからめる。唇を寄せたのはどちらからだろうか。とても深く激しい口づけが、何度もなんどもくり返された。

 胸が苦しくなるのは口づけに呼吸がさえぎられるから? 背中をさまよう手が熱い。身体の奥から、なにか得体のしれないざわめきが這い出してくる。もどかしいような、こわいような、言いようのない感覚に理性が押し流されそうになる。離れるわずかな間に熱い吐息をこぼしながら、すぐにまた互いに熱を求めて口づけ合う。腰から背中、腕へと這う大きな手が肩を包み込んだ。

 めまいがしそうな、甘い熱――それが唐突に遠のいた。

 一瞬何が起きたか理解できない私を、イリスが両腕で押し離していた。

「……ここまでな」

 詰めていた息をどっと吐き出し、疲れたように彼は言った。ここまで? ここまでって、どういうこと。

「これ以上は理性がもたない……勘弁してくれ」

 私から手を離し、数歩あとずさって彼は天井をあおぐ。なにが勘弁? 止めなくていいじゃない。こっちから誘ったのに。

 視線を戻したイリスは、困った顔で苦笑していた。

「気持ちはうれしいけど、こういうかたちでってのはまずいだろ。僕は君を疑ってなんかいないよ。むきになって証明しなくていい。もし何かあったなら、多分君はなんの抵抗もなく僕に触れたり触れられたりできないだろうし……もし、仮に何かあったとしてもだ。それでも君を望む気持ちは変わらない。だから、こんなことしなくていい。もっとちゃんと、自然にそういう気持ちになれてからでいいよ」

「…………」

 優しく微笑む彼に、私は心から、腹の奥底から、本っ当ーに――激怒した。

 こういう時にかぎって何よそれは! 普段あんだけ押せ押せなくせに! 人がせっかく、やっと、その気になったのに! 覚悟を決めて、一生懸命準備して、恥ずかしさと緊張をこらえて、これでも精一杯の勇気をふりしぼって言ったのに!

 この、天然激ニブ無神経男が!

 ものわかりのいい顔して引いてみせてんじゃないわよ! たしかに証明したいけど、それだけでむきになってるわけじゃないのに! そんな思い詰めた深刻な顔に見えるか? ずっと考えていたんだよ。家族に紹介されて、ちゃんと受け入れられたら、そうしたらもういいかなって。それが私なりのけじめだったんだよ。レイシュの言ったことがきっかけにはなったけど、半分くらいは口実でちゃんと気持ちはあったのに。そんなの、雰囲気でわかるでしょう? 気付いていたからそっちもどぎまぎしてたんじゃないの? なのになのに、いざってところで逃げるなんて――このヘタレボケナスが!

「…………」

 胸中でさんざんに罵倒するも、口からは何も出せなかった。私はただ黙ってイリスを見つめる。冷えていく視線にイリスがたじろいで、ごちゃごちゃと言い訳をはじめたけれど、最後まで聞く気になれなかった。私はくるりと彼に背を向けて寝台へ向かい、頭から布団をかぶってふて寝した。

 ふん、どうせ色気が足りなかったでしょうよ。それに、ああそうね、日本の民家とちがってホテル並みの城館とはいえ、同じ屋根の下に家族がいる実家なんだから、そういう気分にはなれないんでしょうね。それは悪うございました。私が下品で慎みがなかったんですね。ごめんあそばせ。私だってエンエンナの一の宮で新婚夫婦と同居してるんですけどね。女官や侍従だっていますよ。でもそんなのいちいち気にしてないよ。気にする方がやらしいじゃん。

 いいですよ、そういうつもりならお言葉どおり清いお付き合いを続けようじゃないか。こうなったら結婚するまで、徹底的にお預けにしてくれる!

 この夜怒りとともに決意したことを、私は式を挙げるまで固く守り通したのだった。




 すったもんだの滞在期間も終わり、王都へ帰る日の朝、館の前にはたくさんの人が見送りに来てくれていた。

 使用人たちは全員整列し、代表でマーゴさんとナジムさんがぜひまた来てくださいと言ってくれた。餞別はニルギの薬草茶をはじめとする、さまざまな薬と健康食品だった。はい、頑張って丈夫な身体を作ります。結婚式を挙げたら新婚旅行でまた来ますね。領地の人たちにもあらためてご挨拶しないとね。

 村の子供たちも来ていた。許されて庭に入ってきたスウェンたち一人ひとりとさよならをする。子供の成長は早いから、次に会う時にはみんな背が伸びているだろう。ティムルは私を覚えていてくれるかな。

 イリスもいろんな人に別れを惜しまれていた。その姿をちょっと離れたところから見ていたら、ソフィアさんが私の方へやってきた。

「もうお別れですのね。途中ごたごたして、姫様には落ち着いて滞在していただけませず、申しわけありませんでした」

「いいえ、後半は楽しかったですよ。でもあまり領地を見て回らなかったから、次はもっと時間を取ってあちこち回りますね」

「ええ、ぜひ。できればその時期に合わせて、わたしも里帰りしますわ。予定が決まりましたら、ぜひおしらせくださいませね」

 そう言われて気がついた。そうか、ソフィアさんは秋に結婚するんだっけ。じゃあこっちがお祝いに駆けつけるほうが先なんじゃないの? お嫁入り先はどこなんだろう。

「ハッツィルという領地です。ご存じでしょうか、ここから南に馬車で三日ほどのところです」

「ずいぶん遠くへ行かれるんですね」

 里帰りが三日がかりか。それじゃあ、あまり頻繁には帰れないだろうな。電話もないこの世界で遠くへお嫁入りするって、不安や寂しさもあるだろうな。

「祖父の知己がいる土地で、その縁ですわ」

「結婚式は向こうで?」

「ええ。それで、実家から侍女と小間使いを連れて行くのですけど、セル村のマイナを連れて行くことにしました」

「マイナさん……?」

 知らない名前に首をかしげると、ソフィアさんは少し声を小さくした。

「姫様がお気にかけていらした娘ですわ」

 あ、と納得する。そうか、賊にさらわれていた、被害者の女の子か。

「王都へ連れていくことを提案なさったんですってね?」

 うん、そうだ。もちろん今すぐじゃないし、本人の希望を聞いてからだけど。

 マイナさんは今、家族に見守られて心と身体に負った傷を癒している最中だそうだ。気の毒な人に、表立って意地悪を言ったり白眼視する人はいないらしい。でもみんなが事情を知っている土地で暮らし続けるのは辛いだろう。元気になっても家の外へ出て行くのが難しい。人に見られるのがどれだけ苦痛か、私には想像することしかできないが、堂々と立ち向かえるほど強い人は少ないだろう。

 もし本人が望むなら、土地を離れてみるのもいいんじゃないかと言ったのだ。家族と離れることになってしまうけれど、人の目や噂を気にせずに暮らせる場所へ行った方がいいかもしれないと。

 いずれ私とイリスは三の宮の館を下賜されて、自分たちで使用人を雇って暮らすことになる。じゃあそこで働いてもらったらどうだろうと思った。マイナさんの回復が早ければ、ハルト様に頼んで早めに館を準備してもらえばいい。住民がみんな知り合いで古い考えが根強く幅を利かせる、そんな田舎から離れ、いろんな人がたくさんいる王都へ行けば、もしかして立ち直るきっかけが得られたり、新しい出会いがあるかもしれない。

 まずは本人が落ち着くことが先なので、一つの案として話しただけで終わっていたのだが。

「それもマイナの家族には伝えられました。ハッツィルとどちらがいいか、本人に選ばせたんです」

「マイナさんはハッツィルの方がいいって言われたんですね」

「ええ……大分悩んでいたようですが、何分王都は遠いですから。家族もそこまで遠くへやるのは心配して。それに、田舎の小さな農家の娘です。たしなみも何もなく、文字の読み書きすらおぼつかないほどです。そんな娘に王宮勤めは無理だろうということになり、わたしの小間使いにすることになったんです」

 文字なんて勉強すればいいし、礼儀作法だって働きながら覚えればいい。女官になるわけじゃないんだから、そう気にしなくてもいいと思うけれど、遠いのが嫌というのはしかたがない。たしかにね、環境を変えるにしても、あまり離れすぎるのは不安だろう。新幹線や飛行機で数時間ってわけにはいかないんだから。

「姫様のせっかくのご厚意を無にして、大変申しわけないことなのですが」

「いえ、そんなことはかまいません。大切なのは、何がいちばん本人のためになるのかですから。私が言い出したのにお任せしてしまうことになりますが、よろしくお願いいたします」

「……ええ。ありがとうございます」

 ソフィアさんの笑顔がどこかそれまでとちがって見えて、私は目をまたたいた。お礼なんて言われることかな? 横から口出ししただけで、結局何もしていないのに。

「あのイリスが自分から望んだ相手って、どんな方だろうと……これは最初の日にも申し上げましたわね。お会いしても、実はまだよくわかりませんでしたの。姫様に問題があるわけじゃありませんわ。ただ、イリスは女性のことをちっともわかっていなくて、本気で恋なんてしたことがなくて、興味を持つこともなくて、竜と結婚しても驚かないと思っておりましたから」

「…………」

 あー、そうだね。イシュちゃん女の子だしね。

「あの人をその気にさせるには、何かよほどに特別なものが必要なのではないかと思っていました。失礼ながら、姫様を拝見していてもその何かがわからず、ずっと不思議に思っておりましたの」

「はあ……」

 特別ねえ。私の他人とちがうところというと、性格の悪いひねくれ者で、疑り深くて、人と付き合うことが下手だとか、とてもではないが結婚の決め手になるような美点じゃないよねえ。たしかにイリスはなんで私を好きになってくれたんだろう。

「多分、そういう理由じゃないと思います……」

 フィーリングってやつかな。はっきりした理由ではなく、なんとなく気が合ったとかそういうのだと思う。いつかイリスも言っていた。仲良くなる決め手は相性だって。

 ソフィアさんはくすりと笑った。

「かもしれませんわね。でも、今は納得しています。彼は本当に女性を見る目がないと思っていましたけど、今度は誉めてやりますわ。ちゃんと、間違えずに選べたのねと」

 ソフィアさんは軽く私に頭を下げた。

「ようやく心から祝福できます。イリスのこと、よろしくお願いいたします」

 親族で幼なじみとはいえ、兄妹でもないソフィアさんがなぜここまで言うのか。最後までだまっていることができず、とうとう私は思いきって尋ねてしまった。

「ソフィア様とも、つき合っていたのでしょう? 結婚の話まで出ていたと聞きました。今もふたりはとても仲がよさそうなのに、どうして……」

 あら、とソフィアさんは頬に手を当てた。

「まあ、誰がお耳に入れたのでしょう」

「いえ、私が勝手に……」

 立ち聞きしたとは言いづらく、あわててごまかしていると、ため息まじりの笑いがこぼされた。

「つき合ってなどいませんわ。ただの幼なじみです」

 ただのって、だって結婚させようって互いの親とかが話していたんだよね?

「たしかに周りがそんなふうに盛り上がったこともありますし、わたしたちもそうなるのものと思っていました」

 胸が音を立てる。こちらから聞いたのに、それ以上聞きたくないような怯えが走る。

「でも、言いましたでしょう? イリスは本当の恋なんてしたことがなかったと。わたしのことは、家族としか見ていません。それを男女の愛情と勘違い……いえ、そこまで深く考えてもいませんでしたわね。昔から親しくしていて、気心が知れている。周りも認めている。だから問題ない、いい縁だって、適当に受け入れていただけです」

「…………」

「そういう縁で結婚する人も多いですし、それはそれで悪くないのですけど……わたしは、我慢できませんでした」

 ちらりとイリスを見たソフィアさんの顔は、少し寂しそうだった。

「あのままイリスと結婚しても、多分ずっと不満だったと思います。なあなあで相手に選ばれて、本当はちっとも愛されてなんかいないのに、彼自身がそのことに気づきもしないままなしくずしに決められていくのが、どうしても耐えられませんでした。あげく、彼は王都へ出て竜騎士になると言いました。わたしのことはどうなるの? そう思いましたわ」

「……でも、その時って、イリスが十六歳だから、ソフィア様は十五歳ですよね」

 婚約だけして、結婚時期は未定でもよかったんじゃないのかな。騎士になっても数年は結婚なんてできない。はじめは訓練に明け暮れて、どうにか余裕が出てきて結婚できそうになった頃、ちょうど適齢期だったと思う。

「ええ。一人前の騎士になったらかならず迎えにくるから、それまで待っていてほしい――そんなふうに口説かれたなら、わたしも待てましたわ。でもイリスは何も言わなかったんです。言う必要があるとも気付いていなかったでしょうね」

「…………」

 うーん……信頼していたと言えば聞こえはいいが、たしかにちょっと自分勝手かなあ。

「無事試験に合格した、竜騎士になれるって、浮かれて報告するばかりで。わたしのことなんて、ちっとも考えてくれません。あれで愛想を尽かしましたわ。わたしは待たないから好きなだけ働いてきなさいって言ってやりました。きょとんとしていましたわ。その時はじめて、わたしのことを思い出したという顔でした」

 ううむ、フォローしてやりたいが、かなり難しい。たしかに女から見ると、ろくでもない男だな。

「難関試験に通って憧れの職業に就けることになって、舞い上がっていたんだと……落ち着いたら、ソフィア様のことだって考えたと思います……多分」

 苦しいフォローにソフィアさんは笑う。

「どうでしょう。だとしても、イリスの心がわたしにないことはもうわかっていたんです。いい機会だと思いましたわ。こんな気持ちのままずるずる引きずっているより、きっぱりあきらめようって。後悔はしていません。あれで正しかったのだと思います。だって、あのまま結婚して、その後イリスが姫様と出会っていたら、みんなが不幸になっていましたわ」

 全部終わってしまった、過去の話だ。もしもを仮定してもしかたがない。イリスとソフィアさんの道は分かれ、今につながっている。

 ふっきれた明るい顔で、ソフィアさんは笑う。だから私はそれ以上は聞かなかった。

 ……多分、愛想を尽かしたと言いながらも、いつかイリスが迎えに来てくれないかと、期待を捨てきれなかったんだと思うけど。

 嫁き遅れと言われる年になるまで独身でいたのは、本当にあきらめきれてはいなかったからだろう。ソフィアさんみたいに素敵な人に、他のご縁がなかったはずがないのだから。

「……ご結婚相手は、どんな方ですか」

 他の人の花嫁になることを選んだのは、彼女自身だったのだろうか。

 不安を抱いた私に、ソフィアさんは曇りのない笑顔を見せてくれた。

「派手なところはありませんけど、誠実な優しい人ですわ。あの方と出会って、わたしはイリスを選ばなくて正解だったのだと、ようやく確信できました。あの方となら幸せに生きていけそうです。イリスの時にはなかった安心感があります。結局、わたしたちはそういう運命だったんです。イリスは姫様と、わたしはあの方と、結ばれる定めだったんですわ」

 強がりを言っているようには見えなかった。いい縁にめぐり会えて幸せになろうとしている人に、そんな勘繰りは不要だろう。私はお幸せにと、心からの祈りを込めて祝福を贈った。

 荷物を摘み終えた馬車に、イリスと乗り込む。往路は実家や親戚へのお土産が乗せられていたが、帰りはハルト様たちへのお土産がいっぱいだ。

「陛下によろしくお伝えくださいね。近いうちに、また里帰りしますと」

「はい。ご連絡をお待ちしています」

 フルル夫人は結婚式の準備に、ノリノリで参加するつもりみたいだ。横でジュール卿が苦笑している。そんなに急ぎたくもなかったのだけれど、これはもしかしたら年内に挙式することになっちゃうかも。

「結婚式は王都でするの? 俺たちも参列できるよね? 陛下の時は留守番させられたけど、兄弟の結婚式なんだから当然参列するよね」

「大兄、その時は竜騎士団案内してね。俺、地竜も見たい」

「俺も俺も! あとさ、龍船に乗ってみたい。陛下にお願いできない?」

「何しに来るんだよ。遊ぶ暇なんかあるか。知らん」

「ええー、いいじゃないか、ケチー」

 相変わらずな双子の後ろで、レイシュはひとりむっつりしている。私は窓から身を乗り出した。

「レイシュ」

「……なんですか」

 いやそうな返事がかえってくる。私は未来の義弟に、にっこり微笑んだ。

「この先長くお付き合いすることになるんだし、急ぐ必要はないわ。勝負は持ち越しね」

「は?」

 彼だけでなく、周りのみんながきょとんとなった。

「無理に私を認めなくていいってこと。気に入らなければ、この先もどうぞ文句を言ってちょうだい。いびってもいいわよ、受けて立つから。強烈なカウンター用意して待ってるわ」

「…………」

 心ゆくまでケンカしようじゃないかと提案すれば、なぜか引きつった顔をされてしまった。双子もたじろいでいる。そんなにおかしなこと言ったかな? 好きなだけ攻撃していいよ、こっちも全力でやり返すからねと言っただけなのに。

「あらまあ、楽しいことになりそうね」

「参謀室を相手に勝負か。レイシュの分が悪そうだな」

 親たちは余裕の顔で笑っている。いろんな表情に見送られて、私達は夏の館をあとにした。馬車を追い越して、イシュちゃんが青い空を飛んで行く。

「ソフィアと何を話し込んでいたんだ?」

 出発してすぐにイリスが聞いてきたのは、少しは思うところがあったからだろうか。私はつんと顔をそむけてやった。

「イリスがどれだけ無神経でろくでもない男かを、再確認していたの」

「……まだ怒ってるのかよ。君が本当にその気になってくれたんなら、喜んでお相手させてもらうって言ってるのに」

「くっつかないで暑苦しい」

 肩を抱こうとしてくるのを、ぺしっと払いのけてやる。

「その気なんてありません。結婚するまでありません」

「結婚するまでお預け!?」

「普通でしょ。何か問題が?」

「……まあ、こっちも気長にいくか……」

 ため息をつくイリスを、私は扇でぱたぱたと追い払う。彼は少し離れて座り直した。

「ソフィアさんと特別な関係じゃなかったなんて、嘘ばっかり。かなり話が進んでいたみたいじゃない」

 扇の陰からねめつけてやれば、イリスはひどく複雑な顔をした。

「……婚約まではしてないよ。させようかって話が出ていただけで」

 銀の髪に手を突っ込んで、くしゃくしゃにしてしまう。それ、気まずい時の癖だよね。困った時の癖だよね。ふんふんふーん。

「イリスもそのつもりだったんでしょう?」

「……いやがる理由がなかったからな。ソフィアなら別にいいかって……全然知らない令嬢と見合いさせられるより、ずっといいと思ってさ」

 貴族の結婚は、当人同士の恋愛よりも周りが用意する縁談が圧倒的多数らしい。ほんの数回しか顔を合わせたことのない人と結婚するのも珍しくない話で、だからイリスがまったく不誠実だったというわけでもないのだけれど。

「でもあなたの態度がソフィアさんには不満だったようね」

「……ああ」

 イリスは肩をすくめた。

「てっきり向こうもそのつもりだろうと思ってたから、ふられた時は驚いたな。あの頃はなんでソフィアがそんなこと言ったのかわからなくて首をひねるばかりだったけど、今ならわかるよ。僕は竜騎士になることしか考えてなくて、ソフィアとの将来なんてちっとも考えていなかった。婚約とか結婚とか、ほっといても周りが勝手に整えるんだろうって他人事みたいに投げ出していた。今君と、結婚に向けていろいろ計画したり努力しているような、そんな気持ちはあの頃まったく持っていなかった。それがソフィアを傷つけたんだろうな。だから、彼女の結婚が決まって、幸せそうなのをたしかめられて、ほっとしたよ」

 イリスにとってソフィアさんは、大切な幼なじみであり家族だったけれど、たった一人の女の子ではなかった。だから夢にばかり気をとられて、彼女との未来を真面目に考えようとしなかったんだろうな。ひどいやつではあるけれど、しかたなくもあるか。十代半ばの頃だ。そんなものかもしれない。

 それに、おかげで私は失恋片想いにならずにすんだんだしね。

「その後いろんな女の子とお付き合いしたのは、もしかしてやけになっていたから?」

「や、やけというわけじゃないけど……まあ、もうちょっと経験を積んだ方がいいかなとは思って」

「その割に、ちっとも努力はしていなかったようね? 毎度無神経が原因でことごとくふられて、たまに根気よく付き合ってくれる人がいるかと思えば財産狙いだったり? 里帰りにまで強引についてきた人がいたそうね。弟ズが頑張って追い払ってくれたんですって?」

「……聞いたのか」

「ええ、いろいろと」

 双子たちからたくさん聞き出しましたよ。当分ネタに困らないね。

 イリスは座席の背もたれに撃沈して、情けないうめきをもらした。私は扇の陰でこっそり笑った。

 いくらなんでも、財産狙いの人を見抜けないほど馬鹿だったとは思わない。女性を見る目がないとみんな言うけれど、イリスはそんなことないよ。頭ではなく本能で人を見分けている。その証拠に、過去の彼女たちのほとんどはちゃんとイリス自身を好きだったのだから。

 多分ね、ちょっと打算込みの財産狙いであっても、それほどひどい人じゃなかったんじゃないかな。周りごと自分を受け入れてくれるならいいと思える程度ではあったんだろう。

 でもド田舎の暮らしや、やっかいな弟たちの存在に早々に音を上げて、その人は王都へ逃げ帰ってしまった。双子は自分たちが長兄を守ったと思っているけれど、イリスは本当に結婚できる相手かどうかを試したのだろう。

 女心がわからなくて、鈍くて無神経で、たまに油断のならない人。私が本当に戦うべき相手は、誰でもないイリスかもね。

「馬鹿言え、そんなの僕の負けに決まってる。とっくに全面降伏してるよ」

「そうかしら」

「だいたい戦うって、何を戦うんだよ」

「イリスの無神経とか、いい加減とか、大雑把とか、脳筋とか、スケベとか」

「最後のは全力で戦わせてもらう」

「ばか」

 また迫ってくる鼻先を扇で叩く。でも青い瞳が笑っている。本当はこっちも笑いそうになるのを隠して、そっと唇をついばむことだけ許してあげた。

 王都へ帰れば、結婚式の準備が進められることになるだろう。きっとあれこれ大変で、戦争みたいな日々になるだろう。その先にはじまるあたらしい暮らしも、いろんな苦労と向き合うことになる。

 毎日が戦いだ。みんなそうやって暮らしている。

 幸せという戦利品を、勝ち取るために。




                    《結婚報告は宣戦布告・終》

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