結婚報告は宣戦布告 《8》
丸一日昏々と眠り続けたおかげで熱は大分下がったようだ。目を覚ました時、身体が楽になっていることに気付いた。
「ご気分はいかがですか?」
すぐ近くからそっと声をかけられる。顔を向けてみれば、寝台の脇に見覚えのあるきれいな女性が座っていた。
「……ソフィア様?」
優しく微笑んで、ソフィアさんは小卓から水差しを取り上げた。
「喉が渇いておいでではありませんか?」
うなずいて私は起き上がった。渡されたグラスを口元に運び、ごくごくと水を飲む。一杯ではとても足りなくておかわりもした。
「お熱が下がりましたね。ああ、よかったこと」
ソフィアさんの後ろからマーゴさんも現れて、私の額に手を当てる。今何時くらいなんだろう。窓の外は明るかった。
「まだ朝ですわ。昨日はずっと眠っていらっしゃって、何も召し上がっていないと聞いております。落ちつかれたのでしたら、お食事をなさってくださいませ」
ソフィアさんの言葉に、私はおなかに意識を向けてみた。目を覚ました直後だからかな、あまり空腹という気はしない。
「食べないと治るものも治りませんよ。少しでもいいから、お口に入れてくださいな」
マーゴさんが諭す口調で言って、食事の支度をしに出ていった。ソフィアさんが背中に当ててくれたクッションにもたれて、私は寝乱れた髪を手櫛で整える。それを見てソフィアさんが鏡台からブラシを取ってきてくれた。
「失礼いたします……まあ、柔らかい髪ですこと」
私の髪をとかしながら、感心したような声を上げる。しなやかに長い指が私の髪をくぐる。
「うらやましい……わたしは、髪が硬いのが悩みで」
「柔らかすぎても困るんですよ」
人に頭をさわられるくすぐったさをこらえつつ、私は苦笑した。
「コシがないから整えにくくって。へにゃへにゃしてボリュームがないから見栄えも悪いでしょう。イリスみたいにまっすぐか、でなきゃソフィア様みたいにきれいなウェーブならよかったのに」
「とんでもないことですわ。こんなに癖の強い髪、扱いにくいだけです。このお髪なら、どういう形にもできますでしょう? もっと伸ばして結い上げられれば、じゅうぶん見栄えしますよ」
「……前は、長かったんですけどね」
また髪の長さを言われて、つい言い返してしまった。いちいち気にするほどのことではないのに、相手がソフィアさんだからか素直に聞けない。
「あら、ではなぜ切ってしまわれましたの」
「切ったというか……切られたんです。襲われて。一時は魔女だなんて噂を流されて誤解されていましたから。過激な一味に襲撃された時に、魔力封じとかいう理由で切られたんです」
「…………」
ソフィアさんがブラシを置いて身を離した。唐突な行動を不思議に思って目を向ければ、彼女は平伏せんばかりに深く頭を下げた。
「申し訳ございません、そのようなこととは存じませず。とても無神経なことを申し上げておりましたのね。お詫びいたします」
本気の後悔と反省がこもった声に聞こえた。その反応がほしかったはずなのに、逆に胸が苦しくなる。ちがう――そうじゃない。本当は髪の長さなんてどうでもいいんだ。何を言われても気にならないはずで――なのに反発してしまったのは、この人に対する劣等感の裏返しだ。
そんな自分がひどく嫌になる。
「いいえ……どうかお顔を上げてください。ごめんなさい、気にしないでください。私にとって髪の長さなんて、どうでもいいことなので」
急いで言葉をとりつくろい、顔を上げてもらう。
「生まれた国では、どんな髪型にしようとその人の自由でしたから、女性がうんと短くすることも、男性が長くすることも普通にありました。切られたって別に平気だったんです。伸ばしていたのだって、なんとなく切りそびれて結果的に長くなっていただけですし」
「……姫様のお国は、ずいぶんと自由なところだったのですね」
不思議そうな顔でソフィアさんは首をかしげた。
「聞けば聞くほど、不思議な思いがいたします。一般家庭のお生まれとおっしゃいながら、こうしてお話ししていると、やはり貴族か最低でも富豪の娘としか思えませんし。王宮で教育を受けたといっても、付け焼き刃で身につくものはしれています。元々の素質がおありなのでしょう? いったいどんなお国だったのか、とても興味がわいてきますわ」
これには答えられず、微笑んでごまかすしかなかった。たしかに不思議だろうね。この世界と日本では、基本的なところから違いが多すぎる。
私の反応にそれ以上つっこむべきではないと悟ったようで、ソフィアさんも口を閉ざした。そのまま、なんとなく気まずい沈黙が落ちる。何か別の話題をと考えていたらマーゴさんが戻ってきた。
「はいお待たせしました。お粥でよろしかったでしょうかね。ご希望なら、パンやスープもご用意いたしますが」
明るい笑顔にほっとなる。
「いえ、お粥でじゅうぶんです。ありがとう」
寝台に座ったまま食べられるよう台がセッティングされた。急いで温めてくれたのだろう、まだ湯気の立っているお粥をいただく。
空腹を感じていなくても、一口食べればすんなりと喉を通った。身体は食事を欲していたようだ。よくかんで飲み込めば、胃が落ち着いてくるのを感じる。
「……ところで、どうしてソフィア様がここにいらっしゃるんです?」
食事をしつつ、さっきから気になっていたことを聞く。くすりと笑ってソフィアさんは答えてくれた。
「昨日からこちらに泊まっておりますの。話を聞いて、驚いて来てみれば姫様は臥せっておいででしょう。いくら婚約者でも女性の寝室に張り付くものではないとイリスを追い出した手前、わたしが代わりに付き添うことにしましたの」
「……それは、ご迷惑をおかけしました」
「まあ、いいえ。何も迷惑なことなどありませんわ。むしろこちらがお詫びするべきで。ニノイたちがひどいことをしたのですってね。賊と鉢合わせすることになったのも、姫様がお加減を悪くなされたのも、元はといえばそのせいでしょう? 本当に申しわけありませんでした」
また頭を下げる彼女に首を振って、その話題は避ける。他の人から謝ってもらっても意味がないし、まあ連中だってあんな事態になるとわかっていたらやらなかっただろう。
「じゃあ、もうイリスとはお会いになられたんですね」
前回は行き違ってしまったふたりも、今度はちゃんと再会したのだろう。私が聞くと、ソフィアさんはうなずいた。
「ええ。ちっとも変わっていなくて、呆れますわ。あの人本当に二十六歳ですの? いったいどうやったらあの若さを保てるのかしら」
「……きっと妖怪なんですよ」
「にくたらしいったらありません。こっちはそろそろ嫁き遅れとか言われて、花嫁衣装もあまり派手にできませんのに」
「二十五で嫁き遅れですか? それはちょっとひどいんじゃ……」
じゅうぶん若いじゃないかと思ったのは私だけなようで、マーゴさんは不思議そうな顔をし、ソフィアさんは苦笑した。
「シーリースでは遅い方ですわ。普通はもうとっくに結婚している歳です」
「……そうなんですか。私の国では三十過ぎてから結婚する人も珍しくなかったので、そんなお話を聞くと妙な気分ですね」
ソフィアさんとマーゴさんは目を丸くする。
「本当に自由なんですね。そう……そんな国なら、わたしももっと気長に待っていられたのかもね……」
え、と聞き返そうとした時、扉がノックされた。マーゴさんが向かい、開けてくれる。顔を見せたのはイリスだった。
「目を覚ましたんだろう? ……ああ、おはよう、チトセ。大分よくなったみたいだな」
こちらに気付いて笑いかけてくる。私はうなずいて、残りのお粥を急いで食べた。
「イリスったら、呼ばれるまで待つこともできないの?」
「そこまで気をつかわなくてもいいだろう。ようすを見にくるくらい、いいじゃないか」
席を立ってとがめるソフィアさんに、イリスも遠慮なく言い返す。気心の知れた親しい雰囲気に、また胸がひそかに痛んだ。
入ってきたのはイリス一人でなく、ニノイとルーフィもあとに続いてやってきた。その姿を見た私は驚いて、思わず声を出してしまった。
「ふたりとも、その顔は……賊ともみあった時に怪我したんですか?」
ふたりは右の頬をひどく腫らしていた。賊にやられたものかと思ったが、それにしてはそっくり同じ場所に同じ負傷をしている。そんなこともあるのだろうかと思っていたら、
「いや、これは……」
「その……」
もごもご言いよどみながら目を見交わしたふたりが、そろってイリスを見る。その視線でわかってしまった。
「……イリス」
「仕置きだ。このくらい当然だろう」
つらっとした顔でイリスは受け流した。
そういえば以前に言っていたなあ。弟たちなら殴っていたって。本当に殴るんだな。
「こんなに腫れるほど殴るなんて、やりすぎじゃないの。本気でやらなくても」
「じゅうぶん加減してる。さすがに本気で殴ったら顔の骨が砕けるからな」
「…………」
やだもう、そんな怖いことをそのきれいな顔で言わないで。
「お仕置きならほかにも方法があるでしょう。なんでもすぐ暴力で片付けようとするのは、好きじゃないわ」
ため息混じりに言うと、イリスは心外そうに眉を上げた。
「君の方がもっとひどい目に遇ってるじゃないか。そんなに優しくしてやる必要ないぞ。こいつらは痛い思いしないと懲りないからな」
「もちろん、無条件で許す気はありません。でも仕返しなら自分でするから、代わってもらわなくてもけっこうよ。殴るよりもっと効果的な方法をゆっくり考えるから」
「……あの、本当に反省してるんで」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、なんでもするから許して」
せっかくイリスに抗議してやってるのに、なぜか双子は私に対しておびえを見せた。たしかに反省はしているようなので、報復は手加減してやろうか。
「そもそも、どうして姫様を置き去りになんてしたの。いたずらにしても度が過ぎているでしょう。いい加減やっていいことと悪いことの区別くらいつくでしょうに」
腰に手を置いてソフィアさんがふたりを叱る。マーゴさんの視線も厳しくて、双子は身を小さくしながら言い訳した。
「いや、その……本当に、すぐ戻るつもりだったんだけど」
「少しだけ、こわがらせようと思って……でも全然平気そうな顔でのんびりしてるから、いつ戻ろうかとようすを見てたんだ。そうしたら、急に走り出して」
「あわてて追いかけたんだけど、見失って。おまけにすぐ雨が降り出して、ますます見つけられなくなって」
ああ、そうでしたね。いろいろと不運が重なったんだよね。
あの時すぐ近くからようすをのぞいていたのか。なんだ、もっとおびえて見せれば彼らは戻ってきたのか。私が平然と構えていたから長引いたっていうの? そんなこと言われてもなあ。
「走り出したのは、蜂に襲われそうになったから」
いちおうそこだけは強調しておいた。私が勝手な無茶をしたと思われては困る。
もっともイリスはわかっていたようで、私に疑問を向けてくることはなかった。
「賊が出没しているという話を聞いておきながら、人気のない場所でひとりにするなんてどういうつもりだ? そうでなくても、森の中には危険が多い。不慣れな人間を放置していい場所じゃない。その歳になって、そんなことも考えられなかったのか」
厳しい声に双子は言い返せずうなだれた。
あまり深く考えていなかったんだろうなあ。過去、男子達からさまざまな嫌がらせをされてきた私にはわかる。彼らにとって意地悪はただのいたずら、遊びでしかないのだ。危険だとか、相手を傷つけるとか、そんなこと真剣に考えていない。その場のノリと気分で動いているだけだ。
やられた方としては腹が立つばかりで、やっぱり無条件に許す気にはなれない。でも本気で私を害そうと思っていたわけでないことも、わかっている。
賊の前に飛び出して助けてくれたものね。だからまあ、報復は三割引きくらいにしてあげるよ。
「そういえば、イリスはどうしてあそこに来られたの? スウェンたちが知らせたにしても、早すぎたような気がするんだけど」
あの時のことを思い返していると、聞きそびれていた疑問を思い出した。青い瞳が私を振り返る。
「館に帰ったら、こいつらが君を連れ出してまだ戻らないって聞いたからさ。ぜったい何かやらかしてるなと思ってさがしに出たんだ」
ほう、最初からお見通しだったわけか。大好きなお兄ちゃんから信用されていないねえ。いや、とてもよく理解されていると言うべきか。
「残りの賊がどうもこっちへ向かっているらしいともわかってたんで、ちょっと不安に思ってな。君はそういうのによく巻き込まれるだろ。あの子供たちとは会ってない。あっちはあっちで、不審に思った大人たちが事情を聞き出したらしいけどな。僕らは森の入り口で馬を見つけたんで、そこから後を追って入ったんだ」
「それでよく私たちを見つけられたわね」
「君が目印を残したんだろう? マーゴから夜光石の粉の残りを持っていったと聞いたから、通った場所に残しているはずだと思ったぞ」
ああ、気付いてくれたのか。よかった、さすがイリスだ。
蜂に追われても雨に降られても、根性で粉を残した甲斐があった。暗いところでほんのりと光る石は、夜になってから効果を発揮する。迷ってもちゃんと帰れるように、さがしに来た彼が見つけてくれるようにと、ちまちま努力したのが実を結んだ。
「夜光石?」
ソフィアさんの問いにイリスは小さく笑った。
「この間の捕縛作戦の時に使ったんだ。あの作戦は全部チトセが考えたものだよ。このお姫様は、こんな顔して次期参謀室長候補なんだ」
部屋中の人の視線が私に集中する。驚きと疑問を向けられて、私も首をかしげた。
「参謀官にはなるつもりだけど、室長候補なんて聞いてないわよ。オリグさんの後継者なら、ホーンさん辺りじゃないの」
「さあ、どうなるかはわからないけど、君も有力候補だよ。あのオリグがかなり期待をかけてるからな」
えー……そうかなあ。
ゾンビ顔な参謀官を思い浮かべる。いろいろ教えてもらっているけれど、後継者として期待されているようなそぶりなんてなかった……よねえ?
「途中で途切れていたから、そこで何かあったなと思って周囲を調べたんだ。そうしたら灌木が折れててその向こうに段差があったから、落ちたってすぐにわかったよ」
「あ、それ俺たちも見つけた……」
ルーフィが言った。彼らも私の通った痕跡を見つけて、後を追っていたらしい。そうして賊に囚われていることを知り、やはり隙をうかがっていたそうだ。
あちこちさまよってずいぶん歩いたが、実は森の入り口からそう遠く離れていなかった。私は狭い範囲をぐるぐる回っていたようだ。イリスたちは暗くなってから森に入り、すぐに夜光石の目印を見つけて後を追ってきたとのことだった。
「それであちこち擦りむいてらしたんですね。よく大きな怪我をせずにすんだこと。運がよかったですよ」
マーゴさんが息を吐いた。なんだかんだあっても結局こうして助かっているのだから、たしかに私は運がいい。やけに事件に巻き込まれやすいのは不運な気もするけれど、それでもしぶとく生き残っているのだからきっと強運だ。
「まったくだ。以前崖から落ちた時の大怪我を思えば、今回は本当に運がよかった。感謝しろよ、お前ら。もしチトセに何かあったら、殴るくらいじゃ済ませなかったところだ」
イリスににらまれてふたたび首をすくめたふたりは、あらために私に謝罪した。自分たちのしたことを正直に白状して、こうして謝りにも来るのだから根っからの根性悪ではない。今回のことでトラウマを植えつけられたなら、今後は妙なちょっかいをかけてくることもなさそうだし、まあ結果オーライとしてもいいかな。もちろん、報復は忘れないけどね。大負けにまけて、五割引きにしてあげよう。
その場の空気がなごみかけ、私はもう少し寝ようかと思った時だった。軽いノックの音がし、開かれたままだった戸口からレイシュが入ってきた。
「失礼します……思ったよりお元気そうですね」
冷やかな顔で私を見て、まっすぐにやってくる。
「このたびは、弟たちが軽はずみな真似をして、申しわけありませんでした」
寝台の前まできて頭を下げる。丁寧な態度と口調だけれど、なんだかちゃんと謝られている気がしない。敵意を持たれているという意識のせいだろうか。
「まがりなりにも王女の地位にある方に対し、あってはならない暴挙です。公王陛下がお知りになれば、厳しくお咎めになるでしょう。フェルナリス家に叛意ありとして処罰されても抗議できないところですが、なにとぞ寛大なお心で慈悲を賜りたく存じます。もちろんこの二人に罰は必要ですが、せめて命はお許しねがいたく」
「レイシュ」
眉をひそめてイリスがとがめるが、レイシュはかまわない。表情を変えないまま続ける。
「愚かな弟たちのことは、責任を持って処罰いたします。無論私にも監督責任があったのですから、ともに罰を受ける所存です。しかしながら、けっして王家に対する悪意でしたことではなく、ただただ考えが浅はかだっただけにございます。そんな言い訳が通用しないことは百も承知ですが、厚かましくお願いさせていただきます。何も知らない領民たちのためにも、なにとぞ慈悲を」
胸に手を当てて深く下げられる頭に、私はため息をついた。
まあ、客観的にはそういう話だよね。ただのいたずらで終わらせたら、絶対に非難する人達が現れるだろう。メイの時を思い出す。そんなつもりじゃなかった、軽いいたずらのつもりだった――なんて言い訳は、通用しないのだ。
でもそれは、私が事を公にして正式な処罰がくだされるように仕向けた場合の話だ。
ようするにレイシュは、そんな冷たい対応しませんよねとあてつけて、私から許しの言葉を引き出そうとしているわけだ。ここで私が意地になって許さないなどと言おうものなら、一気に周りの心証が悪くなるだろう。それを狙っているのか――いや、そんなことはできませんよねと言っているんだろうな。
言われなくても大げさな騒ぎにはしたくないけれど、最初からこんな態度で出られると返事もしたくなくなる。なんでそんな厭味ったらしい真似をするんだと思ってしまう。普通にごめんでいいのにさ。もうそれで流す雰囲気になっていたのに。
私がだまっていると、なおもレイシュは言葉を続けた。
「このように申し上げるのは不躾ながら、フェルナリス家にお咎めがくだされるとなれば、兄とて無関係ではいられません。そこのところも、どうかお忘れないように願います。先の戦いでは、あなたをお救いするため兄は瀕死の重症を負いました。その功に免じて……」
「いい加減にしろ!」
イリスが怒った声を上げて、レイシュの胸ぐらをつかんだ。振り上げられた拳が繰り出される前に私は彼を止めた。
「やめて。暴力は嫌いだって言ったでしょう。私の目の前で人を殴らないで」
「…………」
拳を止めたイリスが、腹立たしげに息を吐いてレイシュから手を離す。イリスを怒らせることも承知の上だったのか、レイシュは顔色ひとつ変えることなく乱れた服を直した。
自分も顔を腫らす覚悟でやっていたなら、捨て身の努力は評価してやってもいいよ。だからって好きにはなれないけどね。
「どうしてお前は、そこまでチトセを毛嫌いするんだ。この数日間、彼女と向き合って人となりは確かめただろう。そこまで嫌われるような人物じゃないことはわかったはずだ。いったい何が気に入らない」
「そんな話はしておりませんが。私は今回の不始末に対してお詫びしていただけです」
「レイシュ、僕を本気で怒らせたいのか」
ぐっと低くなったイリスの声に、初めてレイシュがひるんだ。強いまなざしを受け止めきれず、ふいと顔をそむける。周りの人がはらはらしたようすで見守る中、彼はちらりと私に目を向けた。
「……参謀室長になるなど、聞いておりません」
小さな声で言われたことに、私は首をかしげた。さっきの話を聞いていたのか。でもそれがどう関係してくるのだろう。
「働くといっても、せいぜい女官か文官の真似事くらいだろうと思っていました。参謀室長だなんて、公王直属の幕僚幹部じゃないですか。そんなものになられては、兄上が竜騎士を引退してもここへは戻ってこないでしょう」
いや、だからそれ私も聞いていないんだけど。候補どころか、まだ正式に採用されてもいないのに、そんな仮定の話をされても。
「やっぱりあなたは我々から兄上を奪っていく。あなたの人柄なんて関係ない。我々にとって、あなたの存在は害でしかない」
「レイシュ」
ソフィアさんの声にもかまわず、レイシュは私をにらみつける。
「あなたのせいで兄上が死にかけたのは事実でしょう。それだけでも許しがたいのに、この先も兄上を独占してウルワットに返さないなんて、そんな人を認められると思いますか!? 生まれも血筋も関係ない、ただあなたという人間が許せない、認められない。そもそもあなたに兄上と結婚する資格なんてない! エランドの王に情を受けておきながら、よくも平気な顔で兄上のそばに立てるものだ。その腹の中には、すでにエランドの種が宿っているかもしれないのに!」
「ちょっ……レイ兄!」
「やめろよ、それは……っ」
双子が顔色を変えてレイシュを止めようとしたが、逆にイリスは顔から表情を消した。怖いほどの無表情の中、目だけが激しく燃えている。けれど興奮したレイシュは気付かずに続けた。
「私が知らないとでも? 公にされてはいなくても、少し調べればすぐにわかりましたよ。あなたはエランドに連れ去られていたでしょう。その間、なにごともなく無事なままでいたとでも? そんなたわごとを誰が信じると思うんです」
私の頭からすっと熱が引き、全身も冷えていく。多分今、私の顔も表情を失っているのだろう。ぶつけられた言葉にすぐに反応できないほど、強い衝撃を受けていた。
そうか。あの時のことを人が知ったら、こんなふうに受け取るんだな。考えてみれば当たり前だった。敵兵に襲われて暴行されそうになったこともあるし、アルタがはっきりと危険性を口にしたこともあった。戦争という狂気の中、女がどういう立場に立たされるのか教えられていたのに、今まで忘れていたなんて馬鹿すぎる。
……誰も、言わなかったから。
私が帰ってきたことを喜び、温かく迎えてくれるだけだったから、思い出さずにいられた。きっとどこかで、そうした憶測は話されていたのだろう。でも私の耳に入らないよう配慮されていた。そうでなければとっくに知っていたはずだ。今の今まで何も気付かないでいられたのは、きっとハルト様やイリスたちがとても気をつかってくれたからだ。
でも、他の人はこう考えるんだ。
胸の中にあるものは何だろう。憤り? 嘆き? 羞恥心?
そのどれとも違い、どれでもあるように思えた。身体の中がどんどん冷たく固まっていく。
私が何も言えずにいる前で、イリスが静かに腰から剣を抜いた。
切っ先を突きつけられて、レイシュが我に返る。
「兄上……?」
「そこまで言うからには、覚悟はできているんだろうな」
とても静かな声に、底知れない怒りが含まれていた。
「実の弟でも、今のは許せない。外へ出ろ、彼女の前を血で汚したくない」
「……っ」
「お、大兄、待って!」
「ごめん! 許して! もともと俺たちのせいだろ!? 俺たちが馬鹿な真似したからこんなケンカになって――本当にごめん、何でもするから!」
飛びついて止めようとする双子を、イリスは無造作に振り払った。左手に剣を構えたままあっさり床に叩きつけてしまう。ソフィアさんが小さく悲鳴を上げた。
イリスはレイシュだけをまっすぐにらみ続けている。真っ青な顔でレイシュがあとずされば、その分踏み出して距離を離さない。
レイシュの背中が壁に当たった。逃げ場をなくした彼の喉元に、鋭く光る刃が突きつけられる。
「……イリス」
吐いた息とともに肩から力を抜いて、私はイリスを止めた。
「そこまでにして」
イリスは振り返らなかった。
「君のためじゃない。僕が許せなくてすることだ」
「どっちでもいいわ。どういう理由であれ暴力はいや。まして血が流れるなんて絶対にいや。彼を傷つけたら、もう結婚なんてできないわ」
「…………」
ようやく青い瞳が私を見る。怒りの中に傷ついた色も見えて、私はなんとか微笑んだ。
「怒ってくれてありがとう。その気持ちはとてもうれしい。あなたがそうして怒ってくれるだけで、じゅうぶんよ」
「……僕はちっとも十分じゃない」
「彼が言ったことなんて、簡単に否定できる。証明する方法はあるもの。でもそれを知るのはあなただけでいい。あなたがわかってくれたら、他の人に何を言われてもかまわないわ」
私は寝台から下りてイリスのもとへ歩いた。いまだ剣を構えたままの左手に自分の手を添えて、頬を寄せる。
「竜騎士の剣は、国と民を守るためのものでしょう。個人同士の諍いでふるわれるべきものではない。私はあなたの強さと優しさをとても誇りに思ってる。だから、こんなことで剣を使わないで」
「…………」
長い沈黙のあと、イリスが剣を下ろした。息を吐いて、ゆっくり鞘に戻す。そうして彼は私を抱きしめた。
「……ごめん」
何に対して謝ったのだろう。この場でいちばん傷ついているのは、もしかしてイリスなのではないかと思った。
兄から殺気を向けられていたレイシュはようやく緊張から解放されて、その場に腰を落としていた。
 




