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結婚報告は宣戦布告 《7》

 スウェンたちから奪った籠をひっくり返して、三人の賊はそのまま食べられる木の実をがつがつとむさぼっていた。

 薬草や調理しないと食べられないキノコは、周りに無造作に投げ捨てられている。頑張って集めた収穫物を好き勝手に扱われて、子供たちはくやしさに目をうるませていた。

 食べ物だけを奪って見逃してくれればよかったのだが、そうはいかなかった。逃げたら殺すと脅され、私達は大きな木の前に座らされた。逃げた子供が大人に知らせては困るから、当然ではある。この先私達をどう扱うつもりなのか、あまりいい想像ができない。

「ちっ、ろくなもんがねえな。これっぽっちじゃ足りやしねえ」

 小太りの茶髪が見た目にふさわしい食い意地発言をした。事前にクラムの実を残さず平らげていたくせに、まだ足りないらしい。

「やたらと騎士どもがうろつき回るようになったせいで、仕事どころか食糧の確保もできやしねえ。おい、この先どうするよ」

「森に隠れながら食いつなぐにも限度があるぜ。いい加減どっかへ移動しねえと」

 仲間達に言われ、リーダー格の赤毛は最後の木の実を口に放り込み答えた。

「そうだな……夜闇にまぎれて動きたいところだが、この先のことを考えると足と食糧は確保しとかねえと。こいつらを使ってなんとかできんかね」

 いやな目つきでこちらを見る。私の腕の中でティムルがびくりと震えた。

「こんなガキどもをどうする気だ? 売り飛ばすくらいしか……」

「男どもは村のガキだろうが、女は違いそうだぜ。ずいぶん汚れちゃいるが、よく見ると身なりは悪くねえ」

 男たちの視線が私に集中する。私はティムルを抱きしめながら言った。

「あなたたちがほしいのは移動のための足と食糧? それなら用意できる。私を人質にして、この子たちに伝言させればいいわ。なんならついでに身代金も要求すればいい」

「へえ、あんたは金持ちのお嬢様かい?」

「……まあ、そうね。お父様は多分この国いちばんのお金持ちだわ」

 個人資産じゃなくて国庫のお金だけどね。

「はっ、そいつぁすげえな。本当の話かよ。こんなド田舎に、なんでそんな富豪の娘がいる?」

「ここの領主を訪ねてきたの。私を見捨てるなんて彼らにはできないから、なんでも要求を聞いてくれると思うわよ。この子たちを解放してくれるなら、あなた達が無事に逃げきるまでの人質になってあげる」

 口封じで殺してしまえというのではなく、私達を利用することを考えてくれるならまだ勝機はある。彼らをうまく話に乗せるべく、私は慎重に言葉を続けた。

「自分たちより多い人数を連れて逃げるつもりはないでしょう? 売り飛ばすといったところで、そんな商売ができる場所まで全員連れていくのはかなり大変そうね。それに男の子じゃ、たいしていい値はつかないんじゃないの。わずかなお金のためにわざわざ危険な橋を渡るより、私を人質にして身代金を取った方がいいはずよ。違う?」

 余計なことを言わないようティムルの口を押さえ、スウェンたちにも目配せしながら周囲の気配をさぐる。森の中には生き物たちの息吹があふれている。彼らは二本脚の侵入者に見つからないよう上手に隠れているけれど、私が強く願えば出てきてくれるはずだ。龍の加護は鳥や獣にも通じる。

 それにこのことをイリスが知れば、きっと助けてくれる。こんな連中、いくら私を人質にしていたってイリスの敵じゃない。

 大丈夫、おびえる必要はない。冷静に対処すればかならず助かる。

 自分に言い聞かせ、ひそかに深呼吸する。私の言葉を信用していいものかどうか、胡散臭そうな顔で赤毛はじっとにらんできた。

「……やけに落ちついてるじゃねえか。ただの金持ちの娘にしちゃ、肝が据わってんな」

「こういう経験が初めてではないからよ」

 おびえてみせた方がよかったかな? でも今さらだ。もうふてぶてしい態度で通すしかない。

「誘拐されたこともあるし、命を狙われたこともあるわ。人より恵まれているとね、トラブルもいろいろと経験するものなのよ。少なくともあなた達は、私を殺すことが目的で襲ってきた刺客ではないのだから、まだ落ちついて向き合えると思うの。私を殺したところであなた達にはなんの得にもならない。生かして利用することを選ぶでしょう? それなら、交渉の余地はあるわ」

「…………」

「あなた達が十分なお金を得られるよう、協力してあげる。そのかわりこの子たちを解放して。そして私のことも、追手をふりきった段階で解放してちょうだい。言うまでもないことだけど、あまり欲をかきすぎないようにね。ほどほどで私を解放しないと、地の果てまでも追われることになるわよ。知っているかしら? ここの領主の息子は竜騎士――飛竜隊長なの。本気で追われたら、あなたたちなんて逃げきれるものではないわよ」

 竜騎士と聞いて男達の顔に動揺が走った。その強さは耳にしているのだろう。無頼の荒くれ者でもさすがに竜騎士を敵には回したくないようで、赤毛はようやくうなずいた。

「いいだろう、乗ってやる。ただし解放すんのは二人だけだ。そのちびすけは、あんたと一緒に残れ」

 赤毛が示したのはティムルだ。私は眉をひそめた。

「なぜ? こんな小さい子がいたって、足手まといになるだけでしょう」

「念のためだ。いいか、お前らが食い物と馬を用意するんだ。他の奴にゃ、絶対に知らせるな」

 視線が途中からスウェンたちへ向かう。

「誰にも知られず、こっそり取ってこい。もし俺たちのことをばらしたら、そのちびをぶっ殺してやるからな」

「……っ」

 弟を人質にすると言われて、スウェンが唇をかんだ。

「竜騎士の近くでうかつに動けねえからな。まずはここから離れることが先だ。あんたの親父さんから金をいただくのは、もっとしっかり準備してからにする」

 にやりと笑う赤毛に、私はそっと息を吐いた。なかなか用心深い。賢いやり方だ。今すぐ身代金を手に入れようと短絡的に考えてくれたなら、解決は早かったのに。

「食べ物はともかく、馬なんて人目につかずに用意できるかしら。それこそ騎士ならともかく、こんな子供が連れていたらいやでも目立つわよ」

「もうじき日が暮れる。こっそり連れ出すくらいできるだろう。できなきゃ、このちびが死ぬだけだ」

「つっ、連れてきたらちゃんとティムルを返してくれるか!? 姫様も……っ」

「ああ、ちびすけは返してやるよ。嬢ちゃんにゃ、もうちょっと付き合ってもらうがな」

「そんな……」

 くってかかろうとするスウェンを私は制した。

「大丈夫よ。お金さえ渡せば解放してもらえるんだから」

 とは言いきれないのだが、物騒な可能性には考えがいたらないお嬢様を演じる。きっと賊達は、私のことも子供だと思っているだろう。考えの浅い子供と油断してもらいたい。

「あの人たちの言う通りにして。誰にも気付かれずに馬を連れてくるのは大変でしょうけど、できる?」

「……たぶん」

 ザナンと顔を見合わせ、スウェンは少し自信がなさそうにうなずいた。

「ティムルは私が守るから、心配しないで。そうそう、聞いておきたいんだけど、この辺りに危険な生き物はいないかしら。私、森のことは全然知らないから教えてほしいの。虫とか蛇とか、毒を持ってるのがいたら怖いでしょう。気付かずに巣に近付いたりしてもいけないし、特徴を教えて」

 唐突な質問にとまどった顔をしつつも、スウェンたちは素直に答えてくれた。

「いちばん気をつけなきゃいけないのは……ニルギの生えてるところにはドンドンの巣があるから、踏まないようにして」

「ド、ドンドン? ニルギ?」

 何がどんどん? 虫か獣か。

「ニルギっていうのは、土の中で根っこ伸ばしてつながってる草だよ。紫がかった葉っぱに白い小さい花が咲いてる。そいつに隠れてるのがドンドン。小さいネズミみたいなやつで、普段はおとなしいけど、巣が攻撃されたら集団で襲ってくるんだ。毒を持ってて、かまれたら何日も腫れ上がってひどい目に遇う。群れで暮らしてるから、もし一斉にかまれたら死んじゃうこともあるんだ」

「……そう」

 そんなのが足元にいるのか。よくさっき迷った時に遭遇しなかったな。一見不運なようで、実は強運なのが私の特徴だ。

「たしかこの近くにも巣があったはずだよ」

 ザナンが森へ目をやった。

「あっちの方。白い花がいっぱい咲いてるとこは、絶対入らないでね」

「わかったわ、気をつける」

 示された方を確認し、しっかり記憶に焼き付ける。子供が近くと言うからには、それほど離れてはいないだろうけれど、じっさいどの程度の距離なのだろう。隙を見て駆け込めるくらいには近いだろうか。

「おい、さっさと行け」

 賊達が近付いてきて、スウェンとザナンをせき立てた。突き飛ばされるようにして歩き出した二人は、ティムルに「すぐ帰ってくるからな」と言って、何度も気がかりそうにこちらを振り返りながら木々の向こうに姿を消した。

 私はティムルを膝の上に抱き上げ、さらにしっかりと抱きしめた。少しでも落ちつかせてやりたかったし、私自身寒くてたまらないので小さい子の体温に頼りたかった。夏とはいえ濡れたままでいるのは辛い。森の中ではあまり日が差し込まないし、おまけにもうじき夜になる。これは風邪ひき決定かもしれない。熱を出す前にこの連中から逃れたいけれど、トロくさい私がティムルを連れて不慣れな森の中を走っても、きっとすぐに追いつかれてしまうだろうな。

 すがりついてくるティムルの頭をなでながら、私は機会を待った。食べる物がなくなった賊達は、周囲を警戒しつつ武器を取り出して手入れを始めた。騎士達が使うような長剣ではなく、刀身の短いものだ。短剣と長剣の中間くらい――日本刀で言うなら脇差といったところだろうか。森のように障害物の多い場所では、こういう武器の方が使い勝手がよさそうだ。

「あいつら、うまくやるかね」

「言う通りにしたふりで、こっそり大人を連れてくるかもしれん。交代で見張りに立った方がいいな」

 相談して、一人が少し離れた場所で見張りをすることになった。まずは黒髪の陰気な男が立つ。食いしん坊の茶髪は投げ捨てたキノコを拾い集めて焼けないかと思案していた。

「ちっ、雨の後でみんな湿気ってやがる」

 薪を集めようにも周りの枯れ枝や草は水気を含んでいる。さりとて生では食べられない。キノコはちゃんと加熱しないとおなかをこわす。それは承知しているようで、いまいましげに放り投げて私に目を向けてきた。

「おい、その手提げの中にゃ、何が入ってる」

 本当に意地汚いな。こんな小さなバッグに食べ物が入っているとでも思うのだろうか。

「ハンカチと手鏡くらいしか入ってないわ」

「よこせ」

 ずかずかとやってきて、私の手から取り上げる。ひっくり返されたバッグからこぼれ落ちたのは、私が言ったとおりハンカチと携帯用の手鏡、そして小さな巾着袋だった。

 それも開けて中をたしかめた茶髪は、妙な顔になった。

「なんだ、こりゃ」

 もうほとんど残っていないが、少しだけ砂が入っているはずだ。砂金のように価値のあるものかと調べていたが、ただのざらざらとした硬質な砂でしかない。舌打ちして茶髪は投げ捨てた。

「ちきしょう、なんかねえのかよ」

「我慢しろ。ガキどもが戻ってくりゃ食える」

 赤毛がたしなめるが落ちつかない。苛々したようすで私たちの周りをうろつく。ティムルがますますおびえて泣きべそをかいた。

「うるせえ! 静かにしてねえとぶっ殺すぞ!」

「あなたが怖がらせるからでしょう。こんな小さい子に無茶言わないで」

 私は地面からバッグと小物を拾い上げた。ハンカチや手鏡を取り戻したふりで、いちばんの目的は巾着袋だ。もう大分暗くなってきた。気付かれる前に回収しなければ。こぼれ出た砂はこっそり周囲の土や草にまぎれ込ませておく。

「ティムル、この近くに食べられそうな実がなってるとこ知らない?」

 私が動いてもスカートをつかんで離れないティムルに問いかける。ティムルが答えるより先に茶髪がくいついてきた。

「なんだ、さっさと教えろ」

「今聞いてるとこでしょ。そうやって脅したら、ますます怖がって何もしゃべれなくなるじゃない。ちょっと静かにしてて」

「んだと、このガキ生意気な」

 茶髪が歯を剥いてすごむと、またティムルが泣き出した。よいしょと抱き上げて、茶髪から距離を取る。子供を抱っこするなんてもしかして初めての経験かも。思ったより軽く、でもずっと抱いてはいられないくらいには重い。腕の中のあたたかな重みに、守らなくてはという気持ちが強くわいてくる。

「大丈夫よ、だいじょうぶ。ね、教えて。どこかに食べられるものはないかしら」

 見よう見まねで優しく揺すって背中を叩いてやると、小さな声が返ってきた。

「……チチ」

 ――はい? チチ? なにそれ、お乳とかいう下ネタじゃないよね。

「チチの実……」

 ああ、木の実か。ほっとした。いや、この子が下品なことを考えるとは思っていないが、小さい子だから純粋に求めるかもしれないじゃないか。幼稚園くらいって、どうなんだろう。もうそういうのは卒業してる? 自分の時どうだっけ、覚えてない。

「それって、どこにあるの? 場所知ってる?」

 聞くと同時に顔を寄せ、うんと声をひそめて男たちには聞こえないようささやいた。

「あっちを指差して」

 さっきザナンが教えてくれた方角をそっと示す。ティムルはいぶかしげに私を見返した。お願い、わかって。

「あっちって、言って」

 賊達の目の前でごちゃごちゃやっていられない。なんとか通じてくれと、私は目で必死に訴えた。

 私の意図を理解できたかどうかはわからない。でもティムルは、ちゃんと私が頼んだとおりに指差してくれた。ありがとう、いい子!

「そう、あっちね」

 賊達にもわかるよう、今度ははっきり大きな声で言う。私はティムルを下におろして茶髪を振り返った。

「ティムルが案内してくれるわ。行きましょう」

「ああ? てめえはここに残ってろ。ちびだけでいい」

「その調子で連れてったって、この子はおびえてろくに歩くこともできないわよ。といって私だけじゃ、チチの実がどこにあるのか、どんな実なのかもわからないし。一緒に行くしかないでしょう」

 茶髪はあまり頭がよくなさそうだ。この言い分で了承するだろう。問題は赤毛の方で、鋭い視線が気になる。でもそちらへは目を向けず、懸命に知らん顔を装った。

「ちっ……しょうがねえな」

「待て」

 歩きだそうとした茶髪を赤毛が止める。ひやりとして私は息を呑む。赤毛は立ち上がって近付いてきた。

「俺も行く」

 警戒しているのは明らかだ。自分の目の届く範囲に私を置いておこうとする。でも行動を制限されないのならいい。むしろ一緒に来てくれた方がありがたいかも。

 落ち着け、おちつけ、だいじょうぶ――

「行きましょう」

 ティムルに優しく言って、手をつないで歩き出した。ドンドンの巣はどこにあるだろうか。目印のニルギは紫がかった葉っぱに白い花……かなり視界が悪くなってきたから、見つけるのが難しそうだ。

 声を出さなくても効果はあるだろうか。心の中で強く呼びかける。お願い、出てきて。私たちを助けて。

「どっちだよ」

 少し歩いたところで苛立たしげに聞かれると、私は身をかがめてまたティムルにささやいた。

「ニルギの生えてる方へ連れてって」

 さっきよりも反応が早かった。私の意図がわかってきたのか、ティムルはすぐにあっちと指差す。この調子で進めれば――と思っていたら、また赤毛が私たちを止めた。

「待てよ。そっちはたしか、行くなと言われた方角じゃなかったか」

 舌打ちしたい気分をこらえる。やはり気付いたか。私は内心を押し隠し、なんでもなさそうな顔をとりつくろって振り返った。

「そうね。でも近くに白い花は見当たらないし、大丈夫じゃないの。見つけても、そこへ踏み込まなければいいだけでしょう」

「…………」

 あやしまれている。服の下にいやな汗が流れた。茶髪を追い越して赤毛が近付いてくる。どうやってごまかそうか――必死に頭を回転させていた時だった。

 森の中で、何かが音を立てた。風の音ではありえない、不自然な物音だった。

 とたんに賊二人が身構える。腰の武器に手をかけて、油断なく周囲を見回すと同時に、

「はぁっ!」

 鋭い掛け声とともに、木立の陰から人が飛び出してきた。手にした剣で賊に斬りかかる。すかさず抜かれた刀身が、それをはね返した。

「騎士か!」

 現れた人影はふたつ。赤毛と茶髪それぞれに襲いかかる。私は驚いて眼前の戦いを見つめた。

「賊が! よくもこんな館の近くまで!」

 ニノイとルーフィがすさまじい勢いで攻撃を繰り出している。ずっと私をさがしていたのだろうか。よくこのタイミングで、ここにいると気付いてくれたものだ。

 それとも、少し前から見つけられていたのだろうか。私たちが動いて、賊に隙が出るのを待っていた? どうなのかはわからないが、この助けはありがたかった。

 ティムルを抱えて戦いから距離を取る。訓練を受けたふたりに、賊達はしぶとく応戦していた。簡単に倒せそうにないようすから、できるだけ離れた方がいいと判断する。巻き込まれも怖いが、賊が私たちを人質にする可能性もじゅうぶんに考えられる。

 そろそろとあとずさって木の陰に隠れようとしていたら、ティムルが私のスカートを引っ張った。

「だめ」

「え?」

 ティムルは私の背後を見ていた。

「そっち行っちゃだめ」

 つられて振り返り、足元を見て驚く。すぐそばに、白い花の群生があった。

 こんなに近くにあったのか。

「これ、ニルギね?」

「うん」

 闇に覆われつつある森の中でも、白い花は目立った。この陰に小さな生き物たちが隠れているのか。

 普段は危険な存在。でも今は、心強い味方になってくれるはず。

 争う物音が近付いてくる。自然にこちらへ流れてくるのではなく、やはり賊が私たちを人質にしようとしているのだろう。双子のどちらかが「逃げろ!」と声を上げた。

 長剣で戦うふたりは、密集した木々の中で思うように動けないらしい。赤毛がうまくあしらっている隙に茶髪がこちらへ突進してくる。

 私はティムルを抱きしめ、叫んだ。

「森の民よ、私の声に応えて! 私たちを助けて! 目の前の敵を排除して!」

 強く、つよく願いながら声を上げれば。

 ざわり、と闇の中で気配が蠢いた。足元から無数の気配と物音がわき出してくる。チルチルと聞こえるのは鳴き声だろうか。小さな影が素早く走り、数えきれないほどの目が光った。

「な……うわあぁっ!」

 茶髪が悲鳴を上げた。その身体に小さなものたちがよじ登っているのがわかる。ネズミみたいな獣という話だったが、たしかにそのくらいの大きさだ。

「いてっ! いてて、この……っ」

 目茶苦茶に身をよじり、腕を振り回して追い払おうとする。それに負けることなく、ドンドンは次から次から現れてはよじ登る。もしかしてドンドンって、本当にそういう擬音が翻訳されて聞こえているんだろうか。たしかにこの光景は、その呼び名にふさわしい。

「あ、兄貴ぃっ!」

 たまらずに助けを呼ぶが、赤毛は双子が足止めをしている。動きにくい森の中でも、なんとかニノイたちは赤毛を追い詰めていた。

 ルーフィの蹴りが決まって、赤毛は背中から木に叩きつけられた。手から離れた剣を、すかさずニノイが蹴って遠ざける。その場に昏倒させられた赤毛を置いて、ふたりはこちらへやってきた。

「うわ……なんだこれ、ドンドンか?」

「ふたりとも、こっちへ! ドンドンに襲われたら大変だ」

 全身にたかられてひいひい言っている茶髪には手が出しようがなく、迂回して私に手を差し伸べる。彼らにも何匹か向かいかけたので、私はあわてて止めた。

「その人たちはいいの! 敵じゃないから襲わないで!」

 とたんに、ドンドンはぴたりと動きを止める。くるりと向きを変えて戻っていくのに、双子が目を丸くした。

「ドンドンが、言うことを聞いてる?」

「うそだろ……どうやって」

 地面と私を交互に見る目に浮かぶのは、驚きだけだろうか。幼いティムルはともかく、彼らは私を気味悪く思ったかもしれない。

 それでもあからさまに避けたりせず、ティムルを伴って移動した私を引き寄せてくれた。

「怪我はない?」

「ええ」

 尋ねられて、私はほっとしながらうなずいた。やっと助かったと思うと、今頃足が震えてくる。正直なところは怖かった。小さな子の前で、私が頑張らなきゃと必死にこらえていたけれど、本当は怖くてたまらなかった。

 彼らが私をどう思ったとしてもいい。今は、この危険な状況から助かっただけでじゅうぶんだ。

「……その、ごめんね」

 泣きたい気分をこらえてティムルの頭をなでていると、言いにくそうにルーフィが謝った。

「まさか、こんなことになるとは思わなくて……」

「すぐ戻るつもりだったんだけどさ……」

 謝られたって簡単に許してやる気にはなれない。すぐだなんて、三十分も待たされたのにとても信じられない。

 でも今は文句を言う気力もなかった。私はだまってうなずき、ティムルをうながして歩く。とにかく早くこの場から離れたかった。ドンドンたちは茶髪から離れ巣に戻っていくが、全身をかまれた茶髪は痛みにうめいてその場から動けないようすだ。赤毛もまだ息を吹き返していない。今のうちに離れたい。

「ちょっと待って、こいつをせめて縛り上げておかないと」

 ニノイがその辺から適当に蔓を切り取り、赤毛へ向かう。ぼんやりとそれを眺めていると、彼らの向こうで何かが動いた。

「……ニノイ!」

「え?」

 声を上げた瞬間、人影が木立から飛び出してきた。見張りに出ていたもう一人の賊だった。不意をつかれたニノイは、なんとか身をかわしたものの脇を浅く斬られてふらついた。

「このっ!」

 たちまちルーフィが飛び出す。しかし彼が飛びかかろうとした瞬間、意識がないとばかり思っていた赤毛がはね起きた。

「うわっ」

 飛びつかれ、その勢いのまま押し倒される。手の中にあるのはナイフだろうか。ルーフィに突き立てようとするのを見て、思わず私は足を踏み出した。

「ルーフィ!」

「ぎゃあっ!」

 ――悲鳴を上げたのは、ルーフィではなかった。

 今しも彼を刺し殺そうとしていた赤毛の方が、肩を押さえてその場に倒れる。どこから飛来したのか、矢が突き立っていた。

「がっ」

 黒髪の賊の方も悲鳴を上げて倒れた。そちらも矢に射抜かれている。急所は外しつつもすぐには動けないほどの深手を与えた、その矢を射たのは。

「最後まで油断するな。すぐに気を抜くのが悪い癖だと言ったろう」

 下草を踏み分けながら、よく知る姿が現れた。身体が震えた。どれだけその声を聞きたかっただろうか。ずっとこらえていたものがあふれ出して、止めようもなく頬を濡らしていく。

「チトセ、だいじょうぶか」

 イリスはすぐにこっちへ駆け寄ってくれた。差し伸べられる手に夢中で飛びつく。イリス、イリス――ずっと待っていたの。

「よく頑張ったな、もう大丈夫だ」

 ものも言えずにしがみつく私を、イリスが優しくなだめてくれる。全身に感じるぬくもりと、少し荒っぽく背中を叩く手に、不安と恐怖が溶けて全部涙になって流れていく。言いようのない安堵に力が抜けるけれど、イリスがしっかり支えてくれるから何も問題はなかった。

 ティムルも大声で泣き始めた。イリスとともに現れた騎士のひとりが、抱き上げてあやす。賊達は取り押さえられ、負傷したニノイもその場で応急処置を受けた。それほどひどい怪我ではないらしく、本人も平気だと強がっていたので心配はないだろう。森を出れば村の人々と一緒にスウェンたちが待っていた。弟と無事に再会できて、彼らも泣いていた。

 長い午後はこうして終わりを告げた。私は館へ連れ帰られ、予想どおりその後すぐに熱を出して寝込んだのだった。


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