彼と彼女の休日 ※カーメルルート前提
男にはつねにいい感情を持てず、敵認識していた私は自他ともに認める男嫌いだった。
――けれど、その一方で恋愛をテーマにした物語を読んだり乙女ゲームを楽しんだりもしていた。現実には存在しない、女の理想が詰まった二次元の男たちに萌えていた。あれはファンタジーだからと別のものとして考えていたけれど、本当の本気で男嫌いならそういうものすら受け付けられなかったんじゃないだろうか。だってゴキブリがどんなにかっこよく描かれていたって、それが二次元のファンタジーだって、絶対に萌えられないものね。
結局のところ私は男嫌いというよりも、単にうまく折り合えないでいただけなのかもしれないと、振り返って思う。心の奥では恋愛に憧れを抱き、私を傷つけない二次元の男たちに恋をして、あらかじめ用意されたハッピーエンドで満足していたのだ。
現実から目を背けて周りを拒絶して、狭い自分の世界に閉じこもっていた私を、この世界で出会った人々と、経験したたくさんのできごとが変えてくれた。時には傷つくことも必要だし、自分もまた人を傷つけているのだと知った。
少しだけ大人になれた私は、絶対にありえないと思っていた現実の恋も知った。
物語と違って苦いことも多かったけれど、物語よりずっと強く激しい想いを知った。
王子様の夢から卒業して、私が現実の世界で恋した人は。
……王様、だった。
「大分遅くなりましたね。大丈夫ですか?」
興奮とざわめきのおさまらない会場を後にしながら、カームさんが私に訊ねる。差し出された手を取り、ドレスの裾を踏んづけないよう気をつけながら、緋色のカーペットが敷かれた階段を下りた。
「大丈夫です。とても楽しかったです」
「そう? お顔が眠たげですが」
笑い含みに言われてちょっと目をそらす。終盤居睡りしそうなのを必死にこらえていたことに、気づかれていたようだ。
「今日の演目は君には合いませんでしたか」
「そんなことないです、よかったですよ。ただ、時間が長かったので……」
リヴェロでもっとも格式高い大劇場は、当代の花形役者たちによるラブロマンスで連日盛り上がっている。恋愛以外にも戦いあり、ホームドラマありと見どころ満載で、故郷で観ていた大河ドラマみたいな内容だ。お芝居といえばテレビドラマかDVDの映画しか知らなかった私にとって、生で観る舞台演劇というのは新鮮で面白かった。CGなんてないし、アニメみたいに非現実的な光景も作り出せない。さぞ迫力に欠ける文化祭みたいなものだろうと思っていた自分を反省し、関係者たちに謝りたい気分だ。たしかにそういう演出は求められないけれども、十分に引き込まれる素晴らしい出来栄えだった。物語も純粋に面白かった。
――ただ、とにかく長い。長すぎる。夕方に始まって途中何度か休憩を挟みつつ、ようやく終幕した今は深夜に近い。そろそろ日付の変わる頃だ。さすがに疲れたし眠かった。
江戸時代の芝居見物も、お弁当を持って一日がかりで観に行ったんだっけ。そんな話を思い出してしまう。休憩時間にちゃんと夕食も出たし、私たちがいたのは完全独立型の特別貴賓席だったから、周囲に気をつかうこともなくのんびりくつろげたけれど、それでもこの耐久レースはきつかった。
ゲームなら丸一日食事抜きでものめり込めたんだけどね。自分で操作するのと、ただ観るだけとでは、やっぱり違う。
「そう、君には少し疲れることでしたね。配慮が足りず申しわけありません」
「いいえ、違います。お芝居は本当に楽しかったんですよ? 連れてきていただいて、よかったです。もう少し短い時間なら、ぜひまた観に来たいと思ってます」
嘘じゃない、本当だ。お愛想で言っているわけではないと、わかってもらえるだろうか。
「せっかく素敵な場所に連れてきていただいたのに、居睡りなんてしかけてごめんなさい」
「そのようなこと。君が気にする必要はありません。楽しめたのならよかったのですが……そう、次はなるべく君に負担のかからないことにしましょうね」
「……すみません」
カームさんはけっして嫌な顔など見せず終始私を気づかってくれる。それがかえって申しわけなかった。何が悪かったって、ようするに私が体力不足なのがいけないんだよね。観客はみんな終わりまで楽しんでいた。もっとも盛り上がるクライマックスに居睡りする人なんて、ほとんどいなかっただろう。
並んで出口へ向かいながら考える。体力をつけるには、どうすればいいかな。ジョギング――なんてやりたくないし、できるとも思えない。ウォーキングでも始めるか。
廊下には混雑を避けるため、一足早く帰り支度をして出てきた人たちがいた。彼らはこちらに気付くと足を止め、邪魔にならないよう端へ寄りお辞儀をして見送る。みんな身なりのいい紳士淑女ばかりだ。ほとんどは貴族で、平民でもかなり裕福な人たちだろう。
主君に憧れと尊敬のまなざしを控えめに送りつつ、彼らは道を譲る。同時に同行者たる私へ、さりげなくも厳しいチェックが向けられていることだろう。背筋を伸ばして堂々と――ローシェンで私に作法を叩き込んでくれた先生の言葉を思い出しながら、できるだけ優雅に歩く。でもしょせんは私だし、どういう出自かもみんな先刻承知だ。けっして好意的には見られていないのだろうなと思い、ちょっと胃が重くなった。
出口では劇場の支配人と、芝居を終えたばかりの主要な役者たちが待っていた。さっき幕を下ろしたばかりなのに忙しいことだ。もちろん衣装やメイクはそのままで、遅れまいと必死に出てきたのだろう。公王のご観覧なんて滅多にないことだから、ひとかけらたりとも手落ちのないように、彼らが最大限に神経をつかっているのがよくわかる。
「楽しめましたよ。よい舞台でした、皆お疲れ様です」
カームさんに声をかけられて、緊張しつつも誇らしげに彼らは礼を返す。
「おそれいります。公王様とご婚約者様にご覧いただけまして、一同心より光栄に存じます」
支配人の言葉に主演男優が続ける。
「まこと、お楽しみいただけましたでしょうか。不躾ながら、もしもお好みやご要望などをお聞かせいただけましたならば、今後の参考にさせていただきたく存じます」
カームさんは微笑みながら私に視線を移す。え、私に答えろってことですか? なんでこっちに振るかな。私の好みなんて聞かされてもしかたないだろうに。
そこはあなたが答えてよと、無言で微笑みを返す。しかし主演男優の熱いまなざしはこちらへ向かってしまった。カームさんが私を尊重してみせるから、こっちに気に入ってもらうべきと考えたか。
私は少し考えて口を開いた。
「主役のお二人はもとより、周りの方々もたいへん素晴らしい演技でした。物語も楽しめました。登場人物たちの関係が深く掘り下げられていて、劇中で語られなかった部分まで想像したくなるのがよかったと思います」
主役ふたりの恋愛はもちろん盛り上がるが、その脇で主君に忠義を捧げた腹心の存在も輝いていた。これが日本なら、きっと次の同人誌即売会では主従本が並ぶことだろう。私は腐じゃないからノーマル本以外は買わないけれど、きっとその筋の女子たちにはメインカップリングとして絶大な支持を得るはずだ。
「主人公とその腹心の過去の物語や、本筋と微妙に関わる脇の物語など、掘り下げつつ幅を広げた物語があれば、きっと楽しまれる方は多いでしょう。とても素晴らしい作品でしたので、これ一作かぎりで終わるのは少々惜しく思います」
同人誌で描かれる定番を公式がやってくれれば言うことはない。今回の出来を見れば、期待は十分に持てる。
「なるほど……ありがとうございます」
感じ入ったようすで主演男優は頭を下げる。その横で支配人もうんうんとうなずいていた。脚本家はこの場にいないのかな? いちばん語り合いたい相手なんだけどね。
横からずいっと一歩踏み出したのは、もうひとりの主役、ゴージャスな金髪が美しい主演女優だった。ちなみに胸もゴージャスだ。大きく開いた襟元から半分くらい露出している谷間のまぶしいこと。くっ、あの三分の一でも私にあれば……。
「公王様に拝謁かないましたこと、生涯忘れられない誉れにございます。ですが、この一夜かぎりでは寂しく切ない思いもいたします。あつかましいことは重々承知にございますが、ぜひまたお越し願えませんでしょうか。今夜以上にお楽しみいただけますよう、精一杯努めさせていただきますので、どうかお心の片隅にわたくしどものことをお残しくださいませ」
美しい青い瞳がひたとカームさんを見つめて言う。赤い唇からこぼれるのは、このうえなく甘い魅力的な声だ。絶世の美貌を謳われる公王の前にあって、見劣りせずにいられる女性というのもすごい。年齢は多分二十代の半ばだろう。大人の色気と魅力をたっぷり備えた美女に熱いまなざしを向けられて、何も感じない男がいるだろうか。ちょっとあからさまな秋波ではあるけれど、それをしても許されると思ってしまうほど魅力的な人だ。この誘いにカームさんがどう答えるか、私は興味を持って見守った。
「そうですね……どうしましょう、チトセ?」
何か感じ取ったのだろうか。カームさんは私に訊いてくる。
「君が望むなら、また連れてきましょう」
私が望まないなら来ない、という返事か。
婚約者優先と示す態度に女優がわずかに頬を引きつらせる。彼女と目を合わせるのは怖いので、私はカームさんだけを見た。
「続編が上演される時には、ぜひ」
お芝居はまた観たいと思います。お芝居はね。
「そう。ではその時を楽しみにしていましょう」
そっと背中に回された手が優しく押してうながす。私たちは人々に見送られ、劇場を後にした。
「……いいんですか、あんなにあっさり振っちゃって」
帰りの馬車の中、カームさんとふたりきりになって私は肩の力を抜いた。人前では公妃(予定)として完璧にふるまわなければいけないから、疲れることこのうえない。
隣に座るカームさんは、おや、と面白そうな声を上げた。
「おかしなこと。彼女の誘いに乗るべきだったと言うのですか」
「そういうわけじゃないですけど……」
主演女優が求めていたのは、単純にお芝居を観にきてもらうことだけでないだろう。当然カームさんは気付いていたはずで、そこにどう思ったのかを知りたい。
「あれだけの美人に言い寄られて、悪い気はしないでしょう?」
「まあ、そうですね」
さらりとカームさんは認める。いいえ、このくらいで動揺はしないぞ。こっちから言い出したんだから。
「過去にはけっこう遊んでいらしたようですし?」
「特別な相手のいない、気楽な独り身でしたからね。ですが、相手かまわずではありませんよ。そのようには思わないでください」
さらにカームさんは堂々と認める。くそう、経験豊富でけっこうですね。どうせこっちは初期装備の経験値ゼロですよ。
「……彼女じゃ、かまうんですか?」
あんなに美人だったのに。胸も立派だったのに。何がだめだったのだろうと、首をひねる。
カームさんは私のようすにくすくすと笑った。
「当然でしょう? 今は君がいるのですから。それに、ああいう露骨に王の寵愛を求めるような女は、相手にできません」
口調は優しげながら、けっこう辛辣にカームさんは言った。
「かならずそれ以上のものを求めてきますからね。下手にかまいつけて思い上がらせては面倒です。最初から相手にしないのがよい」
うーん……カームさんだから言える台詞だなあ。
もちろん地位や名誉、財産なんかも期待していただろうけれど、彼女がそれだけを求めていたとは思わない。きっとカームさん自身にも大きな魅力を感じていただろう。男すらよろめいちゃう魔性の美貌だものね、たとえ彼が普通の一般市民だったとしても、変わらずもてたことだろう。
そんな人だから、若いお色気美女に秋波を送られてもさらりと流してしまえるんだな。私としてはありがたく思うべきなんだろうか。
疲れた身体を座席の背もたれにあずける。本当は横になってしまいたいくらいだけれど、結った髪が崩れてしまうからがまんする。また猛烈な眠気が襲ってきて、まぶたが重くてたまらない。
「チトセ、眠いなら横になってよいですよ。そのままでは辛いでしょう」
優しく言って、カームさんは私の肩に手をかける。私は首を振って眠気に抗った。
「髪が崩れちゃうから……」
「どうせ帰るだけです。かまわないでしょう」
するりと髪からリボンが引き抜かれる。留めていたピンも抜かれて、背中に髪が流れ落ちた。
しなやかな指先はついでに首筋をなでていくのも忘れない。手慣れたエロいしぐさに、私は顔をしかめた。
「くすぐったい……」
いたずらする手を振り払えば、ふふっとカームさんは笑う。隣り合う身体がさらに密着してきて、花の香りを感じると同時に唇を重ねられた。
あたたかさが心地よい。思わずうっとり流されてしまいそうになるけれど、自分に喝を入れて押し倒そうとしてくる身体に手を突っ張った。
「だめです。ここまで」
「つれないことを。せっかく素晴らしい恋物語を観てきたのです。余韻をともに楽しもうではありませんか」
「もっともらしいこと言ってもだめです。余韻を楽しむのとコレとは別だし、そもそもはじめてが馬車の中なんて絶対にいやです。そういうのは結婚してからだって言ったでしょう」
「最後まではしませんから」
「譲歩はしません。最初から最後まで、だめと言ったら全部だめです」
「……つれない子」
ため息をついてカームさんは身を離し、私を膝の上に倒れさせた。結い癖のついた髪を整えるように、指をもぐらせてくりかえしなでる。私は寝心地のいいようにみじろぎして、目を閉じた。
「ああいう物語を観れば、その気になってくれるかと思ったのですが」
「そのために連れてってくださったんですか?」
「いいえ。でもついでにそうなればよいな、とは」
ぬけぬけと答えるのに呆れてしまう。本当に、人形みたいにきれいな顔をしていても、中身は普通にスケベな男なんだから。普段はあまり異性だと意識しない、いささかオネエっぽさすら感じるのに、こういうところで男だと実感させられる。まあそれでまんまと落とされちゃったわけですけどね。
あまり人のことをあれこれ言えない。結局私も、この人の魅力に惑わされてしまった一人なのだから。
思いがけない再会が訪れたのは、観劇から半月ほど後のことだった。
その夜私は、某貴族夫人に招かれて夜会に参加していた。今回は私ひとりだ。個人的に招待を受けたということで、カームさんは同行していない。
貴族のみなさんはお楽しみのために参加しているのだろうが、私にとっては修行の場だ。知らない人や大して親しくもない人たちに囲まれて、お愛想笑いをふりまくのは胃が痛い。華やかな会場もきらびやかな人々も私には全然楽しくない。自分の部屋に引きこもって読書かゲームをしている方が何千倍も楽しい。でもこれも仕事の一環だ。公妃となることを選んだ以上、苦手だからと逃げてはいられない。
そうやって頑張っていたら、見覚えのある人にばったり出くわした。
「またお会いできて光栄にございます、姫様」
ゴージャスな金髪を波打たせた、お色気たっぷりの美女はいつぞやの女優だ。こんなところで会うとは思っていなかったので、私は驚いた。
「ごきげんよう。たしか、ネリアさんでしたね」
「まあ、わたくしごときの名を覚えていてくださいましたの。おそれいります」
ネリアのそばには、主催者の息子である若様がいた。どうやら彼に気に入られて招かれたようだ。平民でも影響力の強い大商人や官僚、そして役者や時には高級娼婦なども社交界に現れる。こういう人たちは身分や家柄だけがたよりの貴族よりよほどの実力者だから、けっして軽んじてはいけないと教師から言われていた。
私は脳内データベースを検索し、この場にふさわしい話題を選んだ。
「あのお芝居は、大好評で千秋楽を迎えたそうですね。成功おめでとう」
「ありがとうございます。先日のご助言をもとに、脚本家が続編を考案中ですの。上演の際には、ぜひまたお越し願いたく存じます」
「それは楽しみですこと」
おお、さっそく続編制作中か。そこはお愛想抜きで本当に楽しみだ。耐久レースにそなえて体力つけておかないと。
「今宵はおひとりでいらっしゃいますの?」
ネリアの目はさりげなく周囲をさぐっている。カームさんは来ていないと聞いているはずだけど、もしかしたらの期待があるのだろうか。
「ええ。サラーニャ夫人にお招きを受けまして」
若様にも軽く目礼しておく。すでに挨拶は済ませてあるから、今はこのくらいでいいだろう。
「それにしても、相変わらずお美しいですね。先日の舞台衣装もよく似合っておいででしたけど、今夜のドレスはもっと素晴らしいこと。ネリアさんだから着こなせるものですね」
舞台女優はもうかるのだろうか。それとも裕福なパトロンがついている? ネリアは貴族の令嬢や夫人がたにも負けない、豪華なドレスを着ていた。金糸の刺繍が全体を華やかに飾っている。もちろんゴージャスな胸元はしっかり強調されている。男どもの視線がくぎづけだ。
「まあ、ありがとうございます。姫様の可憐な清楚さの前では、お恥ずかしいばかりですが」
こういうところは万国共通、異世界でも共通、女の戦いというものか。青い瞳にふふんとせせら笑う優越感が現れた。はいはい、可憐で清楚ってのは地味な小娘って意味ですよね、自覚してますとも。
太刀打ちしようもない美女が相手では、皮肉を言われてもだまって認めるしかない。
気付けば、周囲の視線がこちらに集まっていた。当代きっての人気女優と公妃(予定)の対決に、何か期待されているようだ。なんだろうな、キャットファイトでもしてほしいのか。
「また劇場へお運びいただけます時には、ぜひ公王様にもご一緒していただきたいものですわ。精一杯おもてなしいたしますので、姫様からもお願いしてくださいませ」
挑戦的な目と言葉に、さすがに私もちょっとむっとした。王に気に入られることを期待するのは当然だろうし、仮に旦那が浮気しても笑って流せる余裕が貴族や王族の奥方には求められるのだろう。ここはそういう理屈がまかりとおる世界だとわかっている。でも面と向かって、アンタの彼氏誘惑しちゃうけどいいよね? 協力してくれるでしょ? まさかこのアタシに張り合おうだなん思ってないわよね? ――なんてやられると、このビッチがと思ってしまう。
私はにっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろん。陛下も続編は期待してらっしゃいましたから、お願いすればきっと付き合ってくださるでしょう」
「まあ、うれしゅうございます。お楽しみいただけるよう誠心誠意努めますと、公王様にお伝えくださいませ」
「陛下は目が肥えていらっしゃいますから、あまり期待度を上げてしまうとお応えするのが大変でしょうけれど、アルテナ座のみなさまなら大丈夫でしょうね。看板女優がこれだけ自信を持って宣言してくださるのですもの、歴史に残る名舞台が約束されているものと安心して推薦いたしましょう」
「ええ、もちろん……」
あくまでも芝居をポイントに答える私に、ネリアはわずかにけげんそうなようすを見せた。私は軽く周囲に視線を走らせる。
「この話をお聞きになったみなさまも、さぞかし期待して劇場へ向かわれることでしょう。前回も素晴らしい舞台でしたが、それを上回る感動の物語が観られるなんて、いったいどんな舞台になるのでしょうね。本当に楽しみなこと、期待が高まります。陛下にも、大いに期待してくださいとお伝えいたしましょう。もちろん、その期待を裏切るようなことはないと安心してよいのですよね? アルテナ座は観客をより熱狂させ、さらに名を上げるものと信頼しておりますよ。頑張ってくださいね、かならず陛下とともに観にまいりますから」
「ええ……はい……」
公妃らしく偉そうに、これでもかとプレッシャーをかけまくってやったら、ネリアの顔が引きつった。ふん、自分で言い出したことなんだから、きっちり落とし前つけるんだね。
彼女は芝居をだしにして誘った。ならこちらも、芝居についてだけ答えればいい。言外に匂わせた意味なんて読む必要はないし、それについて答える必要もない。あくまでも期待し、楽しむのは芝居だ。
貴族たちの居並ぶ前で公妃(予定)相手にぶちかました以上は、期待を外すような真似はできないとわかっているかな。宣言どおり、せいぜい必死に舞台制作に取り組んでもらおうじゃないか。
結果本当に最高の舞台が観られるなら、それはそれで結構な話だ。誰も損はしない。
私は会釈してその場を離れた。また人が寄ってきては話しかけてくるのを、愛想笑いを貼り付けて受け流す。
ふん! ふん! ふん!
どうせ私は美人じゃないし、胸も色気もないですよ。最初から勝負にもならないのに、わざわざ厭味言って挑発してくるなら、ちょっとくらいやり返してやってもいいよね。きっと宮廷社会では日常の風景だろうし。
あんな挑発に本気で揺らいだりするものか。彼女を相手にする気はないとカームさんは言っていたけれど、それを信じる信じない以前にね、私はもう開き直っているんだよ。
身分違いだとか美人じゃないとか子供っぽいとか胸がないとか、そんなことを気にする段階はとっくに通りすぎている。さんざん悩み迷ったあげく吹っ切れたから、あの人のプロポーズを受け入れられたのだ。でなきゃ今ここにいるものか。浮気や心変わりを心配していたんじゃ、あの人の相手はしていられない。その時はそのときだって、開き直ることにしたよ。
もし私を捨てて他の女に行こうものならね、ローシェン参謀室に号令かけてリヴェロに揺さぶりかけてやる。仕事に忙殺されて女どころじゃなくなるようにしてくれる。めそめそ泣き寝入りなんかしませんよ。全力で報復してやるから。
そのためにも、政治や国内外の情勢についてはしっかりお勉強しておかないとねえ。ああ、やる気が出てきた。頑張るぞ。
笑顔の下にストレスを抑え込み、その夜の社交を頑張った私は、疲れ果てて戻った宮殿で、夜這いしようとしてくる王様を叩き出してぐっすり眠ったのだった。
街には恋人たちがあふれている。
右も左もこの世の春を謳歌する若者だらけだ。
街角のカフェでひとりお茶しながら、私はぼんやり人々を眺めていた。
今日は仕事も勉強もなしの、完全休日だ。そういう日を定期的に入れないと、私の身はもたない。一日中好きなようにすごしていい今日、私は珍しく自主的に外出していた。
普通の女の子の服を着て、誰も連れずひとりでこっそり宮殿を出て。
まあようするに、脱走したわけだ。
物語のお姫様たちに今は深く共感する。たまにはこうやって、誰の目も気にせず気楽にのんびりしたいよね。たとえお休みといったって、宮殿じゃ侍女たちもいるから完全にひとりにはなれないもの。公妃(予定)から普通の庶民に、今だけ戻りたい。
いやー、それにしてもカップルの多いこと。
普段あまり出歩かないから街の風景をじっくり見ることもなかった。世の中はこんなにカップルであふれかえっているのかとびっくりだ。みんな幸せそうだ。カフェにも何組かいて、周りを気にすることなくふたりの世界にひたっている。
デートって、普通こういうものだよねえ。
お供や護衛をぞろぞろ引き連れて、行った先では最敬礼で迎えられて。常に優雅なロイヤルスマイルを保ち、予定から外れる行動はいっさいなしで――なんて、そんなデートするカップル普通いないよねえ。
相手にアレを選んだ以上「普通」はあきらめるしかないのだけれど、たまにちょっぴりうらやましくなる。私もあんなふうに、普通のデートができたなら……って、考えかけて挫折した。だめだ、思いつかない。相手がアレな時点で想像不可。
店員さんを呼び止めてお茶とケーキの追加を頼み、待っていると、私の席の前に人が立った。
他にも空いている席はあるのに、わざわざ目の前に立つ。なんだろうと見上げてぎょっとした。つばの広い帽子を目深にかぶり、顔を隠したあからさまに怪しい不審人物だ。周囲の人も気持ち悪そうにこちらを見ていた。
すわ変質者かと身構えたが、それは一瞬だけだった。いくら顔を隠していても、背格好や雰囲気やきれいな指先でわかる。私は脱力して息を吐いた。
「……なにしてらっしゃるんですか、こんなとこで」
「それはこちらの台詞です」
ちょっと不機嫌そうな、硬い声がかえってきた。
「供も連れずにひとりで抜け出すなど。何かあったらどうするのですか」
「一人だから大丈夫なんですよ。顔を出しても隠しても目立ちまくる誰かさんと違って、私が一人でほてほて歩いていたら誰にも注目されませんから。見てください、この完璧な埋没ぶり。どこからどう見ても、その辺の普通の子供でしょう?」
「君の顔を知っている者には通用しませんよ」
追加オーダーを運んできた店員さんがこちらに近付くのを躊躇している。私はカームさんに座るようお願いした。ケーキセットを置いた店員さんが、不審そうにしながらも戻っていく。私は周囲を見回した。この人が一人で出てきたはずはない。でもお供の姿は見当たらないな。
「護衛は二人です。少し離れたところに待機させていますよ」
「どこですか? 全然わかんない」
「露骨に警護していたら周りになにごとかと思われるでしょう。目だたないようにしているのですよ」
「そこを気にする以前に、鏡でご自分の姿を確認されました?」
「……顔を出すよりはましでしょう」
自分でもあやしいと思っていたんだな。ちょっとすねた声に私は笑ってしまった。ケーキを一口分切り分けて、カームさんの口元に差し出す。ほんの少しだけ間があって、カームさんはフォークをくわえた。
「こんな時間に出ていらして、お仕事は大丈夫なんですか?」
「さっさと帰れと言うのですか? ひどい人ですね」
「ちがいますよ」
もうひと切れ取って、今度は自分の口へ――と運びかけたら、伸びてきた手がつかまえてまた食べられてしまった。私はちょっと口をとがらせる。
「ご自分で注文なさったらいかがです?」
「君の手からいただくのがよいのですよ」
「私が食べられないじゃないですか」
「すでに一皿食べた後のようですが?」
「さっきと今度じゃケーキの種類が違うんです」
妨害する手をぺちっと撃退して、私はケーキのお皿を引き寄せた。もうだめ、これ以上は分けてあげないよ。
帽子の下でカームさんはくすくすと笑った。もっと怒られるかと思ったけど、意外とすんなり流されたな。よかった。
「……私にも、見張りがついていたんですか?」
ケーキを食べながらまた周りを見る。広い街の中、こうも簡単に見つけ出されるなんて不自然だ。GPSがあるわけじゃなし、最初から見張られていたと考えるしかない。
「見張りではなく、見守りと考えてください。わたくしの伴侶となる以上、君には危険も伴います。そんな心配のない国にできていないことは、申しわけなく思いますが」
カームさんが即位する以前から最近にいたるまで、リヴェロはかなり荒れていた。国を立て直した名君と慕われていても、水面下ではまだまだ騒乱の種は残っている。敵がいないとは言えない。国と民に滅私奉公しているような人なのに、気に入らずに排除しようとする者もいるのだ。残念ながら。
だから、しかたないよね。わかっていてこの人と生きる道を選んだのだもの。
うまく抜け出したつもりでも、もしかしたらという意識はあった。やっぱりかと脱力するような納得するような、複雑な気分だ。
「抜け出して、ごめんなさい」
「……何か、耐えがたいことでもありましたか」
頭を下げる私にカームさんはたずねた。
「君のことです、考えなしに飛び出したわけではないのでしょう。周りのことを気にしないはずはないのに、抜け出さずにはいられない何があったのです」
きっといろんな人に迷惑や心配をかけるだろうとはわかっていた。申しわけないと思いつつ、それでも一人になりたかった。けど、あんまり騒ぎになっても困るから、カームさんが迎えにきてくれてどこかほっとした気持ちもある。本当に、我ながらわがままだね。
「耐えられないというわけじゃないです。ただ、ちょっと疲れて」
「……ローシェンに帰りたいですか?」
静かな声に私は顔を上げる。向かい合う人の顔はほとんど見えない。少し考え、テーブルの上に身を乗り出して、少しだけ帽子のつばを持ち上げた。
美しいアメジストの瞳が、ようやく見える。いつもの余裕たっぷりな表情ではなく、どこか不安げに思えた。
「無理を押して君を望み、ハルト殿のもとからさらってきた以上、せめて極力辛い思いをさせないようにと考えてきましたが……正直なところ、君が本当は何を望んでいるのかがわかりません。わたくしが用意するもの、見せるものをよろこんではくれますが、疲れさせてばかりに思えます。ならばどうすればよいのか……考えているうちに君は嫌気がさして城を抜け出した。己のいたらなさを、情けなく思うばかりです」
「…………」
私がいろいろ考えるように、この人も悩んでくれていたのか。芝居見物に連れ出したり贈り物をしてくれたり、私が何によろこぶか実はすごく考えていた? いつも余裕綽々に見えて、内心はそうでもなかったのか。
なんだかそれって、普通に男女交際な気がするな。デートプランやプレゼントを考えるって、ご縁はなくても故郷でたくさん見聞きしてきた話だ。きっと今周りにいる恋人たちも、同じようなことで楽しんだり悩んだりしているのだろう。そう考えると、ふいに心が軽くなった気がした。ストレスや疲労が消えていく。
「歳も十以上離れていますからね……君には不満も多いかと」
「今頃そこですか? そんなの、最初からこのロリコンって思ってましたよ」
思わず言っちゃうと、うらめしそうににらまれてしまった。いやごめん。でも三十路が胸なし色気なしの十代に言い寄ったらロリコンの誹りは免れないでしょう?
真面目な話なんだからと思っても、ついつい顔が笑ってしまう。
「こうしてご自分で出ていらしたということは、急ぎのお仕事はないんですよね?」
「……ええ」
「じゃあ、このまま付き合ってくださいな。デートしましょう」
「逢い引き?」
おおう、同じ意味でも言葉によって受ける印象が違うな。逢い引きって言うとなにかいかがわしさを感じるのは私だけだろうか。
「デートと言ってください。ふたりで、おでかけを楽しむんです」
「どこか、行きたいところがあるのですか?」
私は首を振り、ケーキに戻った。まずこれを食べきってしまわないとね。
「ちがうの。目的はただふたりですごすことだけ。どこへ行ってもいいし、何をしてもいいんです。よけいな邪魔の入らない時間を楽しむのが目的です」
まあ、護衛はついてくるけどね。そこは気にしないことにしよう。むしろ付き合わせてごめん? 他人のデートなんか見てても面白くないだろうな。
立ち上がった私に合わせて、カームさんも席を立つ。勘定を済ませて店の外へ出た私は、思いきってカームさんの腕に抱きついた。
「チトセ?」
「これがデートの作法なんです。恋人つなぎってのもありますけど、カームさんと私じゃ身長差がありすぎて親子連れみたいになっちゃうから、こっちの方で」
「父親扱いはお断りですよ」
「ええ。こんなお色気魔神が父親なんて私もごめんです」
澄まして答え、ふたり同時に笑い出す。故郷とローシェンと、二人も父親がいるんだからもう十分だよ。この人にそんなポジションは求めない。
「では、どこへ行きましょうか」
「私はまだこの街のことをほとんど知りませんから、お任せします。あ、あんまり人が多すぎない所がいいですね」
「ふたりの時間を楽しむなら、静かな場所がよいですね」
くっついたまま歩きだす。並んで歩く時にはいつも私の手を取ってくれていたけれど、こうやって抱きついている方がいいな。ちょっと恥ずかしいけれど、気取らず恋人気分になれてうれしい。
傍目には、たぶんおかしな取り合わせなんだろうけどね。
片や小学生のお子様に見える小娘、片やあやしさ全開の不審人物。まさか誘拐だとか思われたりしないよね?
「あ」
不意にカームさんが声を上げたので、何か思い出したのだろうかと見上げた。すると帽子がなくなり、黒髪と白い顔があらわになっていた。どうやら風に飛ばされたらしい。遠くに転がっていく帽子が見える。
「…………」
私たちは顔を見合わせた。まずい。今この瞬間にも、人々の視線が集中しはじめている。
絶世の美貌に驚くばかりの人々の中に、そのうち正体に気付く人が現れそうだ。
「……行きますよ」
「はい」
私は一旦腕をほどき、差し出された手を取った。しっかりつないで、走り出す。
人込みをかきわけて、私たちは逃げ出した。護衛の人たちごめんなさい、見失わないよう頑張ってね。
人目から逃げて走りながら、どちらからともなく笑いだす。笑いながら逃げる。何をやってるんだろうな。馬鹿みたいだけど、楽しくてたまらない。
恋した人は王様で、お互いの常識や価値観には違いがあり、時にはすれ違うこともある。踏み込んだ世界はストレスだらけで大変で、けっして夢見ていたような幸せだけの日々ではないけれど。
でも後戻りはしない。私はここで生きていくと決めたの。ずっとこの人の隣にいる。
彼が私の手を放さないかぎり。
白い繊手は思いがけない力強さで、私の手をにぎり引っ張っていく。そのぬくもりとたしかさを信じて、私はどこまでもついていく。
***** 彼と彼女の休日・終 *****
パラレルです。あくまでもパラレルです。
本編を書いた後に他ルートを書くと罪悪感が半端ないです……。
千歳の一人称なのがまずかったかな。