柔らかな笑顔 ※トトールート前提
トーヴィルの祖父ディードとはどんな人物だったのかと問えば、返ってくる答えはたいてい「放蕩者」だ。
もともとトーラス家は窮乏することもなく、貴族としてそれなりに体裁を整えられる程度の暮らしは送っていた。だがその財産のほとんどを、祖父が一代で食いつぶした。先祖代々受け継がれた土地や家屋敷を手放し、下町の小さな家に移り住むことになったのは彼のせいだ。祖母は死ぬ間際まで文句を言っていたし、姉も祖父の話になると悪口しか出てこない。母は多くを語らないが、父が若くして亡くなった原因のひとつが祖父なので、きっと許せない気持ちを残しているだろう。トーヴィル以外の家族全員が、祖父をうらんでいた。
貴族社会では同情まじりの嘲笑でもって語られるトーラス家の内情だが、騎士たち、それも地竜騎士にとっては反対に、ディードは英雄であり大恩人であった。
酒も博打も好きな祖父ではあったが、財産を失った理由の多くは部下や仲間たちへの援助だ。彼はあまりに気前よく人助けをしすぎた。助けられた側は大いに感謝し喜んだが、トーラス家の財産だって無尽蔵ではないのだ。富豪と言えるほどでもない中流貴族の蓄えなど、あっという間に底を尽いた。
そんな事情があったので、祖父が亡くなった後わずか九歳のトーヴィルを例外的に地竜隊に所属させたのは、彼らなりのせめてもの恩返しだったのだろう。
無論、正式に地竜騎士になれるかどうかは、トーヴィル自身の能力による。あくまでも見習いとして雑用や訓練をするばかりの日々だったが、九歳のトーヴィルは新しい暮らしが気に入っていた。
祖父から教えを受けていたこともあり、武術は好きだった。存分に訓練できる今の環境はありがたい。同じように祖父から竜騎士になることを強制され、無理して最終試験を受けた父が命を落としたので、母や姉は反対していた。もう祖父はいないのだから、自分の好きなように生きればいいのだと言われた。だからトーヴィルは地竜隊に来た。母や姉がどんなにうらんでいても、トーヴィル自身は祖父のことが好きだったし、地竜騎士を目指すのも自ら望んだことだった。
ここは、いい。毎日訓練できるし、腹いっぱい食べられる。衣食住を面倒見てもらいながら給料まで出るのだから、ありがたいかぎりだ。見習いの給料なんてささやかなものだが、母と姉をどうにか食べさせてやれる。好きなことをやって仕事になるのだから、こんなに素晴らしい場所はないと思っていた。
「トトー、そろそろ切り上げんか。おやつの時間だぞ」
竜舎の掃除をしていると、入り口から声がかけられた。陽気な大声は副長のアルタだ。身体も並外れて大きいアルタは、外から差し込む光に金の髪を輝かせながら入ってきた。
たくましく、堂々たる長身だ。これぞ地竜騎士という姿に内心あこがれる。祖父も大きな人だった。その血を引いているのだから、自分も大人になればこんな立派な体格になれるだろうか。
「それで終わりか?」
トーヴィルの手元を見てアルタが問う。トーヴィルはうなずいた。
「うん……捨てにいくところ」
「よし、特別にお兄さんが手伝ってやろう!」
大きな手が竜の糞を集めた桶を持ち上げる。トーヴィルには精一杯抱えなければ運べない桶が、彼の手にあるとひどく小さく見える。
「お兄さん……」
「そこで疑問を持つな! 世間的には若いんだよ! お前から見りゃおっさんだろうけどな!」
二十七歳のアルタはたしかに若者だ。しかし九歳のトーヴィルにとってはうんと年上の大人で……実はひそかに、顔も覚えていない父親の面影を彼に重ねたりしている。話に聞く父は、線が細く少し気の弱い人物だったらしいが。
入隊以来トーヴィルに目をかけ、何かと世話を焼いてくれる副長のことは好きだ。その気持ちをちゃんと表しているつもりなのに、いまいち伝わっていないようなのはなぜだろう。
ふたりでごみを捨て、手と顔を洗い、官舎へ戻る。玄関前に見慣れない馬車が停まっていた。
来客は珍しくないので気に止めなかったが、官舎から出てきた姿にトーヴィルは「あ」と声を上げた。
その相手もトーヴィルに気づき、足を止めてこちらを見た。
「えっと……ひさしぶり、マリーナ」
上等そうな小洒落たドレスを着、栗色の髪に可愛くリボンを結んだ同い年の少女は、トーヴィルを見て驚いていた顔を、思い出したようにつんとそむけた。
「マリーナ?」
「…………」
返事はない。あからさまに無視されている。
どうしたのだろうと思うトーヴィルの横で、アルタが肩をすくめた。
「おやおや、挨拶もできないのかな? まるでうんと小さい子みたいだな。いや、五歳の子だってこんにちはくらい言ってくれるぞ。してみるとお嬢ちゃんは赤ん坊並か」
からかい半分の嗜めに、マリーナがむっと口をとがらせて振り返った。
「あいさつくらいできるわよ! でもトーヴィルとはもうおしゃべりしないの!」
「なんだ、ケンカでもしたのか?」
今度はトーヴィルに目が向けられる。トーヴィルは首をかしげて考えた。そんな覚えはないけれど……なにせ彼女と会うのは祖父の葬儀以来だ。
あの時に、何か怒らせるようなことでもしていたのだろうか。
「トーヴィルとはもう遊んじゃいけませんって言われたの。トーヴィルのお家とは、エンを切るんですって」
縁を切る、という言葉の意味を彼女はよく理解していないようだが、トーヴィルにはわかった。家が没落して以来身近にあり続けた話題で、ああそうか彼女のところもかと納得しただけだった。
「ふうん……それで、どうしてここにいるの」
普通に聞き返したトーヴィルに、マリーナは拍子抜けしたようなばつが悪いような、複雑な顔になった。
「……お父様のご用についてきたのよ。今日はこれから街へ出て、お買い物なの! 新しいドレスに合う髪飾りを買ってもらうのよ」
「ああ、そういえばもうじき誕生日だね……ちょっと早いけどおめでとう」
元許嫁として、何か贈り物くらいするべきだろうか。しかし何も持っていない。買う金もない。花壇の花を勝手に摘んだら叱られるだろうか。
マリーナはひどく気まずそうな顔でそわそわしていた。贈り物より、トーヴィルがここからいなくなることを望んでいるのかもしれない。彼女の父親にも挨拶しようかと思っていたのだが、やめにした。きっと、会っても喜ばれないだろう。
「じゃあ、元気でね」
トーヴィルは簡単に挨拶してその場を離れた。マリーナは呼び止めなかった。
「やれやれ、あんな小さい子まで世知辛いねえ。まあ周りの大人が言わせてるんだろうが」
隣を歩くアルタがぼやいた。
「小さいお嬢ちゃんには難しいかもしれんが、見る目のないこった。こいつは今に、誰もが注目する騎士になるだろうにな」
トーヴィルはアルタの顔を見上げる。男らしい精悍な美貌が、にっと笑った。
「お前が大人になる頃、離れていった連中はきっとみんな後悔するぞ。ああ、もっと仲良くしておけばよかったーってな。その時はざまあみろと笑ってやろうぜ」
「……なんで笑うの」
「いや、お前が気にしてないなら別にいいんだけどな」
少し、アルタの肩が下がる。
「まあその、なんだ。離れていくやつらはほっといていい。今のお前と仲良くしてくれるやつを、大切にしろ」
「……うん」
アルタの言いたいことは、なんとなく理解できる。他人が心配するほどトーヴィルは自らの境遇を嘆いていないが、そういったこととは関わりなく親しくしてくれる相手が貴重なことはわかった。そう、アルタのように。
「おっ、イリスじゃないか」
アルタが他へ声をかけたので、トーヴィルは視線をめぐらせた。向こうからも明るい声が返ってきた。
「やあアルタ。相変わらず元気そうだね」
「お前も相変わらず可愛い顔してやがるな」
若い騎士だった。多分十代の中頃で、普通ならまだ見習いをしている年頃だが、腰の剣には正騎士を表す金の飾りがついていた。
「飛竜隊のひよっ子が、何しに来たんだ?」
アルタはイリスと呼んだ少年に近づく。トーヴィルもなんとなく後に続いた。
「隊長のお供をしてきたんだ。イシュの飛行訓練も兼ねてね」
少年の手がなでるかたわらの竜は、ずいぶんと小さい。成体の半分ほどもない。まだ人を乗せて飛ぶことはできないだろうが、大きさはともかく姿かたちは立派な飛竜だった。
飛竜を間近で見たのは初めてだった。同じ竜でありながら地竜とはまったく異なる姿をしている。角もひだもなく、かわりに翼を持つ。鱗は淡い銀緑色だ。地竜騎士を目指す者として、また祖父の思い出もあって、トーヴィルには地竜がいちばん好ましいが、これはこれで悪くないと思った。
「おお、大分大きくなったな。もうちょっと育てば、お前を乗せられるようになるな」
アルタが小さな飛竜へ近づき、手を伸ばす。とたん、飛竜はかっと大きく口を開けて威嚇した。
「おっと」
本気で噛むつもりはなかっただろうが、牙が当たりそうになってあわててアルタが手を引く。
「アルタ、イシュは女の子なんだから、そんな無遠慮にさわろうとしたらいやがるよ。ちゃんと礼儀を守らないと」
「む。そいつは失礼、お嬢さん」
竜に向かってアルタはお辞儀をしてみせる。小さな令嬢はつんとそっぽを向いた。見ていたトーヴィルは、なんとなくさっきのマリーナを思い出した。
イリスは小声で竜をたしなめた後、トーヴィルの方を見た。
「その子は? アルタの隠し子かい?」
「なんでだよ! こんなでかい子供がいる歳じゃ――いや、あり得るのか……うわあああ、なんかすごい焦ってきた! おいイリス、お前姉妹はいないのか」
「いないよ。知ってるだろう、うちは弟ばっかだよ」
「くそう、無駄にきれいな顔しやがって。その顔でなんで女じゃないんだお前はぁっ」
「……ケンカ売られてるのかな。槍でなら受けて立つよ」
「はっ、騎士になりたてのひよっ子が何をほざく。槍だろうがなんだろうが負けるかい!」
「やめようよ……お父さん」
「なんでお前まで父親扱いだよ!?」
アルタを挟んでふたたびトーヴィルとイリスの視線が合う。少女のような顔をした銀髪の騎士は、さわやかに笑いかけてきた。
「はじめまして。多分、君が新しく入った見習いの子だよね? 僕はイリス・ファーレン・フェルナリス。去年正騎士になったばかりなんだ」
「……トーヴィル・トッド・トーラスです」
名乗り返せば、イリスは妙な表情をした。トーヴィルの名前を聞けば、半分が笑い半分は気の毒そうな顔をする。なぜこんなふざけた名前にしたのかと、それも母や姉が祖父をうらむ理由のひとつだ。トーヴィルもトッドも歴史に輝く英雄の名で、それにあやかったところまではいいのだが、寄せ集めた上家名も手伝って妙な響きになってしまった。さすがにこれだけは、トーヴィルも少しうんざりしている。
「トトーと呼んでやってくれ。お前と……八歳違いか、けっこう離れてるかな? いやでも、将来ともに活躍する仲間になるだろう。よろしくな」
さっさと立ち直ったアルタが言う。イリスは笑顔に戻り、うなずいた。
「そうだね、よろしくトトー」
「……よろしく、おねがいします……」
無表情でぼんやりと返すトーヴィルに、イリスは困惑したようだ。
「……いやがられてるのかな?」
「違うちがう、こいつはいつもこうなの。これで普通なんだよ。機嫌が悪いわけでも眠いわけでも腹が減ってるわけでもないから気にするな」
アルタとこそこそ囁き合う。いやおなかは空いてるな、とトーヴィルは自分の腹を押さえた。
「アルタ……おやつは?」
さきほどの彼の言葉を思い出し、聞いてみる。アルタも思い出した顔で手を打った。
「おおそうだった。イリス、お前も食うか? 一緒に来いよ」
「行きたいけど、ここで隊長を待たないと」
「俺が言ってやる。サリード殿ー! イリスを借りますぞー!」
常よりさらに大きな声を出して、アルタは官舎の奥に呼びかける。やや間を置いて、「うるさいわー!」と遠くから声が返ってきた。
「よし、お許しが出た。行くぞ」
「今の、許し……?」
首をかしげるイリスを引っ張って、アルタが少年たちを連れて行ったのは、官舎の裏庭だった。掃き集められた落ち葉がこんもりと山を作り、煙を上げていた。
「よしよし、消えてないな。ほらお前たち、美味いもん食いたきゃしっかり火をおこせ」
「この匂い……芋を焼いてるのか?」
甘くこうばしい香りが辺りに広がり始めている。アルタは得意そうに笑った。
「秋といえばこれだろう! どーれ、焼っけたっかなー」
小枝で落ち葉をつついて中をかきまわす。転がり出てきた芋はどれもほどよく焦げていた。
「ああっ、副長ずるい!」
「なんかいい匂いがすると思ったら!」
「自分たちだけ何やってんだよ!」
匂いにつられてやってきた騎士たちが、彼らを見て抗議の声を上げる。取られないうちにと、アルタは芋をふたりに放って寄越した。やけどしそうなほどに熱い。トーヴィルもイリスも手の上で芋をお手玉した。
「食いたきゃ自分で用意しろ。全員分なんて用意できるか」
「とか言いつつ、ここに残ってる芋はなんだろうな。三人分には多すぎるぞ」
「……おイモより、落ち葉が足りないかも……」
「聞いたか、者ども。落ち葉を集めるんだっ」
「いそげーっ」
騎士たちが庭を駆け回る。今日は隅々まできれいに掃除されることだろう。この副長は部下たちを乗せるのが上手だ。ただのふざけた男ではない……多分。
走り回る先輩たちを眺めつつ、トーヴィルはようやく少し冷めた芋の皮をむいた。現れた甘い金色を、やけどしないよう息を吹きかけながら頬張る。同じように熱、熱、と口を開けているイリスと目が合った。
青い瞳が笑う。トーヴィルは、自分も笑っていることに気付いていなかった。
帰国の途でイリスとともに見つけた少女のことは、トーヴィルもそれなりに気にかけていた。
彼女がちゃんと家族を持ったどこかの国の人間なら、それほどでもなかっただろう。しかし龍に運ばれて異世界からやってきた千歳には、この世界での拠り所がない。主君が保護しているとはいえ、常に心細さが隣り合わせだろう。何かしてやれることがあれば――とは思うが、何をどうすればいいのかがわからなかった。
じつのところ、女性の相手は苦手だ。苦手というより、どう付き合っていいのかがわからない。トーヴィルが家族以外で親しくしていた女の子というと、かつて許嫁であったマリーナくらいで、それも九歳の時までだ。幼い娘の遊びに付き合った記憶がかすかに残っているくらいだった。
千歳は幼く見えるがトーヴィルと同い年で、もうじき十七歳になるという。その年頃の娘が何を考え、何を望むのか、男ばかりの騎士団で暮らしてきたトーヴィルにはさっぱりわからなかった。
ふたりで出かけ、なりゆきで実家まで連れていくことになった日の帰り道、沈黙が重かった。滅多に出歩かない千歳には街のにぎわいは疲れるばかりで、あまり楽しめなかったようだ。途中で具合を悪くし、そのせいでトーヴィルに迷惑をかけたと気にしている。せっかくの外出がこんな終わり方というのもどうだろうと、トーヴィルの方も言葉をさがしていた。
「……気にしてないから」
そんな言葉しか出てこない。女の子をなぐさめるには、どう言えばいいのだろう。気の利かない自分がなさけない。
けれど千歳はうれしそうだった。雑多な下町も粗野な幼なじみたちも、千歳にとってはいい思い出にならなかっただろう。そんな場所へ連れて行ったトーヴィルに不満を見せてもいいところなのに、ただひたすら自分の失態に落ち込んでいる。そしてそれをトーヴィルが気にしていないと知ると、ほっとしている。見ていて不思議な気分だった。
普通の庶民家庭に生まれたと主張するが、千歳は見るからに育ちのいい上品な娘だ。貴族の令嬢たちに混じっても違和感がないだろう。それでいて高慢なところはかけらもなく、むしろ卑屈なほどに自己評価が低い。相手が誰であろうと世話になれば感謝し、きちんと礼をする。トーヴィルの家が貴族とは名ばかりの貧乏暮らしでも馬鹿にしない。
異世界の人々はみんなそうなのだろうか。この国の人々も同じなら、多分今でもマリーナの家との付き合いは続いていた。身分制度がないという千歳の故郷に興味がわく。それ以上に、千歳自身に興味を抱いた。
人見知りで内向的な、おとなしすぎる少女。それでいて肝は据わり、したたかな一面を持つ。頭の回転が速く、いざという時の行動力は別人のように大胆で、騎士も顔負けの活躍をしてみせる。
異世界のことなど知りようもないが、多分そちらでも千歳は珍しい種類の女の子なのではないかと思った。
二の宮まで来て、竜から降りた。この先は騎乗したままでは進めない。千歳の体調を気にしつつ徒歩で一の宮へ向かう途中、見知った人物と行き合った。
最後に彼女を見かけたのはいつだったろうか。記憶にある姿よりずいぶん大人びて、すっかり娘らしくなっていた。友人らしい令嬢たちと連れ立って歩いていたマリーナは、トーヴィルの姿に気付き驚いた顔で足を止めた。
「こんにちは」
トーヴィルは会釈してそのまま通りすぎようとした。今は千歳を連れている。早く一の宮まで届けてやりたい。落ちついたとはいうがまだ顔色はよくない。女官にいきさつを伝え、きちんと休ませたかった。
連れの令嬢たちもこちらを見ながら、なにごとか囁き合っている。女の子の集団をまともに相手する自信はないので、トーヴィルはかまわずその場を離れようとした。
それを、マリーナが呼び止めた。
「トーヴィル――あの……」
「……なに?」
彼女の方から声をかけてくるなんて、まだ祖父がいた頃以来だろう。少しばかりおどろいた。何か重要な用でもあるのだろうかと振り向けば、マリーナは言いよどみ視線をさまよわせた。
「マリーナ?」
「いえ……その、えっと……お、お元気?」
「うん……?」
何が言いたいのかと内心首をかしげつつもうなずく。マリーナはちらちらと、千歳の方も見ていた。
「なにか、用?」
「よ、用がないと話しかけてはいけないのかしら」
言いづらそうなので聞いてやれば、腹を立てたような顔をする。遠い昔、もうおしゃべりしないのとそっぽを向いた少女は、あの時と反対のことを言っていた。
「それはいいんだけど……今日は急ぐから、用がなければまた今度にしてもらえるかな」
「トトー君、急がなくてもかまわないわよ」
千歳がそっとささやいた。そう言われても、とトーヴィルは彼女を見る。もともと血の気の薄い頬が、ますます青白い。夏だというのに汗もかいていないのが気になった。
倒れたなら抱いて運んでやるまでだが、それ以前に千歳に苦しい思いをさせたくない。気分が落ちついているうちに帰してやりたかった。
「……その子、だれ?」
マリーナが聞いた。不機嫌そうな視線が千歳に向けられている。おとなしく受け流しつつも、ここでおびえたりしないのが千歳である。けっこう図太いと知っていたが、それでもトーヴィルは千歳の前に立ってマリーナの視線からかばった。
「ボクの友達……体調が悪いから連れて帰るところだよ。だから、話なら今度にして」
「帰るって、奥に向かってるじゃない」
「一の宮だよ……彼女はそこに住んでるから」
「一の宮?」
マリーナはさらにいぶかしげになる。その背中を彼女の連れがつついて、なにごとか耳打ちした。とたんに、幼なじみの顔はいっそうけわしくなった。
「……そう、その子が……」
トーヴィルを通して背後の千歳が見えるかのようににらんでいる。なぜマリーナがこうも千歳を敵視するのだろうと、トーヴィルもけげんに思った。
「噂の姫君にこんなところでお会いできるなんて、幸運ですわ。隠れてらっしゃらないでお顔を見せてくださいません? 人目にさらせないほどみっともないというわけではないのでしょう。まあ、さきほどちらりと見えたところでは、ずいぶん青白くて陰気でしたけど」
「マリーナ」
悪意を隠しもしない言葉に、トーヴィルは声を厳しくした。一瞬顎を引いたマリーナは、むっとしたようすでそっぽを向いた。互いに幼かったあの日、わけもわからず大人たちに言われるままトーヴィルに絶交宣言を言い渡した姿が思い出される。成長したようでも、こういうところは昔の面影を残している。いくばくかのなつかしさも覚えたが、千歳にからまれて迷惑に思う気持ちの方が強かった。
「もう行くから……君も、日が暮れる前に帰りなよ。じゃあね」
千歳をうながし、ふたたび歩き出す。呼び止められもしないのでそのまま歩いたが、千歳が「いいの?」と聞いてきた。
「彼女、トトー君ともっと話したそうだったけど……」
「別の機会に話すよ」
そう答えたが、そんな機会がいつめぐってくるのかはわからない。マリーナにその気がなければ、また何年も縁が途切れることだろう。
「ごめんね……不愉快だっただろう」
「いえ、別に? 私は平気だけど、彼女の方がこたえていたみたいね」
謝れば、案の定千歳はつらっと答えた。
「トトー君が女連れで歩いていたから、ショックだったみたい」
「……なんで?」
なぜそんなことにマリーナが傷つくのだろう。わからずに千歳を見れば、呆れた顔で笑われた。
「あんなにあからさまなのに気付いてないんだ……彼女って、トトー君とどういう関係なの?」
「元許嫁」
端的に答えれば、千歳がおどろいた。
「……いいなずけって、えっと、婚約者のことよね? 結婚の約束してたの?」
「昔ね……といっても、祖父同士が酒の席で盛り上がって決めた口約束だから、あのまま続いてたとしても、本当に結婚したかどうかはわからないけど……」
それでも、トーヴィルにとって唯一親しい女の子だったのはたしかだ。互いに幼すぎて特別な愛情などなかったが、友達感覚で好きな相手ではあった。
「どうして『元』なの? ……って、聞いちゃ失礼かしら……」
疑問を口にしたそばから、千歳は気弱に言葉をにごす。人の内情に踏み込むのは苦手なようだ。
「いや、別にかまわないよ……祖父が死んだからだよ……その頃うちはもう没落しきってたから、祖父もいなくなった以上付き合いを続ける必要はないって、相手側から縁を切られたんだ」
祖父に恩を受けていたマリーナの父親は、彼の存命中ははばかって破談を言い出せなかった。亡くなってようやく肩の荷が下りたとばかりに破談を持ち出した。葬儀の席でのことだった。
うすうす察していたらしい母は特に衝撃を受けるようすもなく、ただ寂しげにしていただけだった。トーヴィル自身は、祖父がいなくなったこと以上の寂しさなんてなかったので、ああそうかと流しただけだった。今になってふりかえれば、大人たちのさまざまな思惑がわかる。まあ、そんなもんだろうと、諦観に似た気持ちで思い出話にするだけだ。
「没落しちゃったら付き合ってくれないの? ずいぶん、打算的な関係だったのね。それなら縁が切れても惜しくないわね」
この話を聞けば、たいていの人はトーヴィルに同情的な顔を見せ、なぐさめたりはげましたりしてくる。しかし千歳の感想は少しばかり味が違った。
「トトー君が地竜隊長になって、これからもどんどん活躍して、付き合う価値があると思えば、そういう人たちはまた寄ってくるんでしょうね。それはそれで、適当に利用すればいいんじゃないかしら。お互いが好きで付き合う友達がいないと寂しいけど、打算で利用し合う相手だってそれなりに役に立つと思うわ。いらなくなったら切り捨てても心は痛まないし、道具だと思えば便利なものでしょ? トトー君にはちゃんと信頼できる仲間がたくさんいるんだから、それでいいんじゃない?」
「…………」
千歳の言葉を反芻して考える。なかなかすごいことを言うと思った。この腹黒い割り切り方が、千歳の大きな特徴だ。それでいて自分は近寄ってこようとする連中を拒絶しているのだから、矛盾もしている。
「他人のことなら、割り切れるんだね……」
「え?」
「いや……ありがとう」
マリーナとのことは、昔の話だ。トーヴィルにはもうなんの感慨もない。同情されるよりも、こうやってさっぱりと流してくれる方がありがたかった。
一の宮へ上がるには、いくつかの階段を昇らなければならない。千歳の体調を気づかいおぶっていこうかと提案すれば、断られた。大丈夫だと言い張るので、かわりに手を取り引いてやる。ついさっき政治家のような口を利いた少女は、妙に初々しく照れたようすでうつむいていた。
ひんやりした手の、小ささを意識する。トーヴィルが知っているのは騎士たちのごつい手ばかりなので、女の子の手なんてうっかり力を入れるとこわしてしまいそうで怖い。小柄で華奢で色白で、何もかもがこわれものみたいに儚い少女。けれどその中に、なまじな男より強い芯を持っている。
きっと、女という生き物は男よりずっと強いのだ。トーヴィルの姉もそうだ。母もまた、繊細そうに見えて境遇の変化を柔軟に受け入れ、下町でたくましく暮らしている。彼女たちは強いからこそ、見た目は柔らかに儚げで、男をうまくだますのだ。
乗せられた男はせっせと働き女を守ろうとする。ちゃっかり利用され、見返りとしてもらえるのはさて何だろう。
夫には愛情を、知り合いには友情を。
千歳は自分に、何をくれるだろうか。
何年後になるかと思っていたマリーナとの再会は、案外早く訪れた。
主君の生誕祝賀式典の会場ででくわしたのだ。彼女は大人っぽいドレスを着、髪も高く結い上げて宝石で飾っていた。美しいとは思ったが、少女が精一杯背伸びしているという印象も同時に抱いたことは秘密だ。それを口にしてしまってはいけないと判断できる程度には、トーヴィルも成長していた。
騎士の正装に身を包んだトーヴィルを、マリーナの方もまぶしげに見ていた。
「こんなところで何をしてるの? さっき、あっちの方で公王様やいろんな方々が、あなたのことを話してらしたわよ」
話の糸口をさがすようすで彼女が口にしたのは、トーヴィルがあまりふれてほしくないことだった。彼に立てられた噂を払拭するために、仲間たちが一肌脱いでくれたことは知っている。その中心にいるのは千歳だ。あの小さな策士が、主君まで巻き込んでお膳立てした。
ありがたいが、あまりに持ち上げられすぎていたたまれない。とてもあの場には顔を出せない。
「あの子……もうすっかり姫君気取りね。公王様に遠慮してみんながおだてるものだから、舞い上がっちゃってるみたい」
相変わらず千歳にいい感情を持っていないらしいマリーナに、トーヴィルはそっと息をついた。
「ティトはそんな子じゃないよ……今日のあれは、演技だよ」
「演技?」
「本当のティトは人見知りで、出無精の引きこもり……こんな場所に出て大勢の人と話をするのは、すごく疲れるはずだよ……明日は熱を出すかも」
「……なに、それ」
今日のために千歳はかなり無理をしている。きっとこの後しばらく寝込むだろうと、トーヴィルは確信していた。今度は何を持って見舞いに行こうか。
「トーヴィルったら、ずいぶんあの子と親しげなのね。あなたが女の子に興味を持つなんて、すごく意外だったわ」
「そう……?」
女嫌いと公言した覚えはない。特別女好きでもないが、普通のつもりだ。
「噂は、本当なの?」
「どのうわさ?」
「あなたが、あの子と付き合ってるって話よ! 結婚の約束までしてるとか、色々言われてるけど」
それか、と今度は大きく息を吐いた。いずれそんな話も出てくるだろうとは思っていたが、みんな一足飛びに話を飛躍させすぎだ。
「友達だって、言ったろう……そんな約束はしてないよ……そもそもティトは男嫌いだし」
「そうなの……? 本当に?」
しつこく確認するマリーナに、やや辟易しながらもうなずく。するとなぜか彼女はほっとした顔になった。
「そ、そう……あの、それなら私、言いたかったことがあるんだけど……」
「なに?」
マリーナは言いにくそうにそわそわとドレスをいじる。せっかくのドレスがしわになってしまうんじゃないかと思い、忠告するべきか悩んでいたら、ようやく口を開いた。
「昔……あなたに失礼なことを言ったでしょう……」
「……いつのことかな」
幼い頃のことなど持ち出されても、おいそれとは思い出せない。困るトーヴィルに、マリーナは苛立った目を向けた。
「最後に会った時のことよ! 竜騎士団の官舎の前で、あなたともう縁を切るんだって、言ったじゃない!」
「……ああ、それか」
思い出して、うなずく。それで、と続きを待っていたら、マリーナはまた勢いを失った。
「あの時は、私、よくわかってなくて……お父様たちに言われたから、あなたとはもう付き合っちゃいけないんだと思い込んで……」
「うん、いいよ……子供の頃の話だし」
「あなたのお家が貧しくなって、庶民みたいに下町で暮らしていて、そんな子と付き合っていたら恥ずかしいって思っちゃったの。だって周りに庶民と付き合ってる子なんていなかったし。みんなに馬鹿にされるのがいやだったの」
「そうだね……」
腹を立てることでも、呆れることでもない。大人になれば身分を越えた付き合いも発生するし、こだわらずに交流する人もいる。けれどマリーナの両親はそういった類の人間ではなく、必然的に交流する相手も似たような価値観の持ち主ばかりだった。彼らに育てられた娘が影響を受けたとて、何の不思議もない。
「でも、あなたが嫌いになったわけじゃないのよ。本当は、仲良くしていたかったの」
「うん」
「今なら、何も気にせず昔の関係に戻れるわ。あなたは立派に成長して、その歳で公王様の信頼を得て地竜隊長の位に就いたでしょう。きっともっと出世するわ。財産だって取り戻せる。そのことを、今夜誰もが思い知ったわ。もう、何も気にせず付き合える」
「…………」
「お父様だって反対しないわ。それどころかね、あなたとの縁談をもう一度考えようかって話まで出ていて……」
「マリーナ」
熱を帯び始めた少女の声を、トーヴィルはさえぎった。腹を立てたからではない。そういう感情はなかった。ただ、これ以上聞いていたくはなかった。
「そのドレス、よく似合ってるよ。大人っぽいね」
「え……? あ、そう……? あの、ありがとう」
突然脈絡のないことを言われてマリーナが目をまたたく。ほめられてはにかむようすは、やはり可愛い。トーヴィルもこの幼なじみのことは好きだった。
けれど女性への思慕とは違う。それを今あらためて確認した。彼女に対して抱くのは、遠い昔を思い出すなつかしさと、そして寂しさだ。
いつまでも幼いままでいれば。打算や欲得なんて無縁な子供のままでいられたら、きれいな関係は続いていただろう。彼女のわがままにふりまわされつつも、それはそれで楽しめていただろう。
でもふたりは成長し、それぞれに違う道を歩いている。マリーナの道を否定する気はない。それもひとつの生き方だ。彼女はその先で幸せになればいい。トーヴィルの道と交わることは、おそらくないだろうけれど。
「今夜は独身の貴族も大勢来てるから、いい相手が見つかるんじゃないかな。健闘を祈るよ」
「……トーヴィル」
マリーナの顔がさっと青ざめる。傷ついた瞳を見返し、トーヴィルはかすかに微笑んだ。身を屈め、そっと彼女の額に口づけを贈る。そうして、挨拶の言葉はなく別れた。
友達であり、妹だった。彼女の幸せを願う。いい相手と巡り合い、幸福な結婚をしてほしい。彼女が彼女の価値観で幸せだと思えるような。
歩いていると千歳を見つけた。主君たちと離れ、広い会場でぽつんと一人立っている。どうしたのかと声をかければ、夢から目覚めた顔で振り向いた。
「トトー君をさがしにきたの」
貴族たちへ向けていた作り笑いではなく、自然な表情を浮かべた。トーヴィルに負けず劣らず表情の変化にとぼしい娘だが、時折おどろくほど柔らかな笑みを見せることがある。それは相手が公王であろうと下町の庶民であろうと変わらない。さんざんいじめられて悪態をついていたデイルも、なんだかんだ言いつつ今回の計画に乗ったのは、商売のためだけではないだろう。
ドレス――と呼んでいいのかわからないが、新しく仕立てた服には奇抜な意匠の刺繍が存在を主張していた。おしゃれのためではなく、シャール地方の新商品を宣伝するためだ。たいていの娘が自身を飾りたてることに躍起になる場で、千歳は自らを広告塔にすることしか考えなかった。それで得られる収入は彼女のものではないというのに。
自分が損をしてでも、時に命を危険にさらしてでも、誰かのために懸命になる娘。優しく勇敢で潔い。なのにそれを当人だけがわかっていない。
自分は性格が悪いと思い込み、人から嫌われていると決めつけ、ひねくれて斜に構えてみせたりもするくせに、いざとなれば他人を見捨てられない。不器用で優しい千歳に、ひかれていく気持ちを意識する。
意地の張り合いみたいなダンスを終えて得意気に笑った顔が可愛かった。なにかやらかしてしまいそうな自分に焦り、すねたふりをしてそっぽを向く。小さな笑い声が、甘く胸をくすぐった。
今度、休みをとったら、また誘ってみようか。
次は静かな場所で、彼女と竜と、二人と一頭だけの時間をすごすのがいい。
賭の約束という口実もなくどうやって誘えばいいのか、それがしばらくトーヴィルの悩みになった。
***** 終 *****