―4-1
今までだって些細なケンカなら何度かした。
俺が無神経なこと言って、アズが怒ったり。
俺の悪戯にアズが怒ったり。
俺の……俺ばっかりだな。
そりゃ俺だってたまにはアズにイラッとくることだってあった。本気で怒ったことは無いけど。
普通のケンカなら反省して謝れば済む話だ。
アズの怒りもそんなに長くは続かない。
今までもケンカする度に仲直りしてきた。
ああ、一度だけ長引いたこともあったっけ。それでも最後には仲直りできた。
でも、
こんなふうに傷つけた場合の対処法なんて分からない。
◆…◆…◆…◆…◆
天使たちの本拠地――“白の聖堂”に戻ると、怪我の具合を心配するサファと別れ治癒室に向かった。
廊下の両側に等間隔で並ぶ支柱の間に壁はなく、すぐに外に出られるようになっている。支柱や天井には巧緻な細工が施されていて見る者を飽きさせない。
やわらかな陽射しがそれらを優しく包み込みキラキラと輝いていた。
廊下を曲がると一番奥に威圧感を感じさせないクリーム色の扉が現れる。
俺は左手で申し訳程度にノックしてからそれを開けた。
「いらっしゃい。サファから連絡は受けてるよ。悪魔に触ったって? とりあえずそこに」
座って、と背もたれの無い白くて小さな丸い椅子を指差すのは治癒専門の天使・ウィノ。
長い金髪を頭の高いところで一つに結び、ポケットがたくさんついた服を着ている。ポケットにはペンやピンセットやルーペ、果ては何に使うのかわからないが香辛料の入った小瓶まで詰まっていた。
治癒専門と言ってもウィノは主に薬の研究をしていて、いつもなら別の天使が治癒にあたるのだが、あいにく今日は出払っているらしい。
俺はその椅子に座り自分の右手が細めの聖布で(包帯みたいなものだ)ぐるぐる巻きになっていくのを黙って見ていた。
聖布が傷に擦れる感覚が地味に痛い。
それが顔に出ているのか、時折ウィノが「ごめんね、もう少しだから我慢してね」と優しく言ってくる。優しく言ってくるがその手の勢いを緩める気は無いらしい。痛い。
「俺がここに出てんのもそうだけどさ……、しかし珍しいねぇ、ラースがここに来るなんて」
「……」
「随分やんちゃなことしたねぇ……痛かっただろ」
確かに痛かった。
けど。
アズの方がずっと。
俺が返事をしないでいると、その後ウィノは黙って治癒を続けた。
「――はい、これで終わり。しばらく右手には何も触れさせないようにね。ご飯食べるときも左で。ラース右利きだよね?」
「うん。ありがとウィノ」
軽く頭を下げてからドアに向かう。
すると俺の背中に向かってウィノが話しかけてきた。
「あれ、何か用事でもあるの?」
「別に無いけど」
「これからお茶にするんだけど。よかったらラースも一緒に」
「……」
用事は無い。無いけどなんとなく一人になりたかった。
しかし振り返ってウィノの穏やかな表情を見ると、俺はそれに吸い寄せられるように椅子に戻った。
「これこの前貰ったんだ~。美味しいよ」
はい、と香茶の入った薄桃色のカップを渡される。
香茶とは読んで字のごとく芳醇な香りのするお茶だ。その香りの種類は多岐にわたる。
かぐわしい香りが鼻をくすぐる。ゆっくりと口に含むと、甘さの中に少しのほろ苦さを含んだ花の香りが広がった。苦いのは嫌いじゃないしむしろ好きだけど、これは少し苦手な苦さだ。
……それにしても左手だと持ちづらい。
俺が香茶を飲んだのを見てから、ウィノも香りを楽しむように目を閉じて口を付けた。
「うん、やっぱり美味しい」
「……ちょっと苦くない?」
「それが良いんじゃないか。ラースもまだまだ子供だねぇ」
「……」
苦いの全般が嫌いなんじゃなくてこれが苦手なだけだ。
俺は何も言い返さなかったが、それを拗ねたと思ったのかウィノはクスクスと楽しそうに笑った。
それから深緑色の目を幾らか細め真っすぐに俺を見た。
「ねぇ、ラース?」
「何?」
「君、忘れていたんだろう? 黒の者に手を触れてはならないってこと。幼い頃に一番最初に習うことだ」
「……習ったっけ」
そんなこと言われたかな。そういえば小さい頃のこととかよく覚えてない。
「ああ、でも君の場合はサファか……サファなら触ってはいけないとか言ってなさそうだな。頑なに近付くな、としか言わなかったかもしれないなぁ。まあ彼が言ってもあまり……ま、それはいいか。とにかく駄目だよ。いくら友達だと言っても、俺たちと黒の者は絶対に相容れないんだから」
確かに黒の領域や悪魔に近付くなとは毎日のように言われたし、言われている。多分これからも言われるだろう。サファは俺の耳で一体何匹のタコを量産するつもりなんだろうか。
持ったままだったカップに視線を落とし香茶を一口すする。さっきよりも少し冷めた、やはり慣れない甘くてほろ苦い味が伝わってくる。
……ん? つか俺悪魔の友達がいるなんて言ったっけ?
顔を上げてウィノを見ると、すべてお見通しといった表情をしていた。
「んーまぁ、オトコの勘?」
「……。」
本気なのか冗談なのかわからない発言。
ウィノと話すときはいつもこうだ。
それからウィノは、んん、と伸びをした。パキパキと間接が鳴る音がする。
さすが万年デスクワーク、体のあらゆる部分が相当凝っているみたいだ。聞けば薬の研究に没頭するあまり飲まず食わずで三日以上経っていたこともあるらしい。……他人の治癒の前に自分を治癒した方がよくないか。
「ま・詳しくは聞かないし、他の誰にも言うつもり無いけど。あまり危ないことはするなよ」
「うん。……ところで、絶対に黒とは相容れらんないわけ。何か方法とかないの」
一旦頷きを返した後、今俺にとって一番重要で一番聞きたかったことを聞いた。
……返事が返ってこないんだけど、何その顔。鳩が豆鉄砲くらったような、ってこういう時に使うのか。
「……無表情で何を言い出すのかと思ったよ。本当に君は表情筋が発達して無いねぇ。せめて疑問符ぐらいつけたらどうよ」
少し呆れたようにウィノがさらりと失礼なことを言う。
無表情じゃなくてポーカーフェイスだ。そっちの方がなんかかっこいい。
「で、本当に方法は無いの?」
「まあ、無いね。光と闇は表裏一体のものだけど、交わることは有り得ない。そんな感じ、って言って分かる?」
「……なんかよく分からないような……でもなんとなくイメージ的には分かったような?」
「どっちだ。とりあえずどうして天使が悪魔に触れられないのか説明しておこうか。ラースにも分かるようにね」
そして静かに話し始めた。
「白の者が黒の領域に入れないのは、黒の領域に充満している瘴気に身体が拒否反応を起こすからっていうのは知ってるよね」
それは知っている。
俺が頷いたのを見てから、ウィノは先を続けた。
「よかった。つまりね、俺たちの身体は言わば聖気の塊なんだよ。黒の者は瘴気のね。で、聖気と瘴気ってのは普通同じだけの力を持ってる。勿論偉くなればなるほどその力は強くなるけど、とりあえずそれは置いといて。ここでは同レベルの天使と悪魔の場合で考えて欲しい」
同じだけの力? 力のバランスが同じということだろうか。でもそれなら、
「でも力が均等なら、悪魔に触ってもこんな風にならなくない?」
瘴気の塊に触れて灼け爛れてしまった右手を見る。
あいからわず微弱な疼痛はあるが、先程よりは幾分マシになってきていた。
ウィノは頷きながら答えた。
「当然の質問だね。でも聖気の塊である天使が瘴気の塊に触るのは、身体にものすごい負荷が掛かるんだ。俺たちの身体は身体内部でそれを処理しようとするんだけど、それが追い付かないくらいの負荷が掛かるから、表面にその影響が出てくる。つまりそうなる」
俺の右手を見ながら言う。
「そうしたら悪魔には負荷が掛からないのかって思うよね。悪魔にだって当然負荷は掛かってる。でも黒の者っていうのは白の者に比べてタフなんだよ。聖気を身体の外に排出するのが上手い。だからそうならない」
その視線は右手を捉えたままだ。
なんとなくそれから逃れるように左手で右手を庇うと、ウィノも視線を外した。
「……それって不公平だよね」
「そうかもね。もちろん白の者の方が勝れているところもあるよ、精神力とかね。それにいくらタフだと言っても限界がある。下っぱの悪魔が身の程も知らずに強い力を持った天使に触れれば消滅することだってあるさ。それ以外で黒の者に対抗するなら、聖水を浴びせてやればいい。溶けるから」
別に何も変なことは言ってない、というように微笑みながら言った。
えーと、ここまでの話を整理すると。
白の者(天使や聖獣とか)は聖気の塊。
黒の者(悪魔や魔獣とか)は瘴気の塊。
白の者と黒の者が触れ合うとお互いダメージを受ける。
その度合いは両者の力が同程度なら白の者の方が酷い。
でもそれは黒の者がダメージを与えているというより白の者が勝手に自爆してる感じ。
ただし強い力を持った天使と低レベルの悪魔だったら悪魔の方がやばい。
で、黒の者に同じようなダメージを与えるなら聖水を使う。
こんな感じか。
あれ、何で聖気の塊に触っても大丈夫なのに聖水なら効くんだ?
ウィノに尋ねると、それはね、と教えてくれた。すっかり先生だ。
「水っていうものは自然の状態にあっても元々ある程度浄いものだからね。聖水はそれが更に浄められたものだから強い聖力を持つんだよ。だからじゃないかな? ……」
俺はウィノが文末に小さく「多分」とつけたのを聞き逃さなかった。
「なんとなくうっすらわかったような気がしなくもない。ありがとうウィノ」
「理解が薄いなぁ……俺の力不足かな。どういたしまして。また何か知りたくなったらおいで、美味しい香茶用意して待ってるから」
「いらない」
肩を震わせているウィノにあの微妙な味のお茶を押しつけ治癒室を出た。
仕事も中止だしこれからどうしようか。
サファにはなんとなく会いたくない。
とりあえず白の領域から出よう。かといって灰の領域にも行きたくない。必然的に俺の足は人間界に向いた。