―3-1
珍しく早いうちに仕事を終わらせられたので、いつものように青々と茂った葉をさわさわと揺らす、灰の領域の中でも一際大きくて立派な樹へと向かう。
最近はアズと仕事中にたまたま会うことが続いたが、いつもは仕事が終わった後にこの樹で落ち合っている。
この樹は今よりもずっと昔、まだ俺もサファも生まれる前、それこそ神話の中の神々がまだ生きていた時代から生えていたらしい。
まだ俺が小さかった頃、もうしわくちゃのじーさんになった天使が、これを見上げて真っ白な髭を撫でながら「懐かしいの」なんて言ってたのを覚えている。
もうずっとずっと昔から、天使と悪魔を、そして人間を見つめてきた樹だ。
なんとかかんとかツリーって言うらしいんだけど何回聞いても名前覚えらんない。
◆…◆…◆…◆…◆
遠くから上の方の太い枝に腰掛けているアズの姿が見えた。
――俺より先にいるなんて珍しいな。
すぐに近づいて声をかけようとしたが、何だかいつもと様子が違うことに気付いた。普段はやたらうるさ……元気なのに、やけに沈んでいるように見える。まるで見えない耳が伏せっているみたいだ。
どうしたんだろう。楽しみにしていたお菓子を誰かに横取りでもされたんだろうか。その可能性はかなり高い。
「アズ、どうかしたの」
「ラース……」
しょんぼりしているアズの前まで行って声をかけると、俯いていた顔を上げた。そしてその見かけに反することなく、しょんぼりした声を出した。
「清と話したこと怒られた……」
「え?」
「ターゲットじゃない人間と話すなって……」
怒られた、というのはやはりあの上司にだろう。
ただでさえ立っているだけで近寄りがたいオーラ全開なのに、あれが怒ったら一体どうなるんだ。想像もできない……というかしたくない。
「誤魔化せばよかったのに」
人間と話していた、なんていくらでも言い訳がきく。契約を結ぼうとしていたんだとか、そこに天使が邪魔しにきて結局逃してしまったとか。うん、嘘はついてないな。そのあと友達になったとか口を滑らせなければ完璧だ。
しかしアズは弱々しく首を横に振った。
「見られてたみたい……」
「あー……」
それなら誤魔化しはきかないな。清と友達になったことだって筒抜けだろうし。
あの悪魔――エルがどうやって様子を見ていたのかは分からない。
だけどアズが彼の名前を口にしただけでアズの居場所を掴むことができるのだから、こちらに気付かれずに監視することなんて容易なんだろう。
すごいな。
つくづく俺の上司じゃなくてよかった。多分サファはそんなことできないし。
「……今も見てたりして」
「うん……見てるかも……」
マジで。
冗談のつもりで言った言葉に予想外の肯定を得てしまい、ちょっとたじろいだ。
どこかから見られているなんて気分のいいもんじゃない。心なしか背中が痒くなってくる。プライバシーの侵害反対。
一人で無意味な反対運動をしていると、アズがまたポツリと呟いた。
「あとね……天使と悪魔は仲良くなれないんだって」
どうやらアズが落ち込んでいたのは、単にエルに怒られたからという理由だけではないらしい。
仲良くなれない、ってどういう意味なんだ? 少なくとも俺はアズと仲良いつもりなんだけど。
「そうなの?」
「うん。触れないんだって……」
「触れない?」
「うん……バチッてするのかな?」
「バチッて……って」
何しろ初めて聞くことなので、さっきからアズの言うことをおうむ返しに言うことしかできない。
触れない?
どういうことなんだろう。何か見えない力が働くのか、それとも触ろうとするとサファとかエルが邪魔しに来るとでも言うのか。……すごい嫌だな、それ。
しばらく頭を捻ってみたが、答えが見つかるはずもなく。ふと横を見ると、アズも同じようにうーんと唸りながら考え込んでいるようだった。
考えてみても答えが出ないのなら、実際にやってみるしかないか。痛かったりするのは嫌だけど、もしかしたら俺とアズを裂くためにエルが嘘ついたのかもしれないし。
……でもあいつがそんなみみっちいことするとは思えないんだよね、なんとなく。
真剣な顔をして考え込んでいるアズの前に、俺は手を差し出す。
アズはそれに気付くとこちらに不思議そうな顔を向けた。
「触ってみる?」
「え……でも」
つい、と差し出された手に若干戸惑いつつも、アズの視線はそれに注がれている。
俺が次の言葉を促すとアズはそれから視線を外し、またしても俺の思いもしなかった言葉を紡いだ。
「でも?」
「ラース傷つけたらやだ……」
悪魔って人を傷つけるのが仕事じゃないのか? 本当に変わっているというか、邪気の塊のくせに無邪気っていうか……。
……それに、誰かから傷つけたくないなんて言われたの、生まれて初めてだ。
思わず頬が緩んでしまう。
しかしなんか気恥ずかしいので、それを悟られまいと出来る限りの無表情を装った。
「仲良くなれないって言っても、もう俺ら仲良いでしょ」
「そだけど……」
「今まで触らないで何か支障あった?」
「ないけど……」
そういえば今までお互いに触ったことなかったんだな。本能的に回避していたんだろうか。
アズは相変わらずしゅんとしている。
いつまでもこのままでは埒が開かないので、右手でそっとアズの肩に触れてみた。
「っ」
すると、バチッという何かが爆ぜるような音がして、小さな鋭い痛みが俺の右手を走った。
軽く触れただけだったせいか、なんかでかい静電気が起こったみたいな感覚だった。
痛みを振り払うように手を振る。手のひらを見ても特に焦げたり溶けたりはしていない。
不意に身体を触られたアズは、たった今俺が何をしたのか、そして何が起こったのか信じられないといった表情で俺の顔と手を交互に見ている。
ピリピリしたこの痛みよりも――その余韻もすぐに引いたが――どうして触れただけでこうなるのかが不思議で、俺の旺盛な好奇心はもっと詳しく知りたくなった。
「ちょっと痛い」
「な……っなっ何してんの!?」
「本当だったんだね。ちょっと面白い」
「面白くないよ! 大丈夫!?」
「アズも痛いの?」
「俺? 俺はそんなに……」
「ふうん。どういう原理なんだろ」
「わかんな……ってそーじゃなくて! 手!」
俺はマイペースに話を続けようとするがアズはそれどころではないようだ。
顔面蒼白なアズに、なんともないと言う代わりにヒラヒラと手を振ってみせる。いくら口で大丈夫だと言っても信用しないだろう。
アズはそれを手に取って見ようとして、はっと気付くと慌てて自分の手を後ろに引っ込めた。
そして顔を近付けて俺の手に異常が無いことを確認すると、ほっと安堵のため息をついた。