―8-3
月と星の灯りが暗闇を淡く薄めていた。目を下に向けると下界はもう夜のようで、遥か遠くにあるはずの人工的な光がそれをすっかり打ち消しているのがよく見えた。それはただ視覚情報として入ってきてはすぐに流れ消える。今の俺にそんなものにかまけている余裕はなかった。
「どこまで行く?」
廃神殿から大分距離が取れたところでアズに声をかけた。前へ前へと急いでいたが、辺りに人影もないしもうそろそろいいだろう。
「そうだね……、あの雲にしよ」
濃紺の空に浮かぶ厚みのある雲へと降りる。足をつけるとその部分はゆっくり沈んで俺達を包み込んだ。二人だけの空間ができて、これでそう簡単に誰かに見られることはない。内側の白色はぼんやりと薄明るく、お互いの姿を見失うことはなかった。
「じゃあ、まず俺からやるね。……真名、教えて?」
向かい合ってアズが言う。
ふと、自分の手がしっとりと汗をかいているのに気づいた。心なしか心臓が波打つ音も聞こえる、気がする。ガラにもなく緊張しているんだろうか。真名を他人に明かすなんて生まれて初めてだし、この先もないだろうから。
「……大丈夫? 俺まだ我慢できるよ、今度にする?」
そんな機微を敏感に感じ取ったのか、アズが心配そうに覗き込んできた。
そんなことないだろうに。なんかこの言い方だとものすごく自惚れてるようだけど、アズがどれだけ俺に触りたいか分かってるから。本当に悪魔らしくない。
「大丈夫。俺も早く、触りたいから」
強がりじゃないということを示したくて真っ直ぐ目を見て言うと、気遣わしげな表情が少し弛んだ。
「……俺の真名は、」
一段と鼓動が早くなるのが分かった。それを落ち着けるために一度目を閉じて、大きく息を吸い込み追い払うように吐き出す。
「――ラシェルド」
「ラシェルド?」
かく、とただ首を動かして首肯する。
多分生まれて初めて口にしたその名前は、音となって雲の壁に吸い込まれていった。
自分の心臓の音以外に聞こえるのはお互いの息遣いだけ。その中で目と目が合う。
「『ラシェルド』……俺を拒まないで」
初めて呼ばれた真名は、優しく俺を“縛”った。
見た目は何も変わってないけれど、何か不思議な膜が俺を包んだように思えた。
一息吐いたアズは手袋を外して手を伸ばしてくる。期待と不安と緊張とをない交ぜにした様子で。微かに震えるそれが俺の頬に触れるまでの時間が、ひどく長いものに感じられた。
――ぺた。
少し高めの体温。肌と肌が触れる感覚。痛く、ない。
驚きとか喜びとか、それ以上に顔を綻ばせるアズが愛おしくてその手に手を添えようとすると、
「わっ」
慌てた様子で離れられた。
拒まれるという思わぬ反応に、傷つくより前に驚く。
「ラースもやらないとだめだよ。今は俺からは触れるけどラースからはまだ触れないままだから」
なるほど、俺もアズを“縛”らないとダメなのか。
「どうすればいいの」
「契約のときは命令するんだけど、さっきのはお願いしたの。命令じゃ強すぎるから」
「何て言えばいい?」
「何でもいいよ。触れるようになれば……」
「分かった」
じゃあ、とアズに向き直る。
まず真名を言って次に“お願い”すればいいんだな。軽く息を吸ったところで大変なことに気がついた。
「……大変。アズの真名が分からない」
「あっ、アズュラルトだよ」
「アズュラルト」
「うん、そう」
初めて聞く好きな相手の真名。あっさり教えてくれたということは、俺のことを心から信じてくれているということで。それだけでも嬉しくなる。
気を取り直す。心配そうに見つめるアズへ、心に浮かんだ言葉を声にする。丁寧に、一文字一文字。
「……『アズュラルト』、俺を受け入れて」
乾いた口から出た声も、音となって雲の壁に吸い込まれていく。
言ったあと、気が抜けたのか少し力が抜けた。ふらつく足をなんとか踏張らせて姿勢を保つ。
とにかく、これでもう触れるようになったはずだ。手袋を外してアズの頬に手を伸ばす。きっと俺も今、期待とか不安とかでごっちゃになった顔をしているんだろう。
負けず劣らず震える指先でまず軽く触れて、痛みがないことを確認する。それから今度はしっかりと、両手で頬を包み込んだ。
やっと……、直接触れた。ずっと触れたかったもの。布一枚の距離が近くて遠くてもどかしかった。それに今、やっと触れている。
「ラースの手、冷たい」
「優しい心の持ち主は手が冷たいんだよ」
「あはは、じゃあ冷たくない俺は心が冷たいってこと?」
「子供って体温高いらしいよ」
「それどーゆー意味?」
そんな他愛もない会話をして。
ぎゅっと、きつくきつく抱き合った。もう離さないとでもいうように。
「ずっとこうしたかった……」
「俺も」
遠回りして疵ついて傷つけて、やっとここまで。
指に絡まないさらさらの髪。想像していたよりもぷにぷにした頬。そっと唇を重ねると、この前とは違い痛みがないせいか、やわらかさがダイレクトに伝わってきた。
「ラース」
アズが俺の頬を撫でて口づけてくる。口づける度にお互いを抱き締める力は強くなっていって、もう痛いくらいだった。でもそんなことは気にならないほど、ただ嬉しさとか喜びとかそういったものが身体中を占めていた。
まだしばらくはこのまま浸っていよう。多分それは、アズも同じ気持ちだろうから。