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The story of “R”―怠惰天使の日常―  作者: ちりめんじゃこ
―8―
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―8-1


「うえ、紫……」


 “白の聖堂”の裏庭には聖なる泉がある。聖なる泉はもうそのまま聖水から成っている泉だ。浴びれば些細な呪いや傷なんかは簡単に治せる。飲んだりして直接体内に取り込めば、身体の深部まで清めることもできる。

 というわけで俺もその恩恵にあずかろうとここ二、三日は泉に通ってるわけだけど、右手の疵は閉じたり開いたりしたせいかどす黒い紫色に変色していた。見た目が派手なだけで、実は押しても痛みはそこまで酷くない。今聖布を巻いたり泉に来たりしているのは、手の見た目を少しでも早く良くするためだ。これじゃあ会う人会う人片っ端から事情を聞かれてウザいだろうから。


「あーあ」


 雲の上にも草や花や土はある。この泉の周りに生えている草は柔らかくて、寝ていても痛くならない。だから俺はその上に仰向けに寝転がって、空を見上げた。ほとんど気休めにしかならないけど、右手は泉に、外した聖布はパーカーのポケットに突っ込んでおいた。


 色鮮やかな蝶が二匹、楽しそうに舞いながら花にとまった。薄い水色をした小さな鳥は気持ち良さそうに歌を歌っている。今日も退屈なくらい平和だ。

 木陰を作り出す木々を眺めて、ぼんやりと昨日のことを考える。それにしても昨日は色々と濃い一日だった。


 結局あの後は顔が熱いわ緩むわで、まともに動けるまで一時間くらいかかった。日が落ちて暗くなる前に帰ろうと思って立ち上がったのは、アズが去ってずいぶん経ってからのことだった。

 帰ってすぐにサファの元へ向かったが、外出中で会えなかった。まったく肝心なときにいないんだから。

 今日はもう戻っているだろう。もうしばらくしたらまたサファを探しに行こう。

 と思っていたら、


「こんなところで何をしているんです」


 サクサクと草を踏む音がして、サファが顔を覗き込んできた。

 ちょうどよく現われてくれた。泉に手を差し入れたまま上半身を起こすと、サファが隣に座った。


「とりあえず仕事行く前に治癒しとこうと思って」


「まだ痛みますか?」


「まあ少し?」


「そうですか……」


 サファはこの疵を見たらきっと、今よりももっと悪魔を嫌うだろう。特にアズを。

 聖布で巻いて隠しちゃうのが一番いいんだけど、タイミングがないしな。どうしよ。


「……すみませんでした」


「え?」


「私のせいで傷が開いたでしょう」


 言いながらサファは一度泉に目をやった。視線を俺の顔に戻して、そして静かに言葉を続ける。


「天使が悪魔に触れるとどうなるのか、何故悪魔に近付くなと言い聞かせてきたのか、貴方を悪魔から遠ざけるだけではなく、私が貴方にきちんと説明するべきでした。全て私のせいです。申し訳ありません」


 そう言って目を伏せて頭を下げる。


「え、ちょっとそういうのどうすればいいか分からないからやめてよ。顔上げてよ」


 サファは何も言わない。


「サ……わっ」


 急に抱き寄せられた。弾みで右手を泉から抜いてしまい、慌てて隠す。……見られてないよね?


「貴方にまで何かあったら……っ」


 絞りだすような声で呟いたかと思うと、俺を抱き締める腕の力が更に強まった。

 サラサラの髪が鼻先に当たって少しくすぐったい。


「痛いってば。ねえってば、……サファ?」


 今何がどうなってて、サファが言っていることも何で俺が抱き締められてるのかもよく分からない。ただ、俺をいつも護ってくれているサファが、なんだかひどく頼りなげというか儚げに見えた。


「……大丈夫だって。俺は死んでないしここにいるよ」


 サファを抱き締め返して、背中をあやすようにポンポンと軽く叩く。そうして自然と口をついて出たのが今のセリフ。ぶっちゃけ自分でもよく分からないこと言ってると思うけど、とにかくサファを落ち着かせなきゃと思って浮かんだ言葉がこれだった。


 とりあえず、サファの肩の微かな震えが治まるまではこのままでいよう。

 そうだ、ついでに今のうちに聖布を巻いておこう。手先の器用さには自信がある。




「落ち着いた?」


 しばらく経って、俺は抱きついたままのサファに話し掛けた。


「ええ、取り乱してしまいましたね。失礼しました」


 すました顔をして離れていき、俺はやっと両腕から解放される。

 サファは何事も無かったかのように六枚の羽を出すと、


「今日は仕事はいいです。もう少し休みなさい。ただし“白”から出てはいけませんよ」


「サファはどこ行くの」


「私にはやらなければならないことがありますので」


 そう言って飛び立っていった。

 サファの仕事は基本的に内勤だから、今出かけていったのは恐らく私用のためだ。ていうかサファっていつも何してるんだろ。気になるし、しかも悪魔に触る方法聞き忘れちゃったし暇だしついてってみよっと。

 静かに羽を伸ばして、気付かれないようにサファの後を追った。




◆…◆…◆…◆…◆




 おかしいな。脚には自信あるのにサファを見失った。

 しかも気づけばここはとっくに灰の領域だ。

 白の領域から出るなって言われたけど出ちゃったものは仕方ない。出ちゃったついでにとりあえずいつもの木まで行ってみよう。



 太めの枝に腰を降ろそうとしたとき、遠くからすごい勢いでアズが飛んでくるのが見えた。

 顔が空気抵抗で取れちゃうんじゃないかってスピードに呆気に取られて、速いなとか思いつつ目で追っていたが、我に返るとまた昨日を思い出して心臓が跳ねた。


 そんなに俺に早く会いたかったのか。


 とか甘い考えも浮かんだけど、近付いてくるアズの顔が蒼白になっているからどうやら違うようだ。

 何か事件でも起こったのか? サファが悪魔に食われたとか。そんな奇特な悪魔がいたら、サファなんか食ったらお腹壊すからやめたほうがいいよって忠告してやりたい。


「ラース!」


「どうしたの」


「見せてっ」


 俺の質問を無視して、アズは昨日貸した手袋をはめた手で俺の右手の聖布を強引に剥ぎ取った。

 その下に隠されていた毒々しい色合いの傷痕が露出する。まずい。

 とっさに左手で隠したが遅かった。アズの顔は更に蒼白くなっていく。


「そんな……」


「いや、これ見た目が派手なだけで別に痛くないよ」


 言ってはみたもののあまり意味のないフォローだと思う。無論アズだって聞いちゃいない。そうすることが当たり前のように黙ったまま俯いている。

 俺もなんて言えばいいのかわからなくて、結局黙ったままアズを見る。


「ラースとは……触る方法見つけるまで会えない」


 絞りだすような涙声が耳に響く。

 アズはくるりと背を向けると、そのまま立ち去ろうとしているのか黒い羽を広げた。


「アズ待って」


「ついてこないで……っ」


「アズ」


 見ればその小さな肩は小刻みに震えていた。

 行かせないように腕を掴むことだってできない。ていうか手袋どこやったっけ? ぱたぱた体を叩きながら探しても見つからない。

 ていうかまた泣かせた。これで何度目だよ、ああもう、本当に最悪だ俺。


「……ごめん」


「え……? 何でラースが謝るの?」


 不思議そうにアズが振り向く。


「何でって」


「悪いのは俺の体だよ」


 それこそ何でだ。


「アズは悪くないよ」


「でも」


「悪くない」


 畳み掛けるように言葉を重ねて、アズの反論を否定する。

 アズはモゴモゴと口を動かしていたが、それからそっぽを向いて軽く鼻をすすった。

 俺はその時になってやっとデニムのポケットに突っ込みっぱなしだった手袋を発見した。それをしっかり左手にはめてアズの前に立つ。


「アズ」


 反応なし。


「アズってば」


 そっと頬に触れると、これにはさすがに身じろいで、やっと目を合わせてくれた。それから俺の手に手を添えると、ゆっくり目を閉じて頬をすりよせてきた。

 ……何この可愛い生き物。


 そのままアズは手の感触を確かめるように、味わうように、目を閉じたまま動かなかった。

 しばらくして目を開けると、


「そういえば……ラース触らなくて平気って言ってたよね? よかった」


 え? そんなこと言ったっけ?


「あれ? 言ってないっけ?」


「覚えてないけど……もし言ってたとしても、それは今まで他の誰かを触りたくなったことがなかったからだと思う」


「そういうの……俺が初めてなんだ?」


 頷きを返す。

 誰かに触れたくて困ったことなんてこれまでに一度もなかった。


「俺だけかぁ……嬉しい」


 頬がほんのり赤くなって、顔はいつも以上に弛んでいて。


「俺が初めての人」


 その上さらに心底嬉しそうに歯の浮くような台詞を言われたら、こっちだってつられて赤くなってしまいそうだ。まあもうなってそうだけど。


「何で黙ってるの?」


 だから、何でと言われましても。


「……何喋ればいいのか分かんないから」


 気の利いた台詞なんて出てこないし、いくらなんでもこういうときに茶化すような真似もできない。そしたら必然的に黙って見てるくらいしかできなくなってしまった。


「何でもいいんだよ」


 俺の手を両手でぎゅっと握り、照れながら微笑んでくる。

 それなら、と少しだけ逡巡してから、


「早く直接触りたいね」


 とだけ呟くように言った。

 アズはまた無言になり、手を離して考え込んでしまった。しまった、やっちゃったかと思いどうしようか迷っていると。


「……問い詰める。今すぐ行こ! エルたちのところ!」


 そう言ってズイッと手を差し伸べてきた。

 また傷つけてしまったのかと焦っていたので予想外の言葉に少し呆気に取られたけど、すぐにその手を取った。……アズがちょっと、本当にちょっとだけど格好良く見えたことは内緒だ。



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