―5-3
◆…◆…◆…◆…◆
「あ……ラース! 遅かったね」
仕事をぱーっと終わらせて待ち合わせ場所に向かうと、すでにアズは来ていた。
俺と目が合うと、アズはぱあっと目を輝かせて近づいてきた。そしてやはり1.5メートルくらい前で止まった。
「またこの距離感……」
でも昨日より少しは縮んだか。
辺りを見回すと今日は珍しく、白の領域へ戻る途中なのであろう天使たちが二、三人飛んでいく姿が見えた。ちょっと場所変えないとまずいかな。
「もう少し向こうの方行こう」
そう言いながら黒の領域の方向へ飛んでいく。
すると、
「え? あっちょっと待ってよラース!」
後ろからアズの慌てた声が聞こえてきた。
「ねー、どこまで行くの? あんまり行くと危ないよ」
飛び続けていると、辺りはうっすら暗くなり、だんだん瘴気も濃くなってきた。
確かに行きすぎるのもよくないな。それにもうそろそろ大丈夫だろう。
下を見ると手頃な雲の塊があったので、俺はそれに向かって飛び降りた。
「あっもうラースってば! 降りるなら降りるって言ってよ!」
上からアズの慌てた声が聞こえてきた。
小さめの公園くらいの、ふかっとした真っ白な雲に降り立つ。が、勢い余ってバランスを崩し尻餅をついてしまった。でも雲だから痛くない。
雲を歩く感覚は、粉雪を踏む感覚に似ている。踏んだ瞬間はふわっとしていて、踏みしめるとむぎゅ、もぎゅと音が鳴る。
立ち上がってもぎゅもぎゅと雲を踏んでいると、アズがまた距離を取って前に降り立った。
「こんなとこで何するの?」
アズが小首を傾げてこっちを見た。
することは決まっている。
ここからだとアズに届かないので、目の前まで近づく。
右手はまだ完治していないから、何かあったら怖いし今日は左手だけで。
アズの頭上に左手をかざすと、アズは反射的に目を閉じた。
そっと頭を撫でる。手袋越しにアズのやわらかい髪の感触が伝わってきた。
――あの痛みはない。触れた……。
「え……?」
髪から手を離して、今度はアズの手を握る。
アズはおそるおそる目を開くと、まず握られた自分の手を見て、それからゆっくりと視線を上に動かしていった。俺と目が合うと、目をみはった。
「昨日のうちに作ってもらったんだ。頭いいでしょ」
手を離して、手袋をはめた手をアズの目の前に拡げる。新品の皮の匂いが微かに鼻をくすぐった。
「うんっ……すげー……触ってもいい?」
アズが目を輝かせて、俺の顔と手袋を交互に見た。俺が頷くと、まずちょんちょんとつっつくように触った。そして俺に何の異変も起きていないことを確かめてから、指を絡ませた。
「すごい……痛くないの?」
「全然」
もう片方の手で手袋を撫でながら、嬉しそうにすごいすごい、と繰り返す。
そんなアズが無性に可愛く見えた。
絡ませたままの手指を握り、そのまま顔を近づける。
「ん、……?」
触れあった瞬間、その乾いた唇からバシッと大きな痛みが伝わってきた。
「ッ」
瞬間、思わず手を解いてアズから離れる。
アズは目を軽く見開いてこっちを見ていたが、はっとした様子で慌てだした。
「ラース! あ……」
「何してるんですか貴方は!」
大きな瞳でこっちを見続けているアズから顔を背け、手の甲で唇を覆う。
すると目の前に純白の天使が現れた。眉間には皺が寄り、ブロンドの髪が場違いなほどに美しくなびいている。俺は腕を掴まれて、その胸の中に抱き寄せられた。
「サファ……どうしてここに」
顔を上げて大丈夫、と手をひらひら振ってみせると、サファは安心したのか手を離した。
ていうか今の見られたのか……。これは大変気まずい。
ちらっとサファの顔を見ると、青白かった。体調悪いのか? と思ったが、そういえばここは黒の領域に近い場所だ。気を抜けばねっとりとした瘴気が体に絡みついてくる。強い聖気を纏うサファには、並の天使以上にきつく感じるだろう。俺は別に平気だけど。
「どうしてって……、貴方が黒に――」
つらそうに額を抑えたサファがそこまで言うと、身体がふらっとよろめき、そのまま倒れ落ちていった。
まずい、雲の下は骨をも噛み砕く茨だ。
「サファ! ……ッ」
腕を思い切り伸ばす。指先はサファの腕をかすめたが、しかし右手に嫌な痛みが走り力が抜け、その手を掴むことができなかった。
「えっあっ助けなきゃ……っでも俺触れないしどうしよ……っ」
右手を抑え蹲る俺の横で、アズがおろおろしていた。
こんな止まってる場合じゃない。
そうこうしているうちにも、サファは重力に逆らわず落下していく。
下では茨が久々の獲物にぎらつき、舌舐めずりして待ち構えている。
いくら口うるさくてもサファに死なれたら困る。
痛みをごまかすように右手を握り締め、下に向かって飛び込んだ。
しかし落下のスピードが速すぎる。
やばい、俺じゃ追い付けない――
風が起こった。何かが鼻先を掠めていった。
「あ……エル!」
アズのほっとした声が辺りに響く。
下を見ると、エルがサファを抱きとめていた。内容はよく聞こえないが、エルがサファに何か話しかけ、サファも口を動かしているのが見える。どうやら意識も戻ったようだ。
「あーよかった……」
柄にもなく安堵の声が漏れた。胸を撫で下ろしつつアズの元へ戻る。
アズはぽかんと口を開けて二人を見ていた。さっきからずっと目は見開かれたままだ。
「あれ? 何で……」
ぽつりと呟く。
「アズ?」
「何で触れんの……?」
即座に振り向いて二人を見る。
サファが痛がっている様子はない。手袋とかをしているようでもない。むしろサファは甘えるように、エルの胸に顔を埋めている。エルはサファの髪を愛おしそうに撫でていた。
………なにこれ。
アズはその空気に怯むことなく二人に近づいていった。
あれに割って入ろうだなんてすごいな。
そんなことを考えながら俺もその後を追い、アズの横に並んだ。
「エル……」
そしてアズがおずおずエルを見上げると、その凄艶な男は口端を上げ不適に笑った。
「これが私のものだからだよ」
そう言いながらサファの髪を一房掬い、その髪先に軽く口づける。
「な……違う……」
弱々しい抗議の声を上げたサファは、エルの両肩を掴み身体を起こそうとしたが、うまく力が入らなかったようで、またエルの胸にもたれかかった。
エルはサファをじっと見つめた後、俺を横目で見た。
一瞬、身が竦む。
「火遊びは止めて居るべき場所へ帰ったらどうだ」
それだけ言うと、サファを抱きかかえたまま白の領域の方に向かって飛び立った。
嫌い合ってるのかなんなのかよく分からなくなるな。なんなの。
ぼーっと考えているとアズが俺の左手をちょこっと摘んで見上げてきた。
「お……追っかけよ!」
頷きを返してからエルとサファの後を追った。アズも俺の横に並ぶ。その視線は二人をしっかり捉えていた。
何か分かるかもしれない。
やっぱり悪魔に触れる方法があるんだ。
二人の声は聞こえないが、表情は読み取れるくらいの距離を置き、追い続ける。
エルはサファの耳元に顔を寄せ、何か囁いているようだった。それを受けてサファは、力無く額に手の甲をあてた。
……いいな。俺なんてやっと手袋越しに触れるようになったっていうのに。
ふと右手を見ると、少し血が滲んでいた。さっき無理に伸ばしたときに傷が開いたんだろう。またウィノに苦い顔されるかな。とりあえず、アズには見せないようにしておこう。余計な心配かけたくないし。
しばらく飛んで、灰の領域の大樹を通り過ぎると、エルは方向を変えて右に飛んでいった。まっすぐ飛べば白の領域なんてすぐなのに。何かあるのか?
俺とアズは顔を見合わせ、エルの後を追い続けた。