婚約者に壊された令嬢は青い怪異に愛される
水鳥が、飛び立つ。
エレナはそれを視線で追いかけ、顔を上げた。
霧が空を隠している。
木漏れ日さえ形をなせず、ただぼんやりと光は宙を舞っていた。
透き通った湖面には、写り込んだ白樺。
小さな波紋が生まれては、水面に浮く細長い葉を揺らし、 チャプ……チャプ……と、かすかな音を返していた。
エレナは、湿った葉を踏む。
彼女は湖岸をゆっくりと歩いていた。その金の長い髪はわずかに乱れ、ほとんどほどけたリボンもそのままに、彼女は湖面を見つめている。長いスカートの裾は泥を吸い、重く、彼女の脚を濡らした。
ふと、視線を向ける。
向こうに、女性の姿。
この場所に人がいるのは珍しい。
エレナは不思議に思いながら、その人に近づいた。
「……あの……こんにちは」
自分と似た金の髪の女性。
長く下ろされたままの髪は、緩やかにうねり、艶やかで美しかった。
彼女がゆっくりと、こちらを向く。
「こんにちは」
エレナは思わず肩を震わせた。
その女性の顔があまりにも、自分に似ていたからだ。
彼女は、柔らかく笑った。
瞳が湖の鈍い光を受けて、水面のようにゆるりと光を滑らせている。
エレナはそっと息を吐いた。
自分の瞳は翡翠だが、彼女のそれは湖を溶かしたような青。
それに、自分はあのように美しく笑ったりもしない。
「あなたは……ここへよく来るの?」
思わず、問いかけてしまう。
「……どうかしら」
彼女がエレナに向かって手を伸ばす。
ほどけかけの髪のリボンを、そっと引き抜いた。
「髪を編むのは得意じゃないの。
……あぁ、そうだわ。
手、出して」
彼女のゆっくりとした話し声。
エレナはその青い瞳を見つめながら、右手を差し出した。
女性がその手首にリボンを巻き付けて飾る。
その手に自分の手を添えて持ち上げて見せ、彼女が笑った。
「ほら。可愛くなった」
エレナはその瞳を見つめた。
ただ、吸い寄せられるように。
水のようなその青い瞳を。
湖の瞳の彼女は視線を落とすと、手首に結ばれたリボンの結び目に、短くキスを落とした。
エレナは思わず目を見開く。
顔を上げた彼女と、再び視線が絡んだ。
掴まれた手首から、熱がほどける。
彼女の指が、エレナの手首から離れていった。
女性はにこりと笑い、踵を返す。
エレナは声をかけることも、追いかけることもできず、去っていく彼女の背を見送った。
その足元で、湖の水がチャプン――と小さく音を立てたような気がした。
男はにこやかに笑いながら、エレナの背に触れた。
由緒正しき貴族邸の庭園。
エレナの婚約者――ローレンスの屋敷にて催された同年代の貴族子女を集めたガーデンパーティー。
会も終わり、ローレンスとエレナは並んで笑顔を作り、客たちを見送る。
「ローレンス。いつも通りセンスが良い会だった。また話そう。じゃあな」
「あぁ。来てくれてありがとう」
ローレンスは柔らかく目を細め、友人である青年に手を差し出した。彼らが軽く挨拶を交わしていると、別の令嬢がエレナの方へと歩み寄ってくる。
「エレナ様。本日は楽しかったわ」
「……それは……光栄です」
彼女がエレナの手を取り、隣にいるローレンスをちらと見た。
「本当に素敵な婚約者様。
羨ましいわ」
エレナは微笑み、頷いた。
令嬢と、ローレンスの視線が一瞬だけ絡む。
何かを、確かめ合うかのように。
葉擦れの音。
使用人達がガーデンテーブルの上に並べられた食器類を片付ける音。
混ざり、一瞬曖昧になった気がした。
西の空が橙に染まり始めた頃、全ての招待客が去り、二人だけが残される。
エレナは、ずっと腰を抱くようにしていたローレンスの手を見下ろした。
「エレナ」
呼ばれ、わずかに肩が震える。
「ちょっと」
顔を上げる。ローレンスの黒い瞳に、西日が差し込む。
腰から手を離し、男は彼女の腕を掴んだ。引きずるようにして庭園の端にある庭師小屋まで連れて行くと、乱暴にその身を押し込んだ。
土埃が舞う。
明かり取りの横長の窓から金の光が差し込んでいるが、それはエレナの足元を照らしはせず、壁際の棚の一部を、ぼんやりと染めるだけ。
ローレンスは後ろ手で扉を閉め、エレナを見据える。
先程まで穏やかな紳士のように振る舞っていた男。
だが今は、彼は眉を歪め、口を歪めている。ローレンスは、舌打ちをした。
「舐めてんのか、お前」
エレナの髪を髪飾りごと掴むと、床に投げ捨てた。
泥だらけの床。
外れた髪飾りが転がり、壁にぶつかって欠けてしまう。
滑るように身を伏せたエレナは、傷ついた腕をさすりながらゆっくりと身を起こした。
「も……申し訳ありません」
顔を伏せたまま、木床に手をつく。
「“素敵な婚約者”と言われて無言だなんて、無能か?
俺を立てることさえできねぇの?
本当に使えねぇ女」
エレナは震え、言葉を失ったまま床を見つめていた。
ローレンスが彼女の前にしゃがみ込む。
「おい。なんとか言えよ」
男は彼女の顎を掴んだ。
無理やり顔を上げさせる。
視線は、顔からその胸元へ滑り落ち、ローレンスは手を伸ばした。
エレナは慌てて胸元を押さえる。
「悲鳴でもあげてみろよ。なぁ?」
彼女はわずかに顔を背けた。
舌打ち。
「……つまんね」
彼は立ち上がり、小屋を出ていく。
叩きつけられるように扉が閉められた。
大きな音。
エレナは思わず身をすくませた。
そして、震える息を吐き出し、壊れてしまった髪飾りを探した。
手のひらで包むように持つと、額に当てる。
目を強く閉じる。
泣いてしまわないように。
自分の心を、守るように。
エレナは、湖岸を歩いていた。
湿った下草。
踏むたびにブーツの底に泥がまとわりつき、足が重くなる。
視線を湖にやれば、水鳥が湖面を渡っていくところだった。
白樺の向こうには、ブナの深い森。
そのさらに向こうで、夕陽が森に飲み込まれようとしている。
立ち止まり、それを静かに眺めた。
水の音。
ふと、隣に目をやる。
自分と同じように夕陽を眺めている女性が立っていた。
驚いて少しだけ口を開けるが、エレナは俯く。そして小さく息を吐き出すと、彼女に近づいた。
「あの……」
彼女が静かにエレナの方へ顔を向ける。
湖を溶かし込んだような青い瞳。
金の髪は、緩やかに夕陽を弾いている。
湖の彼女は、ふわりと笑んだ。
「……髪、少しだけ整えてあげる。
背を向けてくれる?」
湖の小さな波の音に解けてしまいそうなほど、ゆったりと静かな声だった。エレナは黙って女性に背を向ける。
「手櫛で……ごめんなさいね」
彼女の細い指が、エレナの金の髪をゆっくりとすく。
上から下へと指先が落ちていくたび、エレナの心の奥で、何かがぽつりと溢れていくような気がした。
「私、エレナっていうの……。
あなたは?」
「あなたの呼びたいように呼んで」
エレナが少しだけ振り向く。
にわかに、湖の彼女の輪郭が滲んだ気がした。
「できた。
こっちを向いて」
体ごと、彼女へ向ける。
「瞳が綺麗だから“アオ”って呼ぶわ」
「“アオ”。素敵ね」
湖の瞳がエレナの翡翠の瞳を覗きこんだ。
「ほら。少し整えるだけで、とても可愛くなった」
アオはエレナの耳横から髪を一房すくいあげると、そっと口づける。
エレナのまつげが、知らずにひくりと震えた。
「……何か、つらいことがあったの?」
優しい声。
どこかで、水鳥の鳴き声がする。
「……私」
「……エレナ。
可愛い人。あなたは、大切にされるべき人よ」
風が吹き、さわりと白樺の葉が揺れた。
湖面も波を立て、小さく音を立てている。
水の匂いが、ふと、強くなった気がした。
チャプ……と、すぐそばで水が鳴る。
視界が、滲んだ。
アオの指先がエレナの頬に触れる。
気づけば、頬を伝ったものが、アオの指先を濡らしていた。
夕陽が森に飲み込まれようとしている。
水鳥が飛び立ち、湖面に映し出された赤い陽を、じわりと揺らした。
何かを溶かして、壊してしまうかのように。
ローレンスの邸宅の老執事は、ほとんど表情を変えはしなかったが、どこか気まずげに視線をそらした。
「エレナお嬢様。
日を改められてはいかがでしょうか……。
本日は坊ちゃまは――」
「でも……今日この時間に来るようにと……」
玄関ホールで執事に迎えられたエレナは、眉を寄せる。
「約束を違えてしまったら……また……」
エレナの視線が下がるのを見て、執事は頭を下げた。踵を返した執事の後について、エレナも歩き出す。
歴史のある邸宅。
石床は踏むたび、足音を遠くまで響かせた。
「奥様のお気に入りのソファなのに……」
「本当に坊ちゃまは……」
向こうから来る二人組の女性使用人は、エレナに気づくと口をつぐみ、顔をそらす。エレナに向かって小さく頭を下げ、パタパタと早足で去っていった。
エレナは彼女たちの背を振り返って見送るが、やがて、足元に視線を落とす。
サロンの扉にたどり着く。
執事がノックをしようと手を持ち上げるが、その動きが止まった。
中から、声が漏れ聞こえてくる。
男女の艶のある声。
エレナは戸惑い、執事を見た。彼もまた、エレナを見つめ返す。
「今日はやはり、お帰りになられた方が……」
中の声が止む。
ハッとして扉を見ると、間を置かずにそれが開いた。
向こうにいたのはローレンス。
乱れたシャツ1枚だけ羽織った彼は、片方の口端だけを持ち上げて不敵に笑った。
「ちゃんと来たか」
手首を掴まれ、強く部屋の中へと引かれる。
執事のローレンスを呼ぶ声がするが、それはもう、扉の向こう。
ローレンスが内側から鍵を閉め、執事を閉め出した。
大窓から差し込む白い光。
淡い絹壁の花柄がぼんやりと滲んでいる。
日頃は夫人たちを呼んで茶会が開かれる華やかな部屋だが、今は甘いすえた匂いが籠もっていた。
エレナはソファにいる女性に目を留めると、肩を震わせ、一歩引く。
だが、ローレンスが逃さないようにその肩を抱いた。
「ローレンス様の婚約者様じゃない。
相変わらず、なんだか貧相だこと」
ガーデンパーティーで、ローレンスと目を合わせていた彼女。
乱れたドレス姿のまま、気だるげに髪をかき上げた。
肩に触れられた手に、乱暴なほどに力が込められる。
「ほら。お前も脱げ」
「え」
ソファの女が笑う。
「うっそ。ほんとにぃ?」
「楽しい方がいいだろ」
エレナが目を見開いてローレンスを見ると、彼は愉快げに笑み、ドレスの背のボタンに手を触れた。
「やめてください!」
身を捻って腕から逃れる。
扉に向かって駆け出すが、髪を掴まれ、つんのめったところを、後ろから抱き込まれる。
もう片方の手でスカートをたくし上げられて手を差し込まれそうになり、肘で男の顔を強かに押した。
「痛っ」
一瞬腕が緩んだ隙に、逃げ出す。
扉の鍵を震える手で急いで回し、外へ。
「お嬢様!」
外にいた執事がエレナを抱きかかえるようにして素早く扉を閉めると、向こうからは扉を殴りつけるような大きな音と、女の高い笑い声。
エレナは執事に肩を支えられたまま、玄関ホールへと駆けた。
「……なんと、お詫びをしたらいいのか……」
執事の声が、溢れる。
エレナは何も言えず、ただ足を動かした。
一刻も早く、この邸宅から離れたかった。
鼓動が耳のそばで鳴っている。
手足は、ひどく冷たかった。
自分の浅い呼吸が、いやに耳につく。
湖に大きな波紋が広がった。
エレナは白樺の間を縫うようして、駆けていた。
下草を踏むたび、青臭い匂いが立ちのぼる。
息を切らし、やがて、彼女は湖岸に膝をつく。
草を掴んだ。
爪に泥が入り込み、ドレスさえ泥に塗れようと、そんなことはどうでも良かった。
草をちぎり、投げ捨てる。
そのまま、蹲った。
「……もう、嫌!」
あの男に触れられた手首と脚を掻きむしる。
服の上から触れられた胸下も。
――吐き気がする。
エレナの家からでは断れない婚約。
いつか、この身はあの男に暴かれ、穢される。
「嫌だ……。
絶対に嫌……」
頬を、涙が伝う。
チャプ……――かすかな水の音。
顔を上げて、湖面をみつめた。
ゆったりと、細い葉が流されていく。
エレナは立ち上がった。
こぼれ落ちる涙は拭われることもなく、汚れたドレスは泥を吸い、とても重い。
歩く。
湖へ。
靴を脱ぎ捨て、足先を水につけた。
ひやりと、体温が奪われる。
そのまま、もう一歩。
もう、一歩。
ドレスが水を吸う。
金の髪が、湖水に触れる。
――もう、いいや……
チャプ……チャプ……と、足を動かすたび、水音が肌に纏わりつく。
「待って」
振り返る。
「エレナ……。待って」
水に濡れるのも構わず、彼女が駆け寄ってくる。
湖の瞳。
青く澄んだそれが、まっすぐにエレナの翡翠の瞳を見つめていた。
腰まで水に浸かっているエレナの後ろまでくると、彼女の肩を掴み、自分の方を向かせた。
「アオ……」
「エレナ」
はらはらと落ちるエレナの涙を、アオは指先で拭った。
二人の服が湖面の波に揺らされ、絡みつく。
「……それでいいの?」
吐息だけのアオの声。
エレナは、頷いた。
「……疲れてしまったの」
視線が絡まる。
「エレナ。
……私に身を委ねて。
そのかわり、あなたを私が愛してあげる」
エレナが小さく首を傾げると、アオが両手で彼女の頬を挟み、顔を寄せた。
呼吸が触れる。
熱が、頬を撫でる。
唇がそっと重なった。
柔らかな体温。
ゆっくりと離れていく熱を、エレナは目で追った。
「……こうやって、愛してあげる」
アオがそっと、濡れたエレナの髪をすく。
「アオ……。
あなたは、誰なの?」
「女がいい?
男がいい?
あなたの望む姿で、あなたを包んであげられる」
互いの声さえ交わって、どちらが話しているのかも、分からなくなりそうだった。
エレナがアオに顔を寄せると、アオが応えるようにもう一度口づけを落とす。
「……あなたがいい」
「わかった」
アオの唇が、エレナの首筋に滑る。
「アオは……女の子なの?」
「そうかもね」
アオの手が、そっとエレナのドレスに触れる。
「本当に?」
「違うかも」
それから、肌に触れる。
「じゃあ……男の子なの?」
「そうではなかった」
白い肌。
アオが、甘く噛む。
「でも……今はもう――」
短い呼吸。
アオが、エレナの腰を強く抱き寄せる。
「男の子の方が……エレナを――深く包める」
青い瞳。
エレナはそれに吸い込まれるようにして、見つめた。
「……僕でいい?」
「あなたがいい」
「そう。
良かった」
呼吸が重なる。
水の跳ねる、小さな音。
水鳥が、飛び立つ。
それから幾日かして、ローレンスは死んだという。
馬車ごと崖下へ落ち、川に呑まれたのだと、口づてに伝わる。
だが、それについて詳細を語るものは、不思議と現れなかった。
「エレナ」
呼ばれて、振り返る。
金の髪が昼の淡い光を滑らせていた。
彼女の友人は微笑むと、その隣に並んだ。
「なんか、あなた最近明るくなったわね」
エレナは小さく首を傾げた。
どこか、以前より柔らかい仕草。
「……そうかしら?」
「今度、王都で話題のカフェに行かない?」
「いいわね。楽しみ」
エレナは、その瞳を細めて笑った。
――湖を溶かし込んだような、澄んだ青い瞳で。
湖。
水鳥が泳ぎ、その湖面に波紋が広がる。
浮かんだ細長い茶色の葉はゆったりと湖岸へ流されていった。
湖水がじわりと滲む。
それは、翡翠の色。
風が吹き、白樺の葉が揺らされる。
チャプン――と、小さく音が立った。
まるで、誰かが笑ったかのように。




