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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

暗殺者の恋、英雄の誓い

作者: 爱丽丝
掲載日:2026/03/18

夜は、音を殺していた。石畳の路地に落ちる月光だけが、静かに世界を照らしている。その影の中を、ひとりの少女が滑るように進んでいた。名を、リゼ。王都でも名の知れた暗殺者。感情を持たない“刃”として育てられた存在。

その夜の標的は――若き貴族の男。

「……ここね」

彼女は屋敷の外壁を音もなくよじ登り、窓をわずかに開けた。中には、柔らかな灯りと――そして、彼がいた。

ベッドに横たわる男。長い睫毛、整った横顔。どこか無防備で、穏やかな寝顔。

(……何、この感じ)

胸が、わずかにざわつく。今まで何人も殺してきた。

顔なんて、覚えたこともない。

なのに

(……綺麗)

気づけば、そう思っていた。リゼは一瞬だけ目を伏せ、首を振る。任務に感情は不要。ナイフを静かに抜き、彼の枕元へと忍び寄る。

(眠っている今なら、一瞬で終わる)

刃を振り下ろそうとした、その時

「……誰だ」

低く、しかしはっきりとした声。男の瞳が、ゆっくりと開いた。月明かりを映したその瞳が、まっすぐにリゼを捉える。

「……っ」

予想外の事態に、わずかに息が止まる。完全に眠っていたはず。気配も消していた。それなのに。男は体を起こし、彼女のナイフを一瞥したあとなぜか、微かに笑った。

「暗殺者にしては……ずいぶん迷ってる顔だな」

その言葉に、リゼの心臓が強く打つ。

(見抜かれた……?)

初めてだった。“殺す側”が、心を読まれたような感覚は。

ナイフを構えたまま、動けない。そんな彼女に、男は静かに言う。

「来いよ。やるなら、ちゃんとやれ」

挑発でも、恐怖でもない。まるで彼女を試すような声だった。男はゆっくりと立ち上がった。無防備なはずの姿勢。

それなのに隙が、ない。

(……おかしい)

リゼの背筋に、冷たいものが走る。今まで何百という標的を見てきた。強い者、弱い者、油断している者。だが、目の前の男は違う。“何もしていないのに、近づけない”。

「来ないのか?」

男は一歩、踏み出した。

その瞬間

(速いっ)

視界から消えた。次に気づいた時には、リゼの手首が掴まれていた。

「……っ!」

ナイフが、カランと音を立てて床に落ちる。ありえない。気配も読めなかった。反応すら、間に合わなかった。

「これで終わりか?」

男の声は、静かだった。嘲りでも、怒りでもない。

ただ事実を述べているだけの声音。リゼは歯を食いしばる。

「……離せ」

もう片方の手で隠し刃を抜こうとした瞬間

「遅い」

その腕も、あっさりと封じられる。壁に押し付けられ、完全に動きを奪われた。

(……こんなの、初めて)

圧倒的だった。そこらの暗殺者どころか、精鋭でも勝てない。そう直感でわかるほどの差。なのにこんな状況なのに、リゼの胸は別の意味で高鳴っていた。近い距離。

月明かりに照らされた彼の顔。そして、まっすぐに自分を見る瞳。

(……なんで)

恐怖じゃない。

「お前……本当に暗殺者か?」

男はわずかに眉をひそめる。

「殺す気が、まるで感じられない」

その言葉に、リゼの心臓が跳ねた。図星だった。

(違う……私は……)

殺すために来た。それが全てのはずなのに。なのに、最初に思ったのは

(……綺麗、なんて)

「……失敗ね」

小さく呟く。

「殺せないなら、終わりだ」

次の瞬間、リゼは足元の煙玉を叩きつけた。白い煙が一気に広がる。視界が閉ざされる中、彼女は窓へと駆けただが。

「逃がすと思うか?」

すぐ背後から、声。煙の中なのに、迷いがない。

腕を掴まれ、再び引き戻される。

「……っ、なんで見えるのよ」

思わず漏れた声。

男は一瞬、間を置いてから

「見えてない。ただ、お前の位置がわかるだけだ」

その答えに、リゼは息を呑む。

(化け物……)

そう理解した瞬間。同時に

(……でも)

胸の奥が、熱くなる。逃げたいはずなのに。離れたいはずなのに。なぜか、もっと知りたいと思ってしまう。目の前の、この男のことを。煙が晴れた時には、すべてが終わっていた。リゼの両腕は背後で拘束され、ベッドの柱に縛り付けられている。逃げ場は、どこにもない。

「……くっ」

歯を食いしばる。こんな形で捕まるなんてありえない失態。目の前には、あの男。先ほどまで寝ていたとは思えないほど落ち着いた様子で、椅子に腰掛けていた。

「さて」

男はゆっくりと足を組む。

「話を聞こうか、暗殺者」

「……話すことなんてない」

即答だった。任務のためなら死ぬ。それがリゼに叩き込まれたすべて。だが男は、ふっと小さく笑う。

「強情だな。でも――」

立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。

「さっきの動き。殺し屋としては一流だ」

リゼの目がわずかに揺れる。

「だが、“殺す覚悟”だけが抜けてる」

核心を突く一言。胸の奥がざわつく。

「……黙れ」

「図星か?」

「黙れって言ってるでしょ!」

思わず声を荒げる。その反応に、男は確信したように目を細めた。

「やっぱりな」

そして不意に、彼はリゼの顎に手をかけ、顔を上げさせた。

「っ……!」

至近距離。逃げられない。

「なあ」

低く、静かな声。

「どうして迷った?」

その問いに、リゼは一瞬だけ言葉を失う。言えるはずがない。

(……一目惚れしたなんて)

暗殺者として、あまりにも致命的な理由。視線を逸らそうとするが、男の手がそれを許さない。

「言え」

「……知らない」

絞り出すような声。嘘ではない。自分でも理解できていない。なぜ殺せなかったのか。なぜ、この男を前にすると心が乱れるのか。しばらくの沈黙。やがて男は、小さく息を吐いた。

「……まあいい」

手を離す。そして、あっさりと告げた。

「お前は殺さない」

「……は?」

予想外の言葉に、思わず間抜けな声が出る。

「暗殺者を見逃すなんて……正気?」

「普通ならな」

男は肩をすくめる。

「だが、お前は違う」

「どこがよ」

「殺せなかった」

それだけで十分だ、と言わんばかりだった。

「……意味わかんない」

リゼは睨みつける。

「じゃあ、どうするつもり?」

問いかけると、男は少しだけ考える素振りを見せてからとんでもないことを言った。

「しばらく、ここにいろ」

「……は?」

「監視だ。ついでに――」

わずかに口元を緩める。

「お前が何者か、見極める」

その言葉に、リゼの心臓が大きく跳ねた。

(……一緒に、いる?)

敵のはずの男と。同じ場所で。しばらく。

「拒否権は?」

「ない」

即答だった。

「逃げれば?」

「捕まえる」

「……」

「何度でも」

淡々としているのに、妙に説得力がある。リゼは視線を逸らし、小さく舌打ちした。

(最悪……)

そう思うのに。なぜか胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴っていた。翌朝。目を覚ました時、リゼはまだ縛られていた。

「……最悪」

ぼそりと呟く。逃げる隙は一晩中なかった。あの男、眠っていたはずなのに一度も気配を緩めなかった。

(化け物か何かなの……?)

そう考えていると、扉が開く音。

「起きたか」

男が、何事もなかったかのように入ってくる。手には食事の乗ったトレイ。

「……毒入り?」

「入ってたらどうする」

「食べない」

「じゃあ餓死だな」

「……」

淡々としすぎていて、逆に怖い。

男はリゼの前にしゃがみ、あっさりと言う。

「安心しろ。毒は入れてない」

「信用できると思う?」

「できないなら食うな」

会話になっているようで、なっていない。リゼは少しだけ睨んだあと、ため息をつく。

「……ほどいて」

「暴れないならな」

「暴れるに決まってるでしょ」

「じゃあ却下だ」

「……!」

完全に主導権を握られている。数秒の沈黙のあと、リゼは観念したように言った。

「……暴れない」

「本当か?」

「たぶん」

「曖昧だな」

それでも男は、興味深そうに彼女を見つめたあと――拘束を解いた。

「ほら」

自由になった瞬間。リゼは反射的に距離を取る。だが

(無理)

昨日の一瞬で理解している。

勝てない。

「……名前は?」

不意に、男が聞いてきた。

「は?」

「ずっと“暗殺者”って呼ぶのも不便だ」

リゼは一瞬迷う。本名を言うべきじゃない。それは常識。

なのに

「……リゼ」

気づけば、口にしていた。男はわずかに目を細める。

「リゼ、か」

そして、自分の胸に手を当てる。

「俺は――カイルだ」

(カイル……)

その名前を、心の中で繰り返した瞬間。なぜか、少しだけ距離が縮まった気がした。

数日後。

奇妙な同居生活は、静かに続いていた。リゼは屋敷の一室に閉じ込められているが、完全な牢ではない。食事も出るし、最低限の自由もある。

ただし

「逃げようとするなよ」

カイルが必ずどこかで見ている。気配を消しても、無意味。何度か試したが、すべて捕まった。

「……ほんと何なのよ、あいつ」

窓辺に座りながら、ぼそりと呟く。その時だった。

廊下の向こうから、使用人たちの声が聞こえてくる。

「本当にあの方が帰ってきたなんて……」

「ああ、“英雄様”が直々に王都に戻られるなんてな」

「しかも、あの戦争を一人で終わらせたって話だろ?」

「“魔王殺し”の――」

そこで、声が小さくなる。だが、リゼの耳は聞き逃さなかった。

(……魔王殺し?)

胸の奥がざわつく。まさか、と思いながらも嫌な予感が、確信に変わっていく。その夜。リゼは食事を持ってきたカイルを睨みつけた。

「……あんた、何者?」

「急だな」

「とぼけないで」

立ち上がり、まっすぐに見据える。

「“魔王殺し”って何?」

一瞬だけ、空気が変わった。カイルの動きが止まる。

沈黙。やがて彼は、わずかに息を吐いた。

「……聞いたのか」

「答えて」

逃がさない。そういう目だった。しばらくしてカイルは静かに言う。

「大した話じゃない」

「嘘」

即答だった。

「そこらの暗殺者なんかじゃ、あんたには勝てない」

リゼの声は鋭い。

「それにあの動き。人間じゃないレベルよ」

カイルは苦笑した。

「言うな」

そして

「……まあ、間違いじゃない」

あっさり認めた。

「俺は元々、王国の討伐隊にいた」

「やっぱり」

「で、まあ……色々あってな」

少しだけ目を伏せる。

「魔王を殺した」

その一言は、あまりにも軽かった。だが、その重さは計り知れない。

(……本物だ)

リゼの背筋に震えが走る。国一つを救った存在。伝説レベルの英雄。そんな男を、自分は

(殺そうとした……?)

現実感が追いつかない。カイルはそんな彼女を見て、少しだけ意地悪く笑った。

「どうする?」

「……何が」

「そんな相手に、一目惚れした気分は」

「――っ!?」

心臓が止まりそうになる。

「な、なんでそれを……!」

「顔に書いてある」

「書いてない!!」

即否定。だが、耳が熱い。完全にバレている。カイルは楽しそうに肩をすくめる。

「安心しろ」

「何がよ!」

「悪い気はしない」

その一言でリゼの思考が、一瞬止まった。

(……は?)

顔が、一気に赤くなる。

「な、なにそれ……!」

「そのままの意味だ」

あまりにも自然に言うから、余計に混乱する。

「……意味わかんない」

視線を逸らすリゼ。だが胸の鼓動は、さっきからずっと収まらない。敵のはずなのに。危険なはずなのに。

「……ほんと、最悪」

小さく呟く。なのにその顔はほんの少しだけ、緩んでいた。

「……なんで私がこれやってるのよ」

リゼはエプロン姿で、包丁を握っていた。目の前には、ぐちゃぐちゃになりかけた野菜。

「監視対象だからな」

後ろから、当然のようにカイルの声。

「監視って、料理させること!?」

「毒を盛るかどうかの確認だ」

「今ここでやる意味ある!?」

振り返って睨みつける。だがカイルは平然としていた。

「それに」

少しだけ、口元を緩める。

「お前、意外と向いてそうだ」

「……は?」

一瞬、思考が止まる。

「手元が器用だ。刃物の扱いもいい」

「それは暗殺者だからでしょ……」

「同じだろ」

さらっと言う。

「切るか、刻むかの違いだ」

「全然違う!!」

思わず声を荒げる。

だが

(……褒められた?)

胸の奥が、少しだけくすぐったい。

「ほら、火が強い」

「え、ちょっ――」

次の瞬間。

ジュッ、と音を立ててフライパンが焦げる。

「ああああ!!」

「落ち着け」

カイルが後ろから手を伸ばし、火加減を調整する。

そのまま

「こうだ」

リゼの手の上に、自分の手を重ねた。

「っ!?」

距離が、一気に近くなる。背中越しに感じる体温。

耳元で聞こえる低い声。

(……近い、近い近い!!)

心臓がうるさい。

「わ、わかってるから離れて!」

「暴れるな、危ないだろ」

「それはあんたのせいでしょ!!」

だがカイルは気にした様子もなく、淡々と続ける。

「ほら、こうやって――」

完全に“手取り足取り”状態。


(なにこれ……拷問……?)

顔が熱い。逃げたいのに、逃げられない。やがて、なんとか料理が完成する。

「……できた」

ぐったりと呟くリゼ。

「まあまあだな」

カイルは一口食べて、頷く。

「初めてにしては上出来だ」

「……ほんとに?」

「嘘ついてどうする」

その言葉に、また胸がざわつく。

(……なんなのよ、こいつ)

素直すぎる。だから余計に、調子が狂う。

その夜。

リゼは自室のベッドに転がりながら、天井を見ていた。

「……ありえない」

今日の出来事を思い出す。距離の近さ。会話のやりとり。

そして

(……楽しかった、かも)

すぐに首を振る。

「いやいやいや、ないでしょ」

相手はターゲット。しかも英雄。自分は暗殺者。

普通なら、ありえない関係。

なのにコンコン、と扉が鳴る。

「リゼ」

カイルの声。

「……何」

「入るぞ」

「ちょっ――」

返事も待たずに入ってくる。

「ノックの意味!!」

「しただろ」

「そういう問題じゃない!」

ベッドの上で起き上がるリゼ。カイルはそんな彼女を見て、少しだけ首をかしげた。

「顔、赤いぞ」

「は!?」

反射的に顔を隠す。

「な、なんでもない!」

「熱か?」

そう言って、自然に額に手を当ててくる。

「っ……!!」

距離、ゼロ。

(やめてほんとに無理!!)

心臓が爆発しそうになる。

「熱はないな」

「当たり前でしょ!」

手を払いのける。だがカイルは、どこか納得していない顔。

「じゃあなんで赤い」

「知らない!!」

完全に思考停止。カイルは少し考えてからぽつりと言った。

「……俺のせいか?」

「っ!!!」

今度こそ固まる。

「な、なにそれ……」

「さあな」

自分で言っておいて、どこか楽しそうに目を細める。

「でも、そうなら――」

一歩、近づく。逃げ場は、壁。

「悪くない」

低い声。至近距離。

「やめて……」

小さく呟くリゼ。だがその声には、いつもの強さがない。

カイルはしばらく彼女を見つめてふっと、離れた。

「今日はもう寝ろ」

「……は?」

拍子抜けする。

「顔真っ赤で戦えないだろ」

「戦わないわよ!」

思わずツッコミ。だがカイルは軽く笑うだけ。

「おやすみ、リゼ」

そう言って、部屋を出ていく。扉が閉まる。静寂。

数秒後

「……なにあれ」

顔を両手で覆う。

(ずるい……)

振り回されているのは自分だけ。なのに

「……もっと、近くにいたいとか」

ぽつりと漏れた本音に、自分で驚く。すぐに枕に顔を埋めた。

「……ほんと、最悪」

でもその声はどこか少しだけ、甘かった。その日は、やけに静かだった。カイルが朝から屋敷を空けている。理由は聞いていないし、聞くつもりもなかった。

「……別に、いなくても関係ないし」

リゼは窓際に座りながら、小さく呟く。いつもなら、どこかにいる気配。何気ない会話。あの、距離の近さ。

(……静かすぎる)

落ち着かない。本を開いても、内容が頭に入らない。

ナイフの手入れをしても、すぐにやめてしまう。

「……何やってんの、私」

イライラして立ち上がる。

その時外から、ざわめきが聞こえた。

「討伐隊が戻ったぞ!」

「“英雄様”が怪我を……!」

その言葉に、心臓が跳ねた。

(……え)

気づいた時には、もう走り出していた。

中庭。人が集まっている。その中心に

「カイル!」

思わず、名前を呼んでいた。自分でも驚くほどの声で。

カイルは、そこにいた。血のついた服。肩口に深い傷。

それでも立っている。

「……リゼ?」

少し驚いたように目を細める。その瞬間。胸の奥が、強く締めつけられた。

(……なに、これ)

痛い。苦しい。怖い。

「なんで……怪我してるのよ」

気づけば、彼の前に立っていた。

「大したことない」

「大したことあるでしょ!」

思わず声が強くなる。周囲の視線なんて、どうでもよかった。

「ちゃんと避けなさいよ……」

震える声。怒っているはずなのに。目の奥が、熱い。

カイルは一瞬、黙ったあとふっと、やわらかく笑った。

「心配してくれてるのか」

「してない!」

即答。でも、声が揺れている。

「ただ……任務の対象が勝手に死んだら困るだけ」

苦しい言い訳。自分でもわかっている。そんな理由じゃないことくらい。カイルは何も言わず、ただじっとリゼを見つめた。その視線が逃げ場をなくす。

「……なんでそんな顔するのよ」

「どんな顔だ」

「……優しい顔」

言ってしまってから、はっとする。沈黙。逃げたいのに、動けない。やがてカイルは、静かに言った。

「リゼ」

名前を呼ばれる。それだけで、心臓が大きく鳴る。

「お前、顔に出すぎだ」

「……は?」

次の言葉で、すべてが崩れた。

「俺が怪我した時、今にも泣きそうだったぞ」

「――っ」

息が止まる。否定しようとして――できない。できるはずがない。

(だって……)

本当に、怖かった。失うかもしれないって、思った瞬間。頭が真っ白になった。

「……違う」

かすれた声。でも、続かない。言葉が、出てこない。

代わりに出てきたのは

「……やだ」

自分でも驚くくらい、小さな声。

「……死なないで」

空気が、止まる。周囲のざわめきが遠くなる。カイルの目が、わずかに見開かれる。

(あ……)

気づいた。今、自分が何を言ったのか。そして何を思っているのか。逃げ場なんて、もうなかった。

「……っ」

リゼは視線を落とし、拳を握りしめる。心臓がうるさい。隠しきれない。

「……なんで」

震える声で、呟く。

「なんで、こんな……」

暗殺者なのに。人を殺す側なのに。たった一人のことで、こんなに揺れるなんて。

「……好きに、なってるじゃない」

ぽつりと、零れた本音。その瞬間全部、理解した。最初に見た時から。殺せなかった理由も。ずっと感じていた違和感も。全部

「……最悪」

顔を上げられない。でも、もう誤魔化せない。

リゼは、完全に恋に落ちていた。カイルは、しばらく黙っていた。そしてゆっくりとリゼの頭に、手を乗せる。

「……そうか」

それだけだった。派手な言葉も、驚きもない。ただ、静かな声。でも

「……なら、もう無理だな」

「……何が」

恐る恐る顔を上げる。カイルは、少しだけ困ったように笑っていた。

「お前、もう俺を殺せないだろ」

「……」

図星すぎて、何も言えない。

「じゃあ――」

一歩、近づく。今度は逃げない。

「そばにいろ」

まっすぐな言葉。

「逃がさない」

昨日までと同じ言葉のはずなのに。意味が、全然違う。

「……命令?」

小さく聞く。カイルは首を振った。

「違う」

一瞬の間。そして

「俺の意思だ」

その言葉に、胸が強く打たれる。リゼは少しだけ迷ってから小さく、息を吐いた。

「……ほんと、ずるい」

そう呟いて。

「……しばらく、いてあげる」

そっぽを向いたまま、そう言った。でもその耳は、真っ赤だった。夜。屋敷は静まり返っていた。リゼは、自室のベッドに腰掛けていたが――眠れない。

(……嫌な予感がする)

胸の奥が、ざわつく。理由なんてない。でも、あの感覚は外れたことがない。暗殺者として生きてきた“勘”。

「……カイル?」

小さく呟き、部屋を出る。廊下は暗い。そのまま歩いていくと

「……やっぱり」

中庭に、人影。カイルだった。外套を羽織り、剣を手にしている。明らかに“出る準備”。

「どこ行くの」

背後から声をかける。カイルは、振り返らない。

「……起きてたか」

「質問に答えて」

強い声。沈黙。やがて、カイルは短く言った。

「終わらせに行く」

「……何を」

「お前のいた組織だ」

その一言で、空気が凍る。リゼの瞳が、大きく揺れた。

「……なんで」

絞り出すような声。

「もう放っておけばいいでしょ」

「無理だな」

即答だった。

「お前を取り返しに来る」

「……っ」

図星。あの組織が“失敗した暗殺者”を放置するはずがない。

「だから先に潰す」

カイルの声は、静かで――揺るがない。リゼは拳を握りしめる。

「その怪我で?」

「問題ない」

「あるでしょ!!」

思わず叫ぶ。あの時の傷。決して軽くない。

「死ぬ気!?」

「死なない」

「保証どこにあんのよ!」

感情が溢れる。止められない。

「……なんでそこまでするの」

震える声。

「私のため?」

沈黙。数秒後

「……ああ」

短い肯定。その一言が、胸に突き刺さる。

(……やめてよ)

そんなの、ずるい。

「……私、頼んでない」

「頼まれてないな」

「じゃあ行かないでよ!」

一歩、近づく。

「勝手に決めないで!」

カイルはようやく振り返った。その目は、まっすぐだった。

「決める」

「なんで!」

「守るって言っただろ」

あまりにも当然のように。

「お前は俺のそばにいる」

「……っ」

言葉が詰まる。嬉しいのに。怖い。

「だから、その原因は消す」

冷静で、残酷な論理。リゼは首を振る。

「違う……そうじゃない」

一歩、また一歩と近づく。

「そんなの……」

声が震える。

「そんなやり方で守られても、嬉しくない」

カイルの表情が、わずかに変わる。

「……何が言いたい」

リゼは顔を上げる。涙が、今にもこぼれそうだった。

「死んだら意味ないでしょ!!」

夜に響く声。

「守るって言って、いなくなるとか……意味わかんない!」

呼吸が荒くなる。抑えられない。

「……やだ」

ぽつりと、こぼれる。

「もう、あんなの嫌……」

怪我して帰ってきた時の姿。血の匂い。倒れそうなのに立っていた姿。全部、頭から離れない。

「……カイルがいなくなるの、やだ」

完全な本音だった。沈黙。風が、二人の間を通り抜ける。

カイルは、しばらく何も言わなかった。やがて

「……それでも行く」

その一言。リゼの目が見開かれる。

「なんで……」

「止めても、来る」

「……」

「次はもっと多い」

現実的な話。感情じゃなく、事実。

「その時、お前を守りきれる保証がない」

だから今、潰す。合理的すぎる判断。リゼは唇を噛む。

「……じゃあ」

震える声で言う。

「一人で行くな」

カイルの目が細くなる。

「何?」

「私も行く」

「却下」

即答。

「怪我人が言うな!」

「お前を連れて行く方が危険だ」

「私の組織よ!」

強く言い返す。

「構造も、配置も、全部わかる!」

カイルは黙る。リゼは一歩、踏み込んだ。

「一人で突っ込むから怪我したんでしょ」

「……」

図星。

「次も同じことする気?」

静かな問い。カイルは答えない。リゼは、ゆっくりと手を伸ばした。彼の服を、掴む。

「……お願い」

小さな声。でも、はっきりとした意思。

「一人で行かないで」

視線が、絡む。

「一緒に行くなら……許す」

「許す、か」

カイルは小さく息を吐く。しばらく考えたあと

「……条件がある」

「なに」

「無茶はするな」

「そっちも」

「……」

「怪我したら許さない」

少しの沈黙のあと。カイルは、わずかに笑った。

「お前に言われるとはな」

そして

「いいだろう」

その言葉に、リゼは少しだけ息を吐いた。安心と、不安が混ざる。

「……絶対、生きて帰る」

自分にも言い聞かせるように呟く。カイルはそれを聞いて

「当たり前だ」

と、静かに答えた。夜の森。静寂は、すでに壊れていた。剣戟の音。叫び声。血の匂い。リゼとカイルは、組織の拠点へと踏み込んでいた。

「右、三人!」

「見えてる」

カイルが一瞬で距離を詰める。次の瞬間、敵が崩れ落ちる。

(……やっぱり強い)

怪我をしているはずなのに。

それでも圧倒的。

だから

(私がやらないと)

リゼは歯を食いしばる。自分の組織。自分の過去。

これは、本来自分が終わらせるべきもの。

「リゼ、前出すぎだ」

「大丈夫!」

言い切る。本当は、少し無理をしている。でも

(カイルにこれ以上、無理させたくない)

その一心だった。次の瞬間。

「――裏切り者」

聞き慣れた声。リゼの動きが止まる。振り返ると、そこにいたのはかつての仲間。同じ組織で育った暗殺者。

「……生きてたんだ」

「そっちこそ」

冷たい視線。

「ターゲットに情でも移った?」

「……」

否定できない。その沈黙が、答えだった。

「……終わってるね」

相手は、ゆっくりと構える。

「なら、ここで処分する」

空気が張り詰める。リゼもナイフを握る。

(やるしかない)

迷いは、もうない。はずだった。

戦いが始まる。速い。お互いに手の内を知っている。

だからこそ、一瞬の判断が命取り。

(……っ、強い)

互角、いや少し押されている。焦りが生まれる。

(私が勝たないと)

その時だった。背後に、もう一人の気配。

「――終わりだ」

死角。完全な不意打ち。

(避けられない)

その瞬間

「リゼ!!」

視界に、割り込む影。カイルだった。

――ズンッ

鈍い音。時間が、止まる。

「……え」

目の前で。カイルの身体が、大きく揺れた。胸元に、深く突き刺さった刃。

「……なんで」

声が出ない。

「カイル!!」

思考より先に、叫んでいた。カイルはそのまま、敵を蹴り飛ばす。だが動きが鈍い。明らかに、致命傷。

「……無事か」

かすれた声。

そんなことを聞いてくる。

「無事じゃないのあんたでしょ!!」

涙が溢れる。止まらない。

「なんで……なんで来たのよ!」

「決まってるだろ……」

カイルは、わずかに笑う。

「守るって言った」

その言葉が、胸を引き裂く。

(また……)

また、自分のせいで。

「……ごめん」

震える声。

「私が、無理したから……」

カイルは首を振る。

「違う」

「違わない!」

叫ぶ。

「私がちゃんとやれてれば……!」

「それでも来る」

静かな声。

「お前が危ないなら、何度でも」

あまりにも真っ直ぐで。あまりにも、重い。リゼは唇を噛みしめる。

「……っ」

涙で視界が滲む。

でも――

その奥で、何かが変わった。

(……違う)

守られてばかりじゃ、終われない。

「……下がって」

低く呟く。

カイルが目を細める。

「リゼ」

「今度は、私が守る」

はっきりとした声。ナイフを握る手は、もう震えていない。

「絶対に、生きて帰る」

カイルも、自分も。両方。そのためにリゼは、一歩踏み出した。その目にはもう、迷いはなかった。森の闇の中、リゼの呼吸は乱れていた。カイルの重傷あの姿が、胸を締めつける。

(……もう、守られてばかりじゃだめだ)

心の奥で、何かが弾けた。暗殺者として、そして一人の人間としての“本能”が目覚める。敵が襲いかかる瞬間、リゼは目を閉じずに睨み返す。刃の動きが、一瞬で変わった無駄がなく、正確で、致命的。

「――っ!」

敵は、次々とリゼの前に崩れ落ちる。“組織最強”と言われた暗殺者たちも、彼女の動きに翻弄される。

(……やれる……)

力が、みなぎる。怒りでも恐怖でもない。守るべきものを思うだけで、体が勝手に動く。カイルは、少し離れた場所で動けずにいた。目の前で覚醒したリゼを見て、少し微笑む。

「……お前なら、やれる」

リゼの刃が最後の敵を斬り伏せた瞬間、森に静寂が戻る。

息を切らしながら、立ち尽くすリゼの肩を、カイルがそっと支えた。

「……無事か」

「……ええ、あんたのせいで無茶はしたけど」

リゼの顔は、笑いながらも少し涙で濡れていた。

「……生きて、帰ってきてくれてよかった」

カイルはその言葉に、真剣な目を向ける。

「リゼ……俺も、お前が無事でよかった」

森の静寂の中、二人は立ち尽くす。星空がきらめき、夜風が優しく吹き抜ける。

「……あのね、カイル」

リゼが、震える声で口を開く。

「……私……」

深呼吸。

「……好き、よ。ずっと……」

一気に吐き出す。暗殺者として生きてきた彼女が、初めて自分の心を認める瞬間。カイルは少し驚いた後、微笑む。

「……俺もだ」

静かに、でも力強く言う。

「リゼがいなかったら、俺はもうここにいない」

「……!」

その言葉に、リゼの頬が赤く染まる。

「だから……これからは、守り合おう」

「……ああ」

カイルは手を差し伸べ、リゼの手を取る。互いの手が重なり合う。

「もう、無理はしない」

「うん」

小さく頷く二人。互いに見つめ合い、自然に笑みがこぼれる。森を抜けた二人は、王都に戻る。組織は完全に壊滅し、カイルの英雄としての名も、リゼの過去も静かに消え去った。屋敷では、二人の新しい生活が始まる。

朝の光の中で、リゼはカイルと並んで庭の手入れをし、

夜は一緒に食事を作り、笑い合う。

「……やっぱり、二人でいるのが一番落ち着くね」

「そうだな」

肩を寄せ合いながら、静かに夜が過ぎていく。

過去の暗さも、戦いの痛みも、

すべてはここに来るための道だった。

二人の心は、もう迷わない。

お互いの存在が、何よりも大切だから。

月明かりの下、手を取り合い、二人はそっと笑った。


ーー終わり


日常エピソード

朝、屋敷に柔らかい光が差し込む。リゼはベッドの端で「カイル、起きて!」と手を叩き、まだ眠そうな彼を起こす。ふかふかのパンの香りに、半分夢の中のカイルも目を覚まし、「料理までやるなんて、暗殺者っぽくないな」と笑う。頬を赤くするリゼに、朝から小さな笑いが広がる。


キッチンでは、リゼが包丁を握り、カイルが後ろから手を添える。「こうやって――」「っ、近い! 顔が近い!」笑いながら料理を教える彼に、リゼは赤面しながらも確実に上達していく。時折、焦げそうになるスープを二人で混ぜながら、「無駄じゃなかったな、二人分の努力」と笑い合う。


夜はベッドで並んで、カイルが戦記の日誌を読み聞かせる。リゼは目を閉じて声を聞き、静かな安心を感じる。「……心配しなくても大丈夫だ」とカイルが手を握ると、胸が温かくなる。たまに喧嘩もする。「洗濯物畳むの下手すぎ!」とリゼが言えば、「戦場で畳んだことない」とカイルはすぐ反論。でも数分後には手を取り合い、仲直り。


森や庭を散歩しながら手を握る日もある。互いに無言で歩く時間さえ、心地よく、平和で愛おしい。夜、屋上で月を見ながら語り合い、「こうして隣にいるだけで幸せだ」と二人は微笑む。


寝る前は、並んで布団に入り「おやすみ」と囁き合う。朝は手を取り合って起き、料理や掃除を分担して、笑いながら一日が始まる。互いを思いやる小さな気遣いや、ちょっとしたドタバタに、心が温かく満たされる。戦いのない日々でも、二人の間には確かな絆と甘さがある。


リゼとカイルは、静かで穏やかな日常の中で、互いの存在が何よりも大切だと実感する。手を取り合い、笑い合い、時には小さな喧嘩をしても、最後には必ず肩を寄せ合う。月明かりの下、二人はそっと微笑み合い、戦いの傷も過去の痛みも忘れ、ただ一緒にいる幸せを噛みしめる。


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