その未亡人は遺言状を守らない
未亡人。古くは、旦那が死ねば女も死ぬべき、という考えから生れた言葉である。未だ生きています、という意味。しかし今では変化し、旦那に先立たれた妻を差す言葉として使われている。多くの人間は、差別的な意味合いから生れた言葉だと意識して、使っているわけでは無い。
しかし私はまだ生きている、その言葉に後ろめたさを感じていた。どちらかと言えば自殺願望だろうか。もう生きていても仕方ない、そう思える程に、私の旦那様は私にとってかけがえのない存在だった。
そんな旦那様の遺言には、全ての財産を私と、旦那様の兄弟達で分配する事。ただし旦那様の私物の一部は、教会に寄付してほしい。そして……私、アイリンベルに新しい夫を、と書かれていた。
ブチ切れて兄弟達の目の前で遺言状を破り捨てたのが一月前。旦那様の兄弟達が怯える中、その長男、つまりは旦那様の兄君に全ての財産の処遇をお任せした。つまり責任を丸投げしたという事だ。
「旦那様は……私に後を追ってくれとは言ってくれないのね」
黒いドレスを身に纏いながら、貴族街の外れでベンチに腰掛ける。木々の影が風で揺れ、私を慰めるように撫でているよう。
勿論分かっている。旦那様は自分が死んだら後を追って欲しいなんて言う人では無い。天地がひっくり返っても、そんな事は絶対に言わない。だからって、遺言に新しい夫をと書かれているとは思いもしなかった。
私を想っての事だろう、一人寂しく悲しみに暮れないでほしいとの事だろう、それは分かっている。あの旦那様は実力はあるのに自分を過小評価する癖があった。きっと自分以外でも私を幸せに出来る……と思ったに違いない。
マジでふざけんな、とブチ切れて遺言状をビリビリに破いて丸めてゴミ箱に捨ててしまった事は、まあ反省している。弁護人立ち合いの元、修復作業に丸二日かかってしまった事も、私は三日三晩かけて謝った。その償いとして、自分は財産は要らないと突っぱねた。それを受け取ってしまったら、あの遺言を守らなければならないと、思ってしまったからだ。
「……飲んだら絶対に助からない毒物は……何処に売ってるのかしら」
強力な毒がほしい。それを飲んで旦那様の元に行きたい。怒られてもいい。再びあの顔を見る事が出来るのなら、命などいらない。私達は子供にも恵まれなかった。守るべき物は何もない。全てを失った私は、たやすく死を選択出来る。
「失礼、お嬢様」
突然、私の座るベンチへと一人の老人が。中折れ帽子に背広の老人。杖を持ってはいるが、妙に姿勢がいい。
「隣を失礼してもよろしいかな?」
「あ、あぁ、はい、どうぞ」
少しお尻を動かして老人にスペースを譲渡する。老人はいかにも貴族っぽい。しかし、貴族街では見ない顔だ。商人か何かだろうか。
「今日は、いい風が吹いていますな。肌寒くもなく、温くもない。ただ肌を撫でるかのような、優しい風だ」
この老人は詩人か何かだろうか。まあ、気持ちは分からなくもない。気を抜けば眠ってしまいそうな、心地よい風が吹いている。もうすぐ冬だというのに。
「突然声をかけてしまって申し訳ない。何やら思いつめているような雰囲気だったので」
「……まあ、はい」
黒いドレスが目に入らないのだろうか。貴族街の外れとは言え、こんなドレスを着ていたら一発で喪中だと分かる筈だ。思いつめる理由なんて誰にでも分かるだろうに。
しかし老人は当然そんな事は分かっているようで、ベンチに座ると帽子を取り、目を伏せて祈りを捧げるように。
「ご主人が?」
「……はい」
「そうか。私も先日妻に先立たれましてな。ご主人が羨ましい」
この老人には人の心という物はないのだろうか。どうせなら私が先に死にたかった、こんな想いをするくらいなら……ぁっ、そういう事か。
「……私は奥様が羨ましいです」
「残された側は、たまった物ではありませんな」
まったくだ、と何故か頬が緩んでしまう。老人の、どこか和やかな雰囲気に飲まれてしまう。
「こんなお美しいお嬢様を残して去るとは、ご主人も罪深い。おっと、恋引きではありませんぞ。思った事がすぐに口から出てしまう性分ゆえ」
「羨ましい性分です。私は思ったら手が出るタイプで……。先日も主人が残した遺言状を破り捨ててしまいました」
「それはそれは……お互い、困った性分ですな」
完全に雰囲気に飲まれてしまった。私は思い切り吹き出してしまう。肩を揺らして、久しぶりに表情筋が動いた気がする。
「宜しければ、お話を聞かせて貰えませんか。なにゆえ、遺言状を破ってしまったので?」
「……それは」
私は老人へと、遺言状の内容と自分の感情をぶつけるように話してしまった。老人の思ったら口に出る性分が、うつってしまったように。
「成程。私も男ゆえ、ご主人の気持ちは痛い程分かる。いささか……お嬢様の気持ちを蔑ろにしている感は否めませんが」
「えぇ、まったく……私の気持ちも知らないで……あの唐変木……。いえ、故人の事をこんな風に言うのは……」
「ははは、構わないでしょう。今頃ご主人は天国で、くしゃみを連発してるに違いない。もしかしたら、私達の様子を見て、やきもちを焼いているかもしれない」
「……やきませんよ、自分が死ぬと分かった時に、あんな事を書くんですから」
「ちなみにご主人は……病で?」
「ええ、生れつき、体が弱かったのもありますが……」
老人は自分の手を摩る。その手は歪な形をしていた。痣やコブ、豆の痕が痛々しい程に。
「……もしかして、元々兵士だったですか?」
「えぇ、まあ。元々はこの国の軍に所属していました」
「それは……大変な思いをされたでしょう。今この国が平和なのは……貴方方のおかげです」
「とんでもない……と言いたい所ですが、今の言葉を戦友に聞かせてやりたいですな」
戦友……もうすでにその戦友は亡くなっているのだろう。老人の目はどこか泣き出しそうだ。
「私は戦友に命を救われましてな。その戦友は、生き続ける事がお前の罪滅ぼしだと……」
「それは、貴方に生きて欲しかったからでは……」
「ええ、その通りだと思います。しかしそれなら、他に言い方と言う物があるだろうと、心の中で思いながら生きてきました。そいつは自分の気持ちを他人に伝えるのがド下手糞でしてな。死に際、私の事を恨んでいると言われました。しかしあんな安らかな表情で言われても……」
自分の気持ちを他人に伝えるのがド下手糞……。私の主人もそうだ。私に結婚を申し込む口上を述べるのに、数時間かかった。私はその間ずっと、寒空の下で微動だにせず立ち尽くしていた。はよ言え、と内心イライラしながら。
それでも、あの言葉を聞いた時、天にも昇る気分だったのだ。
老人がハンカチを私に差し出してくる。いつのまにか、頬を伝う物が。
「ありがとうございます……私の主人も……口下手といいますか……」
「口下手だからこそ、遺言状に書かれていた事は素直な気持ちだったのでしょう。しかし、それを守る守らないは貴方の勝手だ。貴方が今後、幸福な人生を歩めるのならどちらでも構わないでしょう」
「……戦争で戦った貴方を目の前にしてこんな事を言うのは何ですが……私、死のうとしていたんです」
あぁ、本格的に老人の性分がうつってしまった。思った事は全部口にしてしまう。
「私は貴方を責める権利はありませんな。私も何度か、真剣に考えた事があります。しかしその度に思うのです。残された側の気持ちは痛い程分かりますからな」
「私には、残す者などおりません、私が死んでも、誰も悲しむ者など……」
「そうですかな。少なくとも、私は悲しいですが」
老人のハンカチをグショグショにしながら、思わずその目を見てしまう。終始穏やかで、今吹いている風のようで。
「……お互い、名前も知らないのに……ですか?」
「オグリューと申します。以後お見知りおきを」
卑怯だ、不意打ちだ、そんないきなり頬を殴るような事を。
「……アイリンベルです」
「魂に刻みましょう、貴方の名前を。新聞屋はこぞって貴方の事を書くでしょうな。大衆は悲劇が大好物だ。貴方が命を断てば、嫌でも私の目に、耳に届くでしょう」
目に見えるようだ。若くして亡くなった旦那を追って、妻が後追い自殺。確かに悲劇的な物語。三日もすれば飽きられるだろうけど。
「先程、残す者はおられないと言われましたが……旦那様の御兄弟達とは疎遠なので?」
「いえ……長男の方は毎日私を訪ねては……しどろもどろに見合い話を切り出そうとしています……」
流石旦那の兄上と言わんばかりの、本題を切り出すまでに数時間かかりそうなくらいの口下手。背中が冷や汗でグッショリなのが嫌でも分かる。
「普通、ご主人を亡くされた直後に、見合い話など持ってこないでしょう。たとえ遺言状に書いてあってもです」
「まあ、それはそうでしょうが……」
「その方も、貴方の様子に気が付いているという事です。今にも命を断とうとしている、そう感じていらっしゃるのでしょう。良い方ではありませんか。貴方の事を、気にかけてくださっている」
あの如何にも鈍感を形にしたかのような兄上にも……察せられているという事か。
「さて……そろそろ冷えてきましたな。この老骨に付き合って頂きありがとうございました。お若い方とお話するのが、最近の楽しみでしてな」
「いえ、こちらこそ……ありがとうございました」
「結局何も出来ず申し訳ない。では……」
老人は背を向け去っていく。私は見えなくなるまで見送った。
とりあえず……兄上のところに謝りに行こう。きっと困らせてしまうだろうけど。
あの遺言状を守る気はさらさらない。
あの寂しがり屋は、きっとやきもちをやいて泣いてしまうから。
『それでも、君に幸せになって欲しいんだ』
優しい、お節介な風が運んでくれた幻聴に、私は反論する。
私の幸せは、私が決める、と。




