44話_夕闇会③
「貴方が嫌いだと言うことはないの、絶対に。貴方の他に一緒に過ごしていて楽しくて、安心できる人はいないわ」
強く強く、アナベルは念を押した。イーサンに対して負の感情は抱いていない。問題なのは自分の意識なのだ。
イーサンが頷き、悲しみにかすかに眉をひそめるアナベルは話を続ける。
「私は…貴族の結婚は契約だから、特別な思いはいらない。そう思っていたの。だから元婚約者との仲も割り切った。家だ、仕事だと顧みず突き進んだわ」
関係が破綻したロベールとの仲に気を取られていては、考えていた予定に支障が出てくる。自分のすべきことに目を向けてきた。ロベールの恋人・ミシェルがいようと、結婚した後に公式の場で彼の隣に立つのは自分自身なのだから。恥じない人間になるよう奮進するのは変わらなかった。
それで良かったのだ。婚約破棄はされたが、一応上手くいっていた。
しかし、今は違う。
イーサンはアナベルを愛している。嘘でも情けでもなく、本当に好意を抱いている。照れ臭いけれど、とても暖かくて、優しいその想いは、惜しみなくアナベルを包み込んでくれる。その純粋な想いに対し、アナベルは自分が楽をしたいがためにイーサンの告白を受けた。せめて、同じものを返すべきだと彼女は考えた。
「沢山与えてくれる分、同じものを返したい。貴方にはいつも助けられてばかりだし、相手から同じ感情を抱かれるのは嬉しいものでしょう?それに今変わらないと、私は同じことをしてしまうから」
イーサンの隣で、家と仕事に奮闘するアナベル・バーンズ。キャンベル家に甘えるばかりの娘のままだ。それではいけない。
「けど、どうすれば返せるのか分からなくて…。誰かを思いやることも、励ますことも分かるけど、人を想うって同じ?違うものだと私は考えてる。考えれば考えるほど、何がしたいのかも分からなくなってしまって」
アナベルは目を伏せる。声は微かに震え、小さくなっていく。
「貴方の話を聞いて、何か感情が動くと思った。けど熱い感情は浮かんでこない。そしたら…私、今まで誰にもそんな感情を抱いたことがなかったことに気づいたの。初恋なんて思い出はない。もしかしたら私は、愛や恋を抱けないのかもしれない」
恐れていたことが起きてしまった。嘘はつけない。告げた本心に対して、どうするかは彼が決めるべきだ。アナベルはゆっくりと目線をイーサンに戻した。ライトグリーンの瞳がまっすぐアナベルを見つめている。
「折角一途に想い続けてくれたのに。ごめんなさい」
イーサンは思わず瞼を閉じた。彼女の言葉にショックを受けたのではない。アナベルを思い悩ませてしまったことが辛かったのだ。アナベルは顔を伏せ、膝の上で強く拳を握った。
イーサンは彼女の手に、自身の手を重ねる。
「アナベル、私のことをどう思っている?」
「信頼できる人よ。尊敬もしてる」
「ありがとう。それでいいんだよ。今まで培ってきた関係こそ大切にすべきだ。無理に愛を抱く必要はない」
イーサンの揺るぎない言葉は、アナベルの感情を荒立てた。
「それじゃあ!それじゃあ貴方は何も得られないじゃない!」
「君の隣で生きていく。それで十分だ」
アナベルは顔を振る。手入れされた美しい髪が激しく乱れる。
「綺麗事を言わないで!愛はナマモノ。応えない人に与え続けるのは苦しすぎるわ!」
「愛に完全に報いることなんてできないよ、アナベル」
イーサンはゆっくりと言葉を紡ぐ。本音を言ってくれた彼女に対し、彼も本心と考えを伝える。
「相思相愛で結ばれようとお互いの熱意が同じなんてない。必ずどちらかの想いの方が強く、また波がある。当たり前だ。物でなく、機械ではなく、生き物の感情だからね。私にだってイーサン・キャンベルという人格と都合がある。君に心底惚れていようと、納得がいかなければ抵抗するし、文句だって言う」
イーサンは断言する。力強く。
「もし報いろと言う人がいるならばその人とは離れるべきだ」と。相手の都合を考えていない関係は支配に過ぎないのだから、とも。アナベルはすかさず食い下がった。彼の言い分は尤もだが、イーサンとアナベルの関係を解決には至らない。
「それじゃあ。与えるだけ与えて、何もいらないと言うの?」
「それは違う。私も幸せを掴むよ。君の隣で、家族の中で、友達たちのそばで…社会に揉まれながらね。ただ無理矢理な愛は必要ない」
イーサンの煮え切らない言葉にアナベルは声を荒げた。聞きたいのはイーサンの本心だ。綺麗な言葉で飾られたくない。
「それは本当に幸せなの?!ただ今までと同じ日々が続くだけじゃない!」
「じゃあアナベルの幸せはなんだい?」
「私の幸せ…?」
突然の問いであったが、それでもアナベルの脳裏にはパッと浮かんだ。親しい人々が健康であること。末長く彼らが笑い、満ち足りていること。寒さもひもじさもない未来で、大切な彼らが笑顔でいてくれるなら、それこそがアナベルにとっての幸せだ。
もちろんイーサンにだって彼の思い描く幸せな暮らしを送って欲しい。自分は伴侶になるのだ。彼の願いを叶えられる近しい人になりたい。
アナベルの答えにイーサンは目を細めた。ライトグリーンの瞳に悲しみの色が滲んでいる。
「その中に君はいないのかい?彼らと一緒に笑っていないの?」
アナベルは彼の顔を見た。自分は彼らを見つめている。輪からは外れた場所から。大切な人たちが笑顔で生きる様を、遠くの場所から眺めているからだ。しかし…それがなんだと言うのか。アナベルは身体に力を込める。
「君は幸せに自身を含めないね。家族、友達、先輩後輩、婚約者家族…。彼らの喜びを第一に、悲しみや悩みに寄り添う。だけどアナベル・バーンズは常に後回し。悲しみや悩みは1人で抱え込もうとする。誰かのために頑張れる君は素敵だ。けどそれを自分にも向けて欲しい」
イーサンの言葉が理解できないとアナベルは眉間に皺を寄せる。なぜ己の幸せが、イーサンとの愛の話になったのか。今はイーサンとの話をしているのに。
「…貴方との愛に、自分を愛する必要はある?」
「無くても…生きていける。相手が喜ぶ笑顔で幸せを感じるのも正直分かるよ。それでも自己を簡単に切り離してしまえば、切り離した箇所が必ず自分を傷つけ…最悪、誰かに向かう。私はアナベルが自傷するのは嫌だし、それが誰かにも現れるのも見たくない」
人は誰よりも自分を簡単に蔑ろにする。「しょうがない」「まあいいか」と食事や睡眠といった生命に大切なことすら切り捨てる。切り捨てた部分は小さな歪みとなり、積み重なっていく。歪みは雑や不調へと変わり、体や精神を蝕んで行く。最悪の場合、自分ではなく大切にしていた何かや誰かに現れてしまう恐れがあるのだ。
それは果たして、想像する幸せを、叶えられるのか。
イーサンの返答にアナベルは口ごもる。「そんなことはない」「他の人への配慮は分ける」と断言したいが自信がない。また彼の言い分は尤もであったし、自分も大切な彼らが「幸せなんていらない」と口にしたら引き止めるに違いないと思い直したからだ。彼の言葉がアナベルの天秤をぐらつかせる。
すると真剣な顔つきでアナベルと向き合っていたイーサンが柔らかな笑みを浮かべた。橙色の柔らかな陽光が、屈託ない笑顔を輝かせてみせる。
「それにさ、単純に。自分も幸せの方がより、楽しいじゃないか」
アナベルは息を呑んだ。馬車のやり取りが思い返されたからだ。
イーサンは一度瞼を下ろし、ゆっくりと上げる。
「ねぇアナベル。君は『何をして良いかもわからなくなった』って言ったね。思うに…自分の中心に相手を受け入れ過ぎているんじゃないかな?君が方向を決めているようで、実は他人軸だ。大きな軸がなくなった時、自分が何がしたいか見失っているんだと思う」
膝の上で重ねられた両手に力が強くこもる。イーサンはアナベルの手を指で触れると、その手は小刻みに震えていた。
「それと君が告白した婚約理由だけど」
イーサンの言葉に震えが止まる。石像の如く、瞬き一つせずアナベルは固まった。
「ようやく君の本音が出たんだ。心の叫びを決して否定しないで」
イーサンは両手を包み込み、顔を少し近づけた。
アナベルはライトグリーンの瞳に己の姿が映っているのを見た。子供のように不安げに眉尻を下げているのを認めた。
「勘違いしないで欲しいのは、決して今まで培ってきた経験や努力は絶対に無駄でないということだ。決して、だ。ただ今は"休み"が必要な時なんだよ」
本心を大事に。己を否定ばかりしない。変わることを強制しない。楽しんだり、落ち込んだりしながら。思い思いに過ごしたり、急に予定が詰まり窮屈さを感じたりしながら。あらゆる中で自分を見つめ、愛する時間が必要なのだ。
イーサンはアナベルを柔らかく抱きしめた。
「誰よりもアナベルを大切にして」
アナベルの肩に手を置き、そのまま包み込んだ。彼の温もりと香水の香りを感じながら、アナベルは弱々しく抵抗を続ける。
「…どうして怒らないの?婚約理由なんて最悪じゃない」
「私を選んでもらうように立ち回った。むしろまんまと罠にハマったと怒って良いのはアナベルだ。夜会も他人からの判断も嫌だと思った君が私は良しとした。これほど嬉しいことはないよ」
「……私がとんでもない女だったらどうするの?」
「愛してる女性の幸せに貢献できるなら最高だよ。君にとって都合の良い男でありたいんだ。幸せに利用して欲しい。拗らせた思いは重火器より致命傷を負わせる威力があると、これからの年月をかけて証明する」
「堕落も大罪すら通り抜けて、皆んなで幸せの先に行こうよ」
見上げたアナベルが見たのはイーサンの自信満々な笑みであった。
(ああ、なんてこの人は)
くしゃりとアナベルは顔を歪ませた。それは幼い、幼い子供が今にも感情を決壊しそうな表情だ。
「………おかしな人…貴方って、ほんとうに…」
長い付き合いがあると言うのに。イーサンがこれまでなにを思っていたか、自分は何も知らなかった。彼は全て肯定し受け入れた上でなおアナベルを幸せに、自分も、すべての人と幸せになる気だ。悩みも不幸な時すら糧にして、未来を生きる。描く未来はどこまでも明るい。清廉潔白の言葉が似合う彼があまりにも前向きで、欲深いなど誰が想像しただろう。正直夢物語だ。あまりにも美しすぎる。現実的ではない。
しかし。
叶うなら素敵だと思ってしまう自分がいる。綺麗事だと思いつつも彼の言う未来に夢見てしまうのは、やはり自分が中心だからか。
いや。
(幸せになりたい。そう言う事よね?アナベル)
卑下せず、素直に気持ちを思う。直ぐには思い描いた以外の幸せはまだアナベルには考えられない。それでもこれから見つけたいと切実に願う。大切な人々と笑顔で過ごせる未来は素敵なはずだから。
イーサンはアナベルの頭や背中を、赤子をあやすように優しく撫でている。
真っ赤な陽光も時間が経った今は鈍く、夜の色が強く現れている。北の空にはポツリと星が瞬き始めていた。
「アナベルが悩んだのは私のせいもあるね。中途半端だったし、君の意思を無視してた」
腕の中のアナベルが首を傾げると、イーサンは拘束を緩めた。「実は…」と夏休みにアナベルにわがままを言ってもらいたいと遊び呆ける予定だったことを白状した。
「だから仲を深めることに消極的だったのね」
アナベルはイーサンの頬を摘む。悩んでいたのはアナベルの意思であるが…少し八つ当たりである。
反省もありイーサンはアナベルにされるがまま頬の肉を摘まれていた。
「けど最初に言われていてもわからなかったでしょうね。多分言葉に従っただけになりそう。だから…これで良かったのよ」
頬を摘んでいた指を離し、アナベルは代わりに優しく撫でた。
「これからは必ず相談するよ」
アナベルは頷いた。呼吸を数度繰り返し、アナベルは最後に残った疑問を彼に問いかける。
「ねぇ1つ、聞いていい?」
「もちろん」
「劇の券のことなんだけど」
触れる彼の体が固まる感覚に、アナベルは密かにその答えを察した。
イーサンが用意してくれた観劇の券。王都のキャンベル家屋敷に1日お泊まりした時、劇の話はしたが数週間前のことだ。開演前からすでに券の入手が難しい状況であったにも関わらず彼は用意した。それも二枚分。
『友人にも協力してもらい、どうにか手に入れた』
イーサンの言い分にアナベルは少し引っかかった。どうにか手に入れたのなら、もう少し先の予定になるはずだ。すぐに手に入れられるものなのか。ここ数ヶ月イーサンが忙しなく外出していたのも気になる。何か隠しているのではないか。
アナベルの考えを聞きながら固まっていた彼は、しぶしぶと白状した。
「夏休みに誘おうと思って、ずいぶん前から準備してたんだ」
劇化の話を聞きつけ、真っ先に劇関係者を様々当たったものの
首を長く待ち、ようやく出回り始めた券もなかなか手に入りづらく。それでも根気良く国中を巡り探し手に入れた理由は唯一つ。
大好きな女の子の喜ぶ笑顔が見たいから。
イーサンのほんのり顔が赤いのは夕陽のせいではないだろう。いつも優雅な顔を浮かべのんびりしている彼が、アナベルのために骨を折ってくれた。
(まったくこの人は)
苦労を言わない彼に呆れを抱きつつも、嬉しさや気恥ずかしさも湧いてくる。
彼も人のことを言えないが、自分との幸せを考えている。苦労しつつ、隣で笑って過ごせる日々を。
アナベルが考えたこともない幸せだ。
自分以上に心配してくれる、悩んでいる時に寄り添ってくれる。また自分も返したいと思える相手がいる。
どれほど自分が恵まれているのか、その奇跡を改めて痛感する。
「ありがとうイーサン。ありがとう」
「こちらこそ。今までずっと、ありがとう」
「わたし、見つけたいわ。幸せには、なりたいもの。そして同じぐらい」
家族以外でアナベルを深く想ってくれるイーサンに、友達や婚約者といった役割でなく、きちんとアナベルとして、彼への気持ちも見つけたい。
「うん。見つけようアナベル」
二人は微笑み合う。
するとぐうう、と豪快な音が響いた。数刻前の夕焼けに負けないぐらいアナベルは顔を真っ赤に染めた。お腹が空いたと訴える己の腹を腕で隠した。
「一日緊張してて…」
徐々に緊張が高まっていき、食事が喉を通らずスープやアラカルトで腹を満たしていた。一区切りをつけた今、空腹をどうにかしろと身体が訴えているのだ。
「折角用意してくれたんだ。お菓子を食べよう」
「温かい料理も用意してもらったの。準備してもらいましょう」
時間によっては夕食と重なるかもしれないと、アナベルは料理人たちにお願いして、甘いものだけでなく塩味の料理も用意してもらったのだ。
早速立ち上がったアナベルは、アイザックたちがいる方向に大きく手を振った。すると応えるようにパチパチとライトが2回点滅する。了解の合図だ。しばらくすれば彼らが料理を運んでくる。
物語のワンシーンのようだと、イーサンが愉快そうに細い肩を揺らした。
「食べながら、改めて夏の過ごし方を考えようか」
「ええ」
自分と幸せを見つける夏休み。そう言えば。アナベルはイーサンに聞きたいことがたくさんあることを思い出した。この数日間どう過ごしていたのかも興味がある。
夏の夜は短いため全ては聞けないかもしれないが、明日も明後日もあるのだ。ゆっくり聞こう。
夏休みは半ば。これからまだまだ時間はあるのだから。
とっぷりと空に闇は落ち、星々の輝きは強まっている。その中の1つは、銀の刃物が煌めくように鋭く輝いていた。




