あなたの婚約者は【コミカライズ】
「ジェイク様、もう少し慎重に行動していただきたいのです」
責めるでもなく憤るでもなく、ただ静かに言い含めるよう告げられた諫言に、目の前の男は困ったように小さく微笑んだ。
◇◇◆◇◇
場所はグレイス公爵家の豪奢な庭園を一望出来るサンルーム。
ひとつの丸テーブルを挟んで座るのはアディラン王国第三王子のジェイク・カルービナと、公爵家の一人娘でジェイクの婚約者であるレティアンナ・グレイスの二人。彼らの間には香り高い紅茶の湯気がゆらゆらと揺蕩っている。
「僕はそんなに軽率な行動を取っているかな?」
「軽率とまでは申しません。しかし学園の生徒達の間で噂が立っているのはジェイク様もご存知でしょう?」
相変わらず困惑の色を含む苦笑いを浮かべる王子に対し、レティアンナこそ戸惑いを隠せない口ぶりでやんわりと言葉を返す。
「マリーナ嬢は快活な女性だからね、人目を引いてしまうのかもしれないな」
柔らかく吐息して小首を傾げるジェイクの淡い金髪がさらりと揺れる。薄灰色の瞳には誰に対しても分け隔てない優しさが込められていて、レティアンナは眉尻が下がらないよう意識しながらティーカップに口を付けた。
ジェイクとレティアンナは十八歳の同学年で、王族から下位貴族までが籍を置く王立学園に最終学年生として通っている。
レティアンナは公爵家出身、何よりも第三王子の婚約者という立場にあるため学園内では何かと注視される存在で、それについてはレティアンナ自身も納得の行くところなのだが、近頃は注目の風向きが変わっていることに気付いていた。
とある一人の生徒――マリーナ・レボン子爵令嬢の存在によって。
「人目を引いてしまうのは貴方が関わっていらっしゃるからです」
「こればっかりは王族に生まれ落ちた運命かな」
「ジェイク様。冗談で申し上げているのではありません」
「怒らないで、レティ。ちゃんと聞いているよ」
「では茶化さないでお聞きになって」
くすくす笑い出した彼をじっと見据えてみるが、あまり効果はない。
互いが十二の歳を迎えたときに二人の婚約は成されている。マイペースのジェイクとしっかり者のレティアンナは何だかんだで相性が良く、私的な場では気安く語り合う。しかし婚約者の気ままな発言にレティアンナが右往左往させられるのもままあることだった。
ふぅっと小さく息を吐いて言葉を継ぐ。
「マリーナさんが人目を引く女性であることも否定しませんわ。ですが……いえ、だからこそジェイク様も必要以上に親密にされるのはお控え下さい」
「親密、ね」
冷め始めた紅茶にようやく口を付けたジェイクがぽそりと呟いた。
「僕は節度を持って接しているつもりなんだけどね。他のご学友と同じように」
「そうでしょうか」
今度はレティアンナがぽそりと落とす番だった。テーブルのティーカップに翠色の視線を落としたせいで自然と俯き加減になる。肩から零れ落ちた濡れ羽色のストレートヘアをそっと耳にかけた。
「学園のカフェバルコニーでお二人でいらっしゃるのをよく見掛けますわ」
「そう? レティも来てくれればいいのに」
視線を合わせてふわりと笑み、ジェイクはそう言った。
(残酷なことを仰るのね)
向かい合って語らい笑い合う婚約者と令嬢の間に割って入れと言うのだろうか。人々の好奇の目を一身に浴びて?
第三王子が婚約者の公爵令嬢ではなく無名の子爵令嬢と懇ろであるという噂はもはや噂の域を超え、現実のものであるというのが多くの生徒の見解である。
無闇矢鱈に吹聴しているわけではない。何せ見たままであるから。
カフェバルコニーでも中庭のベンチでも図書室でも。教室を移動するときでさえジェイクの傍らに付き従うのはレティアンナではなくマリーナだと、口を揃えて証言する者が多数だろう。
例え王家と公爵家の繋がりを必要とする婚約であったとしても。この六年もの間、レティアンナはジェイクと確かな絆を育んできたと自信を持って言える。
騒々しい談笑や子供ながらの口論は歳を重ねるごとに減ってきたけれど、次第に芽生えた恋心は今もしっかり心の真ん中に根付いている。それはきっとジェイクも同じだと思うのは……思いたいのはレティアンナの我儘だろうか。
「ジェイク様」
膝の上で両手を強く握り、懇願の意を込めて薄灰色を見つめる。薄い笑みを湛えたままのジェイクの瞳に揺らぎはない。
「口さがない噂を醜聞として騒ぎ立てる者がいれば王家の威信にも関わります。どうかご留意下さい」
視線を逸らすように伏せられたのはジェイクの双眸だった。サンルームの眩い陽光に金色の睫毛が輝きを返す。
「わかったよ、レティアンナ」
その声色はとても静かだった。
王家の威信だなんて大義名分で隠した恋心を見透かされた気がして、じわりと胸に痛みが滲んだ。
◇◇◆◇◇
秋晴れの空に荘厳な鐘が響き渡る。王立学園の一限目の授業終了を知らせるその音色に、俄に校舎内が活気付く。
レティアンナは廊下の一角にある作り付けの個人用ロッカーから手提げの収納ボックスと小ぶりのキャンバスを取り出しながら、教室から吐き出される生徒達を横目でそっと捉えていた。
常に誰かの視線を意識しなければならない。公爵家の一員として第三王子の婚約者として恥じることのないように、嵩張る荷物を抱えながらも背筋をピンと伸ばし、足の爪先まで神経を集中させてゆっくりと歩き出す。顔馴染みの生徒から声が掛かれば悠然と挨拶を返し、また前を見定め凛と進む。彼女の日常の一幕である。
「おはよう、レティ」
背後からよく通る聞き馴染みの声が呼び掛ける。ぴたりと足を止めて振り返れば、いつもの温かな微笑みがそこにあった。彼もまた教室から出てきたのだろう。
「おはようございます、ジェイク様」
「その荷物、特別講習のもの?」
レティアンナの傍らに立ち、おや、とでも言いたげに眉を上げたジェイクに頷いて返す。
「ええ、芸術の授業をこれから。絵を描く時間に充てます」
「レティの絵は素晴らしいからね。今度は何を描くの?」
「ミルディアの花を。王妃様のご要望です」
「母上の。僕の知らない間にそんな約束を交わしていたなんて、ずるいな」
「ジェイク様にもまたお贈りしますわ」
「その手に持っているキャンバスよりも大きいサイズでね」
そんな穏やかな会話を止めたのは一人の女生徒の声だった。
「ジェイク様、こちらにいらっしゃったのね!」
廊下の向こうから駆けてくる様は貴族の子息令嬢が節度を持って行動するこの場では奇抜なものとして映る。しかし赤毛のウェーブヘアを左右に揺らしながらこちらに向かってくる少女――マリーナ・レボンは周囲の目などまるでお構いなしのようだった。
「いつの間にか教室にいらっしゃらないんだもの。探しましたのよ」
「そう、それはすまないね」
当然と言わんばかりにジェイクの隣まで来たマリーナは淡く頬を染めて彼を見上げる。その視線を受け止めるジェイクはやはり分け隔てのない微笑みを返す。
不躾にならない程度に目前の二人を観察していたレティアンナの存在に今更気付いたのか、ハッと口元に手を添えたマリーナが一歩後退り、カーテシーを見せる。
「ごきげんよう、レティアンナ様」
「おはようございます、マリーナさん」
両手が塞がっていることもあり、淑女の礼が執れない。なので最大限美しく見えるよう、静かに腰を折って挨拶を返す。顔を上げたレティアンナに笑顔を返すマリーナだったけれど、カーテシーを解いた彼女の立ち位置は先程よりも更にジェイクに近く、互いの腕同士が触れ合う距離だった。
二人の前で表情を崩したくない一心で足にグッと力を込める。
「特別講習の教室に移動しなくてはいけませんので、私はここで失礼いたします」
彼らのこの後の動向は凡そ見当が付く。巻き込まれたくはない。
案の定、マリーナはレティアンナの予想通りに話を進めた。
「じゃあジェイク様、私とカフェバルコニーに参りません?」
「カフェに? それならレティも一緒に……」
「私は行けませんわ」
声に冷たい色が乗ってしまったのは、マリーナがジェイクの袖を甘えるように引っ張ったせいだろうか。しかし先日の公爵家での会話が全く意味をなさなかったことへの複雑な思いは隠せそうにもない。
僅かに目を見開いて驚きを表すジェイクとは対照的に、マリーナはその顔に乗る愛らしい笑みを深めた。彼の腕を軽く引き、次の行動を促す。
「さぁ、ジェイク様。行きましょ」
早く早く、と急かさんばかりのマリーナの動きにジェイクの足が一歩二歩と動き出す。軽く会釈をして廊下の先を目指すレティアンナの耳には階段へ向かう二人の足音が確かに届いた。
(本当に残酷な人)
彼らは二階のバルコニーで衆目を浴びながらお茶の時間を楽しむのだろう。教室からも廊下からも見渡せるそこは、中庭を一望出来る学園一の特等席。
その席でレティアンナとジェイクが時間を共にしたことは一度としてない。多くの者がその席を、第三王子の対面を座するのはレティアンナではなくマリーナだと認識しているはずだ。
成り行きを見守っていた周囲の生徒達の気まずげな表情がレティアンナの心に重くのしかかる。
重たくなったのは心だけだろうか。足取りでさえも引きずりたくなる程だ。
しかし真に己の立場を理解している彼女はやはり背筋を真っ直ぐに伸ばし、殊更にゆっくりと目的の教室を目指して歩いた。
重苦しい気持ちを払拭出来ないままに午前の授業を芸術棟で終えて木立が点在する中庭を通り抜ける。
昼食の時間を迎えた学園内が賑やかさを纏う中、ふと導かれるように校舎を見上げると、二階の渡り廊下を一組の男女が肩を並べて歩いている。揃いの教材を手にしていることから同じ授業を受けていただろうことが遠目にも窺える。
腰壁しかない渡り廊下で秋空の暖かくも柔らかい日差しを浴びて颯爽と歩く彼女と、木立の影が作り出す薄暗くひんやりとした中庭で立ち尽くす己と。
はたして、どちらが婚約者として相応しいのか。
◇◇◆◇◇
その日、レティアンナは王宮にいた。
次期国王は現国王の長男であるアルフレド王太子に決定しているのだが、ジェイクも次期国王の王弟として大公の立場を求められる。当然のことながら伴侶となる者はその隣に並ばなければならない。
その心構えやマナーを学ぶ機会――と言えば聞こえは良いが、結局のところはレティアンナを気に入り可愛がってくれている王妃が共に過ごす時間を望んだらしい。真面目な話の合間に「絵の進捗具合はどうか」だの「新しく買い付けたお茶の味はどうか」だのと問われたものだから、レティアンナにも思いがけず楽しいひとときだった。
そうして午前中を王宮で過ごした後、馬車で王立学園へと向かう。午後の授業開始までは時間があるので廊下ですれ違う友人や顔見知りと挨拶を交わしながら教室を目指していると、マリーナの姿を視界に捉えた。
彼女は数人の男女に囲まれ談笑している。レティアンナと親しい顔はいないようなので会釈程度で通り過ぎようと考えていると、チラと一瞬だけマリーナの視線がこちらに動いた。
次の瞬間、彼女はうっとりとした表情を浮かべ、一際大きな声で語り始めた。
「先程のダンスの授業はとても素晴らしいものだったわ。ジェイク様のパートナーに選んでいただけたのよ」
マリーナを取り巻く生徒達が感嘆の声を上げると気を良くしたのか、紅潮させた頬に手を添えて滑らかに言葉を紡いでいく。
「夜会に慣れていない私だから足を引っ張ってしまうかと思っていたのだけど、ジェイク様はとても優しくリードして下さって」
「まぁ、素敵ね。私だったらきっと気後れして踊れもしないわ」
「『いつも通りの君でいいんだよ』って仰ったの。それで安心出来たのよ」
「僕も同じ授業を受けていたけど息ぴったりに見えたよ」
「ふふ、ありがとう。ジェイク様もね、『こんなに楽しく踊れたのは久しぶり』ですって」
今すれ違おうかというところで彼女が勝ち誇ったようにレティアンナを流し見たのはきっと気のせいではないだろう。
彼女の言わんとするところ、目指す場所は明らかだ。心を揺さぶられることなくこの場を立ち去ればいい。なのにこんなときに限って事はすんなりと運ばれてくれない。
「レティ、おはよう。午後の授業に間に合ったんだね」
廊下の向こうからジェイクがやって来たから。不自然にならない程度に笑顔を作って挨拶を返している間にも、彼は間近まで距離を詰めていた。
「ハニーアップルの香りがする。母上に新しいお茶を勧められた?」
「王妃様がお気に入りのものだから是非にと仰ったのでいただいてきました」
「僕が進言したんだよ。レティの好みにも合いそうだ、ってね」
横顔に強烈な視線を感じてマリーナに目線を送ると、ジェイクに見えない角度で歯噛みしたようにこちらを睨め付けている。こうなれば次の展開は……とレティアンナは内心で溜息を吐いた。
「あの、ジェイク様。少しよろしいかしら?」
割り込むような突然の呼び掛けに小首を傾げたジェイクへ、マリーナが遠慮なく身を寄せる。
「ダンスの授業ではありがとうございました」
「あぁ、こちらこそ。お相手をありがとう」
「ジェイク様のリードがお上手で先程は課題をこなせましたが、まだ私自信がなくって。よろしければまた練習のお相手をお願い出来ませんか?」
「僕でいいの? それじゃあ次もお願いしようかな」
「もちろんです! 今から楽しみだわ!」
(ほら、こうなるのよ)
マリーナの友人達も話に加わり、一角が一層賑やかさを増す。
午前中の晴れやかな気持ちが黒く塗り潰されるような気がして、そっとその場を離れた。
◇◇◆◇◇
レティアンナは驚愕していた。
常に冷静であれと己に課してはいたけれども、驚きの色を隠すことは出来なかった。開いた口が塞がらないとはこのことか、とさえ思った。
眼前にはマリーナ・レボン子爵令嬢、その少し斜め後ろにジェイク・カルービナ第三王子とマリーナの友人達、更に多くの生徒が立ち竦むレティアンナとマリーナを取り囲むようにして動向を見守っている。誰も彼も表情は明るくない。
「今、何と仰ったの?」
思わず発したのは聞き間違いだと思ったから。
なのに目の前のマリーナは悲痛な面持ちで、赤い睫毛に縁取られた瞳にうっすらと涙さえ浮かべて主張を繰り返した。
「レティアンナ様が私を突き飛ばしたのよ!」
有志生徒の提案によって行われている交流会と称したお茶会の席で。学園内のホールに参加メンバーが集い始めた頃合いに、ジェイクの腕に寄り添って会場入りしたマリーナの姿にぎくりとしたのはレティアンナだけではなかった。寄り添う姿も勿論のことだけれど、彼女の左手首と左足首にこれ見よがしに包帯が巻かれていたから。
何もそこまで無理を通して出席しなくても、などと考えていたレティアンナの前にジェイクから離れてヨロヨロと歩み寄ってきた彼女が発した言葉が、まさにレティアンナを驚愕させるものだったのだ。
「私、レティアンナ様に突き飛ばされました」
まるで周囲の人間に宣言、告発するかのように。
聞き間違いだと思ったレティアンナは問い返したのだが、彼女が主張を覆すことはなかった。眉根をぎゅっと寄せてレティアンナをきつく睨み付けてくる。
「私はそのようなことはしておりません。誰かとお間違いでは?」
「ひどい。しらを切るつもりですか?」
「身に覚えのない罪を問われても困ります」
マリーナの突拍子もない宣告に戸惑いの気持ちは落ち着かないものの、表面上は取り繕って冷静に会話を試みる。しかし相手は引く気をまるで見せない。それどころか愉快げに口角を吊り上げた。
「隠れたつもりが迂闊でしたわね? レティアンナ様」
「仰る意味がわかりませんわ」
「証言者がいるのよ。ねぇ?」
問い掛けるようにマリーナが振り向くと、ジェイクの後ろに控えていた彼女の友人らしき生徒達の間から二人の男子生徒が進み出てきた。その隙に盗み見たジェイクの表情もやはり明るくはなく、綺麗な形の眉が歪んでいる。
「マリーナの告発は真実だ」
「僕らも見ました。レティアンナ嬢がマリーナを突き飛ばすところを、この目でしっかりと」
マリーナの傍に控えた二人が演説の如く、語り始める。それに背を押されたかのようにマリーナも再び口を開いた。
「わざわざ人気の少ない非常階段を選んだのは失敗でしたわね、レティアンナ様。あそこの踊り場は裏庭からよく見えるんですよ」
「僕らは近道をするために裏庭を通っていた。だからこそあの現場を目撃することになった」
男子生徒までもが忌々しげな視線を寄越す。それをものともせずにレティアンナは再度問い掛けた。
「マリーナさん、貴女はどこで何があったと仰りたいの?」
「非常階段の踊り場から貴女が私を突き落としたと言っているのよ!」
悲鳴にも近い怒声に周囲の面々の表情が一斉に変わった。
軽蔑、憤怒、驚愕、嫌悪。マイナスの感情が彼女達を取り囲んでいる。
(どうしてこうなったのかしら)
足元から力が抜け落ちていくようでふらりと身体が傾ぐ。すると直様、近場にいたレティアンナの友人が駆け寄って身体を支えてくれた。傍らの男子生徒が茶会のテーブルから椅子を一脚引き抜き、レティアンナの背後まで運んでくれる。
友人達に礼を述べ、マリーナにも椅子に座る非礼を詫びて腰を落とす。そうして一呼吸を置いてからレティアンナは静かに告げた。
「マリーナさんの主張は理解しました。その上でお伝えします。私には貴女を突き落とすことは出来ません」
「まだしらを切るの? この二人だって見ているのに」
「出来ないのです」
一音一音ゆっくりと発する。それでも納得がいかないと言いたげなマリーナに真実を突き付けた。
「私は階段を登れません」
え、と音を立てずに彼女の口が開く。
視線を彼女の斜め後ろにずらすと、婚約者は沈痛な面持ちで床に眼差しを落としていた。
ジェイクとレティアンナの婚約が成立した年の夏の日。
王家所有の避暑地に二人は馬車で遠出していた。ジェイクが是非一緒に出掛けたいと誘ってくれたのでレティアンナも喜んで受けることにしたのだ。
静かな湖畔で魚を釣ったり、動植物を観察したり。日帰りの短い時間ではあったけれど濃密で有意義な一日を過ごし、帰りの馬車が避暑地を出発したのは空が茜色を呼び込み始めた頃だった。
心地よい疲れを感じながらも興奮は冷めやらず、釣った魚の大きさで話に花を咲かせていたそのとき、唐突に馬が嘶き、馬車が停止した。次いで聞こえたのは複数の人間の騒ぎ立てる声。カーテンが引いてある馬車内では外の様子はわからず、けれどジェイクの侍従にカーテンを開けることを固く禁じられたため、車外から聞こえる喧騒に耳を澄ませるばかりだった。
そのうち剣戟らしき音が鳴り響き、レティアンナとジェイクは互いに身を寄せ合い、息を潜める。騒ぎ声が大きくなると侍従が扉の前に陣取り、腰の短剣に手を掛けるのがレティアンナにもわかった。
隣に座るのは守るべき人。
扉から一番遠い座席にジェイクを誘導し、ぴったりと寄り添って座る。いつの間にか震えていた身体は自分だけではなかった。
「大丈夫だよ」と気休めにもならない言葉に頷いてくれる彼を確認すると、侍従の背中に見え隠れする扉を見つめる。一瞬たりとも気を抜いてはいけない。
馬車のすぐ外に怒声が迫り、扉の取手がガチャガチャと嫌な音を立てる。侍従が短剣を抜き出す。おそらく護衛騎士であろう人達の「殿下を守れ!」という叫び声も聞こえる。
バキッと木の軋む音がして外の喧騒が一際大きく聞こえるようになった瞬間、侍従の身体の向こうに下卑た男の姿が見えた。即座に侍従が蹴りを繰り出すが下卑た男の太い腕は難なくそれを防ぐ。そして器用に侍従の足を払い除けながら馬車の内側に視線を巡らせ、こちらを捉えた。
「いたぞ、ガキはここだ!」
嗄れた声が仲間を呼んでいる。同時に錆びた匂いが馬車内に侵入し、外の惨状を知らせてくる。扉の枠に掴まりながら侍従が応戦しているが、このままでは時間の問題かもしれない。
侍従の低い呻き声が聞こえた瞬間、レティアンナはジェイクの身体を隠すように覆い被さった。右足を座席の上で突っ張らせて両手でジェイクの身体を抱え込む。お互いがお互いにガタガタと震えているけれど、絶対に離すことはしないと心に誓って腕に力を込める。
背後に侍従の気配がなくなり、物音が失われてもレティアンナがその姿勢を解くことはなかった。すると突然無造作に髪を掴まれ、後方に強く引っ張られる。「邪魔だ」だとか「どけ」だとか汚い言葉が浴びせられるが、恐怖に囚われた彼女には言葉の意味も引かれる髪の痛みも理解出来なかった。ただひたすら、ジェイクを守るために彼を抱き締めるだけ。
そのうちに身体を揺さぶる感覚は消えた。それでも姿勢を崩すことのないレティアンナに聞こえたのは大きな舌打ちと、金属のぶつかる耳障りな音。それから勢いのある鼻息の音と――
その後は何も考えられなかった。
一度右足の膝裏に大きな衝撃を受け、息が止まりそうになり。チカチカと赤く点滅する視界の中、淡い金髪が小刻みに揺れているのがうっすらと見えて、手を離してはいけないことだけは頭の片隅に残して。
熱く痛む膝裏の近くにまた大きな衝撃を受けたところでレティアンナの意識は飛んでしまった。後に聞いたところによると、右足に二度の刺し傷を負っても尚ジェイクを離そうとしないレティアンナに手こずっている賊を、侍従と軽傷で済んだ護衛騎士が取り押さえて事なきを得たらしい。
ジェイクを狙って襲撃した賊がアディラン王国の内部崩壊を狙う隣国王族の差し金であったことやその後始末、二国間の条約見直しで周辺国まで巻き込んだことは、刺し傷による高熱で六日間眠り続け、以降療養の名目で王家の別荘に送られたレティアンナには長く知らされなかった。
「私は過去に負った傷により、行動が制限されています。そのため、貴女が仰るように非常階段の踊り場に行くことは不可能なのです」
椅子に掛けたために少し低い位置からマリーナの双眸を捉える。彼女はレティアンナの言葉を払い除けるかのように首を緩く振った。
「往生際が悪くありません? そんな出鱈目、誰が信じると――」
反応を窺うようにぐるりと辺りを見回すマリーナを見つめ返す数多の瞳には、ただただ非難の色しか浮かんでいない。マリーナの数名の友人を除いて。
そんな周囲の冷たい眼差しに狼狽えている彼女は知らないのだろう。レティアンナの怪我と、それを負った経緯が周知されていることを。
それは一種の美談とも言える。
いずれ国王となる兄を陰ながら支える存在になりたいと誓った第三王子を、隣国の差し金による賊の襲撃から身を挺して守り抜いた年若い婚約者。その身に大きな傷を負いながらも王子の無事を唯一とした健気な少女の話は事情を知るメイドたちの涙を誘い、王宮内から有力貴族に瞬く間に広がった。
レティアンナに年近い子息令嬢を持つ貴族家では公爵家令嬢の英姿が逸話の如く、伝え聞かせられた。親密な付き合いがなくともレティアンナの身体を気遣ってくれる者は多くいる。
しかし国から公にされた襲撃事件の詳細ではレティアンナを襲った不幸は伏せられた。公爵家とまだ幼い少女に配慮してのことだった。その意図を汲み取り、大っぴらに喧伝されることはなかったため、王宮や社交界に縁遠い貴族の耳には届いていないのだろう。
偽りの証人として飛び出てきた二人の男子生徒も、後方で訝しげな表情を隠しもしない彼女の友人達もレティアンナの知る顔ではないので、おそらく皆そういった者なのだと予測する。
(まさか知らなかったなんて)
ジェイクの腕を引いて足早に去る様も。
二階のカフェでジェイクと共にある姿を誇示するのも。
ダンスのパートナーとして立つことを許されたとひけらかすのも。
全て古傷によってジェイクの傍にいられないレティアンナに対する当て付けだと思っていた。
だから驚愕した。まさか突き飛ばしたなどと嘘をでっち上げてくるものだから。しかも偽の証言者まで従えているなんて用意周到なことだと思う。
こんなことをしなければ、或いは。
そこまで考えて、ふぅと一息吐き出す。僅かに身を屈めたためか、気配を察した友人が差し伸べてくれた手を借りてゆっくりと立ち上がった。そしてもう一度マリーナと同じ高さで視線を絡ませる。
「私の足に関しては嘘偽りのない事実です。古い傷ですが治療をして下さった先生には今も診ていただいていますので証言して下さることでしょう。マリーナさん、貴女のその包帯の下がどうなっているか私には計り知れぬことですが、この度の偽証は罪に問われます。もちろん、貴方がたもです」
敢えて王家の名は出さなかった。
しかしここに来てようやく事の大きさを理解出来たのか、マリーナ達の顔色がサッと変わるのが見て取れた。レティアンナは彼女達を一瞥するだけに留め、大仰に周囲へと視線を巡らせて告げる。
「皆様にはお騒がせして大変申し訳ございません。私は退席いたしますので、どうか続きをお楽しみ下さい」
そうしてゆっくりと左膝を折ってレティアンナの出来る精一杯の淑女の挨拶を行うと、両開きの扉へ身体を向けた。そこに大股で歩み寄って来たのがジェイクだった。その足取りも表情も焦りの色で埋め尽くされている。
「待ってレティ、どこへ?」
「外の空気を吸いに行ってきます」
「僕も行く。手を」
素早くレティアンナの右隣に立つと左腕を持ち上げて掴むようにと示してくる。促されるままにそっと手を添えるとホッとした表情を浮かべたジェイクだったが、一瞬で表情を切り替えて冷たく言い放った。
「マリーナ嬢、追って沙汰を出す。覚悟しておいて欲しい」
明らかな決別の言葉を置いたジェイクに付き添われ、レティアンナはお茶会の場を後にした。
◇◇◆◇◇
やってきたのは中庭だった。レティアンナの足を慮って殊更に慎重な足取りでエスコートを務めたジェイクは腰掛けた彼女の前で跪き、淡い金髪の下で心配げな瞳を揺らしている。
「痛みは? 辛くない? 医師を呼ぼうか?」
矢継ぎ早の質問に苦笑だけを返してベンチの隣を手で示すと渋々といった顔でそこに腰を落ち着けてくれた。それでもひしひしと感じる横からの視線に気付かないふりをして、レティアンナは大きな深呼吸と共に空を仰ぎ見た。今日も抜けるような秋晴れだ。
「ここに二人で来るのは久しぶりですね」
三年間の学園生活も徐々に終わりに近付いている。その最初の一年目にはジェイクとこうして連れ立って中庭に足を運ぶこともままあった。ただ互いに交友関係を広げ、行動範囲も異なってくるとそちらを優先しようと提案したのはレティアンナだった。
そうして一年が過ぎ、二年が過ぎ、最終学年となった今年、件のマリーナ・レボン子爵令嬢が頭角を現すかのように存在を主張し始め、いつの間にか彼の隣に当たり前のように立っていた。そのせいだろうか、ここで二人並び、同じ景色を観ることに懐かしさどころか新鮮味すら覚えてしまう。
言葉を返すこともせずにじっと貼り付けられる視線を振り切るように、ついと右手を浮かせてある一点を指差した。
「あちらの席にマリーナさんと座っていらっしゃるのをよく拝見しましたわ」
「あぁ……」
レティアンナの指す先をぼんやりと眺めて吐き出されたのは返答というよりも溜息に音が乗ってしまったというような声だった。しかし彼女の言葉に心当たりがあると肯定は明らかだった。
「よく陽の差す、暖かそうな場所だといつも思っておりました」
「……もし良ければ、だけど、レティも今度、一緒に行ってみる?」
「行けませんわ」
「僕が抱きかかえて行く」
「行きませんわ」
バルコニーに視線を縛り付けたまま、きっぱりと否定の意思を告げれば隣で息を呑む音が聞こえる。やっぱり残酷な人だ、とレティアンナは思う。
「レティ……」
消え入りそうな声についつられてジェイクを見やると、薄灰色の瞳は悲痛な色に染まっていた。
「少なくとも私が拝見したときは、ジェイク様はいつもマリーナさんとあの席に座ってらっしゃいました」
「……うん」
「お二人でいらっしゃるのを頻繁に見掛けたのは私だけではないでしょう」
「……うん」
「先程の騒ぎを受けた上でジェイク様とご一緒するのがマリーナさんから私に代わったとしたら周囲の皆さんはどう思われるでしょうか」
婚約者を蔑ろにして他の令嬢にうつつを抜かす第三王子。
その婚約者の身に起こった一大事と王家の繋がりも知らずに多勢の前で貶め謀ろうとした浅はかな令嬢。
令嬢の本性が知れた途端、掌を返したように婚約者を連れ立つようになれば、あっという間に愚かな王子の出来上がりだ。
ふんわりと秋風が頬を撫でる。ジェイクは端正な顔を泣きそうに歪めて唇を引き結んでいる。そんな彼をレティアンナはやっぱり困った顔で見つめていた。
「だから慎重に行動なさって、と申し上げたのに」
思いがけず咎める口調になってしまったことに内心で反省して目を伏せた。泣きたいのはこちらだ、と恨み言が零れ落ちないうちにジェイクの表情を視界から外したかった。
「もう少し時間を掛けて親交を育んでいらっしゃったなら……マリーナさんも私の足のことをご存知になったかもしれません」
そうすれば今日のような馬鹿げた騒動など起こさずに済んだかもしれないのに。
彼女の思惑に寄り添えたかもしれないのに。
ジェイクに快活だと評された彼女。レティアンナとは真逆の評価だけれど、それも多くの人に求められるものだっただろうに。
もう姿を見ることがないかもしれない令嬢に意識を引っ張られていると、膝の上に置いた手に温もりが訪れた。ハッと焦点を合わせるとジェイクの掌が重ねられている。
「レティ」と掠れ気味の声で呼ばれて再度彼を見上げる。
「誓って言うけれど僕はマリーナ嬢に懸想なんてしていない。あくまで友人として接していた」
ギュッと掌に力を込められたので理解を示す意味で頷く。交友関係を広げるために距離を置いたとしても学園内で顔を合わせれば言葉を交わすし、週に一度と取り決めている二人の茶会も公務や外せない用事が入らない限り、グレイス公爵家に足を運んでくれている。少なくともレティアンナ自身が不当な扱いを受けていると考えたことはない。
「君の言う通り、僕は軽率だったんだと思う。レティという婚約者の存在は周知の事実だし、いくら食事やお茶を共にしたとしてもそれは学園内に限られたことで、友人という線引きの上で留まっているものだと彼女や周りの者も理解していると考えていた」
誰にでも分け隔てない笑みを送る者の甘さだ、と思った。
学園外で二人の時間を設けていると知っているのは当人達だけなのだし、すでに立ち上っていた噂を否定もせずに連れ立っていれば勘違いしても仕方がない。マリーナのようにレティアンナの足の事情を知らないのであれば尚更。
事情を知る者たちにしても、古傷を抱えたレティアンナを放ってマリーナと親しくする姿を見れば噂の信憑性が増すのは必然だろう。
「だから、まさか狂言を演じるとは思わなかった」
「ええ、私も驚きました」
「どうして、あんな、レティに罪を被せるような真似を……」
強く目を閉じて怒りを滲ませる彼に、焦っていらっしゃったのでしょう、とまでは言えなかった。
マリーナの思惑は火を見るより明らかだった。彼女との噂は広まる一方、レティアンナとジェイクの関係は悪化するでもなく。変わらない状況に一石を投じる必要を感じたのだろう。
しかし、その方法を大きく間違えてしまった。
第三王子の恩人とも称されるレティアンナを、彼女の婚約者の前のみならず、衆人環視の下で貶めてしまっては次の機会など永遠に訪れることはない。
バルコニーに視線を戻したレティアンナの心に、虚しさにも似た冷たい風が吹いた気がした。
「ねぇ、レティ」
そんなレティアンナの意識を取り戻そうとするかのように未だ重ねられた手がずらされ、指と指が絡まる。あの夏の日、湖の畔で繋いだ手を思い出す。自由に駆け回れた、憂いのひとつもないあの頃。
「……そんなに僕の婚約者を降りたい?」
ひくりと喉の奥が締まった。
急速に口内が乾いていくようで、僅かに息苦しささえ感じる。ジェイクの顔を見ることが出来ずにいると、繋がる指先に力が込められ、そこから伝わる熱に益々乾きを感じる。
「君は彼女と……マリーナ嬢と必要以上に親密にするな、と言っていたね」
浅い呼吸を繰り返しながらも心の中で肯定した。確かに言った、と。
「でも関わるな、とは言わなかった。噂が立っているのだから距離を置け、とも」
言っていない。慎重に行動して欲しい、望んだのはそれだけだ。
「ゆっくりと友好関係を深めて周囲に認めてもらえば、子爵家の出であっても王族の婚約者として迎え入れられる日が来る。そう思った?」
そっと顎に手を添えられたかと思えば、ゆっくりとジェイクの方に顔を向かせられた。
「僕の婚約者でいることはそんなに嫌?」
「違っ……!」
首を振って否定すれば、弾みで指が顎から滑り落ちる。
それを気に留めることもなく、じっと見つめてくるその双眸は沈黙を許さない。
「私の足では……満足に公務もこなせません」
「公務なんてどうとでもなる。あの事件は周辺国にだって知れ渡っているんだ。誰もレティを責めはしないし、無理をさせようだなんて思わない」
「移動さえままならないんです。周囲の皆様にご迷惑をお掛けしてしまいます」
「僕が支えるよ。抱き上げることだって出来る。他の者の手を煩わせたくないと言うのなら全て僕に任せて」
「ダンスのひとつも踊れません」
「いらないよ。隣にいてさえくれればそれでいい」
彼の反論通りの王子妃を思い描いてみる。
周囲の厚意に甘えて公に姿を現さず、稀に社交の場に立ったとしても仕えるべき主人に身を任せて笑顔を振りまくだけ。
まるで設えた、お人形のようだ。
公爵家令嬢として育てられた矜持がある。
王子妃として受けた教育の本意も弁えている。
「今の私には、ジェイク様をお守りすることが叶いません」
件の彼女がその身を盾に出来たかはわからない。わからないけれど、動ける身と動けない身ではもたらされる結果は大きく変わるはずだ。
沈痛な面持ちで心の内を明かしたレティアンナを、それ以上に悲哀に染まった表情で見つめるジェイクが静かに告げる。
「あんなことは一度きりでいいよ」
薄灰色が一段色を薄くしたように見えたのは、その瞳に薄い膜が張ったからだろうか。秋晴れの空に輝く太陽が、彼の目尻を煌めかせた。
「残酷なことを言うよ? あの日負傷したのが僕だったなら、王族を守れなかった責を負って、グレイス公爵は僕らの婚約を解消しただろう。僕はそうならなくて良かったと思っている。ごめん、ごめんね、レティ」
堪えきれなかっただろう雫が目の縁を越えて頬を流れた。
「ずっと好きなんだ、レティだけをずっと。僕の隣にはこれまでも、これから先もレティしかいない。痛くて苦しくて辛い思いをさせたのに、これだけは譲れないんだ」
徐々に歪む表情につられるように、次から次へと滴る涙が繋いだ手に落ち、湿らせていく。
レティアンナにとって彼の涙を見るのは初めてのことだった。
第三王子として重責に追われる日々の中でも、賊に襲われたあの日も、意識を取り戻したレティアンナと再会した日も、けして見せることのなかった一面。
空いた腕が恐る恐る伸びてくる。肩に回って躊躇うように引き寄せられた。
「今度は僕に君を守らせて」
肩口で囁かれた声は吹き抜ける風に消え入りそうなほどに細かった。
そのとき、頬を撫でる風にひんやりとした感触を覚え、自らも落涙していることにレティアンナは初めて気付く。
「私、は、ジェイク様と一度もダンス、したことがありま、せん」
「うん、そうだね」
「私は、もう、快活、には振る舞え、ません」
「レティはそのままでいいよ」
「バルコニー、行けないのに……」
誘わないで、と嗚咽に紛れて吐き出せば、繋いでいたはずの手も背中に回されてぎゅうと強く抱き締められた。こんなにも近くに彼を感じるのはあの日以来だ。
「ちゃんとエスコートするつもりだった。意地悪したわけじゃないんだ」
けれどレティアンナは頭を振った。
そんな風に誘われたとしても、きっと行けなかった。誰かのように人前でジェイクの腕にしがみつく様など見せられなかった。
彼女と楽しんだものを差し出されるのが嫌だった。
ついでのように誘われたことも嫌だった。
拒絶を正しく理解したのか、縋るように腕の力を込められる。焦りと恐れを感じさせるようなその仕草は、レティアンナの心ごと抱き締めるつもりなのかもしれない。
「傷付けてごめん。でも僕の婚約者をやめないで」
◇◇◆◇◇
ほどなくして学園から数名の生徒が去っていった。
レティアンナとジェイクの距離感は変わらず、けれど第三王子を取り巻く者の距離感は正常へと戻った。
時折カフェバルコニーに一人で姿を現す彼は、中庭を通り抜ける婚約者を見つけるたびに甘やかな笑顔で手を振っていたという。
数ヶ月後、王立学園では卒業式を終え、卒業生参加の舞踏会が催された。
各々がきらびやかに盛装してホールを華やかに埋め尽くす中、レティアンナは壁際の椅子に腰掛けている。その身はジェイクに贈られた、銀色にも近い薄灰色のシンプルなドレスに包まれていた。
学園関係者の挨拶に続き、登壇したジェイクの学友に感謝を述べる心地よい声を聞きながら、そっと周囲を窺う。今日で道を分かつ学友たちは一様に晴れやかな顔で壇上を見つめていて、先の国を共に支えていく人々なのだと思うと胸にこみ上げてくるものがある。
気付けば会場内に割れんばかりの拍手が響いていた。乗り遅れたことを取り繕うように掌を合わせれば、挨拶を終えたばかりのジェイクがこちらに向かってくる。今しがたのうっかりを見ていたのか、ドレスと同じ薄灰色の瞳を愉快げに細めて。
レティアンナの前に辿り着いた途端に跪いたジェイクと視線の高さが揃う。
送られているのはおそらくきっと、レティアンナにしか向けられない微笑み。
「僕とファーストダンスを踊っていただけますか?」
手袋に覆われた手を掬い上げられたかと思えば、やや強引に引っ張られて意図せず立ち上がってしまう。足に踏ん張りの利かないレティアンナの身体は勢いのままにジェイクに凭れる格好になってしまった。
「ジェイク様、何を」
「僕はもう君としか踊らないからね」
見上げた笑顔はこの会場の誰よりも澄み切り、決意の強さを滲ませている。
片手を背中に、もう一方を膝裏に滑らせてレティアンナを抱き上げた彼はくるりと振り返り、ホールの中心へ歩を進めていく。
ただでさえ人目を引く立場なのに、このようなことをされては嫌でも注目されてしまう。静まり返った広間の中、顔を俯かせるレティアンナの頭上からは笑いを隠さない声が降ってきた。
「顔を上げて、レティ。僕らの初めてのダンスだよ?」
第三王子はダンスともステップとも呼べない足取りでくるくると回り、けれども抱き上げた婚約者の重さなど感じさせないほど軽やかに奏楽団の音に乗る。
ドレスの裾がはためくたびに金色の刺繍が淡く輝き、目を楽しませてくれる。
王族が着るには最低限まで装飾が削ぎ落とされた礼服と、刺繍のみで華々しさを演出した軽く負担の少ない意匠のドレス。
このために用意されたものだと気付いたレティアンナの瞳にはうっすらと涙が滲んだけれど、その顔はまるで幼い少女のように無邪気な笑顔だった。