降り頻る血雨
息を潜めて、砂丘の峯を伝いながらゆっくりと嶺這蟲に接近していく。
目の前に水場があるのに近付けない事に苛立ち、狂った様に蠢くそれはファレットの接近に気付いていないらしい。
オアシス付近は平地で見晴らしは良い筈だが、周囲を警戒する程の余裕は無いのだろう。
いや、そもそも遠方を見渡す程視力は良くないのかもしれない。
(……もう少し近付いてみるか)
慎重な足取りで砂山を下っていき、背後から距離を詰めていこうとしたその矢先の出来事だった。
『ミィ……』
ピクリと、突然嶺這蟲の動きが静止したのだ。
そしてゆっくりと、ファレットの方へ振り向いた。
無機質な双眸から放たれる色の無い眼光は確かに彼を貫き、底知れぬ恐怖心と嫌悪感を与えていた。
思わず彼は立ち止まり、舌を鳴らす。
「本当に虫か、アレ……!」
その時ファレットは思い出した。
嶺這蟲はあくまで虫ではあるが、れっきとした魔物なのだ。
虫だから弱い、虫だから簡単に殺せる、虫だから低脳。
その様な常識は魔物には通用しない。
(クソッ、何か調子悪いな……一回魔力が切れたから?)
出来れば身体のメンテナンスと魔力の調整をしたいが、今はそんな事を考える余裕は無い。
目の前の脅威を退けて力を見せ付ける、それが今率先するべき事だ。
どうやら件の蟲は気が立っているらしい。
数多の生物を喰らって硬質化した牙をカチカチと噛み鳴らして、突然現れた獲物を威嚇している。
「どうするかな……」
嶺這蟲の体躯を観察しながら、どの魔術を用いて倒すか考えていると、不意に彼方が動き出した。
『ミュァァァァアア!!』
小高い山の様に巨大な身体を捩らせて、腹で砂を滑りながら突進してきたのだ。
規格外の体重と重鈍ながらも高い身体能力を活かしたタックル。
轢かれてしまえば、確実に無事では済まないだろう。
「速い……!」
一瞬の判断の後、ファレットは全速力で駆けて嶺這蟲の進路方向から外れると、砂に向かって勢い良く飛び込んだ。
刹那、彼が立っていた場所を大樹の幹の様に太い蟲が蹂躙した。
砂から顔を上げて、嶺這蟲が脚を止めて方向転換しようとしているのを確認すると、慌てて身体を起こして走り出した。
「何て奴だ……あんなデカイ身体でこんなに速く走れるなんて……!」
これ程強靭な魔物と対峙するのは久し振りだ。
だからこそ、心が躍る。
気が付けば、ファレットは薄笑いを浮かべていた。物事の流れが上手く運んだ時にする物と同じ笑みを。
幾つかの砂山を越えて逃げるが、依然嶺這蟲は追ってくる。
「やるしか無い……!」
ファレットは拳を握り、小高い丘の頂上を飛び越えた。
「ッ、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
白砂の傾斜を膝立ちのまま滑り降り、強引に距離を置く。
小高い丘を最後まで下り切ったと同時に立ち上がり、後ろに振り向いて、体液を撒き散らしながら迫り来る嶺這蟲の顔に標準を合わせた。
「…………!」
極限まで無駄を削る事で短縮化された詠唱を、手早く済ませ、その術名を喉が張り裂けんばかりに吼えた。
「『虚空を裂く風』ァ!」
刹那、ファレットの右手首に埋め込まれた杖が彼の肉体に流れる魔力と呼応し、その掌に光り輝く球体を創り出した。
白く仄かな光を帯びたそれは少しずつ回転しながら、フワフワと空中に浮かんでいる。
掌から射出された球体は、一直線の軌道を描いて嶺這蟲の背中に着弾し、
その次の瞬間、巨大な身体を滅茶苦茶に斬り裂いた。
『ミュ、ミュァァァァッ!?』
分厚い皮膚に覆われた肉がまるで、何十回も鋭利な刃物で斬り付けられたかの様に乱雑な傷を負い、夥しい量の体液と共に数多の肉片が砕け散る。
鮮やかな緑色の液体が、まるで雨の様に白砂に降り注ぐ光景は圧巻の一言で、ある程度距離が離れている筈のファレットの肩にも肉片が混じる体液の雨が掛かった。
「よし、命中……!」
突然降り掛かった激痛と衝撃に頭がショートしたのか、嶺這蟲は砂の上で悶え苦しむ。
「…………!」
ここで攻撃を止める訳にはいかない。
更なる追い討ちを仕掛ける。
手短に詠唱を済ませ、先程と同じく『虚空を裂く風』を発動し、斬撃を内に秘めた光球を何度も何度も射出する。
不安定な砂上だが、鋼鉄の身体によって発揮される驚異的な体幹はブレる事無く、狙った通りの場所に標準を合わせる。
五発目の光球が破裂した所で、満身創痍の嶺這蟲は千切れかけた半身を動かせて地中に潜っていった。
砂を巻き上げる煙と砂中を泳ぐ事で発生する振動が遠ざかる事で、ファレットは敵が逃亡した事を悟った。
「……チッ、待て!」
後を追い掛けるが、ファレットの脚力では砂中を泳ぐ蟲に追い付く事は出来ない。
彼は悪態を吐いて、逃げ去る嶺這蟲の影を見送った。
頰を撫でる風の涼しさを感じながら、ファレットは自らの両手を見下ろす。
『虚空を裂く風』、彼が創造主より賜った魔術の一つだ。
魔力を通す事により具現化した、鋭利な風の刃を柔らかな殻に閉じ込める事によって、着弾した瞬間敵の身体を斬り刻むという物で、それは言うなれば斬る弾丸。
直接火球や水弾を撃ち込むよりも使い勝手が良く、単純な威力も高い。
だが、勿論弱点もある。
「……腹減ったなぁ」
発動に必要な魔力が他の魔術に比べて一段と多いのだ。
人間の様に自分の身体で魔力を錬成出来ないファレットは、その分重い命を補給しなければならない。
元々彼の動力は枯渇していた上に、補給した命はセコに使われた小麦粉とチャート一個、そしてケヴィエンの話からして栄養剤の分だけ。
そんな食事で魔術を放てた事自体、奇跡と言えよう。
「肉でもあるかな……いや、流石に求め過ぎるのは失礼でしょう」
肉、それもたっぷりと純度の高い命を喰らった肉食魔物の物が良い。
掌に乗る程度の量でも、今の戦闘で消費した分の魔力は補給出来るだろう。
何を喰うべきか考えていると、不意に誰かに肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、其処には輝かんばかりの笑顔を浮かべるケヴィエンが立っていた。
「凄かったよ……!」
「ありがとうございます……どうでした? 俺の腕前」
「良かったよ。流石魔人兵って感じだったね……高い運動神経に物を言わせて、軽やかに魔術を叩き込む……何て言うか、魔剣士っていう感じ」
「魔剣士って……俺、剣術も格闘技も何も出来ませんよ? さっきのもただ走り回ってただけですし」
「でもねぇ……!」
「そんなヨイショしなくても……」
此処まで評価されるとは思っていなかったファレットは、気恥ずかしくなり目線を逸らした。
しかしそんな彼の態度とは裏腹に、余程興奮しているのか、ケヴィエンは目を爛々と輝かせて先程の戦闘を事細やかに分析し、この都度丁寧に評価付けていく。
聞き慣れない専門的な単語が飛び出してきた所で、ファレットは話の流れを遮る様に強引に言葉を挟んだ。
「か、かなり魔術に詳しいんですね」
「ん? まぁね……昔、国では結構有名な魔術師だったからね。造詣と知識はあって当然だよぉ……。知らない? 『無光の魔術師』って……」
「……すみません、知りません」
ケヴィエンが高名な魔術師である事は理解したが、その異名に聞き覚えは無かった。
そういった同業者の魔術師に関する知識に乏しいファレットは、首を傾げる事しか出来なかった。
「あっ、そうなんだ……まぁ良いよぉ。最近は人前に出てないから」
彼女は帽子の縁をやや上げると、屈託の無い柔らかな笑みを浮かべた。
薄影の奥で静かに瞳を輝かせるケヴィエンは、今までファレットが出逢ってきたどの女性よりも綺麗だった。
その美しい笑顔に見惚れていると、不意に彼女は疑問を口にした。
「そういえば……さっきの魔術って、一体何なの? その……聞き慣れない名前だったけど」
「あぁ、あれは創造主から教わった『虚空を裂く風』……古い言葉でレグミーラって言う魔術なんです」
「へぇ……面白いなぁ」
その時、彼等の足元にふと鷹が降り立った。
一羽だけではない、滅多に見られない程大量の鷹が砂地に降り、辺り一面に散らばる嶺這蟲の肉片を啄んでいた。
「こんな砂漠のど真ん中でも鳥って居るんですね」
「そうだよぉ……丈の低い草の中に巣を作って、こんな感じで魔物の死骸を喰って生きてるんだ。所謂スカベンジャーだね」
鷹達が一心不乱に肉片を食い散らす様を眺めていると、不意に足下の砂が細かく震え出す。
何かが来る、そう直感したファレットはケヴィエンの肩を抱き抱え、砂山の嶺の向こう側に飛び込んで身を隠した。
その瞬間、肉片に群がる鷹を蹴散らすかの様に白砂が爆ぜた。
立ち込める砂煙の中から姿を現したのは、巨大な蟹だった。
「ッ!」
赤褐色の甲殻に覆われた脚は頑強で、重い胴体を難無く支えている。
それぞれ大きさの異なる重厚な両爪は、まるで金属か何かで出来ている様な光沢を纏っている。
そして何より特徴的なのは、背中を埋め尽くす程肥大化した石灰色の海綿動物だ。
岩石の如き質感のそれは空洞なのか、至る所に細かい穴が空いており、見た目に対して軽そうに見える。
恐らく、その背中に宿った海綿動物が蟹にとってヤドの役割を果たしているのだろうか。
「あれは一体……?」
「鎧蟹……砂漠に棲む蟹型の魔物だよ。多分嶺這蟲の破片を食べに来たんだろうね……」
「また随分と、強そうな魔物ですね」
「背中のヤドが硬くて丈夫だからかな、警戒心も低くて大人しいんだ……まぁ、外敵は勿論皆殺しにするけど」
ケヴィエンは立ち上がると、ファレットの方を向いて言った。
「攻撃しない限り襲ってこないから……今の内に戻ろう?」
「はい、そうですね」
彼女の背中を追おうと立ち上がり、肉片を丁寧に啄む鎧蟹を横目で眺めながら立ち去ろうとすると、足に何かが引っ掛かった。
それは先程ファレットの型に降り掛かった嶺這蟲の肉片だった。
今迄気付かなかったが、かなり大きい。下手すれば一匹分の鶏肉程度はあるかもしれない。
「…………あの」
「ん、どうしたの……?」
「…………この肉って喰えますかね?」
「……へ?」
ファレットは足元の巨大な肉片を拾い上げて、そう尋ねたのだった。