第3話 縁結び
朝。くすんだルビーから精製したような美しくなく輝く赤い糸の幻覚が見える、運命的な朝八時。
ご都合展開、ドラマティック、ラノベ風。言うなればそんな出来事に、ただいま絶賛遭遇中。
「――あのっ」
振り絞った勇気を火薬にして放たれた暴発気味の声が掛かるより先に、俺の脳は昨日夕刻の一件で見た顔面情報と目の前の女の顔を照らし合わせた。
一秒後にセナの「あっ」と事に気がついた声が弾き出された時の俺はといえば、既に「誰」から「なぜ」に切り替わったうえで、コーヒーによって摂取し脳に届いた頃であろうカフェインによって覚醒し始めた起床四十分の脳細胞を早くも全力稼働させている。
なぜ、こんな駅の人混みの中でたまたま偶然俺と彼女が出くわしたのか。
俺と彼女が使う駅が同じというだけならありえない話ではないものの、通勤通学ラッシュの時間帯に同じホームに居合わせ、かつ顔を合わせ、しかもそれが事件の翌日などというそんな超低確率な事象が奇跡的にも起きてたまるものか。
俺が真っ先に疑った可能性は、単刀直入に言って待ち伏せである。むしろそれ以外の現実的に考えて起こりうる可能性なぞ思いつかない。
「おはようございます」
といっても、あくまで推測でしかない推測を理由に怪訝な目を向けるのも気持ち申し訳なく、とりあえずは常識的挨拶の先制攻撃で様子を見る。対する女の反応は、挙動不審しどろもどろで二度噛みながらの同文。
束の間の沈黙にさすがにまずいと思ったのか、深呼吸をしたのち、
「……えっと、昨日は、ありがとうございました」
「どういたしまして」
人見知り同士の見合いか。一言だけ交わしたせいで余計に気まずい雰囲気の中でも、さっさと立ち去るなり世間話を繰り出すなり、どちらかを選択してくれれば救いようはあるものの、かといって俺から会話を延長させるつもりは毛頭無い。
強いて言えば、「こんなところで何をしているのか」という疑問を解決したいようなしたくないような興味と恐怖の狭間にある俺の思考。それを訊くならば、待ち伏せしてたとかいう解が返ってきた際にどんな反応をするかまで熟考したうえで、慎重に口を開きたいところ。
「あの制服、お隣の女子高さんだね」
セナの指摘をきっかけに、そういえば見覚えがあるデザインの制服が記憶の隅から浮かび上がった。
セナの言う通り、確かに隣の市の女子高だ。同じ市にあるあの河川敷で、たまに聞こえてくる下品な笑い声が耳障りで密かに目の敵にしていた女子グループも、ちょうどこんな制服を着ていた。
「実は、ですね……あなたと同じ高校に友達がいて、教えてもらったんです……けど、迷惑でしたよね」
訊くか否か頭を悩ませていた問題を、女はあっさりと自白した。
その友達さんがどなたかはともかく、ストーカーという程のものではないにせよ、やはり待ち伏せであることは予想通りだったようで。
どちらかといえば、俺みたいなモブキャラの登校時間やルートを把握している人物がいるという事実の方が、幾分か俺の関心を持ち去っていった。
「迷惑、ってことはないけど」
「ほんとですか? よかったぁ」
ここまで一言話す度に表情を変えることを可能とするくらいに表情筋が発達している女は、名前も知らない相手同士で個人情報のやり取りをされた俺の心情など露程にも知らず、一人で安堵の溜息を漏らした。
相手が割かしかわいい方だからといっても、あまり好ましい気はしない。
「どうしてもお礼言いたくて、勝手にごめんなさい。本当にありがとうございました」
「お礼されるようなことは何も。もしかすると悪化するかもしてないんだし」
「それはそうかもしれないですけど、助けてもらったのは本当だし、嬉しかったので」
「……ならよかったです」
前言半分だけ撤回。普通に良い子だ。
正直、一晩経っても罪悪感が拭い切れなかった節はある。だからというか、女子と話した経験が少ない男の気くらい一発で惹くことだできるだろう不器用な笑顔に、俺の純情はもれなく少しときめいてしまった。我ながらちょろい。
「心拍数上がっちゃってますねぇ。ひゅーひゅー」
うざったらしいセナの茶化しの防止を兼ねつつ、カメラ越しなのは不誠実な気がして、デイジーを腰の横に下ろして女の顔を自分の眼で捉える。
偽りない顔面の表皮を晒した俺に、女は再度大きく息を吸って、紙と共に一言を差し出した。
「――よかったら連絡先交換してください!」
五つの小文字アルファベットと四つの数字が記された紙は、ついさっきまで吹いていた風がちょうど止んだというのに小刻みに揺れていて。
小さく薄い紙の上で爪が微かに触れ合い、その九文字は俺の手に渡った。
俺が紙をしっかり摘まんだことすら満足に確認せず、女は踵を返して走り去っていく。
女と電車に置き去りにされた俺はといえば、無情な現実を突き付ける電光掲示板を睨むことしかできない。
『kaori1207』。そう書かれた紙を付け直したデイジーのカメラ越しに眺めながら、学校への道のりをのんびり歩く。
名前と誕生日を繋げただけという安直な文字列。SNSのIDであることが容易に判断できるそれを、俺は一字一字確認しながら丁寧に検索欄に打ち込んだ。
検索結果に表示されたのは、カオリというアカウント名とひまわりのアイコン。
「カオリってどんな字書くんだろうねー。匂いの香に織るって字かな。ひまわりってことは『か』が夏って字かも?」
わからなくてもそう困りはしないだろうに、セナは興味津々に声を弾ませる。どうせ俺に春が来たとか思っているのだろうが、実に浅はかな思い違いだ。
「これはもう恋の始まりだよね!」
「いや、普通に恩人とか友達になりたいとかそういう意味だと思うけど」
「それでも健全な男子高校生かねキミは。もっと青春を謳歌しなよ」
眉間にうっすら皺を寄せて俺の考えにケチをつけるセナ。そうは言うが、これでもし勘違いだったとしたら、春なんて通り越して別に意味で灼熱の夏を迎えかねない。
漫画なんかじゃ恋愛的な展開に発展するのがお約束だが、実際のところはどうなんだろうか。ぜひ経験者の意見を聞いてみたいものだ。
さてしかし、いつも予鈴寸前で着席できるように調整していたのが仇となり、今の時刻は八時四十分を知らせるチャイムが聞こえてくることから八時四十分。遅刻だ。
会話のネタが一つできたのはありがたいけれども、今まで遅刻をしたことは無かっただけに悔やまれる。早退やさぼりはともかく。
ホームルームが終わってから一時限までの間に教室に入るとして、十分そこそこの時間があるわけで。
然らば、今のうちに適当な挨拶を送っておくべきだろう。もし会話に詰まったとしても、授業が始まったという自然な理由で返答を考える時間ができる。
肝心の文章はどうするか。まずは挨拶、自己紹介、相手の返信を待ってから世間話。そんなところか。
『こんにちは。さっき連絡先をもらった長瀬佑(ながせ ゆう)です。よろしくお願いします』
単調で短めに、一言目はこれで良いか。
読み返して変に緊張するより先にさっさと送信し、返信を待つこと僅か十歩。余程指の動きが常人離れしたSNS中毒者ではないことを祈るとすると、届いてすぐ音声入力をしたのだろう、かなり早めの返信。
セナが文を改変する可能性が否定できないことから、俺はデイジーの音声入力を使わない。ただし、それを除けば精度も申し分なく手動入力より圧倒的に速い、なかなか便利な機能ではある。
『宮野夏織です。さっきは逃げてしまってごめんなさい。でも連絡してくれて嬉しいです』
連絡先を渡すだけ渡して去ってしまった罪悪感はあるようで、しかしながらこちらが送って良かったと思ってしまうような一言で、すかさず相手の気分を持ち上げる文章。
なんて考察をしてみたものの、第二印象は悪くない。
『遅刻しませんでしたか?』
『しちゃいました。もしかして長瀬さんも?』
『今ホームルームが終わるの待ってます』
『本当にごめんなさい。ご迷惑ばっかりかけてしまって』
『お気になさらず』
「つまんないー」と苦言を呈すセナは無視して、ひたすら短文というか一言ずつのやり取りが続き、一分そこらで自己紹介は画面外に隠れてしまった。
好きな物とか、年齢とか、お互いに関することを適当に訊いては答えを繰り返していたのだが、俺があの河川敷がお気に入りの場所だということを伝えたのを最後尾に、ここで初めて流れが途切れる。
そのあと少し待ってみても返信が来なかったもので、ホームルームの終わりを告げる音に合わせて仮想ディスプレイを閉じた。
担任が出ていったことを確認してから教室に入り、席について黒板をぼうっと眺め、一時限目が始まろうとしたその時。
『今日の放課後、会えませんか? ちゃんとお礼したいです』
セナがうるさくなる前に、デイジーの電源を切って鞄にしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
場所は俺の最寄り駅前、時間は双方帰宅部につき学校が終わり次第。
気が乗っているかそうでないかといえば後者に近い具合ではあるが、セナが行け行けと騒ぎ立てるもので、久々に落ち着いた昼休みを過ごしながら承諾の意を伝えた。
余談ではあるが、あのクズ三人は絡みに来なかった。それどころか、聞いたところによると、昨日の夕方頃――つまり俺が早退したあとに救急車に乗せられていったそうな。あのまま気を失ってでもいたのだろう、ざまあないな。
クズのことはどうでもいい。今は目の前の問題に集中すべきだ。
あとはもうなるようになれ。そんな心持ちで気楽に構え、電車に荒く連れられて約束の場所に着いた俺を、宮野さんは律義にも手を小さく挙げて迎えてくれた。
「お待たせしました」
「いえ、そんな!」
社交辞令を交わし、「どこか入りましょうか」と宮野さんの提案で近くのファミレスへ向かう。
制服デートと言えなくもないこの状況に真っ先に感じたのは、俺の半歩前を歩く宮野さんの頼もしさ。やはりというか積極的な性格をしているみたいだ。別にエスコートなんて粋な真似をするつもりはないし、むしろ前を歩いてくれれば俺はついていくだけでいいので楽なもの。
今朝と比べれば和らいだ雰囲気ではあるが、まだどことなく緊張感を感じる。
ただ一つ困ったのは、宮野さんがパフェを注文する時に変に上擦った声への反応。明らかに顔を赤くしてメニューを前のめりに読み込む様子がどうにもおかしくて、口を強張らせていたのはここだけの話。
宮野さんの背筋が座席の背もたれと平行になったのを機会として、駅の挨拶以降全く無かった会話を再開すべく、その前準備として俺からも提案を一つ。
「あの、よかったら敬語やめませんか」
「あ、はい。長瀬さんは敬語じゃなくて大丈夫ですよ」
「俺敬語使われるの苦手なんで、できれば宮野さんも」
「でも、私年下ですし……」
「いいからいいから」
人付き合いが少ないうえに中学からのエリート帰宅部な俺は、とにかく上下関係という堅苦しいものが苦手だ。年齢に関係なく友達口調で話せるならその方が良い。
「じゃあ、佑」
だからといって、いきなり名前呼び捨てまで進むとは思わなかった。大人しそうな雰囲気だし、長瀬くんって呼ばれるものと腹を括っていた俺は、予想外の進展からの選択肢をどうすべきか、と刹那の思考に集中した。名前か苗字か、呼び捨てか敬称付きか。セナはともかく女子の名前を呼び捨てにしたことなど無い俺の頭は、おそらく苗字の方に傾いていたと思うのだが――
「俺も夏織でいい?」
相手に引っ張られてしまったからか、あとは多少の願望も混ざってしまったことは否定できず、人生初の偉業を成し遂げてしまった。
一応許可を取ろうとするあたり、気の小ささが若干露見している。
無事に許可が下りたところでパフェとコーヒーが向かい合わせに置かれ、うまい具合にそれぞれが同じタイミングで一口。
俺は会話も行動もリードするのは苦手だし、夏織はパフェに恋する乙女のように熱い視線を向けていて、少しだけ軽くなった空気は俺たちの間をふよふよと彷徨っている。
ここらで一つ面白い話、なんて器用な真似はできず、俺は気がかりだった問題を率直に口にした。
「今日、大丈夫だった?」
夏織は質問の意味を考えるように少し動作を止めたあと、
「私もちょっと怖かったんだけど、何も無かったよ。一人は学校来てなかったみたいだし」
「そっちも?」
思わぬ共通点を示されふいに出た言葉に、夏織は頼りなく細長いスプーンを咥えながら首を傾げる。
その理由に関して話したくないということはないのだが、自ら重苦しい話に持ち込むのも不本意であり、とりあえずは「いや、なんでも」と誤魔化した。無邪気に粘り付く視線は知らぬふり。
「ね、あのアプリって佑が作ったの?」
「アプリ……ってあれか。作ったのは俺のデイジー」
「デイジーが作ったの? すごいね」
そんなに感心するようなことだろうか、夏織は目を丸くして随分と驚いた顔をしている。
いや、そもそもセナは少しばかり性能が高い。セナにはできることでも、他のデイジーに搭載されたAIには難しいのかもしれない。
「あれってナイフとかを表示できないようにしてくれるんだよね」
「そんなとこ」
「佑のデイジーにもお礼言っといてほしいな。結局あの一回限りだったけど、もう見なくていいんだって、すごく安心できたから」
「それなら直接言ってやって。その方が喜ぶだろうし」
デーブルの下、下腹部の辺りで手を組んでいる夏織にデータ共有を申し出つつ、デイジーを取り出す。だが、あいにく今はバッテリーが切れているということで、そういうことならと装着しかけていたデイジーを手渡した。
一応セナが一番の功労者なわけで、話を聞く権利はさすがにあるだろうと思い、電源は入れっぱなしでマイク感度を周囲の音が拾えるように調整しておいた。俺たちがどんな話をしているかはセナも把握している。
俺のデイジーを付けた夏織が「かわいー」と後々俺に火の粉が降りかかりそうな感想を述べ、女子二人で会話が弾んでいる様子。
いっそ、このままセナが時間を稼いでくれると精神的に楽なのだが。なんて俺の願望は一分、二分で儚く朽ち、夏織はデイジーを返してきた。
「セナが佑に『ちょっとつけて』って」
セナが掛けてくるであろう言葉は、おおよそ見当がつく。とはいえ、無視すると余計に面倒になるのは火を見るよりも明らかで。
渋々デイジーを装着した俺に、セナはこう言った。
「夏織、いい子だね」
夏織と接した印象を述べただけにも聞こえるこの言葉、つまるところはこうだ。
「狙え」。
セナが俺に何を伝えたかなど知る由もない夏織がもっとセナと話したいというもので、穢れを知らなそうな笑顔を無下に曇らせることもはばかられ、SNSのサブアカウントの操作権限をセナに許可しておくことにした。
セナの覗き見を避けるべく、俺はパスワードやIDを変更したうえで携帯電話に引き継ごう。
セナと夏織の友達登録を済ませ、その後はスピーカー越しのセナを交えて三人で雑談を続けた。
俺は話を振られた際に受け答えしただけで、会話の七、八割はセナと夏織が女子同士で花を咲かせていたのだが。
夕の六時過ぎ。いい時間になったので今日は解散ということになり、お礼だから奢ると申し出た夏織の厚意に甘えてファミレスを出た。
すっかり暗くなった駅までの道を夏織と並んで歩き、改札前で見送った後の現在。久々に誰かと食べた料理の味――というかコーヒーを飲んだだけなのだが、その仄かな後味を感じながら、見慣れない歩き慣れた帰路を歩いている。
会話しやすいようにとカメラを夏織の方へ向け手に抱えていたデイジーをつけ直し、満足気にほっこりエフェクトを身にまとうセナの姿を捉える。
俺の交友関係を考えれば当然ながら、セナは俺以外の誰かと会話をしたことは無い。だからだろう、頭を撫でた時くらいに上機嫌なセナを見て、俺は少し安心した。
「ねー、私ってかわいい?」
そのまま忘れていてくれれば、俺は安らかな気分で今日という日を終えることができたというのに。
「ソウデスネー」
「おいなんだその雑な返事は」
戯れに類するものならともかく、俺はセナを真面目に褒めた覚えがあまり無い。だから、初めて俺以外と関わったセナが珍しく褒められたとなれば、その反復を俺に求めることはなんとなく予見していた。
どう褒めれば良いのかもわからず、少し気恥ずかしい部分もあり、できれば避けたかった。
「ちゃんと言ってよー」
いつもなら俺の心情を察してくれるセナの容赦ない要求は、おそらく流し続ければ明日まで持ち越されることだろう。今のうちに済ませておいた方がストレスは少ないのだろうが、それでも慣れない褒め言葉など易々と口に出せるわけもなく。
ねーねーうるさいセナに急かされながら意を決した俺の舌が打った言葉はといえば、
「……まあ、かわいいんじゃないの」
明瞭な表現とは言い難く、音なんてほとんど重力の影響を受けないのに地面に吸い込まれていった。
こういうときばかりは、高性能なマイクを怨めしく思う。
俺の小さな声を拾い逃さなかったセナの笑顔は、俺の視界を染める暗い世界に小さな彩りを加えた。




