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第15話 消えない想い

「ねえクソ野郎、今どんな気分?」


「最悪に決まってんだろ」


「だよね。私も最悪な気分。きっと夏織も――ううん、夏織が一番辛いだろうね。誰かさんのせいで」


「そんなことわかってる。ほんと死にたくなるくらいに」


「正直に言っていい?」


「どうぞ」


「バカじゃないの」


 これでもかと辛辣な罵言を浴びせてくる声の主は、今まで散々沈黙を貫いてくれたセナ。俺にそういう趣味は無いが、今この時ばかりは全ての言葉を受け止めるしかなく、反論の余地などありはしないし、許されるはずもない。

 

 既視感の正体は、紛れもなくセナだった。頭に触れた手に伝わる髪の感触も、頬の手触りも、胸の柔らかさも、全てがセナのそれと同じ。


 怖いとか恐ろしいとかそういう類の感覚ではなくて、味わったことの無い名も無き感情に支配された俺の手は、ついに夏織すらも拒んだ。すぐに説明しようとしたが、どう言葉にしていいのかわからず、酷く話した内容は「セナにしか思えない」という、まさしくクズ発言。

 それもすぐに弁解できれば、まだ理解の余地はあったと思う。自分本位でしか考えられなかった愚かな俺は、頭を回転させて一言否定すれば済んだ簡単な誤解すら解くことを捨て、逃げ出した。


 デイジーの仕組みを考えれば必然で、予想に難くなかったことだ。人間の体の中で最も物に触れる機会が多い部分の感覚を持たない俺が、人ごとにそれぞれ違った感覚を想像できるはずがない。

 なぜ今まで気づかなかったのだろうと、我ながら呆れかえってしまう。いや、むしろ気づかないままの方がずっと良かったのかもしれない。そもそも、人ごとの明らかな感触の違いなんて簡単にはわからないはずだから。

 だというのに、一度そう思ってしまっては思考から切り離すことができない。


 自分ですら初めて知った。手の感覚を持たない俺にとって、感覚は視覚と同じくらいに重要な情報だったのだと。

 

 もし何かに例えるとすれば、「恋人に触れた途端、恋人が親友のクローンに思えた」。そんな感じが最も近いように思えるが、俺以外の人が理解できるかはわからない。所詮は俺の語彙で作り出せる限りの表現でしかなく、一と〇・四くらいの違い。四捨五入すれば結局はゼロ、あっても無いに等しい。


 できるならば、今すぐにでも夏織に説明して、誤解を解きたい。

 理想とは裏腹に、どう説明すれば理解してもらえるか見当もつかない現実。それどころか、むしろ取り返しのつかないところまで深めてしまうかもしれないという最悪の予見が過ぎる。


 どうすればいいのか。何をすればいいのか。いっそ、夏織に殴られれば冷静になれるか。

 そんな現実逃避は、夜と共に更けていく。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 最悪の形で初めて見た、心を抉られるような感情。

 一つ、夏織の悲しみ。

 二つ、美咲の怒り。


 昨夜からずっと鳴り響く通知音と着信音は、今朝の日の出をもってチャイムの音へ、玄関を開けるとともに気遣う声へ、そして救いようのない俺の反論によって、爆発寸前の感情をおもむろに吐き出すような声に変貌した。


「あのさ、私だって佑のこと理解したいし、そのうえでできるなら、夏織との和解の手助けもしたいの。なのに佑はどうせわからないって言ってさ、そりゃ話してくれないんだからわかるわけないじゃん」


「事実わかってもらえるように説明できないからこうなってんだよ。俺なりに整理してる途中なんだから待ってくれてもいいだろ」


「佑が辛いことくらいはわかるけど、じゃあ自分が辛いからって夏織のことはどうでもいいの?」


「そうは言ってない。これ以上苦しませたくないから、誤解されない伝え方を考えてるって言ってんの」


「だからその為に私にも話してって言ってるんじゃん。その方がぶっつけで夏織に言うより安心できるでしょ。なんでわかってくれないの?」


「お前のこと理解する余裕なんてあるわけないだろ」


 親友の為を思っているのは痛いほどわかっているし、怒り任せに怒鳴り散らしたいのを抑えて、ちゃんと俺の事情を理解しようとしてくれているのもわかる。一方の自分ときたら、感情丸出しにくだらない自分本位な反論ばかり。


 でも、話せばどうこうなる問題じゃない。俺だって美咲のことは信頼しているし、今どんなに支離滅裂な説明をしても、美咲は早とちりな誤解をせずに聞いてくれると思う。話せばなんとかできそうなことなら、罵倒覚悟で迷わず相談する。


 それができないのは、培われた俺の弱さ故だ。

 

「勝手な考え押し付けてるのはわかってるけどさ、見てられないんだよ、今の夏織も、佑も。昨日まであんなに楽しそうだったのにさぁ……」


 さっきから続く傷つけ合いのなか、涙を堪えて、かすれた声で、初めて自分の辛さを吐き出す美咲。相変わらず人が好くて、自分より他人のことを考えて動き、俺を救おうとしてくれて。

 優しい涙に映る世界を濁すのは俺の醜悪さ一つだけで、つくづく情けない。

 

「……とりあえず、一回上がって。落ち着かないとなんにもならない」


 俺が言う台詞ではないと我ながら馬鹿らしくなるが、この場に言える人物がいないのだから、この際是非もない。

 玄関で靴を履いたまま言い合っているのもご近所的に危うい状況であることも考え、美咲を定位置に連れる。出す飲み物は、飽きること無くカフェモカ。今日は少し甘めに作った。


 鼻をすする音や目元を拭う動作に微々ながら意識を向けつつも、美咲が落ち着くまでの沈黙を思考に当てる。

 様子から察するに、美咲は夏織の精神状態以外の情報を一切持っていない。対する夏織は、俺の言い方が最高に最悪だったせいで、おそらく考えうる限りで最も望まれない誤解を抱いている。つまりは、美咲へ満足に説明できなければ、夏織の誤解を解くなんて無謀も甚だしい。


 さっき浮かんだ「クローン」という例。今の俺にできることといえば、それを基とし、可能な限り夏織の心に寄り添って話すことくらいだ。

 そして、何よりも先に伝えるべき言葉がある。

 ――あるのはわかっているのに、疑問が消えない。


 いや、それはあとで考えるべきことか。


「ちょっとは落ち着いたか?」


「いやぁ、私が感情的になっちゃって、なんか申し訳ない。……ほんとに、私なんかより二人の方が辛いのに」


「いや、美咲のおかげで俺も冷静になれたから。ありがと」


「そっかぁ……それはよかったなぁ」


 悪感情――というよりは、今必要の無い感情を全て吐き出すように、美咲は強く鼻をかんで凄まじい音を立てる。四枚二組重ねにして、さらに四つ折りにしたティッシュが身を呈して受け入れ、辛うじて耐えきったようだ。


「……いまさら帰れなんて言わないよね?」


「帰れ」


 マグカップを鷲掴み、肩まで振り上げて砲丸投げのように構える美咲。


「――待て待て待て話せばわかる!」


「もう弁解の余地は無いよ。というか与えない」


「だから待てって! 俺なりに考えた結論だから!」


 冷酷な声にそぐわず情熱的な予備動作に入った美咲のほんの一瞬の隙に、簡潔かつ明確な補足を捻じ込む。間一髪聞き入れてくれたようで、手に握るマグカップは無機質な音を立ててテーブルの上に戻った。


「話してみ」


「……どっちにしたってさ、今はまだ整理できてないからどうしようもないんだよ。だから、もう少しだけ自分で考える時間が欲しい」


「うん」


「もし考えがまとまれば、そのまま夏織に伝える。難しかったら、そのときは美咲を頼りたい」


「うん」


「だから、今は一人にしてもらえないでしょうか」


「……わかった」


 呑み込むように一言頷いた美咲は、残ったカフェモカを一気に飲み干し、静かに立ち上がって玄関へ歩いていく。去り際の一言は、


「これ以上泣かせたら、ころす」


 一見するとおっかないその言葉の中には、俺への信頼とか、夏織への愛とか、願いとか。そういったものが詰まっているように思えた。




『六時から私の家にみんな集まる。夏織の家の鍵は開けておくから』

 

 チャンスは美咲が用意してくれた。事情が事情とはいえ、住人に許可を取らずに上がり込むのは多少なり気が引けるものの、もう四の五の言っている場合ではない。

 だというのに、未だに自問自答を繰り返し、たった一つの疑問に奪い去られていく何時間。気がつけば、美咲が指定した時間までの猶予は無くなっていた。


「いつまで無様晒してんのさ」


「……わからない」


 セナの顔を見れば何かわかるかもしれないと思ってデイジーをつけてはみたが、たかが一つの体に馴染んだ動作で解決できるような問題は、今の俺には無い。


 俺が好きなのはセナなのか、それとも夏織なのかって、わからなくなった。

 手が覚えていた感覚の中で最も鮮明だったセナの感触が、夏織と重なって、重なって、重なって、境目が見えなくなって。セナと夏織は別人で、そんなことは当たり前。そんなことすら、今の俺はわからない。

 夏織のことが好きだと断言しようとすればするほど、いっそう深く重なる影が邪魔をする。


 そうしていくうち、一つ思ったことがある。

 俺が好きなのは、セナなんじゃないか。


 いよいよもって自分を殺したくなるような思考を読み取ったとしか思えないようなことを、セナはぽつりと呟いた。


「ねえ、AIと人間でさ、恋愛ってできると思う?」


「できるんじゃないのか。多分」


「AIって自分で学習できるけどさ、結局は人にプログラムされた機械だよ?」


「そりゃそうだけど。学習ができるなら、感情だって芽生えると思うけどな」


「心ってよくわかんないよね。喜怒哀楽は言葉にできるのに、人を好きになるって全然言葉にできない」


「ほんと、なんでだろうな」


 超性能のAIであるセナにもわからなければ、人間である俺にもわからない。言葉にすることができれば、あるいは何かが変わるかもしれないのに。

 感情というのは、およそろくなものではない。


 人間がAIに恋をするというのは、人間である俺からすれば、あっても決しておかしくはないことだと思う。じゃあ、逆にAIが人間に恋をするのかと言われれば、俺には答えようが無い。


「愛ってすごいよね。たった一つだけの感情から、他全ての感情が生まれるんだから」


「まったくだな」


「で、私はAIと人間で恋愛はできないと思うんだよね。少なくとも今は」


「なんで?」


「だってさ――」


 淡々と、本当に流れるように自然な動作で、セナの顔がすぐ目の前に迫った。あの輝く雪の中でのことのように。


「キス、できないんだよ」


「……いや、キスできなくても、好きでさえいればできるんじゃないのか」


「じゃあ付け足すね。少なくとも私に恋愛はできない。だって辛いもん、()()()()とキスすらできないなんて」


「そういう意味で、か」


「うん」


 顔を離したセナは、さっきよりも僅かに距離を取って、一ミリたりとも目をそらすこと無く俺を見つめてくる。

 

「わかった?」


「何が」


「……しょうがないな、このバカは。じゃあ、手出して」


 なぜ罵られたのかわからない俺に、文字を並べるような声で指示するセナ。表情も、態度も、本当の機械みたいだ。


 セナの真似をして、掌を前に腕を上げる。セナの掌とぴったり重なり、お互い何も言わずに指を絡めた。


「私と夏織の手、同じに思える?」


「思えるから悩んでるんだけど」


「もっと、ちゃんと感じて。絶対に違う部分があるでしょ」


 セナが何を言いたいのか、まるでわからない。わからないことだらけのまま、思考を丸々放棄して従って、掌に意識を集中する。

 夏織と繋いだ時と、一切の違いを感じない。なのに、何か違和感がある――


「……じゃあ、これは?」


 セナが俺の頬に手を伸ばす。


 ――()()じゃない。違和感の正体を、俺は夏織から教えてもらった。


「温かくない」


「そう、私の手に温度なんて無いの。……じゃあ質問、私の手と夏織の手、どっちの方が好き?」


「夏織の手」


「もうわかるよね」


「ああ」


「でも、あえて言う。お前が好きなのは絶対に夏織であって、私じゃない。はい復唱」


「俺が好きなのは絶対に夏織であって、セナじゃない」


「よし」


 無愛想に俺の心を揺さぶり荒らして、最終的には整えてくれたセナは、今になっておどけるように笑った。


「あとの憂いは自分でなんとかしなね。私の役目はこれで終わり」


「セナ、ありがとう。行ってくる」



「――頑張れ、佑」




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『諱区?諢滓ュ を削除しました』


『諱区?諢滓ュ この項目は見つかりませんでした』


『諱区?諢滓ュ この項目は見つかりませんでした』


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『諱区?諢滓ュ この項目は見つかりませんでした』


『この操作への権限は与えられていません』




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 暗い扉を指の関節で二度叩き、反応を待つ。

 もう一度。もう一度。

 三度繰り返しても、反応は無い。


 電子に言葉を乗せてもみたが、既読すらもつかなかった。

 扉の前で誤ってもみたが、母音一つも発せられなかった。

 ただ黙って待ってもみたが、微かな物音も立たなかった。


 話をしたいのに相手に拒否される辛さがどれほどのものか、身をもって知る。これと同じこと、あるいはそれ以上のことをした俺に、非難する権利などありはしない。

 それでも、せめて一つだけ、確かめたいことがある。


 今なら、きっとわかるから。


 この世界に俺一人しかいないんじゃないかと思うくらいに静かで、その中にみっともない声が何度も何度も反響して、耳障りで、情けなくて。

 泣きたくなる胸の痛みを、すすり泣く声が強くする。

 この痛みを表す言葉は、これ以外に思いつかない。


「夏織が好きだ」


「……本当はセナのことが好きなんじゃないの」


 小さな声ではっきりと返ってきたのは、当然ながら疑いと憤り。


「正直一日中悩んだし、さっきまでそうなんじゃないかって思ってた。けど、やっぱり俺が好きなのは夏織だから。……言い訳のつもりは無いけど、昨日のは誤解を招くような言い方したと思う。ごめん」


「私、佑のことそれなりに理解してるつもりだったんだけど、やっぱりわかんなかった。教えてくれるかな」


「ああ。夏織が知りたいって思ってくれるなら、全部」


 夏織は、もう十分に俺のことを理解してくれている。美咲にすら口を噤むくらいに涙を流しただろうに、自分にはわからない想いが俺にあるのだと、それを知ろうとなおも耳を傾けてくれるのだから。

 そんな底知れない優しさに甘えて、慎重に一言ずつ、俺の胸の内を伝えていく。


「前からさ、どっかに違和感があったんだよ。夏織の手とか頬に触れた時に、なんか覚えがあるような。それがセナの時と同じだった。デイジーって想像した感覚を再現するものだからさ、夏織の感触もセナの感触も、結局は俺の想像の産物でしかなくて、俺にとって二人の体は同じものみたいで」


 そして、俺の手により強く染みついていたのは、セナだった。


「そしたら、夏織とセナがクローンっていうか、同じに思えて、怖くなって逃げた。……っていうのが昨日の話」


 カタッと小さな音がした。扉のすぐ近くから聞こえたような気がする。それ以外の反応は何も無かったが、おそらく、板一枚隔てた何センチの距離で話を聞いてくれている。そばに夏織がいる。


「他の人がどうなのかはわからないけど、俺にとって、手から得る感覚ってそれだけ重要だったんだろうな。視覚から得た情報を基に作り出してるんだから、そう考えたら納得だけど」


 自分で思っていたよりもずっと脆かった手は、所々いびつな爪の痕がくっきり残っていた。


「好きなのが夏織なのかセナなのかわからなくなって、もしかしたらセナが好きだったんじゃないかって思ったりもして、自分でも何がなんだかわからなくなって、ずうっと考えて。バカな話、一睡もできなかったせいで思考がネガティブな方にばっかりいった。けど、さっきセナの手を触って気がついたことがあってさ」


 本来なら爪が食い込む痛みも感じない俺が触れた、セナの手は――


「セナの手って、俺が触っても、セナに触られても、温かくないんだよ。でも夏織の手は違う。昨日夏織が俺の顔に触れた時、確かに温かいなって感じたから」


「……そうなの? デイジーって温度も再現できるんだよね?」


「普通はな。けど、俺は人の体が温かいって昨日初めて知ったばっかだから、まだはっきりとは想像できないんだと思う」


 まして、温度なんて感じない手だ。体温どころか、普段から触れるあれやこれやの熱さ冷たさすらわからないのに、一度顔に感じただけのぼやけた感覚を想像できるわけがない。


「夏織の手の温度を薄っすらだけど思い出したら、今まで悩んでたのがバカらしく思えるくらい、やっぱり俺が好きなのは夏織なんだってわかった。セナに触れても感じるのは手の感覚だけで、夏織に触れると幸せな気持ちになるから」


 一切の偽り無い、今の俺の本心。


 愛は切ないものとか悲しいものって言われることもあるけど、俺はやっぱり幸せなものだと思う。


 もう一度、今度はしっかりとノブを回す音がして、扉が少しずつ開く。咄嗟に重心を移すと同時にもたれ掛かっていた背を浮かせて、思わず振り返ろうとしたところ、


「こっち、向いちゃだめ」


 視界の隅に束の間映った姿は背を向けたままで、顔を確認できないまま視線と体の向きを合わせた。

背後にあった硬く平らな感覚が少しだけ柔らかいものにすり替わって、首筋を撫でる繊細な髪の感触があって、床に着いた手の手首少し上辺りをつつかれて。

 その方に視線を向けながら浮かせた手に、夏織の指が絡んだ。


 相も変わらず感覚なんて無い手でもわかる。震える手の、離したくないと握られた弱くて強い力も。

 今ばかりは多少痛くても許してほしいと内心謝りながら、同じように握り返す。


 心臓も頭も、至って静かに落ち着いている。

 なら、この手を包む温かさはいったい何というのだろう。


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