第14話 ひまわりのそば
壁に隠されていた先の景色はとても美しく、何年という虚ろを満たすには、そう時間はかからないような気がしている。
もっと触れたい。そんな人間として当然の欲望が芽生え始めた冬の日。
あの日以降、夏織に対してだけは著しい回復が見られた。見られた、なんて表現は他人事のようではあるが、自分自身がよくわかっていないのだ。
ある程度の時間は手を繋ぐこともできるようにはなったし、手以外の、例えば顔などといった繊細な箇所にも手を伸ばすことができた。
ここを触るとくすぐったそうだなとか、外気に冷やされた手でここを触るとおもしろい反応するなとか。そのあときっちり叱られて、でもなんだかんだで楽しいし楽しそうで。毎日の新しい発見もまた、背を押してくれる要素なのかもしれない。
美咲とは長時間の接触をする機会など早々無いものの、夏織と比べると、どうしても度合いに差が
顕著に現れてしまう。ちょくちょくハイタッチを交わすくらいはできるが、俺は力の加減が油断できないもので、俺が手を挙げたところに美咲がぶち込んでくる形の半端なものでしかない。
デイジーに頼ること無くリハビリを続けつつも、たまにはデイジーの力で虚ろな感覚を手に覚える日々。そんな俺の脳が勝手に抱き出したのは、微かな既視感。まだはっきりと言い切るには不明瞭ではあるが、夏織に触れる度、少しずつ確実に肥大していく何か。
くしゃみが出そうで出ないようなむず痒い感覚を解決するには、眩しい光源を見るなりしてくしゃみを無理やり出すのが最善手。
特別光が強くなる今日あたりには、もしかすれば姿を捉えられるか。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
曜日があと一つ前にずれていれば、もう三、四時間長くなったのに。
どうしようもない不満を抱きつつ、夏織の到着を待つ十二時四十分。
西暦の起源となった強大な存在である人物の誕生日前日。前半はあいにくにも終業式によって埋もれてしまったが、その分は午後に目一杯楽しんでやろう。
明日に控えた夏織と美咲の家族合同パーティーに首を突っ込むべきか頭を抱えつつ、きっと装いを整えている頃の夏織を待つ。寒い。
駅で待っているのもなんだか落ち着かないもので、夏織の家の近くにある公園で待機していることを伝えた後、久しく飲むブラックコーヒー片手にブランコに腰掛けた。なお、冷めている。
「あれ、佑?」
まあ、家が隣なんだから通りがかるのは不自然ではない。
ふらりふらりと小さく揺れて、缶の中身を零さないようにするという遊びで暇を潰していたところに声を掛けてきたのは、とりあえず防御力に全振っていそうな服装の美咲。
「こんなとこで夏織待ち?」
「イエス」
「そっか。セナは?」
「ノー」
「明日どうするか決めた?」
「ノー」
「寒くない?」
「めっちゃ寒い」
「そこは喋るんかーい」
「強調したいと思って」
「ならもっと防寒しなよ」といった視線を向けてくる美咲。至極もっともである。
マフラーは邪魔くさくて好きではないし、手袋なんてもっての外。そもそも厚着自体が好きじゃない。
今の俺が身に付けているものといえば、汗を吸って発熱する素材の進化版インナーと撥水性で防寒にも優れたパーカー、ズボンは裏起毛の物。比較的気温が下がった曇りの日なら、それは多少は寒いはずだ。
「私はねぇ、これから友達とカラオケでパーティーなのですよ」
「一人身だからってお持ち帰りされないようにな」
「されませーん。女の子だけですー」
前を開けたコートの両ポケットにそれぞれ手を突っ込んだ美咲は、煽るようにぱたぱたとはためかせる。
クリスマスイブに女子会とは乙なことだが、はてさて、その内の何人が明日を男と共に過ごすのやら。
「じゃ、私はこれにて失敬。夏織が来たらあっためてもらうがいいさ」
「明日か来年かわからないけど、またな」
美咲は振り向きざまに肩少し上の辺りに手をかざして、低めのヒールを地面に打ち付けながら公園の外へ出た。そこで一度立ち止まって右方向に手を振り、反対側へ歩いていく。
方向といい動作といい、考えるまでもなく誰に向けたものかは明白。俺も公園の外まで行くべきかを僅かに思考したが、ここはあえて隠れることに。
小さなトンネル型の遊具に入って身を縮めながら、スマホのカメラを使って様子をうかがう。
美咲と比べて若干防御力に乏しい服装をした待ち人は、膝丈のスカートを舞わせながらあちらこちらを見渡し、その結果に納得できなそうに首を傾げる。
俺の密かな悪戯心など知る由も無く、奥にあるベンチに腰掛けて、薄い板状の機械へ視線を落とした隙。俺の腰付近に微弱な震動が走るとともに外へ出て、視界に入らないよう迂回。
何気に特技である忍び足で背後一メートルに立つと、いっそう慎重に近寄り、親指以外の指四本を首元に差し込んだ。
「ひゃっ!?」
なんともかわいらしい小さな悲鳴を上げた夏織は、髪の上から首を押さえつつ飛び退く。無警戒に教えてきた弱点を突かれ目を丸くして振り返り、俺の姿を見て一言。
「びっくりしたぁ」
「悪い、つい」
「もー……せめて手あっためてからしてほしいな」
「それじゃ意味無いだろ」
「それもそっか。――お返しっ!」
間を隔てるベンチの横を回り俺の横に立った夏織は、律義に宣言してから、俺と同じ動作を両手で繰り出す。しかし残念ながら、
「冷たくないし。意味なくないか」
「家出たばっかりだからね」
最初からわかってやっていたらしく、当然ながらの理由を自分で言って、暫しの間体勢を維持する夏織。首に当てられた手は上下左右に微かに揺れ動き、頬を挟み、目元を撫でる。
「顔、冷たいね」
「夏織は温かいな。……人肌ってこんな感じなのか」
「そういえば、手以外に直接触ったこと無いね。初体験だ」
その言い方はまずいと思うのは、俺の心が穢れているせいか。いや、健全な男子高校生として当然ではないかと主張したい。
「佑って手袋つけないよね」
「動かしにくいし邪魔だから。別に寒く感じたりもしないし」
「そっか。じゃあ――」
顔を挟んでいた夏織の腕は肩から腕を滑り、その先でわからなくなった。かと思えば、俺の腕を引っ張ることで、ここにあると居場所を強く主張する。
未だに慣れないこの感覚。腕だけが傀儡になって、自分の意思に関係なく動くような感覚。セナに動かされていた時はどうにも奇妙で落ち着かなかったが、夏織の場合は安心するような。要は、嫌いじゃない。
「行こっ」
季節外れなひまわりを胸元で揺らし導いてくれる夏織の手は、心なしか、過去の何回よりも特別力強く感じた。
「デイジーは持ってきた?」
「ちゃんと持ってきたよ。佑は……セナ、静かだね」
「朝からずっとこんな調子。顔も出さないんだよな」
「どうしたんだろ……」
言葉の通り、今朝目が覚めて以降、一度たりともセナの声を聞いておらず、顔も見ていない。夏織と会ってからなら気を遣っているのだろうと取れるのだが、いったい何を考えてのことなのやら。
デイジーを持っているかの確認をする理由は、今夜十八時頃から始まる、ARを使ったイルミネーションイベントの為。
電車で三十分と多少の遠出にはなるし、その為には満々員電車に乗り込まなければならない。だが、それを踏まえても迷う事無く参加を決める人が多くいるほどに注目されているイベントだ。
さすがというべきか、セナの情報収集力は凄まじく、電車が比較的混んでいない時間までを含めたうえで、「これ行ってきたら?」と実質命令的な威圧感と共に耳に入れられた。
俺の胸元、黙りこくったセナへ心配そうな眼差しを向ける夏織は、なぜか俺よりもセナのことを気にかけている様子。俺が楽観的なのか、夏織が心配性なのか、あるいは俺が知らない事情があるのか。
考えても仕方のないことで、セナが言わないということは俺から訊くべきものでもない。兎にも角にも、今日は夏織との時間を存分に楽しみたい。
「とりあえず、昼ご飯どうする?」
「あっ、そうそう。実は行きたい所があってね」
夜以外はいつも通りプランなど無く、終業式が終わって最低限の準備を済ませた後の集合だったので、まずは腹ごしらえから。
夏織は何かを思い出したように俺の顔を見上げてきて、輝く瞳で行きたい所とやらについて話す。「カップル限定」「クリスマス期間限定」なんていう良い予感と嫌な予感がする二つの単語が飛び出してきて、少し警戒する俺を横目に、夏織はひたすら楽しみそうにしている。
場所は大して遠くもなく、そこそこ空いた電車を夏織の話を聞きながらさくっと一駅、徒歩五分。
おそらく明日は酷く混雑するだろう場所にあるスイーツ店は、派手な飾りとハートマークが敷き詰められた看板を掲げ、【クリスマス期間限定! カップル専用パンケーキ好評発売中!】と一人身は帰れと言いたげである。
パンケーキとはつくづく縁があるようで。
「これってさ、あれだよな」
「あれって?」
「あれはあれ。すぐわかる」
自動扉が開き、急な暖かい空気を浴びて身震い一回。俺の偏見故にそう聞こえるのか、「いらっしゃいませー」とやけくそ気味に元気な声が響く。
店内奥側の席へ通され、店員が何かを言うよりも早く、
「カップル専用パンケーキ一つ、お願いします」
埋まった他の席のほとんどは男女組で、こんな流れにもすっかり慣れている様子の店員は、それはもう見事な接客スマイルで言う。
ああ、思った通り。
「では、証明をお願いします」
「証明……というと?」
「お二人がカップルだとわかるようなことですね。定番はキスとか」
「キス……」
「いや、こっち見られても困る」
店員が出した例に、夏織はどうしようと訊きたそうな顔でこちらを向く。
当然キスなどまだ交わしていない俺たちには難しい課題であり、その旨を伝えたところ、「ほっぺたでもオーケーです」とのこと。
今度は俺がどうしようかとアイコンタクトを送ると、左手を口の横に添え、右手で招いて「耳貸して」のハンドサインと思われる動作をする夏織。
テーブルに肘をついて顔を近づけると、左手を添えたままの夏織の顔が、ほんの数センチ、いや、数ミリという目の前に迫った。
「――はい、確かに。少々お待ちくださいませー」
状況を掴めずにリアクションすら忘れている間に、店員はどこかへ行っていた。
ゆっくりと離れていく夏織の顔は、ほんのり赤い。
「恥ずかしー……」
「えっと……ナイス機転、でいいのか」
店員が立っていたのは俺から見て右、夏織から見れば左で、夏織は手で隠すことにより誤魔化したというわけだ。とはいえ、実際にキスまでは到達せずとも、互いの息がはっきりと感じられる程の距離であり、平然としていられるはずもなく。
夏織は積極的だが、嬉し恥ずかしそうな表情は少なからず目にする。それでも、今みたいに本当に恥ずかしそうな顔は初めてだ。
高鳴る鼓動だけが騒がしく、気恥ずかしくて会話をする余裕は無いまま、すぐに目当てのパンケーキが運ばれてきた。
イチゴどっさり、クリームたっぷり、ハート型、ふわふわ。まさしく、恋の権化たるに相応しい。
「あ、おいしそう……」
小さな声でこそあるが、色気より食い気が勝り始めた夏織の呟き。おいしそうなのは同意できるけども、くどそうなパンケーキとは反対に結構あっさりしている。
それよりも、大きめのパンケーキが一枚、ナイフとフォークも一本しか無いということは、だ。やはり――
「頂きます」
目の前のスイーツに気を取られている夏織は気づいていない。周囲のカップル共がどんな食べ方をしているか。
カップル専用というのが、いかなるものか。
幸せそうな顔を眺めているだけでお腹いっぱいではあるし、正直、俺は食べなくてもどうとでもなる。しかしながら、夏織がそれを許すはずもない。
「佑、食べないの?」
「いやー……なんというか、もう一回今の状況を確認してほしい」
俺の切実な願いを聞き入れてくれた夏織は、首を傾げつつもテーブルをじっと見つめ、次いで店内を軽く見回す。それからもう一度テーブルに視線を戻し、ようやく意味を理解したらしい。「あっ」と短く声を漏らし、ナイフとフォークを持ったまま考え込むように俯く。
「どうしよう……これ、あれだよね」
「あれだな」
「……関節キス」
わざわざ自分で皆まで言っておいて、いよいよ食器を置いて腕を収めてしまった。周囲はむしろ楽しそうに楽しんでいるなか、俺たち二人は手が進まない。
選択肢は二つだ。他に倣うか、一人で食べ切るか。こればかりは夏織に任せよう。
と個人的結論を出したそば、夏織は思い切った顔で再度食器を手に取り、パンケーキを一口大に切ってフォークで刺す。
柔い実に隠れた刃先が向いたのは、まあ予想はついていた。俺の口。
「……あーん」
いつまでも衰えない風習と台詞を体現する夏織の顔は、もはやシチュエーションにそぐわず強張っている。
力むがあまり震えるフォークには、心許なくすぐさま崩れ始めた切れ端。急かされる俺に迷う間は与えられず、夏織の唇が触れたその場所を口に含んだ。
イチゴが無かった部分だったからか、ただただ甘い。
きっとイチゴが無かった部分だからだ。
「えっと、お味は」
「大変美味です。……あとは夏織が食べていいから」
「それはだめ。一緒に食べたかったから来たのに」
さすがにこれ以上は心が持たなそうで一歩引くつもりだった意思は、夏織の一言であえなく一転。そう言われては逃げるべく由は無く、かといってこれを何度も繰り返すのは難しく、先に夏織が半分食べて、残りの半分をあとから俺が食べるというところを妥協点にした。
一口目に醸し出された口福感はどこへやら、ちまちま切っては口に摘まんでいる姿に釘付けになってしまう青い純情。
――夏織はどう思っているのだろうか。
頭から離れない想像にやたら悩んでいるうち、綺麗に半分が残ったパンケーキが目の前に。夏織は既に紙ナプキンで口を拭き終えたところで、手を揃えて膝の上に置いて俺の方をじっと見る。
「あんまり見られると食べづらいんだけど」
「先に同じことしたのは佑だよ」
「……ごめん」
謝りはしたものの、夏織はやめてくれる気など毛頭ないようなので、無我夢中でパンケーキの甘ったるさを噛み締める。クリームの甘さをイチゴの酸味がうまく中和していて、程良く均等ではない味が飽きを感じさせない。一連の確認はなかなかに堪えたが、対価としてはまあ申し分なし。
ゆっくり味わえればなお良かったのだが、夏織に加えて店員からの熱い視線を一身に浴びていたたまれず、半ば流し込む形で食べ切った。溶けるような柔らかさが幸いし、噛む時間も短く済んだのが嬉しい誤算。
会計を済ませ、ついでに「おいしかったです」と九割くらいは正直な感想を伝えた後、再び白い空の下に出る。
若干気まずくもあり、でも不愉快な沈黙でもない間の中に広がり続ける俺の妄想は、何かしら会話なりのきっかけが無い限りは留まりそうにない。
何を思ってか空をぼんやり見上げる夏織に、とりあえずは状況打破と今からの予定を立てる為の質問を投げかける。
「どこ行こうか」
「んー……映画?」
「やっぱそうだよなぁ」
予想通りすぎる俺たちの定番は、こんなときでも真っ先に飛び出してくるくらいにはすっかり定着してしまった。別に悪いというわけでもないのだが、今この雰囲気では悪手と思われ、気が進まない。
「だめ?」
「だめっていうか、もう少しクリスマスイブっぽいこと無いかなって」
「じゃあ、ショッピングとか」
「それだ」
セナ情報によると、五時以降の電車は普段の混雑に重なる混雑が予想される。早めに四時くらいに向かうつもりだったが、今からイベント会場の近くのショッピングモールあたりで買い物を楽しんでいれば、万一にも満員電車に巻き込まれる心配は無い。映画よりは時間の調整もしやすいし、十分に時間が潰せて、クリスマスデートには悪くない選択。
夏織の提案に場所を付け加え、同意を得たことで行く先が決まったところで、少しマシになった雰囲気を感じながら駅へ向かう。
時間が時間なだけに大した混み具合でもなく、せいぜい二人並んで座れるちょうど良い席が無かった程度。今日が終業式の学校が多かったのだろう、学生くらいの若者が多い。
比較的小柄な夏織はつり革に掴まりにくそうだったこともあり、適当な席に夏織だけ座らせて過ごすことしばらく。言葉の調子を取り戻した夏織の雑談あって退屈も感じず、目的地の最寄り駅に着いた。
この辺りには来たことが無いもので、スマホの地図や駅周辺の案内地図と睨めっこし、近くのビルに入って歩いて回るが……。
クリスマス、クリスマス、クリスマス。どこもかしこもクリスマス一色で、最近になってようやく縁を持った俺には、少しばかり眩しい光景だ。
「せっかくだし、見るだけじゃなくて何か買いたいよね」
「そうだな、せっかくだし。アクセは……夏織がジャラジャラになるか」
「なっちゃうね」
困り笑顔を浮かべる夏織を眺めながら、良い物は無いかと思考を巡らせる。こういう場合はお揃いの物がお約束だが、問題はお揃いの何を買うか。マグカップとか、季節に合わせてスノードームも良いかもしれない。
「ま、適当に見て回りながら考えようか」
「うん」
買う物に迷ったなら、まずは雑貨屋を網羅すべし。
食器類もあれば、キーホルダーやらアクセサリーやら財布にスマホケースにエトセトラ。盛りだくさんな選択肢はかえって悩みそうにもなるが、一人ではなく好きな人と一緒に選ぶというだけの単純なことだけで、こんな時間すらも楽しくて仕方がない。
なんて、少し前の自分は信じないだろうし、信じていなかった。人の心というのは、不思議なものだ。
「ちなみに、夏織は大事に使いたい派? 常に身につけたい派?」
「私は身につけたい派かな。佑は?」
「俺も身につけてたい派。離れてても一緒にいるって感じするし」
返ってきた同質問に答えると、夏織は何がおかしくてかくすくすと笑う。その理由を尋ねようとした矢先。
「佑って、意外とロマンチックだよね」
「自覚はしてる。似合わないって思う?」
「ううん、全然。素敵な考え方だもん」
首を横に振ってまではっきり否定され、それどころか曇り無き眼で素敵とか言われてしまうと、いっそ気持ち悪いとからかい半分に言われた方が反応しやすいというもの。といっても、俺のロマンチストは今に知れたことでもないだろうけども。
「で、それだとキーホルダーとか財布、あとは文房具周りか」
「予算的にもそれくらいだよね。――あっ、これいいなぁ」
夏織がふと向いた先にあったのは、青いバラが内に飾られた透明の丸いキーホルダー。
「プリザーブドフラワーか。青いバラって確か……」
「昔は『不可能』だったんだよね。でも、実現されてからは『奇跡』『夢かなう』になった」
「どっかの誰かさんに似てるな」
「ねっ」
そのどっかの誰かさんを見つめて悪戯っぽく笑う夏織は、キーホルダーのストラップを指に通して取る。一つ減ったバーから同じように手に取って、意味も無く二つを並べて眺めて。
「でもこれ、ストラップが切れたりしそうでちょっと心配かも」
「付け替え用の金具売ってるし、今度付け替えるか」
「お願い。失くしたくないから」
「了解。まだ見て回る?」
「他にすることも無いし、そうしよっか」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そういえば、美咲の存在を完全に忘れていたが、それはさておき。
人生で最も長かった買い物も程々に切り上げ、イベント会場の敷地内にあるベンチで開始を待つ夕暮れ時。
辺りはすっかり暗くなり、点灯前のイルミネーションの装飾などは薄っすらとしか見えない。一方で、人の存在を知らせる電子機器の明かりは時間を追うごとに増えていく。一時間前ですら人の流れに逆らって歩くには骨が折れそうで、イベントが始まれば身動きすら取れない可能性が出てきた。
「すごい人……やっぱり注目されてるんだ」
「だろうなぁ」
「大丈夫?」
「まあ、なんとかなるだろ」
これだけの人の渦、それも皆が皆ARに目を奪われているなかで一切の物理的接触を回避するのは、どう考えても忍者くらいにしかなせない業だ。とはいえ、せっかく来たのに一か所に留まるのも味気が無い。
夏織がいてくれれば大丈夫と根拠も無しに思っていたりはするが、それはそれとして、具体的な対策を今のうちに講じるべきか。
「とりあえずさ、手握っておいてくれるとありがたい」
「うん」
人の心理というのは実におもしろおかしいもので、例えば普段の夏織との接触を基準にゼロ、他との接触をマイナス一とした場合、今みたく不安だらけの状況においては基準が塗り替えられてしまう。つまるところは、現状の夏織との接触はプラス一となり、むしろ安心を与えてくれるまである。
心理学的には何効果と呼ぶのかは後々調べるとして。
今にして思えば、俺と夏織が出会ったことは、俗に云うところの「必然」だったのかもしれない。
俺が自身の問題を一つ解決した直後に夏織と出会った偶然。夏織の友人である美咲が俺と同じ高校、同じクラスだった偶然。夏織と美咲が俺と同じ駅で、それを美咲が知っていた偶然。ここまでくると、運命なんて言葉で表すには凝りすぎていて、できすぎている。少なくとも、今まで運命だとかを鼻で笑っていた俺が信じざるをえないくらいには。
そしてもう一つ。これら全てはセナがいなければ未来永劫起きることは無かった事象。
セナには口にこそしなくとも感謝しているし、今後も共にありたいと思う。だから、まるで何かを隠すように黙りこくったままのセナが、正直言って気に食わない。
夏織が隣にいる間はどうしようもないが、ならば、あとで必ず問い質すまで。
暗い寒空の下、ただ夏織と並んで過ごした三時間。
輝く白い粒が舞い落ちる世界。架空を魅せる非現実的な空間。「綺麗だな」「すごいね」って声を交わらせ、手を絡め、瞬く間に過ぎた時間は、唇に触れた柔らかく温かい感触と共に、脳裏に深く焼き付いた。
「……終わったな」
「終わったね」
喧騒が過ぎ去り、さっきまでの幻想的な光景が嘘のように寂しく感じる闇の中。唇が確と覚えてしまった感覚がいっこうに離れず、鮮明に過ぎる度に心臓が跳ね上がる。
一方の夏織は平然としてこそいるも、僅かながら縮こまっているような。
「帰るか」
「あっ……それ、なんだけど」
まさか帰りたくないとか言うのでは――
と一瞬だけ思った俺の手を掴んで、強引気味な力の込め方で引いて前を行く夏織。爪先が向く方は駅ではなく、心当たりも無ければ予想もつかず、ただ困惑しながら黙ってついていくのみ。
会話は無いまま、手を離すことも無いまま、繋ぎ直すことも無いまま、これはもはや連行されていると言っても過言ではない状況で十分くらいだろうか。
一切立ち止まらずに足を踏み入れたのは、明らかに高校生には場違いすぎる豪華な建物。ホテル。
「あの、夏織さーん。入る建物をお間違いではー……」
一応指摘はしてみるものの、耳に届いていないのか、はたまた無視されているのか、反応は返ってこない。代わりに夏織が取ったのは、フロントでスマホを見せ、引き換えに鍵を受け取るという行動。間違ってなどいないと、態度をもって示されてしまった。
鍵を握り締めた夏織はフロントの係員への一礼を忘れず、しかし焦りの見える不自然な動きでエレベーターに乗り込む。俺たちの間に漂う空気のように体が重くなり、到着音が知らせたのは最上階。開いた扉からすぐさま飛び出すと、長い廊下を進むほどに歩調は荒く加速していき、突き当たりの部屋の前でピタリと立ち止まった。
扉の方を向いた際、ここで夏織の顔を確認することができたわけなのだが、そのいくつかの感情、特に羞恥を醸し出す表情は、尋ねようと開きかけた俺の口を強引に塞いだ。
夏織は丁寧に磨かれたドアノブの鍵を開け、やはり力んだ手で扉を引くと、素早く体を滑り込ませて退路を断つ。手を離してくれたことでようやく解放されたと安心したのも束の間、部屋の少し奥側に設置されたベッドを指した夏織は、
「待ってて」
とだけ言い残し、振り返ること無く入口すぐ左の扉へ入っていった。
――状況が理解できない。
緊張した様子で早足に手を引かれ、入った先は高級ホテルの最上階最奥の部屋。なぜか入室を許可された夏織は今風呂に、俺はベッドの上に。
……まさか。
そのまさかが脳裏を過ぎった瞬間、もうどうしようもなくなった。脳内を支配する不純な妄想は、夏織の否定以外の何物でも止まることは叶わない。
なんとか冷静になろうと冷蔵庫に入っていたジュースを飲んで、トイレに行って、飲んで、出して。不毛な行動を何回したか、一時間? 二時間? そもそも何時頃に来たのかも忘れてしまって、どのくらい経ったのかもわからない。唯一有効活用できた行動は、このホテルの料金調べ。
美咲に送ったメッセージは既読がつくのみで返信は無く、詰んだ。
いよいよ頭を抱えた俺は、左後ろから耳に入った扉の音に条件反射で振り向いた。
「お待たせ」
入浴によるリラックス効果は侮れない。打って変わって落ち着いた雰囲気の夏織は、汚れ一つ無いバスローブをまとって、無防備にも白い胸元を晒している。
ベッドは二つあるにもかかわらず、一直線に歩いてきた夏織は俺の隣に腰を下ろした。
「景色、綺麗だね」
「そう、だな」
「月が綺麗ですね」
「そう、ですね……」
流れでつい肯定してしまったが、そもそも曇りで月なんて見えないような――って、もしかしなくてもかの有名な告白の言葉だったか。
「太陽が隠れてる間、代わりに導いてくれてるんだよな。ひまわりと似てる」
「どうしてひまわり?」
「あー……いや、なんでも」
上手い返しが思いつかなくて、つい口を滑らせてしまった。
「佑、すっかりひまわり好きになったね。移っちゃったのかな」
「かもなぁ」
視線は合わせず、少しだけ解れた雰囲気に安心するとともに、なおも強く残る色濃い空気が心臓に悪い。部屋を漂う仄かな香りは、いっそう強くなっていた。
「……その、無理やり連れてきたみたいでごめんなさい」
「いや、それはいいんだけど……」
「理由、だよね」
「まあ、一応」
風呂上がり。胸元の緩いバスローブ。火照った顔。しっとり湿った髪。裾から覗く脚。
色気の塊となりつつある夏織に視線を向けられる部位を見つけられず、ただもう一つのベッドの枕辺りを眺めるばかり。
夏織がどんな心境なのかは不明だが、触れようと思えば易く触れることができて、でも詰めるには勇気が必要な距離が、俺と夏織の噛み合わない緊張感をどことなく物語っている気がする。
「何から話せばいいのかな」
「とりあえず気になるのはさ、なんでこのお高そうなホテルのチケットを夏織が持ってたのかなんだけど」
「えっとね、実はセナからもらったんだ」
「セナ?」
「誕生日プレゼントだって。さすがに断ろうとしたんだけど、断り切れなかったんだ。どうやって手に入れたんだろう……」
なるほど、合点がいった。
セナが先のイベントを事細かに調べたうえで強く推してきた理由といい、夏織が俺を連れてこのホテルに来た事といい、全てがセナの計画だったというわけだ。
ついでにいえば、予約をしたのはセナで、料金を支払ったのはセナから頼まれた我が親。あの二人なら、事情を知ったうえでは金も手間も惜しんだりはしないだろうから。
「ホテルのこと内緒にしてたのは?」
「佑に断られたくなくて」
「……じゃあ、夏織は何をする為に来たんだ? あんなに恥ずかしがるなら、キャンセルって手もあったろ」
核心を突いた。突かなければならなかった。
夏織の様子からして、言い分からして、ただお泊りしてはい終わりはまずありえない。俺から訊かずともすぐに語る内容だったのだろうが、これは俺自身から切り出すべきだと、一つの根拠も無く思ったのだ。
少しの間口を噤んだ夏織は、意を決したように口を開く。思いやりと、覚悟に満ちた声色で。
「私なりに考えたんだ。相手を傷つけるのが怖いなら、それ以上にいいことがあるんだって思えれば、もしかしたら完全に克服できるんじゃないかって」
「いいこと……って」
「私の誕生日の時の約束覚えてるかな。手を繋げた時間だけ好きな所触っていいって」
「そういえば、あったな」
「その時の佑、すごく頑張れたよね。だから触った時にもっと幸せな気持ちになれば、もしかしてって」
それはつまり――
「あの時は十八秒って約束だったけど、佑の好きなだけ触っていいから」
耳まで染めて、それだけ羞恥に耐えての発言だというのがはっきりとわかる。それでも顔を背けずまっすぐに見つめてくる眼は、本気で俺のことを考えてくれているのだと示すように潤んでいて――
僅かにはだけたバスローブから覗く肩が、鎖骨が、胸元が、一切の冗談を交えていないことを表している。
「えっ、と……いいのか?」
「……いいよ」
夏織の震える肯定は、俺の欲情のたがを外すには十分なものだった。
目を閉じた夏織の唇にそっと重ね合わせ、右手を絡め、左手で頭を抱き、徐々に重心をずらして倒れ込む。甘い香りと熱く柔らかな感触が、脳を焼き尽くさん限りに血を沸騰させる。
ずっとこうしていたくなる程の幸福感に包まれながらも、対照的に消費されていく酸素。息が苦しくなって無造作に離した隙間から、甘美な吐息が漏れだす。
荒くなった呼吸を整えながら、空いた左手を頬に添えようとすると、
「待って、デイジーつけないと……」
「あ、ああ。そっか」
考える間が無かったとはいえ、感覚を味わえなければ元も子もない。夏織の指摘で一度体を離し、傍らに置いたポーチからデイジーを取り出して装着する。
我ながら間抜けではあるが、落ち着ける間を作ることができたと思えば、まあ……。
「じゃあ、失礼して……」
「……どうぞ」
一度流れを切ってしまうとどうしていいかわからず、キスはいったん後に回し、仮想の感覚を得た手で頬を撫でる。今までにも何度か行ったことのある行為が全くの別物に思えるのは、普段ならくすぐったそうに笑う夏織が、目を閉じて息を漏らすからだろうか。
リードするばかりの夏織が、今はじっとされるがまま。ここを触るとどんな反応をするのかという俺の興味を行動に移すことができる状況で、俺の手は、ただ本能に従って動いた。
耳を撫でると、目を強く閉じると同時に眉がぴくりと動く。唇を撫でると、息を止めて微かに口を開く。頭を撫でると、少し表情が綻ぶ。
夏織の肌に触れるほど、強くなる欲望。
夏織の肌の感触を感じるほど、強くなる既視感。
女性の体の中でも特別柔い膨らみに触れた時、夏織から仄かな喘ぎが漏れ、その姿が、よく知る姿の記憶と鮮明に重なった。
「……佑?」
どうしてだろう。
なんて、考える間でもないか。
これは、全てが俺の想像でしかないからだ。