第10話 恋と友情
美咲に呼び出された火曜日の午前八時過ぎ。昨日の文化祭の片付けに使った体力気力を回復させるべく与えられた、れっきとした休日。
目が覚めるなりどうにも落ち着かず、振替休日にわざわざ駅まで出向いた。きょろきょろと辺りを見渡していた夏織に「おはよう」と声を掛けて、眠気のせいか緊張のせいか、働かない頭でぎこちなく五分の会話をした後の帰り道。
平日に二度寝ができる幸福感と優越感を堪能しようとしていた振替休日は、急に送られてきた美咲からのメッセージによって、二度寝ができなくなる程度にはメラトニンが抑制されてしまうと予想される。
さて、美咲はきっと俺と夏織の関係がどうなったかは既に把握しているだろうし、ならば一時間後に設定された待ち合わせの後に待ち構える話とは何か。
例えば、俺が夏織を思って枕に顔を埋めている姿を想像して、いまさら恋心に気づいてしまった。……なんてことはありえないとして、なら祝福とかとも考えたが、それなら暇を持て余しているかを問う前に謝罪を入れるのはおかしい。
超能力者でもない俺が考えても想像力を鍛えるくらいにしかならないものだが、少なくとも、何かしら真面目な話であることだけはさすがに予想がつく。
「なんだろね、話って」
「さあな。考えても仕方ない」
できればセナも連れてきてほしいという美咲の要望により、すっかり顔から離している状態が多くなったデイジーを右手に持ち、待ち合わせ場所である公園へ向かう。
家からなら徒歩十分、駅からなら十五分程度。中学が同じということだけあり、中間地点の公園から推測できる美咲の家と俺の家との距離は、思いの外近いといえる程度のようで。
普段は使わないが迷いはしない覚えのある道を歩いて、朝っぱらから元気な小学生や黙々と自転車を漕ぐ中学生の流れに少しだけ逆らったり。
ついでに途中のコンビニでチキン一つを腹に入れたあと、朝昼晩問わず人の少ない公園の排水溝を跨いだ。
「おはよう」
「……やー、朝早くに呼び出してごめんね」
何気に初めて見る、私服姿の美咲。私服といっても、どちらかといえば就寝時に着るような服。
そんでもって、どうにもしおらしい気がする。背筋はやたら伸びて、両手はきっちり膝の上、足も揃えてとかしこまりすぎていて、言うと悪いが気持ち悪い。
「何この空気」
「…………」
「美咲さーん。おーい」
視線を移動させることも無ければ声を発することも無く、ただただひたすらに静止したまま、左手の上に重ねた右手の辺りを見つめる限り。
一体、どう対応するのが正解なのか。そんなものは経験に基づいて判断するものだが、あいにく経験なぞ持ち合わせていない俺は、ぼけっと曇り空を眺めながら第二声を待つしかできない。
日は射しているが、今日の空には青が少ない。
じっと見ていると流れているのか流れていないのか曖昧なのに、ふと見てみると確実に動いていて、形を変えている雲。たかが雲ですらたった十分で姿も位置も変わるというのに、隣に座っている女ときたら、いつまでたっても動きもしない。尻を接着剤で固められでもしたのだろうか。
セナもセナでノーリアクション。困った。喉乾いた。
待つというのは別に嫌いではないものの、こんな雰囲気となれば話は別。いったん離脱すべく、声は掛けずに徒歩三分のコンビニへ小走った。
お茶とかジュースとか、俺の知るところの美咲は大体なんでも好き嫌いせずに飲む。なら、この状況を打開できそうな選択肢とは何か。
思いついたのは、一つだけ。
微糖のボトル缶コーヒーとミルクココアを一本ずつ、紙コップを一袋。寂しくなった、同時に気楽にもなったセルフレジで支払いを済ませ、スプーンを一本手に取って袋に詰めた。
帰りはのんびり疲れない程度に若干早足で公園へ戻り、入り口であらかじめ紙コップに一人分を注いで混ぜておく。どうせなら、隣で作るよりさっと差し出した方が恰好がつくというものだ。
「ほい」
紙筒越しにほんのり温かい、俺の中でもお馴染みとなったカフェモカを美咲の頬に押し付ける。なにせ夏織の好物だ。親友である美咲なら、この匂いには僅かでも反応するだろう。
「……ありがと」
縁を掴む俺の指先に、美咲の指が触れたようにも、そうでもないように見えた。
しっかり美咲の手に渡ったことを確認し、空いた右手で紙コップをもう一つ取り出しながらベンチに腰を落とす。残りを注いでもう一杯を適当に。
慣れというのはおもしろいもので、この匂いを嗅ぐと自然に落ち着くようになった今日この頃。
俺が混ぜている間、美咲は紙コップすれすれに鼻を近づけ、匂いを嗅いでいるだけのようだった。そして俺が一口つけると、真似をするように器と首を上方に傾ける。
かと思えば、喉を豪快に動かし、二百ミリリットル程の中身を四口で飲み干した。
「ごめん! あともう一回ごめんなさい!」
「何に対しての謝罪かの説明はしてもらえるよな?」
大きく上を向いた首を戻す勢いで激しく頭を下げた美咲は、ようやく吹っ切れたようで。
俺も同じくさっさと飲み干し、俺たちの間には染みが付いた紙コップが二つが並んだ。
「一つ目のごめんは、私から呼び出しておいて待たせちゃって、挙句気まで使わせたことに対して」
「別に気を使ったつもりはないけどな。つか、それに関しては既に礼言われてるから」
「いいから謝らせて。……二つ目のは、見て見ぬふりしたこと」
「何を?」
「いじめ。ううん、暴力って言うべきか」
『いじめ』。気を許している美咲か夏織以外からこの一言が飛び出していたなら、今頃は砂利ではなくアスファルトを踏みつけていたことだろう。
忘れた日は無いなんて大げさには言わない。だが、好き好んで思い出してやろうとは思わないし思いたくもない。
「それは美咲が謝ることじゃない。関係ないだろ」
「違うの。いじめが悪化したの、私のせいだから」
「それ――」
ってどういう意味。
そんな愚問は尋ねるまでもなく、忘れかけていた小さな点が繋がった。
「佑が殴られてるとこ、偶然見つけてね、やめてって注意したのがいけなかったんだと思う。それからだから、佑が午後の授業に出ない日が増えたの」
「……まあ、誰かがそういうこと言ったんだろうなって思ってたけど。美咲は何もされなかったのか?」
「一回だけ、その時に殴られた。だから怖くて、止められなかった」
「そっか」
「中途半端に口出して、結局は我が身かわいさに見捨てた。許してほしいなんて絶対言わない。殴ってくれてもいいから」
爪の痕が心配になるくらい握り締められた手とか、震える肩とか、ぐしゃぐしゃに歪んだズボンの裾とか、いろいろあるけど。
手の甲を濡らす涙一粒で、美咲がどんな思いでそれを伝えたのかくらいはわかった。
「じゃあ――」
何した、どうなった、誰のせい。正直どうでもいい。とうに終わったことを蒸し返されたって、何が変わるわけでもないし、何が起きるわけでもない。
でも、それは俺の話。
美咲の後悔は、きっと今までも笑顔の裏を蝕んでいた。
「『おめでとう』の一言が欲しい」
「……え?」
「まだ言ってもらってないし」
過去は過去。今は今。
美咲は俺と夏織の関係が進展したことで後悔に耐え切れなくなったのだと思うが、俺にとってはそんなものはどうでもよくて、今はただ、喜びを共有したい。
「一応言っとくとさ、気にしてないし、怒ってない。考えてみ? いじめを見て見ぬふりするのは同罪とかいうけど、いじめは犯罪ともいう。ならさ、人が殺されそうなときとか、『もし自分が死ぬかもしれなくても助けろ。じゃなきゃお前も人殺しだ』って言ってるようなもんだろ」
「それは話が違うんじゃ……」
「俺の中では同じなんだよ。自分の身の安全を最優先するべきだし、美咲が注意したことによって悪化したのかもしれないけど、もしかしたら解決できた可能性もある。結果論を抜きにすれば、少なくとも美咲の行動が間違っていたとは思わないな、俺は」
くだらない正義感とか、自己満足とかならいざ知らず、美咲の純粋すぎるまでの善意が招いた結果なら、それに対して激昂する気にはなれない。
さらに言えば、俺はもう、美咲という人物をそこそこに知ってしまっているのだから。
「ってなんか語っちゃったけどさ、要はほんとに許すも何もどうでもいいんだって。せっかく俺と夏織が付き合えたんだから、どっちかっていうと祝ってほしいんだよな」
「……いいの?」
「むしろどういう理由でだめだと思うよ」
「――わかった」
すっかり太陽が雲に隠れて、眩しかった朝日は陰りを帯びている。だが、美咲の表情は何物にも負けず、涙さえも明るく輝いて。
「じゃあ、夏織が学校終わったら三人で……ううん、四人でおめでとう会しよっ! その時に言うね」
「ああ。当然、美咲の奢りだよな?」
「え、怒ってないんじゃ」
「いやいや、昨日丸一日シカト決め込んでくれたのには怒ってるから」
「うっ……喜んでご馳走致します……」
「美咲、やっぱりいい子だね」
「過剰なくらいにな。で、一言も喋んなかったのなんで?」
「私が口出す場面じゃないって思っただけだよ。佑と美咲の問題だから」
「あっそ」
少しばかり癪ではあるが、結果的には、あの苦難あってこそ夏織と出会うことができたとも考えられる。
美咲の中でどうかは俺に知る手段など無いし、俺にとってはそれだけの話。
「美咲とのわだかまりも無くなったし、夏織とは無事お付き合いできたし、いい調子じゃん」
「……そうだといいけど」
ならあとは順風満帆、などとはいかないのが人生。
男女の仲には必ず厄介事の一つや二つはついて回るもので、早くも一つの問題を抱えている。夏織には話していないし、極端にいえば俺の心持ち一つでどうにかできる程度で、しかしながら決して小さいとはいえない憂い。
「怖い?」
「不甲斐ないことにな」
先天性のものなのか、後天性のものなのかは聞かされていない。それを知ったところで何が解決するでもないが、ただ単に、そういう体質とだけ。
「ほんと、どうすればいいのやら」
「佑の方がわかってると思うけど、夏織にはちゃんと話すべきだと思う。何があって誤解させるかもわかんないんだし」
「……だよな」
今はまだ、俺自身で解決できないか試行錯誤したあとでも構わないと思っている。遅かれ早かれ、いずれ必ず打ち明けるつもりだ。
その時はきっと、夏織の勇気に頼ってしまう事になるだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
呼び鈴が一回、マンションの一室に響いた。
時計の針は四と五の間を指し、遥か遠くの薄雲は赤く染まる。
『場所はあとで決めよー』という補足以降、美咲からも夏織からも連絡は無く、僅か一分の外出準備を今するか否かで迷っていた俺を呼びつける高い機械音の理由とは。
エントランスのインターホンに付けられたボタンを押したのは誰かを確かめるべく、1LDKの隅に備え付けられたモニターを覗き込むんだところ――
「これはどういうことだ、セナ」
そこそこ綺麗に映せるカメラに映り込んでいたのは、まず第一に「なぜ俺の家を知っているのか」と問い質したい見覚えのある女子二人。内の一人は制服。
ただし、真っ先に疑うべくは、ついさっきまで意義の無い会話を交わしていたセナだ。俺の住所を知る術など、あの二人には一つしかないのだから。
「美咲がサプライズって言うから、教えただけ」
「俺に内緒でか」
「サプライズだからね」
悪びれる様子も無くあっけらかんと自白するセナはさておき、今の状況にどう反応すればいいのやら、全くわからない。
人生初自分の部屋に女子が来たことを喜ぶべきか、人生初彼女が部屋に来たことに雀躍りでもすべきか、連絡も無しに来たことに怒るべきか、勝手に住所を教えたことを叱責すべきか。
兎にも角にも、手に提げられているいっぱいいっぱいの袋二つを視認しまった以上、追い返すという無情な行動には出られない。部屋番号は言わずとも知れているだろうと、無言でオートロックを解錠した。
「ま、どうせ一人暮らしなんだしいいじゃん。ここ防音性高いしね」
「そりゃそうだけども」
一人暮らしだからこそ危ないのでは、と思うのが本来当然なのではないのか。
信用されていると受け取って問題ないのだろうか。
ピンポーン。
と、心の準備をする間も与えず住人を呼びつける、住人より外部の人間に従順な機械。
いちいち上がるのが面倒で選んだ二階の部屋まで来るのにはさして時間を要さない。それが、今回ばかりは仇となった。
なるようになれと、鍵に手を掛けスタンバイしていた玄関の扉を開ける。奥行きが局所的に広がった視界に映った二つの顔は、片方が無邪気さ全面に「おっす!」とか言って、もう片方は「急にごめんね」と申し訳なさそうに微笑んで超絶良い子。
「……どーぞ」
「いらっしゃーい」
開いた扉に体を添わせ、人一人分程度の隙間を空けて入室を促す。
意気揚々と邪魔を宣言する声と、礼儀正しく頭まで下げてしっかり俺に向けられた挨拶が左から右へ。新たな行き場を得た風が鼻に運んできた空気は、時季外れに春の香り。
「広っ!」「おー」
綺麗に並べられた靴に背を向けた二人から発せられた第一声は、感嘆の一言。
夏織は真っ先に部屋の左、キッチンの方を見て、対する美咲は落ち着きの無い首を振り回している。
「いいとこ住んでるなー。金持ちか? お?」
「否定はしない」
「高校生のくせにぃ」
「佑って一人暮らしなんだよね。すごいなぁ」
一人暮らしに憧れているのか男の部屋がおもしろいのか、美咲はとにかく気分が高揚している様子で歩き回る。
夏織は至って通常運転……と言いたいところだが、手がもぞもぞうずうずしているあたりから、おそらくは興味本位を抑えているのか。
もはやくだらない物にすらいちいち騒ぐ美咲は放っておいて、夏織の手から袋を奪い取って「適当に座って」とだけ伝える。
座る場所としてはダイニングとコーナーソファーがあるが、真っ先に尻を埋めている美咲が騒いでいる、一人暮らしには持て余し気味なソファーの方へ。
配置的に二人が並んで一人は違う向きになるわけで、一人の部分に座ろうとしたら、
「あ、こっち私のだから。佑はそっち」
「美咲遠慮なさすぎー」
住人を差し置いて我が物顔でふんぞり返る美咲を見て、何がおもしろいのかけらけらと笑いをこぼすセナ。
真ん中の席を指差す美咲の指示に渋々従う俺の右隣に、夏織も苦笑いをしながら腰を下ろした。
「では、夏織と佑交際おめでとう会を始めまーす!」
「おー!」
どこから拾ってきたのか、太鼓とラッパ、「うえぇぇい!」という複数の男の声がデイジーのスピーカーから垂れ流され、ただでさえ高かった美咲のテンションはいっそう盛り上がる。
早くも置いてけぼりな俺と夏織は完全無視な美咲が、数あるでろう話題の中から迷わず引っ張り出したのは、
「で、どっちから告白したの?」
「私も聞きたーい!」
予想を裏切る事なく、後夜祭の告白についてである。
「えっと、私」
「お、夏織ってばやるぅ! なんて言ったのかな?」
「別に普通だよ。私と付き合ってくださいって」
「シンプルイズベストですなぁ。佑はなんて答えたの?」
「よろしくお願いします」
「ちっ、つまんね」
「扱いの差よ」
「もうちょっと気の利いたこと言えねーのかよー」
「うるせーうるせー」
セナと美咲のダブルブーイングからの小芝居が最高に耳障りななか、お決まりのカフェモカを作っていた夏織が何かを思い出したように小さく声を上げた。
「ね、文化祭のパンケーキ、今作れないかな? 食べたい」
「材料があれば作れるけど。そういや、夏織食べてなかったもんな」
「そうなんだよね。佑と回るのに夢中で忘れてたんだー」
夏織はしれっと胸を射止める一言を放ちながら、テーブルに無造作に置かれた袋に両手を突っ込んではあれこれ取り出していく。
ご丁寧にも、ホットケーキミックスやらレモン果汁やらリンゴジャムやら、必要な物は一式揃っている。材料が全て並ぶと、二つある内の袋一つはぺしゃんこになった。
耐性の無い俺の心は既にパンパンだというのに。
「足りるかな?」
「問題なし。ちょっと待ってて」
「お願いしまーす」
思わぬ奇襲という不幸中の幸いなのが、即座に場を離脱する理由が前もって用意されていたこと。
注文のパンケーキを作るという大義名分の下、材料一式を抱え、およそ五メートルの距離を確保できるキッチンへ向かう。
で、俺が席を離れるなり、話声はぴたりと止んだ。いや、あの二人の間で会話が途切れたところを見たことが無い点を考慮すると、俺に聞こえないように話しているのか。
陰口を言うような人間ではないことは承知しているから、不快に思ったりはしない。内容が気になるのは事実だが、わざわざ俺を省いて始めた会話に首を突っ込むほど不躾に育ったつもりも無い。
パンケーキを焼きながらスマホを見るふりをしてインカメラで様子をうかがっていると、時折こちらをちらちらと見る二人が映る。
やりづらい。
それから十分、じっくり時間をかけて作った二枚を皿に乗せ、二枚目を焼き始めた頃にこそこそしなくなった二人の下へ運んだ。
いつの間にか、夏織の位置がさっきの俺の所に移動している。
「お待たせ。ついでに美咲の分も」
「さっすが佑! 二つ作ってくれるって信じてたぞっ」
「おいしそー」
「いいなぁ。私も食べたーい」
各々好き好きに反応する二人と一人の前に皿を置くも、セナだけは不満気な声色。デイジーにはさすがに食事機能までは搭載されていない。時代が進めば、いずれは実現されるのかもしれないが。
そんなセナに意地悪くじゃれついたのが、美咲。
「あー残念だなぁ。セナにも食べさせてあげたいなぁ」
「とりあえず美咲はお腹壊せばいいよ」
「美咲はいらないんだな」
「あっ嘘ですごめんなさい取らないでー!」
美咲の分のパンケーキを掴む俺と死守している美咲に挟まれている夏織はといえば、微塵も気に留めること無くパンケーキを頬張っている。
その幸せそうな顔たるや、作り甲斐があるなんてレベルではなくて、こちらまで幸せになるような。
「そういえば、これいっぱい売れてたよね。利益どうだった?」
「生徒会の会計さんがまとめてくれてるとこみたい。多分今週末くらいに結果出るんじゃないかなー」
「結構儲かったよな。割引券期待できそう」
「佑がわっしょいわっしょいされるのが目に見えるね。夏織どうする? 佑、結構女子から人気出てきたんだよ?」
「えっ、うそ」
嘘に決まってるだろ。文化祭の模擬店で地味な活躍したくらいで一躍人気者になんてなるか。
と、否定を入れようかと一瞬思いはするも、夏織の反応がちょっと気になるので保留。
「佑って結構優しいしね。パンケーキの作り方を手取り足取り教えてもらった女子とか、好きになったかもーって言ってたし」
なんか、猛烈にむず痒い。間接的とはいえ目の前で褒められるのは。
しかも、手取り足取りの部分がやたらと生々しい口調だった。実際には口で指示していただけなのだが、夏織が想像しているのは、手を重ねてとか後ろから体を密着させてとか、そんなラブコメチックなものではないだろうか。
「佑、ほんと?」
「俺に訊かれても困るんだけど、少なくとも手取り足取りは真っ赤な嘘。レシピ教えたり手本見せただけだし」
「……美咲?」
これ以上放置するのはまずいと本能的に察知し、夏織の矛先を華麗に美咲へ向けさせる。
夏織みたいなタイプの人間は、大体が怒らせるとめちゃくちゃ怖い。案の定、美咲の反応は蛇に睨まれた蛙、虎の牙を向けられた兎がごとし。
その後、五分間本気の平謝りをし続けた美咲。夏織がどんな顔をしていたかは、俺だけが知らない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「よっし、そろそろ解散するかぁ」
「そうだね。もうこんな時間だし」
現時刻は午後七時。制服のまま出歩くには少しばかり遅い時間か。
時計を見るなり立ち上がった美咲は、「じゃ、おつかれ!」と鞄を引っ掴んで早足に玄関へ向かう。
「美咲、ちょっと待ってよー」
夏織の待機を要する声にも反応せず、美咲の背中はすぐに見えなくなった。
かと思えば、玄関あたりから大きめの声で、
「夏織、佑、おめでとー!」
いまさらというか、ここぞというタイミングなのか、ようやく届いた祝福の台詞。
俺も夏織も呆気に取られているうち、玄関と扉が開いて閉まる音がした。
「……っと、送るよ」
「……うん」
言ってはなんだが、あからさますぎて、逆に気まずいというかなんというか。
こうさせたかったのだろうというのは想像に容易いし、その意図はありがたく汲ませてもらうが、もう少し自然にできなかったものか。
美咲の勢いに思考力まで掻っ攫われてしまったのか、言葉無く肩を並べて、冬に近づく秋の夜空の下へ出た。
日が暮れる少し前から肌寒くなり始め、それから数時間ですっかり冷え込むこの季節。太陽というのは、ただ単に地球を照らすだけの存在ではないらしい。
「手、繋いでいい?」
暗い空、明るい地面、ひんやりと体を冷やすか細い風、揃わない足音。
心地良い沈黙を打ち破ったのは、夏織のその一言。
「あー……ごめん、まだ心の準備ができてないというか」
「……そっか。じゃあまた今度」
こんなにも早く機会があるとは思わず、覚悟ができていない心のままに断った。
街灯に照らされる夏織の残念そうな笑みを見て、つくづく情けなさを実感する。別に体質のせいにするつもりはない。ただ俺がへたれているだけの話。
罪悪感が拭えなくて、一定の距離から詰まることが無くなってしまった肩の距離を、ほんの少しだけ近づけた。だからだろうか、肩や腕が触れているわけでもないのに、左腕がうまく動かせない。
原因を確かめたくて肩の先に向けた視界に映ったのは、僅かに俯いて、わざわざ鞄を持った左手で頬を掻く夏織。
なぜか嬉しそうな笑顔から目が離せず、首を傾けた目的は果たせずじまい。