旅行記1:小説「豊後の火石」・「熊野三山」に寄せて
【宇佐・国東紀行】
------推理小説「豊後の火石」・「熊野三山」の取材旅行記-----
『ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの、よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところあるまじや、ひとり都の夕暮れに、ふるさとおもい涙ぐむ 室生犀星 』
という詩は室生犀星の抒情小曲集(大正7年・29歳で自費出版)に掲載されている詩である。犀星は石川県金沢市で私生児として生まれ(父母の名前と素性は判っている)、生後まもなく雨宝院という犀川ほとりのお寺の住職(室生真乗)に預けられ、7歳でその寺の養子となり、室生照道と名乗ることになる。子供のころから犀川のほとりで生活していたところから、犀川の夜空の星を眺めながら、いろいろな思いが巡り、犀星を自分のペンネームにしたのであろう。両親に見捨てられたと云う生い立ちの不遇は大人になっても心のトラウマとなっていたことであろう。故郷に未練は無いと云う思いと故郷の川が懐かしいと云う想いが交錯しながら東京で生活していた犀星の心情が読み取れる詩である。
小説『熊野三山』での被害者3人も養子の道を辿り、心の傷を癒すべく修験修行に入っていったのであろうか?小説では、この部分は述べられていない。読者の想像に任せられている。今話題の《赤ちゃんポスト》の問題も、捨てる側の事情と捨てられる側の子供の心や大人になってからの考え方に踏み込んでいかないと、安易な捨て子が社会的悲劇の源泉となっていく可能性を含んでいる。
ともあれ小説『熊野三山』では、北緯35度58分の線上にある夜空の星をながめて、故郷を思った渡来人に想いを馳せる『落しの名人』鈴木刑事の優しい心根がこの詩を引用することで表現されている。
私が小説『豊後の火石』・『熊野三山』の現地取材旅行をしたのは昨年(2006年)の8月のお盆休暇の時であった。8月13日の日曜日から8月19日の土曜日までの7日間で埼玉県と奈良県、大分県を往復すべく、愛車『ホンダバモス』で旅立った。小説の登場人物である北山次郎と李恵明が黒のワンボックス車で辿るであろう国道を走る予定であった。午前10時頃に埼玉県の自宅を出発し、群馬県渋川から新潟県三国峠を越え、越後湯沢、津南、松之山町を通過して午後4時頃に上越市に出た。上越市にある越後高田城は帰途に立ち寄る事にきめて、国道8号線に入り、富山県、石川県をめざした。富山駅前に午後9時頃到着し、夕食を取ったあと駅売店で名物『ますずし』を明朝の朝食用に購入した。富山を午後10時過ぎに出発して、午前0時頃、石川県金沢市の兼六園近く、金沢城跡『いもり堀』前の路上パーキングに到着し、そこで野宿をした。
翌朝(8/14)は午前5時前に目を醒ました。近くの手洗い用の水道で口と顔を洗い、その後金沢城跡の本丸跡や庭園などを散策した。その後城の向側にある兼六園に行った。偶々この日は無料開放日であり無料入場と相成った。この時点では室生犀星の事は思い浮かんでいなかった為、金沢市内の犀川に立ち寄ることは無かった。午前8時ころ金沢市を出発して白山市三宮町(旧鶴来町)の『白山比?神社』に向かい、午前9時頃神社駐車場に到着した。この日は、『神社奉納剣道大会』が行なわれる日であったので、大会参加者と一緒にご祈祷を受けた。拝殿での巫女さんによる奉納『剣の舞』が行なわれた後、祝詞が奏上され、榊の玉串をささげて参拝が終了した。後の出雲大社参拝の項で述べるが、『剣』と関係するのは何かの因縁であったのかもしれない。祈祷の前に、祈祷待合室にあった神社への奉納掛け軸の『比?大神』が白山上空に立っている絵画を見て清清しい気分になったのを覚えている。松尾芭蕉の俳句『風かおる 越の白根を 国の華』の風景が思い浮かぶ絵画であった。北陸鉄道一の宮駅裏の旧社地に立ち寄ったあと、敦賀の『気比神宮』を目指し、国道8号線を南下した。鯖江市から8号線を離れ、越前海岸に出て南下し、再び8号線に合流した後、午後2時頃、気比神宮前の交差点に到着した。神社改修中であったが、参拝後、神社境内にある松尾芭蕉の句碑を見学した。月に関する俳句が彫られた石碑と銅像(石像だったか?)を見たあと、『気比の松原』から、更に敦賀半島の立石岬に向かった。立石岬の灯台に歩いて登ったが、真夏の夕方であったので汗だくになった。草が高く生い茂っており、見晴らしは期待したほどではなかった。立石岬を午後5時ころ出発したが、敦賀半島から国道に出る道が大渋滞しており、往きは15分くらいで通過できた道が2時間くらい掛かり国道27号線に出たのが午後7時30分ころで日が暮れかけていた。福井県三方町を通り、滋賀県高島郡朽木村から京都大原に抜ける『鯖街道』と呼ばれる国道303・367号線を南下した。途中、朽木村での花火大会の渋滞に出会ったが、美しい花火を見ながらであったので苦にならなかった。京都大原から八瀬口、修学院前を通って奈良に向かう竹田街道(国道24号線)に入ったのは午後11時頃であった。そして、奈良にある親戚の家に到着したのは午前0時ころであった。
翌日(8/15)の午前中に奈良登美ヶ丘にある山岳宗教『御嶽教奈良本宮』に参拝し、更に近くの『真弓山長弓寺』に参拝した。この地域は神武東征以前は豪族・長髄彦が支配していた土地である。長弓寺境内には小さいながら『伊弉諾神社』の社殿がある。明治の神仏分離以前の神仏習合時代には『牛頭天王の宮』と呼ばれており、素盞鳴尊、伊邪那岐尊、大己貴尊が祭神である。聖武天皇勅願により長弓寺の守護神として創建された神社であるらしい。何故か、宇佐神宮の祭神の一柱である市杵嶋姫の『厳島神社』が摂社祠として社殿横にある。
午後2時ころ、奈良の親戚宅を辞し、兵庫県の親戚の家に立ち寄り、午後7時頃阪神高速道路神戸線に入り、第二神明道路から国道2号線に出て、そのまま岡山、広島に向かった。途中、国道沿いの書店に立ち寄り中国・四国地方の道路地図を購入した。
午前0時ころ、広島と岡山の県境あたりのバイパスにあるパーキングエリア(尾道西PAか?)で仮眠を取り、明け方5時前に再出発をした。安芸宮島の対岸から厳島神社を遠目で眺めたのが8月16日の午前8時頃であった。そして、山口県下関市の関門海峡を見下ろす赤間神宮に到着したのは正午であった。赤間神宮の祭神は平家一門と共に壇の浦の水中に没したとされる安徳天皇である。享年8歳であった。
この赤間神宮には昭和59年に三種の神器の一つ『八咫鏡』が奉還されたと云う記念石碑が建立されている。この鏡は岡山県作東町で昭和33年に発見されたものであるらしい。由諸は確認していないが、地方の歴史研究家が文献資料をもとにして発掘・発見したらしい。現在、その鏡が何処にあるのかは書かれていなかった。赤間神宮の境内には『日本西門鎮守八幡宮』がある。京都の石清水八幡宮創建のため宇佐から分霊を勧請する際、行教和尚がこの地に創建したものであるらしい。その後、赤間神宮近くにあるキャノン砲5門が展示してある関門海峡公園?で、平家武者姿の人が歴史体感紙芝居『壇ノ浦合戦絵巻』の説明(約10分間)を行なっているのを観た(無料、お菓子の販売なし。説明者は下関市役所の観光課の人ではないだろうか?と想像した)。最後まで観て、記念の絵葉書(関門橋の絵)を一枚いただいた。
この後、関門トンネルを通って九州門司市に入り、松本清張のアリバイ崩しの記念的推理小説『時間の習俗』に登場する和布刈神社(西暦200年、仲哀天皇9年創建)に参拝したのが午後2時頃であった。更に、関門海峡を見下ろす和布刈公園古城山の門司城跡に登って、関門海峡に浮かぶ巌流島を眺めたのが午後3時前頃であった。頂上には新潟県魚沼市出身の宮柊二氏の作品『山西省』に出てくる短歌2題が刻まれた石碑(歌碑)が建っていた。門司城との関係は不明である。宮柊二氏が兵隊として中国の山西省に行っていた時に詠んだ歌であり、古城山山頂には戦時中の砲台や防空壕があり、戦争の記憶に関連して、この歌碑が建てられたのであろうか。
『波の間に降り込む雪の色呑みて・・・・・。』
『まどろめば胸どに熱く迫り来て・・・・・。』
の2歌であった。
午後3時過ぎに和布刈公園を出発し、国道10号線を南下して宇佐神宮西門の呉橋前駐車場に到着したのは午後6時頃であった。寄藻川土手を散歩していた人に旅館の存在を尋ね、表参道前にある、お食事処『○○○○旅館』に一泊する事にした。小説『豊後の火石』ではみやげ物店『かした旅館』として登場している。この旅館の食堂に《大分地方の方言番付》が書かれた暖簾が掛かっていた。東横綱が『やつがい(晩酌)』であり、西横綱が『しゃあしい(うるさい)』であった。小説『豊後の火石』に登場する曽我教授が奥様に向かって『しゃあしい』と叫ぶ場面に用いた。何処かの家庭によくある場面である。翌日は雨が降るとのことで、その日の内に上宮本殿までお参りに行った。夜は9時頃まで参拝が可能との事であった。
翌日(8/17)も早朝6時頃から大尾山の大尾神社(祭神は八幡大神)と護皇神社(祭神は和気清麻呂)に参拝した。小雨が降ったり止んだりの天候であった。朝食後は上宮本殿横の祈祷殿でご祈祷をしていただき、その後、祈祷殿隣の神功皇后と和気清麻呂を紹介している絵画館を見学した。その後、若宮神社、下宮に参拝したあと、頓宮にお参りした。頓宮は養蚕神社とも呼ばれているらしい。台風が九州に接近しており、小雨の中の参拝となった。頓宮の鳥居を出た帰り道で、白い糸状のものに包まれた小さな可愛い虫が口から白い糸を出して雨傘にぶら下がってきた。これが養蚕用の幼虫であるのかと想い、近くの木にそっと返してやった。かって渡来人の中に機織を行なう人々が宇佐に住み、八幡神を氏神としていたらしい。宇佐神宮の土壌は白粘土でこの地域の泉の水は『はまぐり水』と呼ばれる白い軟水であり、生糸のアクを取るのに最適な水であるらしい。また、この水を利用して、甘美良質な白い『宇佐飴』が造られるようである。武内宿祢が宇佐飴を乳がわりにして八幡様(応神天皇)を育てたと謂う逸話があるらしい。私もお土産に『宇佐飴』一袋を購入した。いずれにしても、宇佐神宮は予想外に広い神域であり、参拝・見学に多くの時間が必要であった。宇佐神宮社叢のイチイガシと熊野大神が降臨した熊野川大斎原のイチイの木とは関係があるのだろうか?午前中は宇佐神宮を歩き回り、午後1時頃に『○○○○旅館』の駐車場を出発し、国東半島に向かった。
豊後高田市役所の観光課で観光資料を貰い、元宮八幡宮近くの磨崖仏、田染の里の焼き仏を見学したあと、熊野磨崖仏を見学した。その後、国道10号線を南下して別府市街を通り、大分市から大野川沿いに上流に向かい、日当三叉路から国道502号線に入り、臼杵川沿いを下流に向かって走り、臼杵石仏群の前を通過して臼杵湾に到着したのは午後4時頃であった。台風の影響はまだ出ておらず、波もそれほど荒れてはいなかった。もともと臼杵湾は波が穏やかな入り江であるのかもしれない。雨は降り出していた。四国の八幡浜から到着したフェリーから多くのトラックが降りてきた。このとき、臼杵湾は造船に適した良港で、神武天皇の時代には、東征に使う木造船をここで製作したのではないかと云う思いが湧いてきた。近くの山で切り出した木を臼杵川に流して臼杵湾まで運んだのであろう。宇佐神宮境内には木匠租神社の社祠が菱形池の側、能楽殿横にあり、手置帆負命と比子狭知命が祭られている。
ところで、宇佐神宮は豊前にあり、国東半島は豊後にある。豊前、豊後に別れる前は豊国であり、魏誌倭人伝に登場する卑弥呼のいた邪馬台国であったと云う学者もいる。『台与』と謂う卑弥呼の親族である巫女が国主として存在したらしい。卑弥呼とは、すなわち霊の巫女のことであり、豊国は神武東征以後は大和朝廷の神託を受け持つ国として存在したとの見方であろうか。とにかく、神武王朝(大和朝廷)と宇佐国造の菟狭津彦の関係は良好であったのだろう。
国東半島は『六郷満山』と呼ばれる山岳仏教文化の地である。宇佐神宮の神仏習合発祥に合わせるかのように石仏・磨崖仏が彫られた地域である。その端緒を拓いたのが、『仁聞菩薩』と呼ばれる僧侶であったらしい。718年頃に現れた仁聞菩薩は八幡大神の『応現』(時期に応じて現れる)と考えられており、宇佐神宮の境内にある弥勒寺の初代別当法蓮と共に国東半島で巡行を行ない、寺院開基に貢献のあった人物である。朝鮮半島に多く見られる石仏文化の伝承の為に宇佐に来た渡来僧であった可能性が強い。692年頃の新羅国王は『神文王』である。718年頃の新羅国王は『聖徳王』であり、内政や外交に手腕を発揮し、新羅国発展の基礎を固めた人物らしい。
その後、臼杵城跡を見学し、高台から臼杵市街を眺めて、大林宣彦監督の映画『なごり雪』に登場した上臼杵駅とまちがえて、臼杵駅を見学して急ぎ帰路に着いたのは午後5時ころであった。ラジオの天気予報が台風の九州大分上陸を告げていた為、臼杵での宿泊を諦め、下関に向かった。臼杵石仏群から県道25号線に入り、筒井大橋で国道10号線に戻り、一路下関を目指した。午前0時に下関駅前に到着したが、海岸の風が少し強くなっていたので、そのまま国道191号線を台風から逃げるように北上して出雲大社のある島根県に向かった。雨はまだ降っていなかった。
台風が来ていなかったら、福岡県春日市に住む友人である精神科医師を訪問するつもりであったが、今回は中止した。
国道9号線(山陰道)沿いにあるコンビニの駐車場で仮眠をし、山口県萩市須佐町の海岸にあるホルンフェルスと云う地上に現れた断層を見学したのが8月18日の午前8時ころであった。波は台風の影響で荒れて、雨が降っていた。この後、正午に島根県の温泉津に到着した。ここの『薬師湯』と云う温泉風呂に入り、疲れを癒した。『薬師湯』は無料のコーヒーサービスが付いていた。ここでは台風の影響は無くなっていた。ラジオのニュースの話では台風は朝鮮半島の方へ九州を抜けていったらしい。
《追記2》
コンビニで仮眠する前は、国道沿いにある土産物屋の観光バス駐車場で仮眠していたが、蒸し暑くて目が覚めた。気がつくと、荷台が空の大型重機運搬トラックが近くに停まっており、運転手がこちらを見ているのに気がつた。どうも、我が愛車バモスを盗む予定だったのか(推測)、車内灯を点けると、トラックは慌て逃げ去った。他に駐車している乗用車やトラックは無く、我が愛車のみが駐車していた。私も危険を感じ、他の車が停まっているコンビニ駐車場に移動して仮眠したのであった。
目が覚めたのは、助手席に置いてあった白山比?神社のご祈祷で頂いたお札の御蔭であったような気がしている。
この事件を参考にして、『豊後の火石』では、事件の犯人がアリバイ作りのために自分の車を重機トラックに運搬させる事を思いついた。
《追記1−1》
今回の旅行では出雲大社の参拝は見送るつもりであったが、出雲大社近くの国道9号線が大渋滞で全然先に進めなかった。大国主命が『当社に参拝せよ。』と言っているのだと思い、急遽、左折反転して出雲大社に向かった。午後4時頃、出雲大社に参拝できた。この時に判ったことであるが、出雲大社と宇佐神宮の参拝の作法が『二拝、四拍手、一拝』で同じであると云う事であった。通常の神社での参拝作法は『二拝、ニ拍手、一拝』であり、意外であった。「宇佐神宮と出雲大社の間には何かの関係があるのだろうか?」と思った。そこには、和気清麻呂の先祖である、鐸石別命が関係しているのであろう事が後の文献調査でわかった。鐸石別とは金属鉱石と普通の石とを見分ける技術を意味し、宇佐神宮の北方にある香春岳は鉄や銅を含む石が出る地域であり、出雲地方にも、古代からタタラと呼ばれる金属(砂鉄)を溶かす鞴技術があった。すなわち、銅や鉄の鋳造技術に於いて共通項が見出せる。金属の神様、あるいは火の神様に対する祈りの場での拝礼方法が『ニ拝、四拍手、一拝』であったと考えるのは如何であろう。国東半島には古代の製鉄所があったと云う人もいる。
実は、弥彦神社の参拝作法も『ニ拝、四拍手、一拝』であるらしい。弥彦神社訪問の際は気が付かなかった。弥彦紀行でも述べているが、新潟県にある弥彦神社の祭神は高倉下命(別名、天香山命;あめのかぐやまのみこと)であり、国東半島で父親の饒速日命(にぎはやひのみこと、別名、天火明命;あめのほあかりのみこと)と別れて紀伊熊野の鵜殿に行き、その地に逗留していた人物である。神武東征の際に『フツの御魂の剣』を発見して、神武東征の成功に貢献した人物でもあり、金属と火に関係がある祭神と考えられる。宇佐神宮の社伝によると、西暦571年に宇佐八幡大神が登場する以前は、大元山に三柱の比売大神が素盞鳴尊の剣を物実として降臨し、祀られていたようである。剣は金属(銅・鉄)で出来ており、鐸石の発見を神に願い、神託を頂いた時代であったのかもしれない。刀剣には神魂が宿るとされている。奈良の大仏の仕上げに金メッキを施すのに必要な大量の金が発見されるのを予言したのは宇佐の神様であった。(予言の話は藤原氏の創作であったかも知れないが、いずれにしても、東北地方で多くの金が発見されたようである。)素盞鳴尊は出雲で櫛稲田姫を助け、八頭大蛇の尻尾から出てきた『天の群雲の剣』を手に入れる。後の『草薙ぎ剣』である。宇佐も出雲も素盞鳴尊の剣(金属)が関係した土地である。
出雲大社の本殿を横から眺めて、埼玉県毛呂山町にある出雲伊波比神社の本殿のことを思い浮かべていた時、一羽の鳩が目の前に止まった。灰色の羽で覆われ、首筋には緑色の模様がある、美しく、なんとなく威厳を感じる鳩であり、神様の使いかな?と思った。鳩と目が合って『写真を撮ってもいいですか。』と心の中で呟くと、『撮れるものなら撮ってみよ。』と返事が返ってきた気がした。携行していたデジカメを取り出し、写真のシャッターを押そうとした瞬間にその鳩は飛び立って行ってしまった。残念であった、もう少し鳩と話をしたかった(単なる独り言であったかもしれないが)。
午後5時頃出雲大社を出発し宍道湖の北側の道を進もうと計画していたが、突然の雷鳴と強風雨が発生し、道をまちがえて、渋滞中の国道9号線に戻ってしまった。出雲の大神が『表街道?を通りなさい。』と言っているように感じ、そのまま渋滞の9号線を走った。
午後9時頃鳥取市を通過し、丹後半島方面に向かう予定が、またまた道を間違えて、9号線をそのまま走り続け、京都の綾部・福知山から舞鶴の国道脇のドライブインに到着したのは午前1時頃であった。丹後半島は鐸石別命の出身地であるが、出雲との関係は如何であったのか?今後の研究課題である。
ドライブインで睡眠を取り、8月19日(土)午前5時ころ再出発をした。国道27号線の海岸風景をながめ、敦賀で国道8号線に入り北上し、午前10時頃に鯖江インターから北陸自動車道に入り、上越インターを出て越後高田城跡に到着したのが、午後2時頃であった。途中のサービスエリアで富山の『ますずし』を購入して昼食とした。高田城の堀には蓮の葉が沢山浮かんでいたが、花は咲いていなかった。7月頃なら蓮の花も満開であっただろう。しかしこの時、宇佐神宮の宝物殿前にある初沢池の古代蓮の花は美しく咲いていたのを思い出した。菱形池の蓮も花が少し咲いていた。1時間くらい高田城公園内を散策した後、帰路についた。国道403・353号線の山道を抜けて松之山町、塩沢石打を通り、三国峠から渋川に出て、埼玉県の自宅の戻ったのが午後8時頃であった。
面白くも、大変な7日間の『急ぎ旅』であった。ああ疲れた(取材旅行を思い出したり、メモを見たり、旅行写真を見たり、文献を見直したりしながら、この文章を書いたので!)。
《追記1−2》
ところで、今回の小説のバックボーンにあるのが『日ユ同租論』である。小説の読者の為にここで、簡単に解説を加えておきます。
日ユ同租論とは『日本人の先祖はユダヤ人(イスラエル人)と同じである』と云う仮説です。これは、ユダヤの北イスラエル王国の10部族の人々が奴隷としてバビロニア王国に連れ去られたあと、カナンの地(現在のイスラエル国のある地域)に戻らず行方不明になった。(『失われた10支族』と呼ばれている)その人々が中国や朝鮮半島を経由して日本に渡来した、あるいはペルシャ湾、地中海などから海上を経由して日本に来たと云う仮説?である。聖書にも、ユダヤの民の為、東方に特別な国を準備している旨の記述があり、それが日本であると推理している人は多い。それは日本列島が世界の縮図であると考える事が出来ると云う発想に基づいているのかもしれない。
この九州・宇佐の地を世界地図に当てはめれば、エジプトのカイロあたりと云う事になり、国東半島はシナイ半島に相当することになる。ファラオが建てた太陽神のための神殿に相当するのが宇佐神宮か?シナイ半島のシナイ山でモーゼが神から授かった『十戒』は、国東半島で饒速日命が天から授かった『十種神宝』に相当するのではないかと云う発想を元にして本小説が書かれている。これが神意なのかどうかは不明である。秘密結社の陰謀であるとする人もいる。また、小説の中で長野県・諏訪大社の神体山として守屋山が登場する。聖書ではモリヤ山でユダヤ人の祖先であるアブラハムが息子のイサクを神への生贄とする場面が登場する。結局は神の使い(天使)が現れて中止になるのであるが、諏訪大社の『みさくち神事』がこの場面を彷彿させると云われている。また、イスラエル王ソロモンはエルサレムのモリヤの丘に神殿を建て、十戒が書かれた石板の入った『契約の箱』を安置したとされている。
『フリーメーソン』を日本語に訳せば、『自由な石工』と云う意味になる。この秘密結社が創始されたのは、イギリスであり、西暦674年である(フリーメーソンのホームページ英文による)。また、日本で天武天皇が琵琶湖の湖畔にある『白髭神社』(祭神は天孫族を道案内した猿田彦尊)に対し『比良明神』の称号を与えたのも西暦674年とされている(比良明神のホームページによる)。何かの因縁があるのか?神意なのか?単なる偶然なのか?メーソンの陰謀か?(私の考え過ぎか・・・?)
2007年6月27日 目賀見勝利 記
2007年7月 1日 弥彦神社・出雲大社関連などを 追記1−1,2
2017年11月14日 重機トラック事件のことを 追記2