⑥ Julian "Cannonball" Adderley (2)
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3限の必修が終わると、私は同級生の友人たちと1号館のそばにある全学向けの掲示板を確認することにしました。
先週、もしかしたらと先生が予告していたので、4限の社会学が休講かどうかあらためて見ておく必要があったからです。
休講を示す掲示を確認すると、私はみんなと分かれ研究室の掲示板を見に行くことにしました。
一緒にケーキでも食べに行こうよと誘ってもらえたのですが、下校前に研究室に寄ることはもう私の習慣ですし、気になることもあったので、私は自然と「ごめん、また今度ね」と言っていました。
友人たちを見送ると、私の足はすぐに研究室の方へと踏み出しそうになりました。
でもその前に、と、私は肩にかけたお気に入りのバッグを押さえながらどうにか踏みとどまりました。
1号館にあるいつもの学食に寄って、自動販売機で何か飲み物を買おうと思ったのです。
今月の半ば頃から、売られている飲み物は徐々に温かいものに変わっていき、今では半数近くが温かいものになっていました。
もうすぐ12月になりますからそれは予定どおりのことだったものと思いますが、個人的には先月から温かくしてくれていればいいのにと密かに思っていました。
多少疲れを感じていたので甘いものを選び、缶入りの温かいミルク・ティーが取り出し口にちょっと重い音をたてながら落ちてくるのを、私は無心で見ていました。
すると、通路の方から聞き覚えのある声が耳に入ってきました。
「ラウンジ・ブレンドでひと息入れていかんか?」
田中先輩の声でした。
並んで歩いていらっしゃるのは広瀬先輩です。
「ぼくは英研だからさ」
広瀬先輩が田中先輩に答えておっしゃいました。
おふたりの他にもうひとり……私はミルク・ティーの缶を両手で持ち暖を取りながら、学食の外に出ました。
もう手袋を用意してもいいな。
私は歩きながらぼんやりと思いました。
先輩方を離れて追う形になりましたが、土井先輩の姿はありませんでした。
「それじゃここで」
広瀬先輩は1号館を出ると左へと歩を進めて行かれ、田中先輩はそんな広瀬先輩へ右手を軽く挙げていらっしゃいました。
私はサークルに入っていませんから、どのサークルがどこで活動しているのか知りません。
ただ漠然と、英語研究会の部屋は広瀬先輩が歩いて行かれるその先におそらくあるのだろうなと思っていました。
広瀬先輩を見送られていた田中先輩に追いついた私は、いつものように挨拶をしました。
「田中先輩、こんにちは」
「おお、新入り……じゃねえや、大川」
田中先輩は少々すましたご様子でこちらへと進んで来られながら、私にこうおっしゃいました。
「スマンがオレは今日、土井がどうしてるのか知らんぞ」
田中先輩が何気なさそうにおっしゃった言葉に、私はついかあっと赤くなる自分に気がつきました。
私は焦ってしまいましたが、どうしてなのか、私の目の前で足を止められていた田中先輩も焦っておられるように見えました。
「お、大川も研究室か?」
「は、はい。田中先輩もなんですね」
「そうなんだが、な」
田中先輩がひとことおっしゃりながら歩き出されたので、私はついていくことにしました。
先輩のうしろで、どうにか落ち着こうと深呼吸しながら。
田中先輩の足取りはゆっくりしたものでしたので、私は運よくすぐに息を整えることができました。
折からの冷たい風が小さな渦を作るのが巻き上がった埃で分かりました。
正真正銘の、音楽ではない枯葉がかさかさと小さな音を立てて風につられていきました。
近頃の私は『サムシン・エルス』のCDばかり聴いていましたから、枯葉を見ればすぐにキャノンボール・アダレイが吹くアルト・サックスを連想して、私の好きなフレーズが聞こえてくるような気がしてしまうのでした。
でもそのフレーズは「枯葉」ではなく、「ダンシング・イン・ザ・ダーク」でした。
私はさらに連想して、今日の明け方に見た夢を思い出していました。
「この間は話が妙なところで切れちまって、スマンかったな」
田中先輩の声で我に返ると、田中先輩はいつの間にか私の方を向いて立ち止まっていらっしゃいました。
いつもの青いバッグを左手で肩越しにお持ちになり、右手は顔の前で垂直に立てられていました。
私はまるで拝まれているような感じになっていたのです。
「あ、いえ、気にしないでください。私は気にしていませんので」
「そうか? ならいいのだが」
田中先輩は元の進行方向に向き直られ、再びゆっくりした足取りで歩き出されました。
私は数歩分遅れて続きました。
「大川に訊かれたことをきちんと答えてなかった気がしてだな、スッキリせんのだ」
たぶん、佐野先輩のことだ。
明け方の夢に佐野先輩が出てこられたのも関連しているのかもしれない。
そう思い当たると、私はあらためて田中先輩に話を振ってみようと思いました。
「田中先輩、佐野先輩とお知り合いなんですね」
「お、おお。知り合いには違いないが、それ以上のことは何もない。いいか、なんにもないからな」
「はい……」
先日もそうでしたが、田中先輩は佐野先輩をすごく意識されているように感じられます。
「佐野と会っても、オレのことは話題にせんでくれよ」
「佐野先輩に対して、何か不都合でもあるんですか?」
「ん? それはだな、実は不都合と言うほどのことはない」
ここで一度区切られると、田中先輩はさらに続けておっしゃいました。
「仲がいいとも言えんが悪いということもない、はず」
田中先輩の表情は自問自答されているようなそわそわした感じに見えました。
「しかし、だ」
田中先輩がどことなく落ち着かない様子でいらっしゃるのを初めてお見かけしました。
広瀬先輩ほどではありませんが、田中先輩も普段は鷹揚かつ平然とされている印象がありますので、こんなふうにそわそわされているのは不思議に思えました。
「オレは去年、佐野と一般教養の『現代文学史』で一緒だったのだが」
「そうなんですか、いいですね」
「大川にはいいことなのかもしれんが、オレにとってはだな、そうは言えんのだ」
私は佐野先輩と知り合うことは誰にとっても素敵なことだろうと思っていたのですが、田中先輩は私の思いを否定する立場におられるようでした。
「田中先輩は、佐野先輩がお嫌いなんですか?」
私は残念な気持ちで田中先輩に訊きました。
「イヤ、それはない」
田中先輩は即座にきっぱりと否定されました。
「勘違いしてほしくないのだが、佐野が嫌いなわけじゃない。それなりに世話にもなったし、えらく個性的で面白いヤツだと思わんこともない。ああいうヤツがいるのはきっと世の中にとってはいいことじゃねえのかな……というのは言い過ぎかもしれんが」
「実はけっこうお好きなタイプでしたか?」
「お、ちょ、待て待て待て。そりゃねえだろ大川」
私は意地悪をするようなつもりはまったくなく、思いついたままにうかがってみただけでしたが、青いバッグを左手に持たれた田中先輩は空いている右手を強く振って否定されています。
わざとらしく見えるほどやけに焦っている田中先輩は楽しい人でいらっしゃるに違いありません。
私にはもう何度もそう思う機会がありましたが、今もまた、です。
「どうかされたんですか?」
田中先輩は右手でおでこを押さえていらっしゃいました。
「ん? イヤ、たいしたことじゃないのだが、調子が狂っちまってだな」
「もしかしたら、佐野先輩と何かあったんですか?」
田中先輩の右手はおでこからこめかみの辺りへ移っていました。
「まあ、なんだ。オレはどうもあの女が苦手でな」
「そうでしたか」
田中先輩が佐野先輩を苦手にされていらっしゃるなんて、私は意外に感じました。
言葉ではそっけなく表現されていても、てっきり仲よくされているものと思っていたのです。
「理由は分からんのだが、なんつうか、居心地が悪いというか落ち着かんというか、とにかくリラックスできんのだ」
「そうなんですか? 私は佐野先輩がいてくださるといつも楽しく感じていますけど」
「それはたいしたもんだな、大川」
「え?」
「繰り返すが、佐野が嫌いってわけじゃないぞ。ヘンな女だとは思うがな」
田中先輩から見える佐野先輩は「変な女」なのだと聞いた私は、田中先輩が「変」という言葉の裏にどんなイメージをお持ちでいらっしゃるのか気になりました。
「あの女はオレが苦手な物質を持ってるのかもしれんな。ペギミンHとか、スペシウムみたいな」
田中先輩はそうおっしゃると、細かくうなずかれていました。
私は田中先輩の言葉がまだ続くものと思って黙っていました。
言われている内容がよく分からなかったからです。
「大川にはネタが古かったか……」
「え?」
私には田中先輩の意図されたことが結局分かりませんでした。
「とにかくだな」
「あ、はい」
「今年は佐野と出くわす講義が無くてよかったのだが、おんなじ学校にいりゃあ逃げきれないこともあるわな」
しみじみした感じで田中先輩はそうおっしゃってから、ふうっとひとつ息を吐かれました。
そして顔をしかめられたり、両目をぱちくりとされたりしてから、さり気なくこうつぶやかれていました。
「笑顔ってのはしようと思ってもなかなかできんもんだ」
笑顔。
私は土井先輩のことを思い出しました。
いつもの苦笑いではなく、稀に見せてくださるとても自然な笑顔。
次に見せてくださるのはいつだろう。
苦笑いも、近頃はどこか元気がないように私には見えてしまう。
明け方の夢には土井先輩もいたはず。
だって、佐野先輩は夢の中で私にこうおっしゃったのだ。
── 闇のオーラの中で踊る男、か。楽しいのかしら? それとも、悲しいから?
佐野先輩の言葉で目を凝らすと、私にも誰かが真っ暗な舞台の上で動いているように見えてくる気がした。
けれども、あれはダンスなのだろうか?
── どう思う、タマキちゃん?
「あの」
「ん?」
私は田中先輩にうかがってみることにしました。
「田中先輩は、近頃、土井先輩の体調がよくなさそうだとは思いませんか?」
「大川には土井の体調が悪そうに見えんのか?」
田中先輩は不思議そうな表情をされていました。
「まあな、土井の不調は最近始まったことじゃねえからなあ」
「え?」
「逆に、だ。元気なときがあるんだかどうだか、オレは気になるわけだよ」
「そう、ですか」
「今日もいねえし。こんだけ気ままにサボってりゃ、快調なんだろうと思うんだが」
田中先輩は持ってまわったような表現を使われた。
でもそれは、土井先輩のご様子を気にされているに違いない。
土井先輩は意図的に学校にいらっしゃらないことが多い。
土井先輩がお元気なら心配することはない。
けど、もしかすると体調が悪くて来られない場合も実は多いとしたら?
そう思い当たると、私は不安になってしまいました。
うつむいた私の目に、2階へと向かう階段が映っていました。
左肩越しにお持ちになっている青いバッグと、深緑色のジャケットに包まれたがっしりとした背中を見ながら、田中先輩のあとに私は続きました。
冷たい風が音を立てて私の背中を押していました。




