⑥ Julian "Cannonball" Adderley (1)
今朝の私は、昨日図書館で借りてきたCDをかけながら学校へ行く用意をしていました。
アルバムのタイトルは『サムシン・エルス』。
図書館は私の最寄り駅の近所にある市立図書館で、この街に引っ越してきて以来私はとてもお世話になっています。
* * *
── グリーグの「ピアノ協奏曲」は1曲しかありませんが、とても素晴らしい曲なので是非聴いてみてください。
先生はそうおっしゃいました。
先生のご都合で講義は早めに終わってしまい鑑賞できなかったからです。
私にとっては聴いたことのない曲ですし、先生が薦めてくださったからには聴いておきたいものでした。
先輩方の意見もうかがっておきたいところでしたが、佐野先輩は講義が始まる前に退出されていました。
── 次回はチャイコフスキーとラフマニノフを採り上げます。
講義の終わりに先生がおっしゃったとき、「ラフマニノフ」と聞こえた辺りで土井先輩は講堂を出るところでした。
私はとにかくいつもの図書館に行ってみることにしました。
図書館に着いて所蔵の有無を館内のシステムで調べてみると、1枚あることが分かりました。
ルプーのピアノ、プレヴィンの指揮、オーケストラはロンドン交響楽団、カップリングはシューマンの「ピアノ協奏曲」でした。
残念ながら貸出中でしたので、私は予約しておくことにしました。
これは絶対に聴いておきたい演奏だと思ったのです。
ルプーという名前は初めて知りましたが、プレヴィンなら既に知っている名前です。
土井先輩が貸してくださった「真夏の夜の夢」のCD、その演奏がプレヴィンの指揮によるものだったからです。
予約の手続きのあと、私はいつものようにCDがたくさん並んだ視聴覚コーナーに立ち寄り、ジャズのCDを見ていくことにしました。
すると、見覚えのある名前のディスクがすぐに1枚見つかりました。
土井先輩がくださったリストの初めの方に挙げられていたアルバムです。
手にとって見ると、表は黒地に大文字のアルファベットが右半分に配置されたデザイン。白い文字で『SOMETHIN' ELSE』(サムシン・エルス)、黄緑の文字で「CANNONBALL ADDERLEY」(キャノンボール・アダレイ)。
その下には青い文字で、なじみのあるマイルズ・デイビスやアート・ブレイキーの名前もあります。
キャノンボール・アダレイだってマイルズの『カインド・オブ・ブルー』に参加していたメンバーのひとりなのです。
裏を見ると、1曲目は「枯葉」。
私はこれを借りることに決めました。
図書館は一度に3点まで貸してくれることになっていますが、いつも私はひとつだけ借りることにしていました。
ひとつだけ借りて、それを何度も何度も心ゆくまで聴くのです。
とても気に入った場合は自分でも買うことにしていました。
土井先輩のおかげで、私のささやかなライブラリにジャズのディスクが増えてきたところです。
貸し出し係へ向かう前に、もう1枚、私の目に留まりました。
ジャズの場所なのに「プレヴィン」という文字が見えたのです。
プレヴィンは指揮者のはずですから、クラシックの場所との単なる置き間違いかなと思いながら、私はそのCDを手に取りました。
ピアノの前からオーケストラに指示を出しているように見える写真。
写っている人はみんな私服のようです。
裏を見ると、「ジョージ・ガーシュウィン作曲」とありました。
ガーシュウィン、知っている名前です。
「ラプソディー・イン・ブルー」、「パリのアメリカ人」、「ピアノ協奏曲」が収録されています。
演奏はプレヴィンの指揮するロンドン交響楽団。
先ほどのグリーグのものと同じです。
ではピアニストは誰なのでしょう。
指揮とピアノ、アンドレ・プレヴィン。
ということは、写真でピアノの前にいるこの人がプレヴィンなのだと初めて分かりました。
そしてガーシュウィン。
何故知っている名前なのかこのときは思い出せませんでしたが、このディスクも聴いておかないといけないものに違いありません。
私はまず「ラプソディー・イン・ブルー」に惹かれました。
なんて美しいタイトルなのだろうと思ったのです。
タイトルだけで聴きたくなる曲なんて、滅多にありません。
予約したグリーグのディスクが返却されるのはまだ10日くらい先になるかもしれませんでしたから、私はプレヴィンが演奏するガーシュウィンのCDを次に聴くことに決めていました。
貸出中にはならないと勝手に決めつけた上で。
*
帰宅後すぐに私は『サムシン・エルス』を再生しました。
土井先輩のリストにはひとことメモがあり、「クールな名盤で録音がいい」と書かれています。
1曲目は今の時季にふさわしい「枯葉」です。
長めのイントロのあとで、マイルズ・デイヴィスのミュート・トランペットがメロディーを奏でます。
土井先輩にCDを貸していただいたビル・エヴァンズ・トリオの演奏とはまったく違って、どことなく物悲しげに聞こえます。
リーダーはアルト・サックスのキャノンボール・アダレイですが、これではマイルズがリーダーのようです。
私がそう感じた理由は、解説を読んでみて明らかになりました。
実質、リーダーはマイルズなのですが、契約の都合で名義をキャノンボールとして作成したアルバムなのだそうです。
でも、オリジナルLPでは最後の曲にあたる「ダンシング・イン・ザ・ダーク(Dancing in the Dark)」は、マイルズは不参加で最初から最後までキャノンボールのアルトがソロを取るバラード演奏でした。
私は一聴してすぐ、このアルバムのベスト・トラックはこれだと思いました。
聴いていて、すごく気持ちがいいのです。
キャノンボールのアルトの音色も流麗な演奏も最高だと思えましたし、アート・ブレイキーのブラシが寄り添うようにリズムを刻むのも私にはちょっとした発見でした。
5月に土井先輩から借りて聴いたアルバム『モーニン』では、ブレイキーは豪放磊落なドラマーというイメージだったからです。
* * *
昨日からずうっとプレーヤーに入ったままの『サムシン・エルス』ですが、今朝は出かける直前まで「ダンシング・イン・ザ・ダーク」だけをリピート再生していました。
そして、ふとひとつ気づいたことがありました。
実際は「ダンシング・イン・ザ・ダーク」とは無関係なことですが、「堕落」と「ダーク」は似ている言葉だと思ってしまいました。
そんな自分がおかしくてくすっとする私でしたが、そのうちに、佐野先輩はどう思うだろうかという疑問が浮かんできました。
土井先輩にこの曲がお似合いかどうかということもありますが、佐野先輩がちょっとだけでも笑ってくれたらいいな……そんなふうに私は考えていました。
ダンシング・イン・ザ・ダーク。
闇の中で踊る、それは楽しいことなのか悲しいことなのか、私にはうまく考えられませんでした。
*
キャノンボール・アダレイのアルトの音色を頭のなかで再生しながら午前は過ぎていきました。
ふと思い立って、私は1号館の学食に行ってみることにしました。
学食はいつもなら満席になっていてもいい頃合いでしたが、この日はずいぶん空いていました。
半分程度埋まっているかどうかというくらいです。
それでも私は迷うことなく例の席に座ることにしました。
── タマキはこれからたくさん、いい音楽にどんどん出会っていけるんだぞ。
土井先輩にそう言われたときの席でそのことを思いつつ、そのとき食べていたB定食をまた食べていると、田中先輩がこちらに向かってこられるのに気がつきました。
田中先輩は私がいるとお分かりになられた際に、心底びっくりされたようなご様子で学食中に響く声を出されました。
「うわっ!」
私は心外でした。
「田中先輩、こんにちは。でも、そんなにびっくりされなくても……私が何か」
「お、おお、そうではなくてだな、新入り、じゃなくて……」
私はこれと言って深く考えることもなく、名乗ってみようとしたのですが、田中先輩は慌てたご様子で私を制してしまわれました。
「イヤ、待ってくれ。あと少しで名前を思い出せそうだから、すまんがあとちょっとだけ」
私はくすっと笑ってしまいました。
10秒ほど待ってから、私はあらためて言いました。
「大川です、田中先輩」
「そうだ、大川だよ、なんでまたオレは」
田中先輩は立ったままがっくりされているようでした。
「スマン、大川」
「いえ、気にしないでください」
「こんなことなら大学祭の後でガラガラなんだから別の席に行くべきだったか」
私はそのひとことには答えずにこう言いました。
「それより、私がこの席にいるのはおかしいですか?」
「おかしいんじゃなくてだな」
田中先輩は咳払いをひとつされました。
「土井の姿は見かけてなかったから、今日はオレの貸し切りだと思っていたわけだ。が、予想外のお方がいらっしゃった上に、B定食なんぞを食べているもんだからな、どこかにミスターもいるのではなかろうかと……」
田中先輩の説明はよく分かりませんでした。
私はひとつ質問をしようと思いました。
「ミスターって、どなたですか?」
「ん? 大川は知らんか。ミスターB、イコール、土井のことだ」
土井先輩にまた新たなあだ名が生まれていました。
B定食好きだからついたものだとすぐに分かります。
そうなると田中先輩はさしづめ「ミスターA」になりそうです。
私がそんなふうに思っていると田中先輩はこうおっしゃいました。
「ちなみに土井は、オレをミスターAと呼ぶことがあるのだが」
私はついくすくすと笑ってしまいました。
「土井先輩はいらっしゃいませんよ。私だけです。席の予約については教えていただいてましたから、その、つい……」
「かまわんかまわん、気にすんな。教えたのはオレだし、使った方が土井も嬉しかろう」
田中先輩はようやく青いバッグを椅子に置かれました。
「そんじゃま、ちと行ってくっか」
ミスターA定食の田中先輩は、呼び名のとおりのメニューをお持ちになって戻っていらっしゃいました。
私の正面の椅子にお座りになられたのを見届けてから、私は田中先輩も参加されていた大学祭のことを思い出してこう話しかけました。
「週末はお疲れさまでした」
「ん? おお、大川もご苦労さん。1年のうちからすげえな、偉いヤツだ」
「そんなことは……田中先輩に広瀬先輩だって」
「イヤ、大川は自発的にだと思うが、オレたちはO先輩にちょっと、な」
さっき食べ始めたばかりのはずなのに、田中先輩はもうA定食を食べ終わっていらっしゃいました。
そんなに速く食べて大丈夫なのか、心配になるくらいです。
私はサーバーマシンからふたり分のお茶をついで、田中先輩と飲みました。
「オレはサークルに入っていないことがバレていてだな、学祭当日だけでもかまわんから出てほしいと頼まれたのだ」
田中先輩がお茶に口をつけられましたので、私もひとくち飲んでみました。
サーバーマシンはこの日も好調だと分かりました。
「本来オレや広瀬よりも土井が出るのがスジというもんだが、まあ仕方ない。他ならぬO先輩の頼みだからな、準備も少しだけ手伝った」
土井先輩が出られるべきなのに、というニュアンスに気をとられましたが、きっとO先輩にアルバイトを紹介していただいた土井先輩こそが率先してするべき立場にいらっしゃるという意味でしょう。
田中先輩らしい言い方だと思いました。
「そうだ大川」
「はい」
田中先輩が急に大きな声を出されたので私はビクッとしてしまいました。
「いや、脅かすつもりはなくてだな、スマン」
「いえ、分かってますので気にしないでください」
「そんでだ、大川は土井の電話番号を知らんか?」
「え?」
「部屋に電話はあるらしいのだが、土井は名簿には載せとらんのだ」
「そうなんですか」
私は内心がっかりしていました。
私のほうこそ、土井先輩の電話番号を知りたいのに。
もしかしたらゼミの名簿に載っていて、田中先輩、広瀬先輩ならご存知かもしれないと考えていたのに。
「すみません。私も知らないです」
「そうか。じゃあ、もし分かったらそんときは教えてくれ」
田中先輩によると、土井先輩に念を押したいことがあるのだそうです。
「年賀状なんだけどな、まずひとつめにオレはその、出さないことにしたからオレに出すなよと、言っておきたいのだ」
田中先輩はそうおっしゃると腕を組まれてうなずいていらっしゃいました。
「だが、それよりもだ。土井に本当に言っておきたいのは、O先輩にはせめてちゃんと出せってことだ」
それが最低限の礼儀だと、オレは思うんだよ。
田中先輩はそう続けておっしゃると、お茶を飲み干されました。
私も自分の分を飲み干して、先輩の分と一緒におかわりをすることにしました。
「さすが大川、サンキューな」
田中先輩らしいひとことがいただけました。
「ところで、大川」
「はい?」
「せっかくなので訊いておきたいのだが」
「なんでしょうか」
「大川って、佐野とどんな関係なんだ?」
「え?」
この場に佐野先輩のお名前が出てきたので私は意表を突かれてしまいました。
私が答える前に、田中先輩は椅子に深く腰掛け直されると言葉を続けられました。
「先週、じゃねえな、先々週だったかな、もうはっきりせんのだが、大川が佐野と一緒にこっち……オレがいるほうに歩いてくるのを見かけてだな」
「そうだったんですか」
「オレは自分がいることがバレないように急いで隠れたわけだが、オレに気がついてたか?」
田中先輩は今度はテーブルへ肘から先を載せ前かがみになられていました。
「いえ、佐野先輩と私が一緒にいるのはほぼ火曜日のことだと思いますが、火曜日に田中先輩をお見かけしたことは私は一度もありません」
「ならばヨシ。これで安心した」
田中先輩は大きく息を吐かれたあと、おいしそうにお茶を飲んでおられました。
「あの、私は一般教養の『西洋音楽史』で佐野先輩と知り合って仲よくしていただいているんです」
「ん? 『西洋音楽史』って、あれか? 土井が受けてるやつだな」
「はい、土井先輩もいらっしゃいますけど」
「土井は真面目に出てんのか?」
「そうですね、土井先輩にしては欠席されることが少ないのかなと思いますけど」
「大川がそう言うのだから事実なんだろうが、信じがたいこった」
田中先輩はどこか腑に落ちないというような表情をされていました。
「だがそういうことなら、今やオレなんかより大川の方が土井によく会ってんじゃねえのか?」
「いえ、お見かけしてはいますが、会うと言えるほどのことは」
私は土井先輩が講堂の最前列、出入口に最も近い右隅の席にいらっしゃって、講義終了の瞬間にはもういなくなられていることを田中先輩に話しました。
「はあ? またかよ。いかにも土井らしいがな、ったく」
田中先輩はコメントに困っていらっしゃるようでした。
私は土井先輩よりも、今は田中先輩と佐野先輩のことが気になっていました。
おふたりが知り合いであることに不思議は感じませんでしたが、田中先輩が隠れてしまわれるというのはどうも気になりました。
私はその理由を率直にうかがってみました。
「田中先輩は佐野先輩に何か負い目でも感じていらっしゃるのでしょうか?」
「イヤ、そんなものはこれっぽっちもないぞ。多少世話になったことはあるのだが、それは消しゴム程度のもので」
ここで田中先輩は言葉を止めてしまわれ、どうしたことかがっくりしたご様子にお見受けできました。
「こんにちは、大川さん」
呼ばれたほうへ顔を向けると、いつの間にか小野先輩が私の近くにいらしてました。
「なんだ、いつもより早いな」
田中先輩は何気なくおっしゃいましたが、小野先輩は意味ありげなご様子でこうおっしゃいました。
「お邪魔しちゃったかな、田中くん」
「イヤ、ちょっと待て。それはないからな、恵子」
田中先輩が小野先輩の名前を呼び捨てにされていたので、私は虚を突かれたようになってしまいました。
「オイ、大川もそんな表情はよしてくれ」
「もしかして大川さん、私が田中くんにつきあってもらっているの、知らなかったかな?」
小野先輩のひとことで、私はどういうわけか緊張してしまいました。
「そ、それは知りませんでした」
私の返事は声が徐々に小さくなってしまいました。
小野先輩が田中先輩と仲がいいのは分かっていましたが、おつきあいをされているとまでは思ってもみませんでした。
まして自分の身近にそうした人たちがいるなんて、私にはうまく考えられないことだったのです。
「あのな大川、落ち着いて聞いてほしいのだが、つきあってもらっているのはオレの方だからな、間違うなよ」
「そうなの? 田中くんはそう思っているの」
「恵子、なんで今そんなに不機嫌そうなんだ?」
「私、別に不機嫌になっていないけどな。田中くんはどうしてそう思うのかな?」
「うわ、それは参ったな」
田中先輩はまたがっくりされているように見えました。
どんな出来事があってのことなのか私には分かりませんが、小野先輩と田中先輩が特別な何かで結ばれているということは充分に伝わってきました。
むしろ、どうして今まで気がつかなかったのか不思議なくらいでした。
小野先輩は田中先輩の青いバッグを手に取ると、バッグが置かれていた田中先輩の隣の席に腰を下ろされました。
私は小野先輩にもお茶をと思って立ち上がりましたが、小野先輩は私の行動を察してくださったようで「すぐ行くから大丈夫だよ。ありがとう」とおっしゃってくださいました。
「はい田中くん、これ持ってね」
小野先輩は青いバッグを田中先輩の膝に載せました。
「大川さん、田中くんにいじめられてなかった?」
「え?」
「何かあったら私にすぐ教えてね」
小野先輩はにっこりと微笑んでくださいました。
田中先輩は渋い表情をされたまま、いつものように青いバッグを手に取ると自然な感じで席を立たれました。
「話が半端でスマンな大川」
「いえ、そんなことありません」
腰を下ろされたばかりの小野先輩でしたが、ご自身も田中先輩に続いてすぐに席を立たれました。
「またね、大川さん」
「はい、失礼します」
田中先輩は手慣れた感じで食器を下げると、待たれていた小野先輩に続いて食堂を出て行かれました。
いつものように右手を軽く挙げて見せてくださいました。
田中先輩は小野先輩が不機嫌になっていらっしゃると思われていたようですが、私にはまったくそうは思えませんでした。
むしろ楽しそうだなと感じていました。
私にはまだまだ足りないものがあるんだ。
そんなふうに私は思うことになりました。
昼休みが終わり間近となり、普段なら学食にいる人の数は見る間に減っていったはずですが、もともと今日は少なかったためか、はっきりとした増減は感じませんでした。
私は頭の中で鳴り始めた「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のメロディーをじっと追っていました。
耳に聞こえているわけではありませんが、キャノンボール・アダレイのふくよかな音色は私の中によく染み込んでいると感じました。
闇の中で踊る、それは楽しいことなのか悲しいことなのか、今の私にはうまく考えることはできないままでした。