⑤ Smetana, Dvořák, Mussorgsky & Grieg
翌週の「西洋音楽史」では、スメタナとドヴォルザーク、チェコを代表するふたりの作曲家を採り上げることになっていました。
いつもの席に座っていると、佐野先輩の声がしました。
なんだか元気がなさそうに聞こえました。
「タマキちゃん、おはよう」
「おはようございます」
私は佐野先輩を見て驚いてしまいました。
肩を越えるくらいの長さだった髪を、ショート・カットにされていたからです。
服装もいつものような民族的なものではなく、ダーク・グリーンのジーンズの上に、茶色の短いコートを着ておられました。
服装については、だんだん寒くなってきたからかもしれませんが、髪を切られたのは寒くなってきたからではないことは明白でした。
私は高校生の頃の自分を思い出しました。
私が髪を切ったのはクラスメイトを始め私の周りにいた人たちへの無言のアピールでした。
でも、佐野先輩にどのような理由があるのか私には分かりませんし、おいそれとうかがえるようなことではないのも明らかです。
いつも目立っておられた佐野先輩がここにいらっしゃるなんて、今日のルックスだと私以外は誰も気づかないかもしれないと思いました。
それでも、実際は少なくとも私の他にもうひとり、気づいた人がいたのです。
こちらをしばらく見ていらっしゃった土井先輩です。
「タマキちゃん、私、どうしよう」
「え?」
佐野先輩はとても弱気になっていらっしゃるようでした。
かぼそく聞こえてくる声、うつむかれている表情。
こんな佐野先輩をお見かけするのは初めてのことでした。
「何があったんですか、先輩」
何かあったのは間違いないので、私はこう訊いていました。
「ごめん、タマキちゃん」
佐野先輩はうつむかれたまま、小さな声でおっしゃいました。
「私から話しかけたのに、今は何も言えないや」
「先輩……」
この日、佐野先輩はほとんどうつむかれたままだったと思います。
スメタナの連作交響詩『我が祖国』から代表的な曲である『モルダウ』が流れても、ドヴォルザークの『交響曲第9番“新世界より”』の第2楽章と第4楽章のさわりが流れても。
どれも私が知っているほど有名なメロディーを持つ曲でした。
佐野先輩がご存知なのは間違いない。
私はそう思いましたが、先輩が曲を口ずさまれることは一切ありませんでした。
*
講義終了後、土井先輩がこちらにいらっしゃいました。
「よう、タマキ。元気か」
気のせいかもしれませんが、土井先輩の声は少しかすれているように聞こえました。
風邪気味なのかもしれない。
私はそう思いましたが、敢えて気がつかなかったように答えました。
「はい、おかげさまで」
土井先輩は佐野先輩の方に向き直られると、耳元で何かおっしゃいました。
私には土井先輩の声が「今日は学食に来てくださいね」と聞こえました。
おふたりには申し訳ないと思いながらも、どうしても気になってしまい、私は昼休みに1号館の学食へ行ってみました。
学内には3箇所ほど学食と呼べる場所がありますが、土井先輩が言われる「学食」は1号館のものであると私は知っていました。
土井先輩の予約テーブル席があるからです。
学食でお昼を取るつもりはなかったので、私はあらかじめコンビニで買ってきたクリームパンを食べながら、そして、小さいパックの牛乳を飲みながら、行儀がよくないと思いつつ通路側から中を覗いてみました。
学食は混んでいる時間帯でしたので、一瞬おふたりがどこにいらっしゃるのか分からずに焦ってきょろきょろしてしまいましたが、やがて学食内のうしろ側にあるふたりがけのテーブルに先輩方がいらっしゃるのを見つけました。
焦らなくてもよかったのです。
あのときのテーブル、土井先輩が予約ずみの席でした。
土井先輩は元気なご様子で話されていましたが、佐野先輩は朝と変わらず元気をなくされたままのようでした。
私は研究室に用事があったことを思い出し、ほどなくその場を離れました。
どんなことを話されているのかはもちろん分かりませんでしたが、佐野先輩が元気をなくされている理由に土井先輩が関係されているのは間違いない。
私は佐野先輩が大声で「なんで逃げたのよっ」とおっしゃったことを不安な気持ちで思い出していました。
* * *
スメタナとドヴォルザークに続く「西洋音楽史」は、ムソルグスキーとグリーグを採り上げることになっていました。
このおふたりは私にとって比較的馴染みのある作曲家です。
どうしてかと言えば、中学や高校の音楽の時間にレコード鑑賞をした曲の中で印象に残ったものを作曲した方々だからです。
ムソルグスキーには『展覧会の絵』、グリーグには『ペール・ギュント』という私の好きな名曲があります。
私が『展覧会の絵』を聴いたのは図書館にあったLP、ロック化されたエマーソン、レイク&パーマーによる演奏が先でしたが、ラヴェル編曲によるオーケストラ版で聴いたときはもともと同じ曲なのに両者の違いが大きくて、とても驚かされてしまいました。
ロック化された演奏は、それまで私が聴いていたロックとは異なるスタイルのもので、スケールの大きさを強く感じることになりました。
ところが、オーケストラ版はそれより遥かにスケール・アップしていて、輝きを感じるような演奏でした。
この体験は、私にとってオーケストラへの関心を強めることになりました。
また、『ペール・ギュント』は、冒頭に置かれた『朝』という曲が大好きで、真剣にレコードを買うべきか悩んだことを思い出します。
このときは小学生だったこともあり、お小遣いで買えた生のカセットテープを用意して先生に録音をお願いしたのですが、このカセットは今も私の部屋にあります。
*
しかし、今日はそれどころではありません。
音楽のことよりもっと大事な問題があります。
私は佐野先輩が心配だったのです。
だからもっと早めに講堂へ行って、先輩がいらっしゃるのをいつもの席で待とうと考えていました。
ところが、講堂に到着してうしろ側、中央のドアを開けたとき、私は既に佐野先輩が来ていらっしゃることに気がつきました。
講義開始までまだ30分ほど前です。
私が遅くなったわけではなく、いつもより20分早い時間でした。
現に、佐野先輩と私の他に講堂にいるのは他におひとりだけでした。
佐野先輩が私より先に来ていらっしゃったのは意外なことでしたが、その分すぐにひと安心できました。
もしかしたらいらっしゃらないかもしれない、そんな可能性も考えていたからです。
「タマキちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「なんだか頭が寒いわ」
佐野先輩は短く切られた前髪に触られながらおっしゃいました。
先週よりも元気そうにされていますが、それでも私が先輩に抱いているイメージにはまだ遠い感じでした。
「私、しばらく来られなくなると思う」
「え?」
私には全く予想外の言葉でした。
「またどちらかにご旅行でもされるんですか?」
私は明るく返していました。
佐野先輩は静かに頭を振られました。
「今回は違うの」
佐野先輩と私との間にしばしの沈黙が訪れていました。
先輩は笑顔になろうとしていらっしゃるようでしたが、うまくいったようにはお見受けできませんでした。
「先輩」
「何?」
私は少し間を置いてしまいましたが、思い切って言いました。
「私は先輩に何があったのか分かりません。でも、先輩が何かをすごく悩んでいらっしゃるんだと思っています」
「タマキちゃん……」
「私にとって先輩は、尊敬できる、憧れの人なんです。いつも元気でいらっしゃって、堂々とされていて、自分というものをしっかりとお持ちで、こうだと思われたならその道をまっすぐに歩いて行かれる、そんな人だと感じているんです」
「誉めすぎだよ、タマキちゃん」
「いいえ、そんなことありません」
私は瞬時に佐野先輩の言葉を否定していました。
「ですから、私が言うのはたいへん僭越だと思いますけど、先輩には、そんな顔していてほしくないんです。いつものように元気に、堂々としていてほしいって、私は思います」
佐野先輩の目をまっすぐに見つめて、私は素直にそう言いました。
先輩はハンカチを取り出され、目頭を押さえていらっしゃいました。
「ありがとう、タマキちゃん」
佐野先輩はそうおっしゃると立ち上がられました。
「今日はね、タマキちゃんに挨拶をしに来ただけなんだ。だから」
「先輩……」
「これで失礼するね」
少し涙ぐんでいらしたようですが、佐野先輩は微笑んでくださいました。
「タマキちゃんのおかげで、元気が出てきたみたい」
「そんな……私は自分の気持ちを」
「うん。本当にありがとう、タマキちゃん」
佐野先輩はもう一度ハンカチを使われてから、にっこりとした笑顔を見せてくださいました。
「あいつに見つかる前に、行くね」
あいつ……土井先輩はまだいらっしゃいませんでした。
「あいつも、タマキちゃんも、面白い人だね。同じようなことを言うんだもん」
「え?」
また少しだけ涙ぐんでいらしたようですが、佐野先輩は明るくおっしゃいました。
私は多少動揺していたのかもしれません。
ざわついた気持ちになりつつありました。
土井先輩がいつしか、佐野先輩にとって「面白い人」になっていたなんて。
「じゃあね、タマキちゃん」
そうおっしゃりながら私に軽く手を振ってくださったあと、佐野先輩はまっすぐに講堂を出て行かれました。
土井先輩は講義開始ぎりぎりに、前方のドアから最前列右隅の席に来られましたから、このときはたぶん佐野先輩とは会われていないと思います。