④ Franz Liszt, Richard Wagner & Johannes Brahms (2)
* * *
ブラームスが採り上げられる日になりました。
「おはようタマキちゃん」
元気な声が聞こえたので私は嬉しくなりました。
佐野先輩が帰って来られたのです。
いつものバッグの他に、大きくて平べったい紙包みをお持ちでした。
佐野先輩は私の隣の席に来られるといつものバッグから小さな包みを取り出され、私にくださいました。
「タマキちゃん、これ、おみやげ」
ポスト・カードのセットとお菓子をいただきました。
「どうもありがとうございます」
「いいのよ、気にしないでね。タマキちゃんには仲よくしてもらってるし、ほんの気持ちだから」
そうおっしゃると、佐野先輩は腰を下ろされることもなく、指定席におられる土井先輩のほうへ向かわれました。
大きくて平べったい紙包みを手にされたままでした。
佐野先輩が土井先輩へその紙包みを渡された、そのちょっとだけあとのことです。
「なんで逃げたのよっ!」
大きな声が講堂に響きました。
佐野先輩の声でした。
講堂にいた誰もが佐野先輩の方を見たと思います。
相変わらずユニークな服装をされているので、どこにいらしてもすぐに分かるのです。
しかも大声です。
すると今度は、土井先輩が佐野先輩の手をつかまれて、おふたりで講堂を出て行ってしまわれました。
土井先輩の思いもよらない大胆な行動に、私はすごく驚かされました。
ところが土井先輩はすぐにおひとりで指定席に戻ってこられ、大きくて平べったい紙包みをしっかり持たれるとまたすぐ出て行かれました。
せっかくの佐野先輩からのおみやげを置き忘れてしまわれたのでした。
かっこ悪いところが土井先輩らしいな。
私はなんとなくそう思いました。
おふたりの間に何かがあったのは間違いありません。
でもそれがどんなことなのか、私に分かるはずはありませんでした。
*
ブラームスの作品は『交響曲第1番』と『第4番』のさわり、『ピアノ協奏曲第2番』の第3楽章、『ハンガリー舞曲第5番』を聴きました。
『ピアノ協奏曲第2番』の第3楽章はチェロの独奏が印象的で、秋が深まってきた今頃の季節に似合いそうな音楽だと思いました。
先生は「ブラームスは生涯独身でした」とおっしゃいましたが、その理由ははっきりしていないのだそうです。
ただ、ブラームスの恩人に当たるシューマンの奧さん、ピアニストとして名高いクララ・シューマンに心を寄せていたのではないか、そうした説があるとのことでした。
私が知っているブラームスの風貌は、高校の音楽室の壁に飾られていた肖像画のものでした。
鋭い目つきで、髪からつながった髭がぼさっと長く、少し太っている感じの初老の人なのです。
ですから、ブラームスはきっと頑固で強面のタイプなのだろうなと私は思っていました。
交響曲から届いてきた音楽はそんなイメージのままの、どこか渋い表情をしたブラームスが思い浮かびました。
でも、クララとの関係や、『ピアノ協奏曲第2番』の第3楽章のメロディーをからは、少しさみしそうに微笑んでいるブラームスが見えるような気がしました。
土井先輩、そして佐野先輩。
おふたりならどんな印象をお持ちなのかうかがってみたい。
けれど先輩方は講義の開始前からここにはいらっしゃらず、戻ってこられることはありませんでした。
私は……残念なような、あるはずのものが足りないような、そんな気持ちになっていました。
* * *
数日後、土井先輩が私に声をかけてくださいました。
思いがけず研究室の前でした。
「探したよ、タマキ」
「え?」
土井先輩は肩で息をされていました。
「まったく気乗りしなかったけど、ここならタマキに会えるだろうと思ってさ」
「大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃないですか?」
「そんなことないよ。つい階段を駆け上がっちゃっただけ」
この程度でこの様とは我ながら情けない。
先輩はそうおっしゃりながら苦笑いをされていました。
「でも先輩……先輩から声をかけてくださるなんて、それも研究室の前でなんですよ。どこかおかしいです」
土井先輩は苦笑いをされたままで、私の突っ込みに応えてはくださいませんでした。
「さすがにここからはすぐに立ち去りたいよ。場所を変えていいかな」
「あ、はい」
土井先輩に続いて、私は中庭へ移動しました。
ベンチに座ろうかと土井先輩はおっしゃってくださいましたが、あいにくどのベンチもふさがっていました。
「タイミングが悪かったかな」
「気にしないでください。私、実は散歩好きなんですよ」
私は先輩に気を遣ったわけではなく、実際によくひとりで散歩をするのです。
自分のペースで周りの景色を眺めながら歩くのは気分転換にちょうどいいと思います。
* * *
思い出してみると、3月の終わりに引っ越してきたその日から、私は散歩好きになったようです。
駅までの道を確認するために歩き出したとき、私はひとり暮らしを始めたことを実感できました。
そばに母がいないのはおかしな感じもしましたが、そのことよりもこれからの自分について考えることが忙しかった気がします。
ひとりで部屋の中にいるよりも、歩いている方が頭の中に風が入るような気がして、考えるのが捗りました。
駅までの道を毎日歩いているうちに、少しずつ周りの景色が目になじんできました。
どこに何があるのか、ようやくきちんと見えてきたのです。
おいしそうなケーキ屋さん、こぢんまりとしたスーパー、その隣にクリーニング屋さん。
通りを挟んで立派な酒屋さん、親しみやすそうな本屋さん。
お店の人たちの顔も分かるようになってきました。
だんだんと、いつもの道だけではなく、それまで歩いていない道を選ぶ余裕ができてきました。
そんなとき、駅から5分くらいのところに素敵なお店があることに気がつきました。
ジャズのレコードや生演奏を聴きながらお酒が飲めるようです。
土井先輩のおかげでジャズの面白さ、楽しさが分かりつつあった私は、いつかこのお店に入ってみようと即決しました。
ですが、ひとりでは無理かなあとすぐに思うことになりました。
私ひとりでは敷居が高いと感じてしまったのです。
土井先輩の顔を思い浮かべるまでに時間はかかりませんでした。
もし土井先輩と一緒に来ることができたら、きっとたくさんの知識を披露してくださるに違いありません。
演奏だけでなく、土井先輩の話も聞けて、おいしいお酒を飲んで……そんな場面を想像してみた私はついにこにこしてしまいました。
そして、もし佐野先輩と一緒なら、もちろん必ず楽しい時間が過ごせる。
私は佐野先輩と話しながらすごく嬉しそうに笑うだろうな。
全部ただの想像でしかありません。
けれども、私に疑いの余地はありませんでした。
* * *
私と並んで歩いてくださりながら、土井先輩はまず前回の「西洋音楽史」について話題にされました。
土井先輩が佐野先輩を連れて講堂を出て行かれたあとのことを。
「ブラームス、だったっけ?」
「はい」
「先生は狙ってたかのようだな」
「どうしてですか?」
「ブラームスって、ボクには秋のイメージがあるんだ」
土井先輩が私と同じように思っていらっしゃることに、私はふわっとした気持ちになりました。
「『ピアノ協奏曲第2番』、聴いた?」
「あ、はい」
「第3楽章、だった?」
「なんでお分かりになるんですか?」
土井先輩はすごい。
私はまたそう思いました。
「定番かなあと思ってさ。ボクはバックハウスのピアノにベームがウィーン・フィルを振った演奏が大好きなんだけど、先生は誰の演奏を選んだ?」
「すみません、少し待ってください」
私は真剣に思い出すことに集中しました。
バックハウスという名前も、ベームという名前も、私は知りませんでした。
「先輩が言われた演奏とは違いました」
「そうか、けっこう古い録音だしなあ」
土井先輩からの「古い」という言葉がヒントになって、私は思い出しました。
「先生は確か、ご自分にしては新しめの演奏を選ばれたとおっしゃって……」
「じゃあ、ポリーニかな」
私はさらに思い出しました。
ポリーニというピアニストの名前をノートに書いたこと、そして指揮者の名前は……。
「ポリーニのピアノ、アバドの指揮、オケはバックハウス盤と同じくウィーン・フィル」
「本当にすごいですね、先輩」
私は驚きよりも感動に支配されていました。
「とても有名な演奏だし、ボクにはこのくらいしか取り柄がないからね」
「そんなことありません。先輩はすごいですよ」
土井先輩はまた苦笑いをされていました。
「そう言ってくれる後輩がいてくれて嬉しいよ。今日のタマキは慈愛に満ちているなあ」
私はもっと先輩の話を聞きたかったのですが、ブラームスについてはここまででした。
土井先輩はふと足を止められて、こうおっしゃいました。
「タマキは、ボクの先輩と仲がいいのか?」
「先輩の、先輩ですか?」
同じ科の先輩のことではなく、佐野先輩のことだとすぐに分かりました。
「そうですね、『西洋音楽史』では隣の席にいてくださってますし、バリのおみやげもいただきましたし」
「ああ、そうだったっけ」
土井先輩は何か考え込んでおられる様子でした。
「近頃なんか様子がおかしいとか、感じたことはなかった?」
「特別そんなふうには……先日の『なんで逃げたのよ』は別ですけど」
「なるほど」
土井先輩は顎に右手を当てられ、左手は右肘を押さえていらっしゃいました。
「タマキでも心当たりがない、か」
土井先輩の言葉は私にではなく、ご自分に向けて言われたように思えました。
「土井先輩はアルバイト先が佐野先輩と同じなんですよね?」
「そうなんだけどさ」
「でしたら、私よりも佐野先輩と一緒にいる時間が長いんじゃないですか?」
「確かに。……うん、そうだよな」
土井先輩はまだ考え込んでいるに違いないと思えたので、私は「西洋音楽史」でリストが採り上げられた日、つまり「なんで逃げたのよ」の日に佐野先輩から感じた、どことなく元気がないご様子やその雰囲気について、土井先輩にお知らせしておくべきかもしれないと思えてきました。
でも、お知らせできませんでした。
先輩方の間で深刻なことがあったのかもしれないとは思いましたが、もちろん私にはそれが何かは分かりません。
知りたくないと言えば嘘をつくことになってしまいます。
しかし、それとなくおうかがいできるようなところに私はいるのでしょうか。
先ほどのご様子から、土井先輩にうかがうことはできませんでした。
「ありがとうタマキ、時間を取ってくれて」
「いいえ」
土井先輩は行ってしまわれました。
離れてゆくにつれ、私には土井先輩がとぼとぼした歩き方をされているように思えてきました。
このまま帰り道になるのならご一緒させていただこうか。
そう思いかけましたが、私は自分にストップをかけました。
ひょっとしたら先輩は体調が悪いのかもしれない。
そんな思いが浮かんでくると、私は不安な気持ちになってきました。
土井先輩は中庭を抜けて正門の方へ向かわれていました。
今からでも何か声をかけてご一緒させていただくべきではないか。
思いかけてはまた打ち消して……。
正門を出られて左側へと歩を進められた土井先輩を、私は見送りました。
土井先輩の姿が見えなくなって、私は校内に植えられている木々の葉が色づきはじめていることに気がつきました。




