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先輩と私と先輩と(ジャズとクラシック)  作者: カワヤマソラヒト
4/33

④ Franz Liszt, Richard Wagner & Johannes Brahms (1)

 再び「西洋音楽史」のある火曜日がやってきました。


「タマキちゃん」

「はい」

「あいつ、もしかしたら堕落していないかもしれないわ」


 ペイズリー模様が入った青地のワンピースを着ていらした佐野先輩は、これまでと打って変わった言葉をおっしゃいました。

「あいつ」とは土井先輩のことだと、私はすぐに分かりました。


「バイト先で何かあったんですか?」

「んー、特にどうということはなかったと思うんだけど、なんでだろうな?」


 佐野先輩は右手の人差し指をこめかみに当てられながらおっしゃいました。


「とにかくタマキちゃんに報告しなくちゃって思ったのよね」


 私には、ご自分でもよく分からないというように見えました。


「いずれにしても、まだ正体がつかみきれないから、もっと探ってみる必要がありそうだわ」


 佐野先輩が土井先輩をどう評価されるのか、私は楽しみになりました。

 ひと呼吸置いてから、佐野先輩は私の方へ向き直られました。

 そして、微笑まれながらこうおっしゃいました。


「面白い人かもしれないの」


 その言葉に私はびっくりしてしまいました。

 佐野先輩にとって「面白い人」は、最上級の誉め言葉だとうかがっていたからです。


「あいつ、ちゃんと来てるわね」


 佐野先輩は講堂の最前列右隅の席を確認されたのでしょう。

 私と佐野先輩はいつも早めに講堂に入って話をしていたのですが、この日は土井先輩も早めに来ていらっしゃいました。


「ちょっと行ってくるね」


 佐野先輩はご自分のバッグを席に置かれることもなく、最前列右隅の席へと向かわれました。

 私は自然と佐野先輩を目で追うことになりました。

 声が聞こえることはありませんでしたが、佐野先輩と土井先輩は何か話をされていました。

 すると突然に土井先輩は荷物をまとめられ、急いだ様子で講堂から出て行ってしまわれました。

 佐野先輩は少しの間ぽかんとされていたように見えましたが、やがて不機嫌そうな表情で私の隣に戻って来られました。


「何よあいつ。逃げ出すなんて、やっぱりひどいヤツだわ」


 佐野先輩は明らかに憤慨されたご様子で腕を組まれると、そのままうつむいてしまわれました。

 どんな言葉が先輩方の間で交わされたのか興味のあるところでしたが、佐野先輩は何事か考えこんでいらっしゃるようでしたので、私は遠慮して話しかけないでおきました。


「そうだ、タマキちゃん」

「はい」


 佐野先輩は急に顔を上げられておっしゃいました。


「私、来週出られないから、あとで講義の内容教えてくれる?」

「どうかされたんですか?」


 私は反射的に質問していました。


「実はね、友だちとバリに行ってくるんだ」


 佐野先輩は声のヴォリュームを落とされ、内緒話のようにひそひそとおっしゃいました。

 小声ではありましたがその口ぶりは、まるで近所のコンビニエンス・ストアにでも行ってくるかのように何気ないものだと私には思えました。


「バリ島ですか。なんか、先輩らしいです」


 私は思ったままのことを伝えました。


「そうでしょ」


 佐野先輩はにこりとされておっしゃいました。

 どこか得意そうにされているようにお見受けできました。

 失礼なことかもしれませんが、私は佐野先輩にかわいらしさを感じていました。


「おみやげ買ってくるね。高いものは無理だけど」


    *      *      *


 次の週、佐野先輩は予告されたとおりいらっしゃいませんでした。

 講堂の最前列右隅に目をやると、土井先輩はいつもの指定席で頬杖をついておられました。


── 「ピアノの魔術師」、か。


 私は佐野先輩がそうつぶやかれたあと、両方の手で頬杖をついてらしたことを思い出しました。

「ピアノの魔術師」とは、先週採り上げられたリストのことです。


    *      *      *


 リストはその当時に新しい管弦楽の形式であった「交響詩」の創始者でもあると先生はおっしゃっていましたが、鑑賞したのは時間の都合もあってピアノ曲だけでした。

 佐野先輩がつぶやかれたときには『愛の夢第3番』が講堂に流れていました。

 私でも聴いたことがあるメロディーの曲でしたので、佐野先輩ならもちろんご存知のはずです。

 もしかしたら口ずさんでいただけるかな、そう私は期待したのですが、佐野先輩は物憂げな表情をされると黙ってしまわれました。

 何か先輩に言葉をかけようと思ったのですが、かけるべき言葉が浮かばずに、私は唇を噛みしめていました。


「それじゃタマキちゃん、来週はよろしくね」


 講義が終わるとすぐに、佐野先輩はにこりとされてそうおっしゃいました。

 でも、私が返事をする間もなく、先輩は講堂の出口に向けて歩き出されていました。

 私は佐野先輩のうしろ姿にどことなく元気がないと感じていました。

 バリに行ってくるんだ、とおっしゃっていたときとは雰囲気がずいぶん違ったものになっていたのです。


── 何よあいつ。


 土井先輩が講堂から出て行ってしまわれたあとに佐野先輩がそうおっしゃった際、私が感じた雰囲気。

 そして、佐野先輩のうしろ姿に感じた雰囲気。

 ふたつの雰囲気はもしかすると同じものだったかもしれません。

 佐野先輩はもう「堕落マン」とはおっしゃっていませんでしたから。


    *      *      *


 私の隣に佐野先輩がいらっしゃらないこの日は、先週のリストに続いてワーグナーが採り上げられました。

 先生によると、ワーグナーとリストはお互いに影響を与え合っていたそうです。

 ですが、ふたりはライヴァルの関係ではなく、それよりもずっと意外な関係だったことを私は初めて知りました。

 年齢はリストがワーグナーよりふたつだけ年上でしたが、リストはワーグナーの義父……つまりふたりは義理の親子だったのです。

 どのように親子になったのかというと、名指揮者として知られるハンス・フォン・ビューローと既婚だったリストの娘のコジマを、ワーグナーが略奪した形で結婚したのだそうです。

 作曲家としてだけでなく、自らの理想を追求して完成させた総合芸術としての歌劇を、のちにはより理想とした楽劇に発展させて上演した情熱。

 さらに、音楽に限らず脚本を書き演出もこなした天才と謳われるほど多彩な才能。

 その上、バイロイト王ルートヴィヒ2世をパトロンにできたほどのカリスマ性も持っていたワーグナー。

 なのに、コジマとの一件も含めて、どうやら人間としてはかなりのわるだったらしいです。

 いろいろな意味ですごい人だったのは理解できますが、私にとってはあまり近づきたくないタイプの人のような気がします。

 それだけに、コジマはワーグナーのどこに魅せられてしまったのか、気になるところです。


「仮にワーグナーが品行方正な人だったらどうなっていたでしょうね。果たして、これらのようにドラマティックな作品を作ることができたでしょうか?」


 先生が思わせぶりな感じでおっしゃったのが印象に残りました。


           *


 鑑賞したのは主要な歌劇と楽劇からの序曲や前奏曲で、例外として、私でも知っていた『ワルキューレの騎行』もありました。

 私は『タンホイザー序曲』と『トリスタンとイゾルデ前奏曲』が気に入りました。

 それぞれさわりだけでしたが、あとできちんと聴いてみたい曲です。

 全般的にワーグナーの曲は、『ワルキューレの騎行』もそうですが、かっこよく聞こえてきました。

 また、劇中の音楽のためなのか、静かな部分よりも派手に聞こえる部分が多い気がしました。

 効果的と言うべきなのかもしれませんが、場合によってはちょっとうるさかったりおおげさに感じる気もします。

 よく「ワーグナー管弦楽曲集」としてレコードが出ているそうですが、もともと声楽が入ってくる曲は劇中どおりオリジナルのままではなく、その部分はオーケストラだけで演奏できるように編曲されているのだそうです。

 一例として『ワルキューレの騎行』をオリジナルのままの形で、抜粋ですが聴くことができました。

 オーケストラだけではなく声が入るとまた違った迫力があるのだと分かりました。

 残念ながら、土井先輩からうかがった『婚礼の合唱』は鑑賞できませんでした。

 私は土井先輩にワーグナーについて意見をおうかがいしたいと思いました。

 それに、勝手ではありますが『婚礼の合唱』などワーグナーのCDをお願いしてみようかなとも思っていました。


「次回はブラームスを採り上げます」


 先生の声が講義の終わりに聞こえたとき、指定席に土井先輩の姿は既にありませんでした。

 先輩の電話番号は是非教えていただかなくてはいけない。

 私は決意を新たにしました。


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