⑨ Sergei Prokofiev (7)
「さてと」
土井先輩はそのひとことのあとで大きく伸びをしていらっしゃいました。
「ボクの任務は完了できたし、そろそろ帰るとするか」
「え?」
「タマキはどうする?」
私は咄嗟に会話を終わらせてはいけないと感じて、先輩の質問には答えずにとにかく言いました。
「あの、先輩」
「なんだい後輩」
その短い間のうちに、私はどうにか質問を思いつきました。
「年末年始は帰省されるんですか?」
「いちおうそのつもりなんだけど」
土井先輩が答えてくださったのでもうしばらくは大丈夫。
そう感じた私でしたが、そこで安心している場合ではありません。
今度は間に合わせではなくきちんとした目的で冷静に話を切り出さなくてはいけない。
慎重にそのタイミングをうかがいつつも、私から持ち出した帰省についての話もきちんとうかがわないと失礼になってしまう。
それに土井先輩がどのように休みを過ごされるのか興味がある。
そんな思いをいくつも抱えている私に、先輩は答えを続けてくださいました。
「本当は無理して帰らずに、部屋でのんびりジャズでも聴いていたい気がするよ」
「でも先輩は体調が悪いようですから……ご実家に帰られたほうがのんびりできるんじゃないですか?」
「なるほど」
先輩はそうおっしゃると、横を向いて軽く咳き込まれていました。
「体力が落ちて風邪をひきやすくなってんのかもしれないな」
土井先輩の苦笑いはやはり弱々しく見えました。
「実は地元の友だちから会おうと誘われててさ、せっかくの約束があるから帰んないと」
「先輩がお友だちと」
私はいささか驚いてしまいましたが、失礼だったかもしれないと気がつき慌てて表情を戻しました。
「す、すみません」
頭を下げるのは土井先輩から注意されているので控えましたが、申し訳ないという思いは隠せません。
「まあ、タマキの反応は無理もないから恐縮しないでよ」
先輩の声がまたかすれて聞こえました。
1号館の学食はすぐそこで、その気になれば1分もかからずにミルク・ティーを飲むことができます。
私はそのことを先輩に伝えました。
「確かに。それはそうなんだけどさ」
先輩の苦笑いは力ない様子で続いていました。
「タマキに面倒をかけたくないし、あっちに行って座っちゃうと動きたくなくなっちゃうかもしれないだろ。そうなると帰る自信がなくなってマズイから、寒いのにタマキには悪いんだけどここにいるんだ」
そう言われてしまうと、私はこれ以上無理強いをできないと思いました。
ただそうは言われても、土井先輩は元気がないと感じますし、顔色が悪く見えました。
「ずいぶんお疲れのようですから、ご実家に帰られたらしっかり休んでくださいね」
私はお願いの気持ちを込めて言いました。
「そうだな、そうするよ」
先輩がそうおっしゃったとき、一迅の冷たい風がサーッと吹き抜けていきました。
学食や通路の窓が一瞬ガタガタと鳴りました。
先輩と私がいる通路は屋内と言うよりも屋根がある屋外と言うべき場所ですから、風は吹くに任せる状況でした。
私は風の冷たさに両頬を押さえました。
手のひらの温かさは充分でしたので、私の頬は間もなく回復してきました。
頬を押さえたまま土井先輩を見ると、先輩は苦笑いのまま絶句されたような表情で、とても寒そうに身をかがめていらっしゃいました。
そのとき私は先輩の服装が思いもよらず薄着であることを確信しました。
「今の風は凍みたなあ。ここまで寒くなるとは読みが外れた。もっと着込んでくるべきだった」
土井先輩はご自分の身体を抱くような形で肩の辺りをさすっていらっしゃいました。
私は見ていられずにマフラーを外し、使っていただこうと先輩へ近寄りました。
「タマキ、それはダメだ」
「どうしてですか?」
「タマキが寒くなっちゃうだろ」
「なら手袋だけでも」
私は毛糸の手袋をバッグから出して、両手で先輩へ差し出しました。
「前に自分で編んだものなので不格好ですけど」
「そんなこと全然ないぞ」
土井先輩は寒そうなご様子のままおっしゃいました。
「タマキは器用だな」
先輩はしげしげと手袋を見つめていらっしゃいました。
手袋に使った毛糸の色は黄緑色に近い淡い緑でした。
この色の毛糸を見つけたときの私はひとめでこれにしようと即決していました。
「タマキの手編みだなんて、こんなに大切なものをボクが使うわけにはいかない」
土井先輩は私の手袋へ手を伸ばすことはされずにおっしゃいました。
「でも先輩は」
「タマキには元気でいてもらわないと、ボクが困るんだ」
「先輩……」
……やっぱりずるい。
私はまた思いました。
「ほら、さっきカイロをもらったし」
先輩はジーンズの左前のポケットからカイロを取り出されて、両手で挟まれたり、頬に当てられたりを繰り返していらっしゃいました。
私のバッグにはもうひとつ使い捨てカイロがあったので、私はそれも先輩に使っていただこうと思いつきました。
「タマキが気を遣ってくれるのはすごく嬉しいんだ、ホントに。だけど世話になってばかりなのはどうしても気が引けるし、ボクよりはタマキに温まってもらいたいと思ってる」
先輩の言葉に、私はバッグに入れた手を何も持たないまま出すことになりました。
「気持ちはありがたくいただいておくよ」
土井先輩は苦笑いではなく微笑んでくださったようでしたが、寒さで凍えているようにしか見えない表情だと私は思ってしまいました。
「ボクは優しい後輩がいて幸せなんだな」
いつか聞いたことがある言葉でした。
「今のタマキは陽だまりのようだ」
私は今の自分が本当に陽だまりで、先輩を暖めてあげられたらいいのにと思いました。
けれど陽だまりになることはできません。
そんな私がするべきことはただひとつ、自分の要件を即片づけること。
そうすれば土井先輩には速やかに帰宅していただけるし、その分だけ早く部屋で暖かくしていただくことができる。
他には何もできない。
そう思い至りました。
もう今しかない。
ようやく決意すると、私はもう一度バッグの中に手をやり、緑色の表紙の手帳を取り出しました。
そして、あらかじめ用意して挟んでおいた小さなカードを認めてから、それを両手で先輩へ差し出しました。
「土井先輩、これを」
「これって、カード?」
「はい。サイズは小さいですけど」
カードはふたつ折りになっていました。
折られた状態で、おおよそ普通のポストカードの半分か多少小さいくらいの大きさでした。
「受け取って、いただけないですか」
「そんなことないよ」
私が両手で差し出していたからか、土井先輩は両手でそうっと受け取ってくださいました。
私は肩の荷がまずひとつ下りた気がしました。
先輩は手にされたカードを不思議そうなご様子で眺めていらっしゃいましたが、ぽつりとひとこと、「サンタクロース」とつぶやかれました。
私は「はい、そうなんです」と応えました。
カードにはサンタクロースがデザインされていたからです。




