③ Felix Mendelssohn-Bartholdy & Franz Schubert
土井先輩に貸していただいた5枚のCDは、夏休みになる前にお返しできました。
いくら自分が気に入ったCDだとしても、夏休みを挟んでしまうと三ヶ月以上お借りすることになってしまいます。
そうなると、いくらなんでも長すぎると感じたからです。
* * *
土井先輩を捕まえるのは相変わらずタイミングが難しいですが、お昼休みに1号館の学食のいつもの席を必ず確認しようと決めたところ、その二日後にはお会いすることができました。
土井先輩はテーブルに伏していらっしゃいましたが、私は臆することもなく「土井先輩」と呼びかけ、右肩をぽんとひとつ叩きました。
「お、タマキ」
先輩は物憂げに顔を起こされました。
「扇風機の風がいい感じでついうとうとしてた」
先輩は眠そうなご様子で両方の目をぱちくりとされていました。
「お休みのところ失礼します」
私はそう言って、タワー・レコードの黄色い袋に入った5枚のCDをお返ししました。
「おや、もういいの?」
「はい。長いことありがとうございました」
私は立ったまま土井先輩へ深々とおじぎをしました。
この場合なら頭を下げても自然な動作だと思ったからでした。
「なるほど」
土井先輩はおじぎについては何もおっしゃいませんでしたが、私に気を遣ってくださったのか、こうおっしゃってくださいました。
「じゃあ、次はどうする?」
先輩から促してくださったとはいえ、お返ししてすぐにまたお願いするのは厚かましいかなと思いました。
でも、土井先輩はにこやかにされていましたので、私は遠慮なくメンデルスゾーンのCDを貸してくださるようお願いしました。
7月第一週の「西洋音楽史」に家の都合で出席できなかったからです。
* * *
メンデルスゾーンが採り上げられたということは、たまたま学内で行き会えた佐野先輩からおうかがいしていました。
全学向けの大きな掲示板を確認しに行ったときのことです。
「このあと、稽古なんだ」
そうおっしゃった佐野先輩はお時間がないご様子でしたが、『交響曲第4番“イタリア”』、『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』を鑑賞されたと丁寧に教えてくださいました。
「そうだ、堕落マンに貸してもらうっていうのはどう?」
佐野先輩はそうおっしゃっると、去り際に「じゃあ、またね」と手を振ってくださいました。
佐野先輩に応える時間はありませんでしたが、実は私はそのつもりでした。
私は土井先輩ならこれらのディスクも当然お持ちだろうと思っていたのです。
* * *
「そう来たか」
「え? だめでしたか?」
「そんなことないよ。ジャズの続きになるかなと思ってただけで」
そうでした。
土井先輩はジャズ初心者の私にたくさんのことを教えてくださろうと乗り気でいらっしゃったのでした。
なのに私ったら……。
「確かにメンデルスゾーンの回、タマキは珍しくいなかったよな」
思いがけないひとことでした。
「ご存知だったんですか?!」
私はいつもより大きな声を出してしまい目立つことになりました。
まさか土井先輩が私の出欠を気にされているなんて。
「かわいい後輩が元気でいるのか、ボクでもたまには気にするもんなんだよ」
先輩はとぼけていらっしゃる感じでおっしゃいましたが、私はただ嬉しく思っていました。
「では了解。先生が鑑賞で聴かせてくれた曲を近いうちに持ってくるとしよう」
* * *
すぐ翌日、額の汗をハンカチで拭きながら研究室前の掲示板を見ていた私は、右肩をぽんとひとつ叩かれました。
「タマキはいつもここにいるなあ」
苦笑いをされている土井先輩でした。
「探しやすくていいけどさ」
先輩も汗ばんでいらっしゃるご様子で、ハンカチを使われて襟足を拭いておられました。
「とりあえず場所を変えてもいいかな、ここからは即刻立ち去りたいから」
「あ、はい」
土井先輩らしい言葉に、私はくすっとしてしまいました。
階段をそそくさと降りていく土井先輩についていくと、ほどなく校舎から出ることになりました。
研究室前から外に抜ける最短ルートです。
2号館をあとにすると土井先輩は立ち止まられ、前かがみになられるくらい大きく息を吐かれました。
日差しが強い時間帯だからか、中庭の方からアブラゼミの鳴き声が聞こえていました。
今年初めてのことでした。
「まったくもって、何回行ってもあの場所はボク向きじゃないな」
大嫌いというニュアンスではなく、とにかく苦手なのだという言い方だと私には感じられました。
これから中庭の方に行くのかなと思っていると、土井先輩は左肩にかけられたいつもの黒い袋状のバッグから、タワー・レコードの袋を取り出されました。
「いくらなんでも日向にいるのはきついよな」
先輩はそうつぶやかれると、タワー・レコードの袋を手にされたまま、2号館から少し離れた場所にある3号館の入口になる階段のところまで歩いていかれました。
うまく日陰になっていたのです。
私はもちろん先輩に続きました。
汗が引くことはありませんでしたが、こうして日差しを避けるだけでもずいぶん体感温度が違いました。
「研究室の魔の手はここまでは届かないだろうから、もうここでいいや。何はさておき渡しておくよ」
土井先輩は黄色い袋から1枚のCDを抜かれて、私に差し出してくださいました。
「まずこれ、先生がかけてくれたのと同じ演奏で、クレンペラーが振った3番と4番のカップリング」
私は両手でそのCDを受け取りました。
メンデルスゾーンの『交響曲第3番“スコットランド”』と『第4番“イタリア”』が収録されたディスクです。
「長いこと決定盤と言われてる演奏だけど、ボクはもっと新しい録音のアバドやカラヤンのほうが好きなんだ。でもまあ、今回は先生のお薦めにしておいた」
カラヤンという名前は私も知っていましたが、クレンペラーとアバドという名前は初耳でした。
「次はこれ、『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』。メンデルスゾーンはこの曲の前にもうひとつ書いているから、実はこの曲は『第2番』なんだけど、まあそれはよしとして、ソリストはハイフェッツを選んだ」
土井先輩の言葉からは、「ハイフェッツじゃなければいけない」とうかがっているかのようなニュアンスが感じられました。
「先生はシェリングをかけてくれたけど、タマキにはボクと同じくハイフェッツを聴いてもらおうと思って」
「ハイフェッツ、ですか」
私はヴァイオリニストの人はまったく知りませんでしたから、何故ハイフェッツなのかまったく想像できませんでした。
そんな私の様子を見透かされたのか、土井先輩は理由を説明してくださいました。
「ボクがメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』を初めて聴いたのがこのハイフェッツの演奏で、ものすごい衝撃を受けたんだ」
私はさっき感じたニュアンスの意味が分かったように思えました。
「今にして思えば、最初にハイフェッツというのは刺激が強すぎたのかもしれないんだけど、タマキにもハイフェッツから聴いてもらって、ボクと同じ目にあってもらおうかと思ってさ」
土井先輩は2枚目のCDを私に差し出されると、もうひとこと追加しておっしゃいました。
「カップリングはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』、いわゆる『メンチャイ』っていうカップリングだよ」
私は「メンチャイ」という言い方が面白くてくすくすしてしまいました。
「別にボクが考えた言い方じゃないよ」
土井先輩は苦笑いされつつ、LPの頃から収録時間の都合でよく見られるカップリングのひとつだと教えてくださいました。
「ベートーヴェンの“運命”とシューベルトの“未完成”とのカップリングもよくあるものだけど、CDの時代になるとなくなっちゃうかもな」
土井先輩の博識ぶりに私が感心していると、先輩はもう1枚のCDを取り出されました。
「それはさておき、ついでにこれも貸すよ」
土井先輩はそのCDも私に向けて差し出してくださいました。
私がお願いした曲は先に渡していただいた2枚のCDに収録されていますから、3枚目となるそのディスクはどんな曲のものなのか、私はどきどきしながら受け取りました。
受け取ったばかりのCDを見ると、「A Midsummer Night's Dream」とありました。
「ご覧のとおり、シェイクスピアの有名な喜劇にメンデルスゾーンが音楽をつけた『真夏の夜の夢』だよ」
私はCDケースを裏返して演奏者のクレジットを見ました。
「アンドレ、プレヴィン、ですか?」
「そう、プレヴィンの演奏を持ってきた」
続いて土井先輩はタワー・レコードの袋の口を広げながら「ひとまずまたこちらへ入れるとしよう」とおっしゃいました。
私は先輩に従って3枚のCDを袋にそっと入れました。
先輩は袋の口を閉じると、そのまま私に渡してくださいました。
「聴けば分かると思うけど、『結婚行進曲』が入ってるよ。メンデルスゾーンで最も有名な曲かもしれないから」
先ほどのカップリングのことや、ヴァイオリン協奏曲は2曲あるなど、こんなふうに何気なくフォローしてくださるのは、土井先輩の長所だと思います。
「季節的にもちょうどいいだろ」
「あ、そうですね」
私には土井先輩がどこか得意そうな表情を浮かべていらっしゃるように見えました。
「いつもいろいろとありがとうございます、土井先輩」
「それはいいんだけど、タマキ」
「はい?」
「購買に行って、アイス食べない?」
* * *
夏休み中にはゼミの合宿がありましたが、土井先輩は参加されていませんでした。
ゼミ内では土井先輩が参加されていないのは当然のことになっていますから、ご不在を気にする方は誰もいらっしゃらないようでした。
土井先輩と仲がよい広瀬先輩は参加しておられましたので、私は広瀬先輩に何かご存知ではないかうかがってみました。
「土井がどうしているのかぼくは知らないんだ。ごめんね、大川さん」
「いえ、そんなことはおっしゃらないでください」
「田中はバイトで忙しいみたい」
広瀬先輩は笑いながら答えてくださいました。
そううかがってみて、私は田中先輩がいらっしゃらないのに気がつきました。
たまたま広瀬先輩のそばにいらした小野先輩が恥ずかしそうにしていらっしゃいましたが、どうしてなのか、私には分かりませんでした。
* * *
夏休みが過ぎて、10月から後期になりました。
「タマキちゃん、恐るべきことが起きたわ」
後期第1回目の「西洋音楽史」の際に、佐野先輩は私を見つけられるやいなや真剣な様子で切り出されました。
佐野先輩は肩を越えるくらいの長さの髪をリボンを使ってうしろでひとつにまとめられ、眼鏡をかけていらっしゃいました。
これまでとは違う雰囲気で私は「おや」と思いましたが、先輩はそれどころではないようでしたので、まずはお話をうかがうことにしました。
「どうかされたんですか?」
「現れたのよ」
「何がですか? もしかして、おばけ関係ですか」
「そうね、似たようなもんかもしれないわ」
「そんな……」
私は焦ってしまいました。
怖い話やオカルト系は苦手なのです。
「あの堕落マンが、私のバイト先に新入りで来たのよ」
それは確かに「恐るべきこと」でした。
普段ご自分から動くことはされないように見える土井先輩が、アルバイトを始められたということになるからです
研究室の先輩方が口々に言われていたことから想像すると、土井先輩がご自分から外に出て行かれるのはずいぶんと珍しいはずです。
にも関わらず、これは土井先輩がご自分から行動をおこさなければ決してあり得ない状況です。
私が抱いていた土井先輩のイメージは幾分その形を変え始めました。
「イヤーッ、て感じでしょ? 絶叫系でしょ?」
両頬に手を当てられて、佐野先輩はおっしゃいました。
やっぱり佐野先輩は楽しい人なんだと思いました。
「私、堕落マンのことはまったく知らないふりして、話したわ。『初めまして』、そう言って微笑んでみたの。そのほうがいろいろあの男について分かるかもって思ったから」
佐野先輩はどこか熱心な口調で話してくださいました。
「しかもね、この私があの男に仕事を教えることになっちゃって」
「先輩の、先輩になられたんですね」
「うん。でもこれで、正体がつかめるかもしれないわ」
佐野先輩は右手をぐっと握られると、やる気を見せてくださいました。
「ところで先輩、今日は眼鏡をかけていらっしゃいますが、ファッションですか?」
私は佐野先輩のお話がひと区切りついたと思ったので、うかがってみました。
「あ、これね。そっか、タマキちゃんの前では初めてになるのか」
佐野先輩は、両手で眼鏡のツルを少しだけ上にずらされると、右手の人差し指でブリッジの位置を調整されました。
艶のないシルバーのメタル・フレームで、横に長い楕円形のレンズにツー・ポイントのデザインがおしゃれだと思いました。
眼鏡が目立っていましたので一見分かりにくかったですが、メイクも自然な感じで素敵でした。
どうしたらそのようにできるのか、私に是非とも伝授していただきたいな……私は佐野先輩の豊かな表情を拝見しながら、ふとそんな気持ちになっていました。
「私、目が悪くて、普段は実はコンタクトなの。目の調子がよくないときや、面倒なときは、こんなふうに眼鏡をかけてるんだ。眼鏡を外でかけているのは比較的珍しいのよ」
今日はイマイチ目の調子がよくなかったから楽な眼鏡にしたの。
佐野先輩は続けておっしゃいました。
「そうだったんですか。でも、先輩は眼鏡もおしゃれで素敵です」
「あら? タマキちゃんに誉めてもらうと自信になるわ。ありがとう」
佐野先輩は右手でツルを押さえられ、左手を腰に添えられ、ポーズをとってくださいました。
私が佐野先輩を「楽しい人」と思ったのは、正解だと確信できました。
*
この日はシューベルトの交響曲“未完成”と“ザ・グレート”が採り上げられました。
どうしてシューベルトがよりのちの年代になるメンデルスゾーンよりもあと回しになったかというと、先生のご都合なのでした。
前期、本来シューベルトの予定だったときに、先生はこうおっしゃったのです。
── すみません。予定した“ザ・グレート”のディスクがどうしても見つからなかったので、シューベルトはまた今度にします。
「“未完成”は、完成しなかったのがポイントよね」
佐野先輩は鑑賞中に前を向かれたままでそうおっしゃいました。
また、小さな声で“未完成”第1楽章第2主題のメロディーを口ずさんでいらっしゃいました。
ふと土井先輩のことを思い出した私は、最前列の右隅の席に目をやりました。
土井先輩が右手で頬杖をついていらっしゃるのが見えました。
先生がどうしても見つからなかったと言われた“ザ・グレート”のディスクは、今回は無事に見つかったのだそうです。
フィナーレとなる第4楽章を鑑賞することができました。
ホワイト・ボードには先生の文字で「ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、シュターツカペレ・ドレスデン」と書かれていました。
* * *
「ようタマキ、久しぶり」
帰りがけに寄った研究室の前で、私は予期せず土井先輩にきちんと会うことができました。
3日前の火曜日、「西洋音楽史」のときには、土井先輩が講堂のいつもの席……最前列の右隅にいらっしゃったのは分かっていましたが、顔を合わせる機会はありませんでした。
今日は金曜日、もう人影もずいぶん少ない時間でした。
「あ、先輩お久しぶりです」
「なんだ、今日はボクに突っ込んでこないのか」
「え?」
土井先輩がこの場所にいらっしゃるのは不自然にも思えますので、普段の私ならすかさず突っ込んでみたくなるはずです。
ですが、こうして会話ができるのは後期初のことでしたから、私はつい笑顔になってしまいました。
「まさかこのタイミングでもタマキがいるとは、どこまで研究室好きなんだ?」
「先輩こそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「ボクも節目のときどきには、仕方なく自分からここまで掲示板を見に来ることもあるんだ。けど余計な負荷は減らしたいから、こんなふうになるべく誰もいないようなタイミングを狙っているんだけど」
土井先輩はひとつ小さなため息をついていらっしゃいました。
「タマキに見つかってしまうとは、不覚」
「あ、なんかひどいです、その言い方は」
「誰にも会わずにすむ予定だったから、悪気はないんだ。ごめん」
先輩が不意に頭を下げられたので、私は焦ってしまいました。
「いえ、そんな、怒ってるわけじゃないですよ」
「まあ、タマキでよかったよ」
「え?」
「他の誰かじゃ面倒なことになりかねないからな」
喜んでいいのかどうなのか微妙に感じたので、私は土井先輩の言葉には応えずに話を変えようとしました。
でも、土井先輩の次の言葉に私は制止されてしまいました。
「お先にな、タマキ」
土井先輩の左肩にかけられた黒いバッグは先輩の左手にサポートされ、右手は私に向けてちょっと上げられていました。
まるで去り際に田中先輩がされるような素振りを、土井先輩がされていました。
「ボクは直ちにここを離れるから」
土井先輩が階段に向かって走り出そうかとされたとき、今度は私の言葉が土井先輩を止めました。
「そうだ先輩、ちょっと待っててください」
土井先輩は手すりに左手をやり階段をひとつ降りたところでした。
「メンデルスゾーンのCD、お返ししますので」
「……なるほど」
土井先輩のひとことは小さなつぶやきでしたが、周りに誰もいないためか私にはよく聞こえました。
「了解。下で待ってるよ」
そうおっしゃった土井先輩はたちまち階段を駆け降りて行かれました。
私は研究室前の掲示板をそそくさとチェックして、ひとことふたこと手帳にメモをすると急いで階段を駆け降りました。
大学祭への参加者募集。
これがメモの内容でした。
土井先輩は私がこれからお返しするCDを貸してくださったときと同じように、2号館を出てすぐのところで私を待っていてくださいました。
実のところ、私は先輩の姿が見えなくなっているのではないかと疑っていましたから、先輩がいらっしゃるのを確認したのと同時に心の中で「ごめんなさい」とお詫びをしました。
「そんなに急がなくてもいいのに」
「いえ、急いでいるというのとは違うんです。いつ先輩を捕まえられるか予想がまったくできませんので、常に持ち歩くようにしていました」
私は手に提げていたバッグから、タワー・レコードの袋に入った3枚のCDを取り出して、土井先輩にお返ししました。
「それは悪かったなあ」
土井先輩の表情は見慣れたものになっていました。
先輩らしい、よくお見かけする表情。
苦笑いです。
「悪いなんて思わないでください。私がお願いしたことですし、貸していただいたおかげで楽しむことができました。どうもありがとうございました」
私は危うく深々と頭を下げかけましたが、事前に動作を止めることができました。
── あんまり頭を下げてほしくないことにかわりはないな。
土井先輩にそう言われたことが私の心に浮かんでいました。
「相変わらず律儀なヤツだ」
「『ヴァイオリン協奏曲』がよかったです」
土井先輩に訊かれる前に、私は自分から言いました。
「確かに。世界を代表する『3大ヴァイオリン協奏曲』と呼ばれるうちのひとつだし、ハイフェッツの演奏は超人的だしな」
土井先輩はそうおっしゃいましたが、私にはまた初耳になることでした。
まだハイフェッツの演奏しか知らない私に、ハイフェッツの魅力をさりげなく教えてくださったのでしょう。
ハイフェッツと他のヴァイオリニストの演奏を聴き比べたい気持ちが、私の中でにわかに芽生えてきました。
ただ、私にはもうひとつ言葉にするべき曲がありましたから、『ヴァイオリン協奏曲』についてはここで区切ることにしました。
「『結婚行進曲』も、楽しかったですよ」
私が言うと、土井先輩は「ふむふむ」とうなずいておられました。
「タマキが結婚するときは使うといいよ」
「ベタすぎです」
「ワーグナーの方を使うという手もあるけどな」
土井先輩はワーグナーにも結婚式で定番の曲があると教えてくださいました。
「ワーグナーのも聴けば分かると思うよ。『ローエングリン』っていうオペラの中の1曲なんだけど、『婚礼の合唱』として知られているんだ。今ここにはないけどね」
土井先輩は無意識でおられるのかもしれませんが、こんなふうに少しずつ世界を広げてくださいます。
私が見習いたいと思っている点のひとつです。
「先輩がきちんと『西洋音楽史』に出ていらっしゃることは分かっていたのですけど、講義の始まりにはぎりぎりでいらっしゃっていましたし、終わったと思ったときにはもう先輩はいらっしゃらないんですから、いつお返しできるのかと困っていました」
「なんだ、言ってくれればよかったのに」
「お見かけしても話しかけるタイミングがありませんし、いつだってどこに先輩がいらっしゃるのか分からないのに、どうやって言えばいいんですか?」
私は不機嫌なふりをして答えました。
「ああ、そうか」
「こうしたときのために電話番号くらい、教えてくださってもいいのに」
「教えてなかったっけ?」
「教えていただいてません」
「そうだっけ」
土井先輩は再び苦笑されると、話題を替えてしまわれました。
「それで、タマキはなんかいいことでもあったの?」
そのときは気がつきませんでしたが、私は先輩の手口にはまっていました。
電話番号をうかがうことができなかったのです。
すっかりごまかされてしまいました。
私は先ほど土井先輩に会えたとき、つい笑顔になってしまったので、先輩はそこに目をつけられたようでした。
「いえ、特にいいことはありませんでしたけど、敢えて言えばこうして先輩にお会いできたことですね」
「うまいね。嬉しいことを言ってくれるなあ」
このときの私は別の意味でにやにやしていました。
その理由はもちろん、佐野先輩からアルバイトのことをうかがっていたからでした。
「ボクの方はこの間いろいろあった、って言えるな」
「いろいろ、ですか?」
私は先を促すつもりでうかがいました。
「実はO先輩に紹介してもらってバイトを始めたんだ」
お、来ましたね、と私は思いました。
以前O先輩について土井先輩と広瀬先輩が話をされていたことがありましたが、どうやらこのことだったのかと私はようやく気がつきました。
「ボクがそそくさといなくなる原因のひとつはこれだな」
「そうは思えませんが……」
私は疑問のニュアンスで言いましたが、土井先輩は表情を変えられることもなく、アルバイトの話を続けられました。
「バイト先にはうちの学校で、ボクと同級生のヤツがいたんだ」
土井先輩は楽しそうな様子でおっしゃいました。
「なんか、インド哲学専攻だとか言ってて、そんな学科がうちの学校にあるなんてボクは知らなかったよ」
「先輩はご自分に関係がないと思ったことに、興味がなさすぎです。私は知ってましたよ」
土井先輩は私の言葉にかまうことはなく、さらに話を続けられました。
「女の子で、同級生とは言ってもバイト先では先輩だから、敢えて『先輩』と呼んでいるんだ」
その子に仕事を教わっている。
土井先輩はにこにこされつつおっしゃいました。
「個性的な子なんだけど、初対面のときから気さくに話してくれて、人づきあいの苦手なボクはとても助けられてるよ」
私は「西洋音楽史」の講義前にどこか熱心な口調で話をされていた佐野先輩を思い出しました。
それに、土井先輩が大作曲家やジャズマン以外の人を好意的に見ていらっしゃるのは、かなり稀なのではないかと思いを巡らせていました。
「土井先輩が誰かをお誉めになるなんて、どうしちゃったんですか?」
「あれ? ボクはタマキのことだってよく誉めてるよね」
「先輩、ご自分の都合がいいように真実をねじ曲げないでください。私を誉めてくださったことなんて、ないくせに」
「そうだっけ? 口に出して言ってなかったかな」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
土井先輩は少し恥ずかしそうにされていらっしゃいました。
実はしっかり聞こえていた私は「少し」嬉しくなってしまいました。
「そうそう、『西洋音楽史』を受講してるって言ってたっけな。眼鏡をかけてて、ボクはインドかどこかの留学生がいるって思ってたんだけど、そのよく目立つ服装の子が、『先輩』なんだ」
土井先輩が説明してくださっているのは微塵の疑いもなく佐野先輩のことだと、何度も繰り返し確認できました。
「音楽に詳しいみたいで、ボクでも仲よくなれる気がしてさ」
あの土井先輩がこんなことをおっしゃるなんて……。
私は驚いていたのですが、努めて表情は変えずにいました。
「タマキが『西洋音楽史』のときに講堂の真ん中辺りにいるというのは聞いたから知っていたけど、具体的にどこにいるのかはいちいち気にしてなかった」
「それはそうですよ」
私はなんとなく不機嫌になり、続けて言いました。
「土井先輩は私のことなんか、ちっとも」
「そんなことないよ」
いつかのように「ちっとも興味がないんですよね」と言うつもりでしたが、土井先輩は私が言い切るのを待つことなくすぐに否定してくださいました。
「ボクの先輩は服装がアレだからいるかいないかはすぐに分かるってだけだよ」
私が見ても佐野先輩は目立つ方でいらっしゃいますので、それは当然のことだと思いました。
「ただ、前回まで気がつかなかった」
「何をですか?」
私は土井先輩の言葉が気になっていました。
「タマキがボクの先輩のすぐそばにいるとは、さ」
私と佐野先輩が並んで席を取っていることを土井先輩は分かっていたのだ。
私はちょっぴり嬉しくなりましたが、土井先輩の関心が佐野先輩にあることは言わずもがなです。
── ボクの先輩。
土井先輩は佐野先輩をそう表現しているのですから。
「惚れたんですか、先輩?」
私は土井先輩を冷やかしてみました。
「そんなことないよ。でも、楽に話すことができる女の子は、タマキに続く人かもな」
土井先輩はドキッとされた感じでおっしゃいましたが、私の方がよりずっとドキッとしていたはずです。
土井先輩はやっぱりずるい。
私はそう思っていました。