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先輩と私と先輩と(ジャズとクラシック)  作者: カワヤマソラヒト
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⑨ Sergei Prokofiev (1)


 とても寒い朝でした。

 ラジオの天気予報では、これからさらに気温が下がり、夕方からは雪が降るかもしれないとのことでした。

 私は念のために使い捨てカイロをふたつと折りたたみの傘を持っていくことにしました。

 コートを着て、マフラーと手袋をしてから部屋の外に出ましたが、部屋の中を暖かくしていた分だけ、一層寒さがしみてくるようでした。

 昨日よりもかなり寒い。

 間違いない。

 手袋をはめた両手のひらを顔の前にして、私は大きくはあーっと息を吐いてみました。

 息が白く見えるのは近頃では当たり前のことになっていますが、こうなると蒸気機関車を連想してしまうほどでした。

 空を見上げれば、白に灰色が混ざったようなとても重そうな色の雲に埋め尽くされています。

 いつ雪が降り出してもおかしくないな。

 私は思いました。

 予報どおりなら、午前中は多分大丈夫のはず。

 立ち止まったままぼうっと考えているだけでも、時間はペースを変えることなく過ぎてしまいます。

 とにかく、学校に向かわないと。

 私はいつも講堂に早めにつくように気をつけてきました。

 これから年内最後の「西洋音楽史」なのです。

 もし、佐野先輩がいらっしゃったなら、講義が始まるまでの時間に話したいことがたくさん溜まっています。

 佐野先輩がいらっしゃらないとしても、私は今までしてきたようにこれからもそうしていこう。

 まだ可能性はあるのです。

 諦めなければ、いつだって。


      *


 講堂の暖房は稼働していましたが、ただ稼働しているというだけで、中が暖まっているとは思えませんでした。

 講堂内の人たちは私と同様に、外にいるときのままの服装のようです。

 昨日よりも寒いというのは、先週よりも寒いということと変わりありません。

 それに、来ている人が前回よりも一見して少ないことも影響しているかもしれません。

 いよいよ年末が近いので仕方ないのかなとは思いますが、せっかくの「西洋音楽史」を欠席するのは私にはとてももったいないことです。

 私はこれまでに一度だけ欠席していました。

 実家の都合で出席は無理だったのです。

 その日はメンデルスゾーンが採り上げられたと、のちに佐野先輩にうかがいました。

 土井先輩にメンデルスゾーンのCDを貸していただけないかお願いしたところ、先輩は快く引き受けてくださった上、プラスアルファとなることまで教えてくださいました。

 私は佐野先輩と土井先輩のおかげで、欠席した分は充分に取り返すことができたと思います。

 或いは、出席できた場合よりもずっと多くの知識や情報を得られたのかもしれません。

 そんなことを思い出すと、おふたりの先輩方が私にとっていかに大切な存在なのかをあらためて感じることになりました。

 佐野先輩は元気かな。

 本来なら佐野先輩がいてくれるはずの席に目をやりながら、私は思いました。

 私の隣の席は空いていたのです。

 この分だと、土井先輩もいらっしゃらないかもしれない。

 私はうつむいてしまいそうになりましたが、これではいけないと思い直しました。

 諦めるにはまだ早い。

 講義は始まっていませんし、始まってしまっても、終わるまでの時間があります。

 私は土井先輩の指定席、最前列の向かって右端の席に目をやりました。

 講堂の前方側の出入口のすぐそばです。

 これまでにどのくらいこんなふうにあの席を見ただろう。

 長机の上に両腕を置き、その上に頭を載せて、私はふとそんなことを思いました。

 4月に「西洋音楽史」が始まったとき、私はクラシックについてほとんど何も知りませんでした。

 それでも、12月が終わろうとしている現在までに、私はずいぶんたくさんのことを知ったと思います。

 それに、クラシックだけではありません。

 ジャズについてもたくさんのことを知りました。

 ジャズを聴きたいと思いながらも、聴き始めることをためらっていた私にきっかけをくれたのは土井先輩でした。

 クラシックも、ジャズも、私を導いてくださったのは土井先輩。

 後押しをしてくださったのは佐野先輩。

 早田さんがいてくれたおかげで真っ暗になることは避けられたと思いますが、ふたりの先輩と出会うことがなかったら、少なくとも私の大学生活一年目はとてもつまらなくなっていたかもしれません。


      *


 講師の先生が前方の出入口のドアを閉めて、演台へと向かわれています。

 私は先生から土井先輩の指定席へと視線を移しました。

 席は空いていました。

 私は思わず頬杖をつき、溜息をつきました。

 先生は今日も演台の近くまでホワイト・ボードを動かしていらっしゃいます。

 前回よりもお疲れになっているのか、先生の吐く白い息が見えました。

 それからいつものように手慣れたご様子で先生がCDコンポのセットをされているとき、「カチャッ」という小さな音が前方の出入口から聞こえました。

 講堂にいる人数が少ないからか、今日出席している人は比較的真面目だからなのか、講堂内はとても静かでした。

 小さな音だったのに、私はしっかり聞き取ることができました。

 ドアがゆっくりと控え目に開かれ、土井先輩が神妙な様子で講堂に入ってこられました。

 土井先輩が静かにドアを閉められると、もう一度「カチャッ」という小さな音が聞こえましたが、講堂内を見回しても誰も気にしていないようでした。

 土井先輩は何気なく指定席に腰かけられると、右手で後頭部を撫でていらっしゃいました。

 きっと苦笑いをされているんだろうな。

 私はつい想像してしまい、くすっとしていました。

 佐野先輩が私の隣にいらっしゃらないのはすごく残念。

 でも土井先輩はいらしてくださった。

 私は講堂内の寒さを忘れて、ぽかぽかしているかのような暖かみを感じていました。


      *


「先週はうっかりしてしまい、今日の内容について話すのを忘れてしまいました」


 先生はそこまでおっしゃると、しばらく間を置かれました。


「二週連続で忘れてしまいましたね、ごめんなさい」


 先生が照れくさそうなご様子でおっしゃったので、私だけでなく今日出席しているほとんどの人が笑っているようでした。

 ほとんどの人が、と思ったのは、土井先輩を除いたからでした。

 土井先輩はおそらく何事もないかのように黙っていらっしゃるだろう。

 私はそう思ったのです。


「今日も突然のことになってしまいますが、これからプロコフィエフの『交響曲第5番』、第4楽章を聴くことにします」


 そうおっしゃると、先生はホワイト・ボードに字を書き出されました。

 前回、ベートーヴェンの『交響曲第9番』のときには赤のボード・マーカーをご使用になっていましたが、今回は普通に黒のマーカーを手にされていました。

 ホワイト・ボードには大きく「セルゲイ・プロコフィエフ」と書かれ、その下には「交響曲第5番、変ロ長調、作品100」と書かれていました。


「この曲は1945年、第二次世界大戦が終わる年の1月に初演された、割と最近の曲です。ですから、これまでにこの講義で聴いてきた曲と比べると、クラシック音楽の印象がガラッと変わるかもしれません」


 先生はここまでおっしゃると微笑んでおられました。


「それでも、この曲はここで採り上げるにふさわしい『西洋音楽』、いわゆるクラシック音楽に他なりません。是非楽しんで聴いてください」


 先生は今回も流れるように見事な手さばきでCDをセットされ、リモコンを操作されました。

 ブラスと思われる、管楽器の音が聞こえてきました。


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