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先輩と私と先輩と(ジャズとクラシック)  作者: カワヤマソラヒト
22/33

⑧ Ludwig van Beethoven (5)


      *      *      *


 講堂にも暖房はあるのですが、この広さに見合っていると言うのは難しいと私は思いました。

 今日のような寒さではほとんど効き目はなく、私はコートを脱がずマフラーもしたままでした。

 講堂内を見回すと、どの人も私と同じように感じているらしく、外にいたときのままでいるようです。

 屋内とはいえこの冷え込み具合は、外の寒さもさることながら、普段よりも出席者がかなり少ないのも影響しているのかもしれません。

 今日を入れて、年内の「西洋音楽史」は残すところあと2回でした。

 隣の席に目をやると、私はため息を漏らしていました。

 ため息は無意識にでしたが、白い息が見えたので自覚することになったのです。

 佐野先輩はいらっしゃいませんでした。

 最後にお会いしてから、一ヶ月が経とうとしていました。

 佐野先輩がどうされているのか、土井先輩はおそらく知っていらっしゃるはずです。

 でも、私が詮索していいことだとは思えません。

 仮に、おうかがいしようと思ったとしても、いつもの指定席は空いたままでした。


      *      *      *


 土井先輩には先週の「西洋音楽史」のあとで、さまざまな話をうかがうことができました。

 特に「音楽家」について先輩の意見をうかがえたのは印象に残っています。

 その上、思いがけずヒゲさんのお店へ連れて行っていただき、嬉しいことに先日以来ずっと聴きたいと思っていた「ラプソディー・イン・ブルー」を、作曲者であるガーシュウィン自身のピアノ演奏で聴くことができました。

 ほんの一週間前だからと言ってしまえばそれまでですが、あの日のことは私にとって貴重な記憶となって残っていくはずです。

 ただ、気になることもそこには含まれていました。

 私よりも土井先輩とのつきあいが長いヒゲさんが、先輩のご様子に違和感を持たれたこと。

 それはきっと、私が近頃の先輩について気にしてしまうことと同じではないかと思ったのです。

 土井先輩は体調を崩している。

 頻繁にお会いできることはないので一概には言えないかもしれませんが、私には先輩とお会いする度に具合が悪くなっているように見えてしまうのです。

 土井先輩ご自身は、アルバイトが忙しいことや、夜通しジャズを聴いてしまったことで疲れが溜まっているかもしれないとおっしゃっていました。

 先輩のおっしゃるとおり、ただの疲れなら、あまり気にしなくていいのかもしれません。

 でも私には、ヒゲさんの意見がどうしても不安に思えてしまうのです。


      *      *      *


 土井先輩とお会いできるなら、こんな不安は解消されますように。

 今日の私はそうした期待を持ちながら講堂に来ました。

 もうすぐ先生が講堂にお見えになる頃合いです。

 この時間になっても、土井先輩の指定席は空いたままでした。

 その席のすぐそばのドアが開いて、先生がお見えになりました。

 いつもなら重そうにして持ってこられている大きなバッグが、今回は先生の手にありませんでした。

 その代わり、ラフな感じで重くなさそうなショルダー・バッグとずいぶん大きなラジカセが私の目につきました。

 先生は演台の上にそのふたつを静かに置かれ、ひと息ついていらっしゃるようでした。

 先生はそれから、講堂の向かって左隅に裏返して置かれたままのホワイト・ボードを、演台の近くまでひとりで動かしてしまわれました。

 大変そうだと思いましたが、先生は何事もないようなご様子で演台に戻られました。

 キャスターがついているからか、私が思っているよりは簡単に動かせるのかもしれません。

 先生はバッグからノートを出され、黄色い付箋がつけられているページを開かれました。

 バッグは演台の陰に片づけられ、ラジカセは演台の向かって右側に音を立てることなく置き直されると、ノートは開いた状態のまま演台に載せられました。

 いつもより慎重なご様子だと私は感じました。

 先生が正面を向かれると、講義が始まりました。


「先週は今日の内容について話し忘れてしまいましたが、今日はこれからベートーヴェンの『交響曲第9番』、通称“だい”と言われたり、“合唱”ないし“合唱つき”と言われたりもする、音楽史上重要な作品の第4楽章を通しで聴くことにします」


 ベートーヴェンの“第九”、そう聞こえたところで、講堂内にかすかなざわつきが起こりました。

 先生の声にはいつもより熱が入っているようでした。


「みなさんも一度は耳にしたことがあると思いますが、この曲の第4楽章には『歓喜の歌』としても知られているたいへんに有名な旋律が出てきます」


「歓喜の歌」そう聞くと、私にも心当たりがあるメロディーが浮かんできました。

 佐野先輩が今ここにおられたなら、そのメロディーを口ずさまれて「この曲ね」と私に教えてくださっただろう。

 私はそんな場面を想像していました。


「日本では今くらいの時期、年末に演奏されることがほぼ定着しています。風物詩的な曲になりました。しかし、年末にこの曲を演奏するというのは日本だけではなく、ドイツやアメリカの一部でも定例化しています」


 私は手元のノートを見返すことにしました。

 どんな曲を前期にベートーヴェンが採り上げられた際に鑑賞したのか、おさらいしたくなったのです。

 私は自分の字を見ながら、そのときのことを思い浮かべました。

 確か、先生はこんなことをおっしゃったはずです。


── ベートーヴェンは「楽聖」と言われるだけにたくさんの名曲があります。残念ながら本日紹介できるのはどれも冒頭の有名な旋律だけですが、ご了承ください。


 先生の講義で採り上げられた曲については、鑑賞の有無を問わず、私は逃すことなくノートに曲名を書いてきました。

 ベートーヴェンの交響曲について、私は前期に「9曲完成されている」とノートに書いていました。

 そこから1行空けて、「第3番“英雄”」についてメモ書きがあり、「鑑賞できず残念」という字がありました。

 そして、「第3番」は「ナポレオンにちなんで作曲された」と書いており、「第7番」は「ワーグナーが絶賛した」と書いてありました。

 ところが「第9番」については何も書いていませんでしたから、前期の講義では触れられていないことになります。

 自分ではそのつもりでいるものの、うっかり聞き漏らした可能性もありますから、私は少しずつ不安になってきました。


「前期でベートーヴェンを採り上げたときは、時間の都合もあり、『第9番』のことは何も言わずに終わってしまいましたので、その分は年末に、と考えていました」


 先生の言葉に、私は胸をなでおろしました。


「また、本日は12月14日です。ベートーヴェンの誕生日は正確には分かっていないのですが、12月16日という説が主流になっています。このことも、今回『第9番』を採り上げるのにふさわしいと考えた理由のひとつです」


 私はノートのページを元に戻して、ベートーヴェンの誕生日のことを急いで書くと、さっきまで見返していたページをまた目を移しました。

 鑑賞した曲を書いた箇所が、「第7番」について書いた次にありました。


 交響曲第5番“運命”。

 交響曲第6番“田園”。


 ベートーヴェンは2曲ひと組で構想し、作曲していたことが多いそうで、この2曲もだいたい同時期に作られ、初演は同じ日に行われたそうです。

 また、「第5番」は“運命”として知られていますが、これはベートーヴェンがつけたものではなく通称であること、ただし「第6番」の“田園”は自分自身でつけた標題なのだそうです。


── 「運命はこのようにして扉を叩く」とかなんとか、タマキちゃんは知らない?


 そのときは佐野先輩が隣の席にいらっしゃって、私に話しかけてくださったことを思い出しました。

 私は佐野先輩に答えることができずにいましたが、いいタイミングで先生が「運命」とされている由来について教えてくださったのを覚えていました。

 先ほどの佐野先輩の言葉が正にそのことであり、出だしの「タタタターン」と聞こえる4つの音が、いわゆる「運命の動機」なのだそうです。


── これって、メロディーにしては単純でハナウタにならないなあ。


 佐野先輩は不満そうな表情でつぶやかれていたなあ。

 逆に“田園”は楽しそうに口ずさまれていたっけなあ。

 そんな佐野先輩のご様子をすぐ近くで見聞きできていたことを、私は懐かしく感じていました。


 ヴァイオリン・ソナタ第5番“春”。

 ピアノ・ソナタ第14番“月光”。

 ピアノ協奏曲第5番“皇帝”。


 頬杖をつかれたままの佐野先輩から聞こえてきた声は、小さくてもはっきりとしていました。

 この日に聴いた“運命”を除くいずれの曲でも聞こえてきたので、私の記憶にも鮮明に残っていました。

 私は「よくご存知だなあ」と感心していたのです。

 佐野先輩の声で聴いたメロディーは私でも知っているものがほとんどでした。

 つまり、さすがはベートーヴェン、ということになると思いますが、私にはむしろ「さすがは佐野先輩」という思いが先行していました。

 最後にもうひとつ、アンコールのような感じで、佐野先輩の声と一緒に聴いた曲がありました。


 エリーゼのために。


 このおなじみのピアノ曲は「バガテル」というタイプの曲で、「取るに足らないもの」という意味。

 私はそうノートに走り書きしていました。


── 私にとって「クラシック」と言えばまずベートーヴェンなんだろうな。


 佐野先輩はなおも頬杖をつかれたままでおっしゃいました。

 ここでやっと、私はひとこと言えました。


── 私も佐野先輩と同じです。

── タマキちゃんも?


 佐野先輩は頬杖をやめられ、私を見ながら続けておっしゃいました。


── モーツァルトやバッハでもよさそうなのに、やっぱりベートーヴェンになっちゃう。


 私は佐野先輩の意見に重ねて同意していました。


「これから、『第9番』の最大の特徴である声楽と合唱が入る第4楽章を、始めから終わりまでノー・カットで全部聴きます」


 先生の声で、私の回想は終わりました。


「第4楽章で声楽が入ってくるまでの構成は、第1楽章から第3楽章までの主題を引用して進みますが、その都度かき消されてしまいます」


 先生は第4楽章がどのような作りになっているのか説明してくださいました。


「ここまでのすべては、声楽が入ってくるまでの長大なイントロとも解釈できます。つまり、声楽が入ってきてからが、ベートーヴェンがこの曲で最も重要と考えた部分ということになります」


 先生はホワイト・ボードに赤のボード・マーカーで何かを書こうとされましたが、その前に正面に向き直っておっしゃいました。


「いよいよ声楽が入ってくるその直前で、音楽は一度ブレイクされ、第4楽章の冒頭の旋律が帰ってきます。そしてまずは男声低音パート、バスまたはバリトンのソロで始まる歌い出しの部分……」


 先生はホワイト・ボードに大きくアルファベットを書き出されていました。

 ドイツ語に違いありません。


『O Freunde, nicht diese Töne!』


 先生は赤い字でそれだけ書かれると、演壇へと戻られました。


「これは歌い出しの部分の歌詩です。日本語にすると、『ああ、友よ、このような音ではない』、という意味になります」


 第2外国語がドイツ語でよかったと、私はこのとき初めて思いました。


「歌詩は、ベートーヴェンが感銘を受けたフリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』を抜粋したものになっているのですが、出だしのこの部分はベートーヴェン自身が書き加えたものです」


 ベートーヴェンが曲だけではなく詩の一部も作っていたというのは、私には思いもよらないことでした。

 講堂内に明らかなざわつきが起こりましたので、そう感じたのは私だけではなかったようです。


「ベートーヴェンが敢えて書き加えたこのひとことが、第1楽章冒頭から声楽が入る直前までの音楽を否定することになります。長大なイントロという解釈を裏付けることにもなっています」


 私はこの説明を聞いて、ベートーヴェンはものすごく考え抜いて曲を設計しているのだと分かりました。


「先ほども言いましたが、最も重要なことは、これから始まる部分にある。そう強調していると考えられます」


 先生は念を押されるかのようにおっしゃると、演題の向かって右側から、大きなラジカセを演題の中央に据えられました。

 ラジカセの正面はこちらに向けられています。

 これと言った調整をされたようには見えませんでしたので、きっと準備万端なのだろうと私は思いました。


「今日はこの曲で私がいちばん好きな演奏を、みなさんにも聴いていただこうと思います。残念ながらCDはありませんので、LP盤をメタル・テープに録音してきました」


 大きなラジカセが登場した理由が判明しました。


「少々スクラッチ・ノイズがあると思いますが、その点はご容赦ください」


 私はLPレコードが音源であることをうかがって、できることならジャケットを見たいと考えていました。


「では、第4楽章を一気に聴きます。補足すべき点は、そのあとでまたお話します」


 まだ話し足りないかのような雰囲気でしたが、先生はラジカセの再生ボタンへためらうことなく手を伸ばしていらっしゃいました。

 しばらくすると、かすかにですが「プツッ」というようなスクラッチ・ノイズが聞こえました。

 間もなくラジカセのスピーカーから静かに音楽が流れ出し、その音は次第に大きくなってきました。

 ホワイト・ボードに「フェレンツ・フリッチャイ指揮」と先生の字が並んでいました。

 ついさっき書かれたドイツ語の歌詩の下に赤い字が増えていたのです。

 下へと行が変わり、「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」とオーケストラ名が書かれました。

 なおも先生の右手は休むことなく、演奏者の名前を書き連ねていきました。


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