⑧ Ludwig van Beethoven (4)
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すっかり年末モードになっている学校は休講がだいぶ多くなり、学内にいる人の数は目に見えて少なくなっていました。
掲示板にある休講の貼り紙は、先週には既にたくさん増えていましたから、こうした状況になるのは予想どおりと言えました。
それでも、広瀬先輩と小野先輩はよくお見かけしていました。
田中先輩はいつの間にかお見かけすることがなくなっていました。
* * *
昨日はしばらくぶりに小野先輩とお話しすることができました。
幾分離れていたのですが、小野先輩がおひとりで歩いていらっしゃるのに気がついたので、私から小野先輩に呼びかけてご挨拶をしました。
小野先輩は私を見つけてくださると、胸の辺りで軽く手を振ってくださりながら笑顔で応えてくださいました。
「久しぶりだね大川さん。元気だった?」
「はい、元気にしていました」
短い時間の立ち話でしたが、私は思い切って田中先輩についてうかがってみました。
「近頃、田中先輩をお見かけすることがないように感じているのですけれど」
私がそこまで言ったとき、小野先輩は心配そうな表情になってしまわれました。
「大川さんひょっとして、田中くんにいじめられたとか……」
「いいえ、そんなことはまったくありませんよ」
小野先輩は冗談でおっしゃったのだと、私はすぐに思いました。
田中先輩がそのような人ではないということは、小野先輩はよくご存知のはずですから。
「田中くんはそんなつもりがなくても、あとから何か気がついて、たまあに『やっちまったー』なんて言ってるから、念のためにね」
小野先輩は笑顔を浮かべながらそうおっしゃいました。
「小さい声で、思わず言っちゃうみたい。たぶん聞こえていないと思ってるのかな。そばにいると聞こえちゃうのに」
田中先輩のそんな姿が、私にも見えてくるような気がしました。
「田中くんは今月に入ってから、学校よりもアルバイトを優先しているの」
「そうなんですか」
「うん。12月は稼ぎどきなんだって」
私は土井先輩がアルバイトについて「何かと忙しい時期」とおっしゃっていたことを思い出しました。
土井先輩がいらっしゃらないのも、アルバイトの可能性がある。
ただ、仮にそうだとしても、無理をされているのではないだろうか。
私は不意に、先日田中先輩から聞いた言葉を思い出しました。
── 土井の不調は最近始まったことじゃねえからなあ。
今ここで私が不安になっていてもどうにもできないので、私はあらためて田中先輩のことを小野先輩にうかがってみようと思いました。
「あの、田中先輩は、単位は大丈夫なんでしょうか?」
「講義の内容がよく分からなくても、出席率はよさそうだから平気みたい」
小野先輩はなんでもないことのように答えてくださいました。
「必修で欠席が続くのはちょっとまずいかなあと思って、私がプリントなんかは田中くんの分ももらっておいて、ノートくらいはルーズ・リーフで渡してあげてるの」
私は田中先輩と小野先輩がおつきあいされていることは直接うかがっていました。
仲よくされているご様子をお見かけすることは増えたように思います。
そんな一場面を教えていただいたことになりましたが、私の気持ちにはいつからかうらやましさが芽生えたかのようで、今もまた少し大きくなってしまったように感じていました。
「でもね、別に私がサーヴィスしているわけじゃないのよ」
「え?」
「しっかり見返りはもらってるから」
小野先輩によると、田中先輩のアルバイト先はファミリー・レストランなのだそうです。
小野先輩も高校生のときにファミリー・レストランでアルバイトをされていたことがあり、比較的余裕のある時間帯がお分かりなのだそうです。
「そうしたときを狙ってね、冷やかしがてら田中くんの働きぶりを見に行って、デラックス・パフェなんかを田中くんのツケでいただいてきちゃうってわけ」
働きぶりを見に行かれるということは、田中先輩はフロアで接客をされているのだと分かりました。
以前私は、田中先輩が笑顔についてつぶやかれていたことを知っていました。
具体的な言葉は思い出せませんが、田中先輩はおそらくアルバイト中のことを想定されていたのではないか。
私は謎が解けたような気分になりました。
小野先輩はいたずらっぽく笑いながらもうひとことつけ加えておっしゃいました。
「なかなかいい作戦でしょ」
小野先輩がこれほど楽しそうにされている表情を、私は初めて見ることになりました。
その後間もなく、私は挨拶をして小野先輩と分かれました。
挨拶の前に私が言えたのは、「素敵ですね」のひとことだけでした。
それはパフェのことではありません。
おふたりの仲がとてもいいなと感じられてのことでした。
小野先輩は「冷やかしがてら」とおっしゃっていました。
その言葉はきっとクッションのようなもの。
もちろんパフェが目的であるはずはない。
私はそんなふうに思っていました。
いつか私でも小野先輩のようになれることがあるのだろうか。
想像してみようとしましたが、私にはうまくできませんでした。
私は無駄なことをしていたのです。
できるはずがないのですから。
早田さんにこのことを話してみたら、どんな反応をしてくれるだろう。
早田さんが見せてくれたヴァラエティに富んだ表情なら、私はとてもうまく思い浮かべることができました。




