② Bill Evans & Wolfgang Amadeus Mozart
一週間ぶりの「西洋音楽史」でした。
「佐野先輩、おはようございます」
「おはようタマキちゃん」
佐野先輩はこの日もアジアふうの服を着ていらっしゃいましたが、私にはそれがどこの国のものなのか見当もつきませんでした。
「そうそう、タマキちゃん、あの堕落先輩に借りた5枚聴いてみた?」
「あ、はい」
「どうだった?」
「そうですね、私は5枚とも好きになりました」
私は自然に話しだしていました。
「ひとくちにジャズと言っても、みんな個性的で、同じ曲を演奏してもずいぶん印象が違うものになっていて、とても面白いと思いました」
「さすがタマキちゃん。初心者と言いながら、既にツボを押さえているわね」
「そうですか? そう言っていただけると嬉しいです」
「どれがいちばんよかったの?」
「どれと言われると困っちゃいますけど、そうですね、『ポートレイト・イン・ジャズ』でしょうか」
「ビル・エヴァンズのピアノ・トリオね」
「はい。私でも知っている曲が入っていましたから、それで親しみやすかったんだと思います」
「『枯葉(Autumn Leaves)』だもんね」
「そうなんです。『枯葉』があんなにかっこいい曲だなんて、思いもしませんでした」
「うん。あの演奏はとってもいいわ」
「今の季節とずれてますけど」
「そんなのちっとも関係ないのよ」
「え?」
私は佐野先輩がおっしゃったことの意味が分からず、疑問を感じていました。
「自分が本当にいいなと感じたならね、いつどこで聴いたっていいなって感じるに決まってるんだから」
佐野先輩の言葉に、私は驚くと同時に感心してしまいました。
「さらに、『いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)』とか」
「はい、そのとおりです」
「サームデーイ、マイプリーンス、ウィルカーム……」
佐野先輩は小さな声で口ずさんでくださいました。
もしかしたら佐野先輩は、土井先輩に負けない知識をお持ちなのかもしれません。
「もう返しちゃったの?」
「いえ、まだなんです。早くお返ししようと思っているんですけど」
「いいんじゃない、いつまでも借りてれば」
「そうはいきませんよ」
「タマキちゃんかわいいから、きっと大丈夫よ」
「そんな」
佐野先輩の冗談だと分かっているのに、私は少し赤くなっていたと思います。
「そうだ、例の堕落先輩のこと、私が『先輩』をつけて呼ぶのはヘンよね。確か同じ学年でしょ」
「はい。2年生です」
「なら、私は『堕落マン』と呼ぶことにするわ」
土井先輩に新しいあだ名が派生しました。
「それで、あの堕落マンって、どんな人なの?」
「そうですね……ひとことで言うと、つきあいが悪いです」
「そっか。あんな隅っこにいつもいるのは、そういうことか」
「ゼミの飲み会とか、コンパとか、一度も来てくださったことがないらしいです」
「ええ? 何それ」
「私はまだ1年なのでそれほど機会がないんですけど、他の先輩方にうかがってみると、土井先輩は来ないのが普通だ、とおっしゃってました」
佐野先輩は目を丸くしていらっしゃいました。
「人づきあいが嫌いとか、聞いたこともあります」
「ふうん。やっぱりヘンな人なのね」
「そうですね。あ、ひとこと目には、変な人と言えばよかったですね」
佐野先輩はプッと吹き出され笑っていらっしゃいました。
「私から見ると、あの堕落マンは闇のようなオーラに包まれている気がするのよ」
「闇、ですか」
「そう。もちろんホントに闇があるんじゃないけど……」
佐野先輩は少し間を置かれてから、続けておっしゃいました。
「タマキちゃんのおかげでやや謎が解けてきた気がするわ」
「え?」
「たぶんね、何が原因かは分からないけど、すごく閉鎖的な人だと思うの。内にこもってるって言ったほうがいいかな」
「ああ、そう見えるかもしれません」
「普通は研究室やゼミには、多かれ少なかれ友だちがいそうなもんなのに」
佐野先輩は先日の「やっぱり、世界は不思議で満ちているのね」とおっしゃったときのような表情をされていました。
「いちおう、仲よくされている方はいらっしゃるんです」
私は田中先輩と広瀬先輩のおふたりと、土井先輩について学食で話をしたことを思い出していました。
「でも私、堕落先輩がその方たち以外のどなたかとお話されているのを見たことはありません」
私はそこで区切ってしまいましたが、言葉が足りないことに気がついたので慌てて補足しました。
「あ、研究室の助手さんとか、先生方は別としてです」
私が言うと、佐野先輩の表情が変わりました。
「ですので、私なんかでも堕落先輩とけっこうおしゃべりをするほうみたいです」
「もしかして、タマキちゃんは堕落マンとなんか特別な関係なの?」
「いいえ、決してそんなことはありません」
私はとても強く否定しました。
「私、初めてK教授のゼミの集まりに行ったときは……」
「K教授?」
「あ、はい」
「自分の学科の先生でさえろくに名前を覚えていない私が、他学科なのにたったひとりだけ名前を知っている先生だわ」
佐野先輩は感心されているようでした。
「タマキちゃん、K教授に師事したかったんだね」
「はい」
「K教授って威厳があるように見えるし、すごい先生なんでしょ?」
「そうですね、そう思います」
私は佐野先輩の意見に同意しました。
「それで1年生の今頃から積極的に頑張っているわけか」
「前々から勉強したいと思っていた分野の第一人者と言える先生ですし、K教授に教わりたくてこの学校を志望したので……」
「タマキちゃん」
「はい」
佐野先輩の視線は私へとまっすぐに向けられていました。
「タマキちゃん、ものすごい情熱を持っているのね。とってもとっても、大胆なくらい」
私は佐野先輩の言葉に戸惑ってしまいました。
「そう、なのでしょうか」
なんて言葉を返せばいいのか分からないまま、私はただわけもなくこう言っただけでした。
「絶対そうだよ。タマキちゃんほどの情熱を持って勉強に来ている人は、この学校にいないかもよ」
佐野先輩はバッサリ切り捨てるように言われました。
私には佐野先輩のほうがよっぽど大胆だと思えました。
「おっと、ゴメン。タマキちゃんの話を遮っちゃったね」
佐野先輩はちょっぴり舌を出されたあと、言葉を続けられました。
「あらためて話してくれるかな、タマキちゃん」
佐野先輩は右側に首を傾げながら私を促してくださいました。
私は仕切り直して佐野先輩に話しました。
K教授に会いに行って、研究室への出入りを許していただいたこと。
来年度からのゼミに入れていただけると教授の口から聞いたこと。
正式に入れていただいてからでも私がいちばん下っ端であることは間違いないので、今のうちから研究室の先輩方にご挨拶くらいはしておきたいと思ったこと。
「偉いなあ……」
「そんなこと、ないですよ」
「そんなことあるよ。タマキちゃんのような志を持った人が実在しているなんて、私は認識を改めないといけないわ」
「え?」
「タマキちゃんがエネルギーを分けてくれたから、私も頑張らなくちゃって、思ったの」
佐野先輩は優しく微笑んでくださいましたが、一瞬で表情を変えてしまわれました。
「おおっと、また話を遮っちゃった。何度もゴメンね」
先輩は私に向かって合掌されていました。
その上、目を閉じられたまま頭を下げていらっしゃいました。
「そんな……やめてください」
そのご様子があまりにも意外でしたので、私はそう答えるのが精一杯でした。
「タマキちゃんが挨拶をしようと思った先輩の中にあの男が、堕落マンがいたのね」
「あ、はい。そうでした」
私は佐野先輩のおかげで話をつなぐことができました。
「研究室にAさんという助手の方がいらっしゃるのですが、そのAさんにご協力いただきながら、研究室に来られた先輩にご挨拶をしていくことができました」
「うんうん」
「ですが、最後におひとりだけ、まったく研究室に来られることのない先輩がいらしたんです」
「分かったわ。それが堕落マンだったのね」
佐野先輩はため息をつかれていました。
「そんなヤツがどうしてK教授のゼミにいるのか、腑に落ちないわ」
佐野先輩の「K教授でも魔が差すことがあるのかしら」とおっしゃる声が聞こえました。
私はほんの少しだけくすっとしてしまいましたが、気を取り直して話を続けました。
「研究室でお会いできないなら、私から会いに行けばいいのだと思いましたから、すぐにそうしたのですが」
「なかなか捕まらなかったのね」
「そうなんです。離れた場所からお見かけすることは何度もあったんですけど、いつの間にかいなくなられて……」
「うーん、闇の力で煙幕でもはってたのかしらね」
佐野先輩が真顔でそうおっしゃったので、私はうっかり笑ってしまうところでした。
「聞けば聞くほどヘンなヤツだわ、うん。ますますあの堕落マンに興味が湧いてきた」
私はドキッとしてしまいました。
佐野先輩といえども、私以外に堕落先輩こと土井先輩に興味を持つ方がいるなんて、それも「ますます」だなんて、思いも寄らないことだったのです。
「興味、ですか」
「そう。私、あんなにヘンな人、他に見たことなかったし、どんな人間ならああなるのか、知りたい気がするのよね」
そこでひと区切りされると、佐野先輩はさらにおっしゃいました。
「タマキちゃん、私、あの堕落マンに近づいても無事でいられると思う?」
「え?」
「ああいう変人に迂闊に近寄ると、返り討ちにあったりしそうだから」
「大丈夫だと思いますけど……」
そう答えてから、私に土井先輩へご挨拶したときの記憶がひとつ蘇ってきました。
「ただ、もしかすると失礼なことを言われるかもしれません」
「失礼なこと?」
佐野先輩は「おや」とでもおっしゃいそうな表情をされましたが、間を置かずに言葉を続けられました。
「さてはタマキちゃん、被害者なのね」
「あ、はい」
私は佐野先輩を鋭い人なのだと感じました。
「堕落マンたら、ひどいわね」
「私がご挨拶したときに、『男かと思った』って言われちゃいました。ショックだったです」
「ええっ? それはないわ。タマキちゃん、こんなにかわいい女の子なのに」
私が「かわいい」と言われてしまい困っていると、佐野先輩は間髪入れることをなさらず、かなり不機嫌そうなご様子で続けておっしゃいました。
「どこに目をつけてんのよ、堕落マン。とんでもないフシアナね」
「確かに、そのときの私は、男物のシャツに黒いジーンズなんて服装でしたし」
「いいのよ、タマキちゃん。いくら堕落マンが先輩だからって庇わなくても」
「それから」
「まだあるんだ」
「タマキです、よろしくお願いしますってご挨拶したんですけど、『苗字なのか、名前なのか、両方なのか、よく分からんヤツだ』って」
「何それ? 懲らしめる必要があるわね。意味不明じゃない。何言ってんのかしら」
「冗談だとは思ったんですけど……私はヒキガエルじゃないのにって、実はムッとしちゃいました」
「あら、なんでヒキガエルなの?」
「高校の生物で学名について習ったときに、例として出てきたんですよ」
私は高校で教わったとおりの説明をしてみました。
「学名って、人のフル・ネームのように、基本はふたつの言葉からできているんです」
「うんうん」
「それで、動物の学名にはトートニムというのがあって、人の名前に例えると苗字と名前が同じなんです」
「それでヒキガエルなの?」
「はい。例として出てきたのが『Bufo bufo』で、これはヒキガエルの、正確にはヨーロッパヒキガエルの学名だったんです」
「タマキちゃん」
「はい」
「あなたって、すごく面白い人だわ」
「え?」
「あ、悪く取らないでね。『面白い人』って言うのは、私の中では最上級の誉め言葉だから」
佐野先輩はにこっとされながら、そうおっしゃいました。
ここで講師の先生がお見えになりました。
「まずはモーツァルトの傑作のひとつ、『交響曲第41番』、通称“ジュピター”から、第4楽章を聴いてみましょう」
先生はてきぱきとCDコンポのセッティングを終えられると、上着の内ポケットからCDを取り出されたました。
あっという間にディスクはプレーヤーに吸い込まれていき、先生は手慣れた様子でリモコンを操作されました。
一連の動作はまるで舞っているかのように美しく感じられるほどでした。
瞬きする間もなく弦の音が聞こえてきました。
講義が鑑賞から始まるのは初めてのことでした。
「“ジュピター”、カッコいいよね」
佐野先輩が小声で話しかけてくださいました。
「私、モーツァルトの曲ではいちばん好きだな。特にこれ、第4楽章。さすが先生、分かっていらっしゃるわ」
「先輩はクラシックにもお詳しいんですか?」
「そんなことないと思うけど、そうだなあ……ジャンルにこだわらず、気になったものはなんでも聴くからかな」
佐野先輩は“ジュピター”第4楽章のメロディーを、CDに合わせて小さな声で少しだけ口ずさまれました。
私は佐野先輩をずいぶんすごい人だと思っていました。
知り合えてよかったな、とも。
服装にしろ、音楽のことにしろ、自分はこうなんだというぶれない何かをお持ちなのだと、素直に感心していたのでした。