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先輩と私と先輩と(ジャズとクラシック)  作者: カワヤマソラヒト
15/33

⑦ George Gershwin (7)


      *


── クラリネットが低音からグリッサンドで駆け上がって、ホワ~ンと間抜けなサイレンみたいな音を鳴らしている、なんてのが聞こえてくる。


 先ほど土井先輩がおっしゃっていたとおりの音が私の耳に飛び込んできました。


「水色の本にさ」


 土井先輩がそっとおっしゃいました。


「ガーシュウィンも採り上げられてるんだけど、今はまあそのことはいいか」

「え?」

「曲に浸るのがいちばんだよ、せっかくココにいるんだし」


 ガーシュウィンが奏でるピアノの音が軽やかに、弾んで、縦横無尽に動き回って、はじけて、きらきら光っているのが見えるような気がしました。


「何度聴いてもガーシュウィンのピアノはすごくイキイキしてるよなあ」


 土井先輩は両肘をテーブルについて、両手のひらに顎を載せていらっしゃいました。


「録音が70年近く前でノイズがあるとかさ、SPの収録時間の都合で曲にカットがあるとか、それがどうしたって思わない?」


 私は感激して気持ちがふわふわしたまま、どう返せばいいのか、言葉が見つかりませんでした。


「ガーシュウィン本人のピアノだとさ、ああ、こんなふうに音が流れていく世界を頭に浮かべて作曲していたのか、なんて思ったりするんだけど」


 先輩は言葉を区切られコップのお水をおいしそうに飲まれていました。


「ガーシュウィンという人がかつて確かにこの世界に存在して、今聴こえている曲を作り、演奏を残してくれた。このことにどれだけ価値が有ることか、タマキも分かってくれるよな」


 土井先輩の視線が急に私へ来たので、私は不意を突かれてしまいました。

 でも、冒頭のクラリネットの音が聞こえてきた瞬間から私はどきどきしたままでしたので、先輩の視線がどきどきをどのくらい上乗せしたのかはよく分かりませんでした。


「この他にもまだ別の録音があるんだけど、ボクに言わせれば、最初に録音したこのヴァージョンのみずみずしさにはかなわないと思ってるんだ」


 先輩は今回もまたもっと私の世界を広げてくれるのだ。

 そう思うと、驚きや嬉しさやなんとも言えない気持ちがひとつに混ざりだし、胸がいっぱいになってきました。


「小編成で荒削りな感じもあるけど、初演のときとほとんど一緒のメンバーだろうし、そのときの空気もまだありありと残っているうちに録音したんじゃないかって、ボクは思ってるんだ」


 先輩は私から視線をはずすと、天井近くに据えられたスピーカーに目を向けておられるようでした。


「自信と誇りが、エネルギーがあるよな。アメリカの新しい音楽を作ったんだ、やったぜって言うような、さ」


 そう私に話してくださっている先輩の横顔が、私にはだんだん遠くなっていくような気がしてきました。

 手をわずかに伸ばしたなら、頬に触れられるほど近くにいるのに。

 おかしな感覚であるにも関わらず、私はただその感覚を受け止めていました。


「このあとの録音がよくないっていうことじゃなくて、こうして聴いているこのレコードには、絶対的で特別な空気と雰囲気が一緒に記録されているって感じるんだ。そうなると、この演奏は出来の良し悪しなんて超えてしまったところにある不滅のものだと思う」


 私はどきどきしたままガーシュウィンのピアノに魅了されながら、同時に土井先輩の言葉を聴いていました。

 先輩の声はまったく音楽の流れを邪魔することなくごく自然に私の耳に届いていました。

 先輩はそれ以上何もおっしゃらず、私はときどき先輩の横顔をちらっと見ながら「ラプソディ・イン・ブルー」を聴き終えました。曲が終わってしまうのがなんとも残念な気がしました。

 先輩の横顔は、私のすぐ近くで物思いに耽っているように見えていました。


      *


 ヒゲさんのお店から外に出ると、太陽はもうすっかり沈んでいました。

 お店にお客さんが増えてきたのは、夕食どきになっていたからに違いありません。

 ココは駅のそばにありましたから、土井先輩と私はほどなく改札を抜け、階段を上がってホームに立つことになりました。

 階段の近くにある時刻表を確認すると、先発の電車が出たばかりで、次の電車を10分程度待つのだと分かりました。

 息は白くなるものの風はなく、私はふわふわした気持ちとどきどきが続いているせいか、寒さを感じませんでした。

 ふと、土井先輩の声が聞こえてきました。


「ココって、ヒゲさんのお店だから最もなことかもしれないんだけど、実は禁煙なんだ。気がつかなかった?」


 私にはお店の雰囲気の記憶は充分にあったのですが、具体的な状況には気が回っていませんでした。


「すみません、まったく気にしてませんでした」

「タバコの臭い、しなかっただろ?」

「言われてみると……」

「ヒゲさん、昔は吸ってたらしいけど、だいぶ前にやめたって言ってた」

「どうしてなんでしょうか?」

「コーヒーがまずくなるんだって」

「え?」

「店にタバコの臭いがつくのもイヤなんだってさ、コーヒーの香りを大切にしたいから」


 土井先輩は優しい表情を浮かべていらっしゃいました。


「そうは言っても、禁煙のお店なんてまだほとんどないだろ、珍しいよな」

「はい、そうですね」

「ランチだってお茶の時間だって、吸いたい人はたくさんいるだろうし……でも絶対にお断りだって。店の売上げがその分落ちてるかもしれないのに、灰皿は1枚も置いてないんだ」

「ああ、そうですよね。お料理もコーヒーもあんなに美味しいですから、制限をなくせばもっと」

「それに、アルコールは店で出さないんだ。キッチンの奥の部屋にはいろんなボトルが、ウイスキーなんだけど、かなりたくさんあるのに、あくまでもプライヴェートのものだって。好きな音楽を聴きながらちびちびやるのがいいんだってさ」

「土井先輩はその……見せていただいたんですか、キッチンの奥の部屋」

「店がいているとき、ヒゲさんがレコードのライブラリとか、自由に見ていいよって言ってくれたから、それはもう遠慮なく、ね」

「それでご存知なんですね」

「ボクのウイスキーについての薀蓄は、ヒゲさんに全部教わったようなもんかもしれないな。置いてあったやつ、みんな少しずつ飲ませてもらったはずだから」

「先輩はお酒が好きなんですか?」

「嫌いじゃないけど、残念ながら強くはないんだ。すぐ赤くなっちゃって、頭が痛くなって、気持ちよく酔うってことが分からない」

「それは本当に残念かもしれないですね」

「タマキは?」

「私ですか?」

「うん。好きなの、アルコール?」

「いえ、私はその」

「どうかした?」

「いちおう、まだ……」

「あれ? そうだっけ?」

「はい」

「そうか、それはうっかりしてた。危なかった」

「危ない、ですか?」

「そりゃそうだよ、飲んだことないんだろ?」

「あ、はい。本格的には」

「何その含みのある言いかた」

「いえ、小さい頃、父親にちょっとだけ飲んでみるかと言われて、ビールをひとくちだけ飲んだらしくて」

「なあんだ、びっくりさせないでくれよ。そんだけなら飲んだうちに入んないよ」

「そうかもしれませんけど」

「それで、そのときはどうだったの? 酔っ払っちゃった?」

「いえ、特になんともならなかったみたいで、にが~いって言ったくらいだと母から聞きました」

「ということは、もしかしたらタマキは強い人なのかもしれないのか」

「ワインなら、大丈夫、でした」

「ワインならって、どういうこと?」

「夏の合宿で、その、少しだけ」

「飲まされたのか? ひどいな、同じ学科ながら」

「いえ、みなさんが美味しそうに飲まれていて、ワインは苦くないとうかがったので、だったら大丈夫だと思って、つい私から」

「タマキ、実はけっこう大胆なヤツなんだな……で、酔っ払ったのか?」

「それが」

「まさか、覚えてないくらい飲んだとか?」

「覚えてますよ。グラスに3杯ほどいただいて」

「え、いきなりそんなにか」

「美味しいなと思っただけで、なんともありませんでした」

「タマキ、酒豪伝説だ」

「そんな、おおげさですよ」

「気をつけなくては。もし一緒に飲みに行ったら、潰されるのは100%ボクのほうだ」


 土井先輩はそうおっしゃると、2回ばかりうなずいていらっしゃいました。

 先輩のそんな様子を見ながら、私はお店を出たときのことを思い出していました。


      *


 ヒゲさん特性のブレンドをいただいてひと息つくと、土井先輩は椅子から立ち上がられました。


「じゃあ、邪魔にならないうちに帰るとするかな」

「土井くんは僕がそんなことしないって知ってるくせにわざとそう言ってるな? もしかして、タマキさんがいるから照れ隠し?」


 クッキーが並んでいたお皿やカップを下げてキッチンにいらしたヒゲさんは、すかさず先輩に突っ込みを入れておっしゃいました。

 そのヒゲさんの言葉にはかまわず、キッチンと出入口の間にあるレジまでまっすぐに行かれると、私が慌てているうちに土井先輩はあっさりと会計をすませてしまわれました。


「いつになったらブレンドの代金を受け取ってくれるの、ヒゲさん」


 先輩の声に答えて、ヒゲさんの声も聞こえました。


「僕のブレンドはお客さんに出すものじゃないんだって、前にも言ったよ」


 おふたりの会話が聞こえてくる中、私はようやく先輩に追いついて、お財布から自分の分を払おうとしました。


「いいからいいから、ボクが連れてきたんだから」

「そうそう。タマキさんはドイセンパイの顔を立ててあげてください」

「でも」


 おふたりの言葉に甘えてしまうのは申し訳ないと思ったのですが、土井先輩がにこやかな表情をされて私を見ていらっしゃるのに気がつくと、私は素直に「ごちそうさまです」と先輩に頭を下げました。

 でも土井先輩は私の「ごちそうさまです」にかぶせるように「じゃあヒゲさん、また来ます」とおっしゃると、カウ・ベルの音をさせて外に出ていってしまわれました。

 なので、私が頭を下げたところは見ていらっしゃらなかったかもしれません。


「あーあ、ドイセンパイ照れちゃって、もう」


 ヒゲさんはおかしそうなご様子でニヤニヤされていました。

 私はヒゲさんにお礼を言いました。


「ヒゲさん、今日は本当にありがとうございました。私すごく楽しくて、いろいろごちそうまでしていただいて」

「タマキさんは律儀ですね。そんなに気にしなくても、楽しく過ごしてくれたならそれで充分、私も嬉しいですよ」

「初めて来たというのに図々しかったかなと思って」

「それだけリラックスしてくださったということだから、ブレンドも気合を入れました」


 ヒゲさんは愉快そうにはっはっはと笑っておられました。


「土井くんが先に外に出てくれてちょうどよかった」

「え?」

「実は、ちょっと気になって。タマキさんと一緒だからというだけなのかもしれませんが、はしゃぎすぎな、いや、空回りなのかな?」

「先輩の様子がいつもと違うと思われたのでしょうか」

「ええ、僕の知ってる土井くんはもっとおとなしい人で、今日の感じは違和感がありました。僕が知らない一面だったのかな」

「そう、ですか」

「とても楽しんでくれたならそれでいいんですけどもね、っと、このことは土井くんには言わないでね」

「あ、はい。言いません」

「タマキさんもどこか気になっていて、土井くんのそばにいるんじゃないのかな、とも」

「え?」

「なんてね」

「もう……からかわないでください、困っちゃいます」

「すみません」


 ヒゲさんはペコリと頭を下げてくださいました。


「どうぞ、またいらしてくださいね」

「はい。いろいろありがとうございます」

「タマキさんならおひとりでも大歓迎です。もちろん、土井くんと一緒でも大歓迎です」


 ヒゲさんの言葉はひとつひとつが温かく、そして、私は自分が見透かされているような気がしていました。

 心強く感じたのは、というのはおかしな言いかたかもしれませんが、ヒゲさんも土井先輩の様子が気になっていたということでした。

 私だけが過剰に感じているのではなく、土井先輩が気を許していると思われるヒゲさんがそのようにお感じになるということは、やはり何かあるのだと私は思うのでした。

 カウ・ベルの音がすると、土井先輩の顔がこちらを覗いていました。


「もしかしてタマキ、早くもヒゲさんと内緒話なのか?」

「いえ、そこまでのことは」

「土井くん、それってヤキモチ?」


 ヒゲさんはそうおっしゃるとまたはっはっはと笑っておられました。


「ヒゲさんを相手にヤキモチ? 難易度が高い気がするなあ」


 土井先輩のこの発言を聞かれても、ヒゲさんは楽しそうに微笑んでいらっしゃるのでした。


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