⑦ George Gershwin (5)
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どきどきを鎮めないと危ないと感じだした私は、土井先輩がとてもおいしそうにハンバーグを召し上がっているのを見て徐々に落ち着いてきました。
どきどきは種火になったかのような、気をつけておく必要はあってもひとまずは大丈夫な状態になりました。
でも、入れ替わるように現れたふわふわした気持ちは強いままでした。
「朝から何も食べてなかったから、これでようやく、まだ生きてるぞって気がするよ」
「おおげさです」
私はテーブルを挟んで土井先輩と向かい合っていました。
「いやでもさ、腹が減ってると戦ができないって言うのは真理だとボクは感じるけどな」
「おおげさです」
先輩に2回同じ突っ込みをしたものの、私は自分がにこにこしているのが分かっていました。
同じ言葉にしていたのは、余裕がないほど上機嫌だったからだと思います。
帰り道、いつもの下り方向の最寄り駅から電車に乗るのはやめて、ひとつ隣の駅のそばにあるこのお店まで先輩について歩いてきた私でしたが、そのときには既にふわふわした気持ちはどきどきの陰にあったのかもしれません。
「タマキ、ボクに対して急に冷たくなったのはどうしてだ?」
「土井先輩がつまらないボケを連発するので、反省していただく必要があるからです」
隣の駅と言ってもそれほど距離はないので疲れることはなく、むしろ土井先輩が楽しそうに話をしてくださったのが心地よくて、私はもっと歩き続けてもいいくらいでした。
ふわふわしていたら疲れなんて感じないのかもしれません。
「さすがタマキ」
「はい?」
「ちゃんと『自分』があるよな」
「どういう意味ですか?」
「多分ボクにはないから、ある人がいてくれると安心するんだろうな」
「きっと先輩は、昨日の夜ちゃんと眠っていらっしゃらないからおかしくなっているんだと思います」
「んーと、ボクの説は少し違って」
「はい」
「ちゃんと眠れたとしても、おかしいままだと思うよ」
そうはおっしゃっても、先輩おすすめのお店はさすがに雰囲気も居心地もよくて、食事もコーヒーも美味しくいただきました。
オーダーは先輩にお任せしたのですが、先輩には「いつもの」メニューが決まっているようで、すらすらと声が出ていくように見えました。
それらは「Bランチ(ハンバーグ)」と「トラジャ・カロシ」でしたが、私が田中先輩からうかがっていた「ミスターB」について思い出すのに時間はかかりませんでした。
くすっとしてしまう自分がいてもそれは楽しい先輩方のおかげなので、私は素直にくすくすしていました。
流れてくる音楽は、「オーディオ的にはいい音ではないはず」と先輩が言われたほどのことはないと思いました。
高音域の抜けがよくないということなのかなとは感じましたが、それはこのお店独特の「味」と言うべきもので、「お店の中で聴いてみると分かる」と先輩が言われたことの意味が納得できました。
「さっきから聴こえているのはどうしたことかスタイル・カウンシルの2枚目らしいんだけど」
「あ、これって、そうなんですか? 私、ジャムは聴いたことがあるんですがスタイル・カウンシルは聴いたことがなくて」
「ジャムを聴いたことがあるのがすごいと思うのですけども……というのはさておき」
「はい?」
「こういう小洒落た感じの曲をかけるような人ではないとボクは思っていたんだけどな」
「マスターさんのことですか?」
「ああ、ヒゲさんのことなんだけどさ」
マスターのヒゲさんはひょろっとして見える背の高い男性で、今は洗い物をされているようでした。
煉瓦色のダンガリーシャツの上にベージュ色のコットン生地(だと思います)のエプロンをされており、頭に柄物のバンダナを巻かれていました。
ヒゲを伸ばされていらっしゃいますので「ヒゲさん」と呼ばれているのかなと私は思いました。
一見したところでは、お店はおひとりで切り盛りされているようでした。
広いお店ではありませんが、カウンターとテーブル席はゆったりと配置されており、狭いという印象はまったくありません。
用意されている椅子の数からは、10人前後くらいで満席になるようですので、このくらいがちょうどいいのかもしれません。
先客のサラリーマンふうのおふたりが今しがた出て行かれたので、店内にいるのはヒゲさんの他にカウンターでコーヒーを飲まれている年配ふうの男性と、テーブル席にいる先輩と私の計3人になっていました。
「ヒゲさん、見てくれも込みでけっこう大物なんだと思うんだけど、ときどき今日みたいに怪しいヤツをかけるんだよな」
私がカロシを飲んでいると、土井先輩は不満そうにおっしゃいました。
「スタイル・カウンシルは怪しいヤツなんですか?」
アーティスト・イメージからは「怪しいヤツ」という言葉は似つかわしくないと思えたので、私は先輩に訊いてみました。
「いやいや、『アワ・フェイヴァリット・ショップ』が怪しいってことではなくて、ボクが知っている範囲ではヒゲさんがかけそうにないタイプの音楽だと思ったんだ、スタイル・カウンシルは」
「でも、ヒゲさんは土井先輩みたいにいろいろな音楽をたくさん聴かれていて、よくご存知なんですよね?」
先輩がヒゲさんを好意的に見ていらっしゃるのが明らかなので、私は先輩とヒゲさんに通じるものがあるのだと考えてそう言ってみました。
「確かに」
土井先輩はカロシを飲み干されていました。
「けど、ボクがこの前、と言ってもずいぶん経っちゃったかな……いいか。ボクがこの前ここに来たとき、タマキは、何が流れてたと思う?」
「え? そうですね……」
どんな音楽でも聴かれているとしたら、当てるのはほぼ無理だと思いましたが、私は冗談でこう答えてみました」
「おニャン子クラブ、とか?」
「お!」
先輩は私の答えにびっくりされたようでした。
「さすがだな、タマキ」
「え? まさか、正解じゃありませんよね」
「正解ではないけど、路線は合ってるよ。ヒゲさんに会ったのは初めてだって言うのによく読めたもんだなあ」
「いえ、単純に冗談のつもりで、聴かないだろうなって思えたアイドル系の」
「それがさ、ボクがココに初めて入ったときは、『ラプソディ・イン・ブルー』に呼ばれたようなものだったけれども、前回聴こえてきた曲は……驚くなよ」
「あ、はい」
先輩がホラーでも話されるかのような口ぶりでいらしたので、オカルト系が苦手な私はちょっぴり身構えてしまいました。
「『年下の男の子』、キャンディーズだ、しかもドーナツ盤で。そして選曲はヒゲさんだぞ、お客さんいなかったんだぞ」
私は両手で口元を押さえました。
あまりにも意外な選曲と土井先輩のご様子が相乗効果となって、声を上げて笑いそうになったのです。
「タマキ、別に笑ってもいいと思うけど」
「いえ、その……ふふ」
「なんか苦しそうだけどな、ずいぶん震えが来てるみたいだし」
先輩のおっしゃるとおり、お腹が痛くなるほどでしたが、私はどうにかこらえました。
「まあ、キャンディーズって、よく聴いてみると編曲がカッコよかったりするから侮れないけどさ。70年代ソウルの影響と言うか、案外泥臭いと言うか」
私は土井先輩がキャンディーズをよく聴いてみたことがあるのだと知って、またおかしくなってきました。
「だからヒゲさんは割と濃いめの曲が好みなんだと思って……って、あれ? ボクはヘンなこと言ってないつもりなんだけど」
「先輩は……ふ、ふふ」
「いやだからさ、笑っていいと思うけど」
私が笑いをこらえていると、ヒゲさんがこちらにいらっしゃるのが土井先輩の姿越しに見えました。
「失礼します。お水、いかがですか?」
「ありがとうございます、ヒゲさん」
先輩はそうおっしゃると私の分のグラスも一緒に並べてくださり、ヒゲさんからお水を注いでいただきました。
「土井くん、しばらくだね。滅多に来てくれないから忘れそうな気もするけど、土井くんみたいな人が他にいないもんだからなかなか僕も忘れないね」
「なんですか、その言い方は……まあ、ボクもココが好きなのでもっと来たい気持ちはあるんですけど、いろいろ問題があって」
「来てくれたときは僕、ずいぶん特別サーヴィスしてると思うんだけど、まだ不満?」
「いやいやそうじゃないですよ、とても嬉しく思ってますから」
おふたりの様子を見てるうちに、私はおかしいような楽しいようなうきうきした気持ちになってにこにこしていました。
「そうだ土井くん、初めて連れてきてくれたそちらの魅力的な女性、きちんと紹介してほしいな」
「え?」
私はどぎまぎしてしまいました。
「ああ、ごめんなさい。こちらはタマキさんです」
「あ、はい。タマキと言います」
私は土井先輩の言葉に続いて、座ったままでしたがヒゲさんに頭を下げました。
「どうもあらためまして。ボクはヒゲと言います」
「え?」
自己紹介で「あだ名」や「愛称」を名乗られるのは、私には不思議なことに思えました。
「あれ? どうかしたかタマキ。ヒゲさんのお辞儀が不気味だったとか?」
「土井くんはひどいね、カノジョの前だからかな」
「いえいえ、そんなこと言うとタマキに怒られますよ」
「違うの?」
「タマキは後輩……ボクの大切な後輩ですから」
「大切な、後輩。いいねえ、ジンと来るなあ、学生って感じで」
ヒゲさんは腕を組んでにこにこされていました。
私も……土井先輩が「大切な」とおっしゃってくれたので、とてもにこにこしていたと思います。
「タマキさんは、ファースト・ネームですか?」
「あ、はい。そうなんです」
突然感動的なことを言われた私は、にこにこしたまま真っ赤になってしまったかもしれません。
「よかった、間違わなくて。タマキさんだと、苗字か名前か分からないっていう人がいそうだから」
私は今度はフフッと声を出して笑ってしまいました。
「笑いすぎだろ、タマキ」
「おや? もしかして、そういう人が本当に実在したの、土井くん?」
「まあ、そういうことです」
先輩はうしろを向かれて「チェッ」とひとこと……たまにお見受けする仕草です。
「僕は『ヒゲさん』て呼んでいただいてますけど、タマキさんがさっきなんとなくびっくりしていたのは、僕のことでしょう?」
「あ、すみません、そのとおりです」
「おやおや、そんな恐縮してもらうことはないんです。いちおう説明すると、僕は苗字が『ヒゲ』なんですよ」
「え?」
「ほとんどの人は、僕がヒゲを生やしているからあだ名だと思っているみたいなんですが……まあ実際、あだ名でいいと思っているのですが、本名が『ヒゲ』、太陽の『陽』に上下の『下』で、『ヒゲ』なんです」
「そうだったんですか!」
「はい」
「正直なところ、驚いてます」
「タマキが驚くのも仕方ないよ。ボクもそのことを聞いたときは驚いた」
「うん、そうなんだよねえ。みんな驚いてくれて、僕はしてやったりと感じてるんですけどね」
はっはっはというヒゲさんの笑い声が聞こえました。
土井先輩がヒゲさんのお店に来たくなってしまわれる理由がよく分かると思いました。




