⑦ George Gershwin (2)
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手に入れたばかりの『サムシン・エルス』を聴きながら、私は自分がジョージ・ガーシュウィンの名前を知っていたのは何故なのか考えていました。
作曲家だということはまったく疑うことのない知識となっていましたから、私はこれまでに聴いてきたレコードのクレジットや解説から知ることになったのだろうと推測しました。
そこで、キャノンボール・アダレイのアルト・サックスに従うように自分のささやかなライブラリをチェックしていき、気になったものはその情報を確認することにしました。
日本のアーティストはあとに回し、私は洋楽ロック系のディスクから手を伸ばしました。
まず確認することになったのは、ジャニス・ジョプリンの『グレイテスト・ヒッツ』でした。
2曲目の「Summertime(サマータイム)」、これがガーシュウィンの作品です。
いつだったか「ガーシュウィンの作品中最も有名なのは『サマータイム』である」という内容の文章を雑誌で読んで、この曲名が印象に残ったのだと思います。
私が出会ったいちばん初めのガーシュウィン作品が、たぶんこれかもしれません。
ジャニスの次に手を止めたのは、ロックではなくジャズでした。
土井先輩に貸していただいたのち、自分で購入したディスクの1枚、『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』。
このアルバムの最後の曲、「'S Wonderful(ス・ワンダフル)」がガーシュウィンの作品でした。
ジャズ入門として土井先輩が用意してくださった5枚のうちの1枚……アーティストについての知識も何もなく、かっこいいなあと思いながら酔ったみたいに聴きほれていた頃。
曲を作った人について関心が行くことなどまるでなく、入門して半年以上が過ぎてようやく目に入ってきたということでした。
そして、ヘレン・メリルの次に手を止めたもの。
実は入門以前に1枚だけ聴いていたジャズのCDがあります。
それがこのディスク、『バド・パウエルの芸術』です。
私は『サムシン・エルス』を一旦止めて、ディスクを入れ替えて再生しました。
バド・パウエルのピアノが奏で始めたメロディー、それは土井先輩に教えていただいた初めての曲、「I'll Remember April(4月の思い出)」。
この曲が先頭に置かれたものすごく大切なアルバム。
土井先輩に仲よくしていただけるきっかけを作ってくれたアルバムです。
初めて聴いたのは図書館で借りたCDでしたが、こうして聴いているのは図書館のCDを返却するより先に急いで購入したものです。
全部で16曲収録されているうち、バド・パウエル本人の作品が2曲あります。
自分の曲を多く入れるのは普通のことだと思いますが、より多い3曲が同じコンビによる作品でした。
このコンビが、ジョージ・ガーシュウィン(作曲)、ジョージの実の兄であるアイラ・ガーシュウィン(作詞)なのだと、CDの解説から分かりました。
なおその他の11曲は別々の作者のものです。
3曲もガーシュウィンという人の作品が入っているなんて、バド・パウエルはガーシュウィンが好きで、ガーシュウィンはきっとすごい作曲家なのだろうな……。
そう思ったのが、私がガーシュウィンを意識することになったとば口だったと、これでやっと自覚できました。
3曲とは「Somebody Loves Me(誰かが私を愛している)」、「Nice Work If You Can Get It(うまくやれたなら)」、そして「Embraceable You(エンブレイサブル・ユー)」……どれも私の好きな曲になっています。
私が知ることになったジャズの世界における偉大な作曲家、ジョージ・ガーシュウィン。
そのガーシュウィンがクラシックの世界でも!
認識を新たにしたことで、ガーシュウィン作品集の必聴度は私の中でぐんと急上昇していくばかりでした。
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「前回は休講にしてしまい申し訳ありませんでした」
12月の最初の講義は唐突に先生のお詫びから始まり、残念な話を聞くことになってしまいました。
「なるべく駆け足で西洋音楽のおおまかな流れを大作曲家の作品を聴きながら見てきましたが、それでもやはり現代に至るまでは行けそうにありません」
限られた時間ですからある意味当然のことだとは思いましたが、残念であることは否定できません。
もし来年度も「西洋音楽史」があって、今年度の続きをやってくださったなら。
そう思ってしまうのも、私にとっては当然のことになりました。
「せっかくここまでの流れを見てきたわけですから、興味をお持ちのみなさんがこれからも自分で勉強していけるように、ひとつ、と言っても3冊組ですが、本を紹介します」
先生はそうおっしゃると、ホワイト・ボードに本のタイトルを書いてくださいました。
志鳥栄八郎編著『新編 大作曲家の作品とレコード(上・中・下)』(音楽之友社)。
どんな内容なのか気になるタイトルとヴォリュームです。
「この本の素晴らしいところは主要な作曲家の伝記が読めて、代表的な作品が紹介されている上に、その曲の名演奏のレコードも教えてくれるという大変親切な作りになっているところです」
そんな都合のいい本があるなんて。
私は嬉しくなってしまいました。
残念な話は帳消しです。
「自分がもっと若かった頃にこういう本があったらよかったのになあと心から思いますので、個人的に強くお勧めします」
すごいですよね。
と言いかけて、私は自分の隣に誰もいないことを目の当たりにしていました。
── ふうん、いいじゃない!
佐野先輩が今ここにいてくださったらそんなふうにおっしゃるかもしれない。
私はそう思いました。
最前列、右隅の席はこの日はふさがっていました。
土井先輩の姿を見ることができたのはどれだけ久しぶりのことだろう。
私はそう思いました。
「ハード・カヴァーのしっかりした作りで、文字は2段組になっています。いささか古くなりましたし、安い本とは言えませんが、クラシック音楽に親しんでいく上では座右の書になりうる素晴らしい本です」
先生は本の内容について説明を続けてくださいました。
難しい内容ではなく、親しみやすい文章で作曲家の人となりにふれている。
レコードは現時点で手に入りやすく、鑑賞することが容易と思われるものが中心に紹介されている。
「別に私は回しものではありませんよ」
先生の冗談に控えめのどよめきが起こりました。
そこには私のくすくす笑いも含まれていました。
続いて先生は、いつも重そうにして持ってこられている大きなバッグから水色の表紙の本を取り出されました。
「これは下巻で、基本的に今世紀……20世紀に活躍した、または活躍中の作曲家28人がまとまっています」
今世紀の大作曲家が28人もいることに私は驚きましたが、そこにガーシュウィンも含まれているかどうか、今の私の関心はその点にありました。
「このところブームになっているマーラーも採り上げられています」
先生は水色の表紙を開いて目次を確認されているようでした。
「うん、トップ・バッターがマーラーです。惜しいことに、同じくブームになっているサティはベンチ入りしていませんが」
どよめきはなく、講堂はしんとしていました。
先生は土井先輩の得意とされている表情のようになってしまわれました。
「しんがりには世界的指揮者としても知られている、レナード・バーンスタインが名を連ねています」
バーンスタインという名前は知っていると思いました。
「ご存知の人もいると思いますが、彼は多芸多才な音楽家です。ピアニストでもあり、作曲家としても超一流です。『ウエストサイド・ストーリー』なら、みなさんも耳にしたことがあるのではないでしょうか」
先生が「ウエストサイド・ストーリー」を挙げてくださいましたので、私は思い当たることができました。
以前、映画をテレビで見たのです。
劇中に登場する1曲、「トゥナイト」が印象に残り、どんな人が作ったのか気になった私は図書館で調べたことがありました。
小学生のときのことです。
「バーンスタインの作品は交響曲もありますし、室内楽や声楽曲もあります。『ウエストサイド・ストーリー』のようなミュージカルや映画音楽、そこからジャズ・スタンダードになった曲もあります」
私は先生の言葉に惹きつけられました。
「ジャンルという言葉が音楽にも使われることがありますが、バーンスタインはその垣根を越えた多彩な活動をしている、他ならぬ『音楽家』ですね」
ガーシュウィンにプレヴィン、そしてバーンスタイン。
3人の名前が私の中で並びました。
「日本を代表するマエストロ、小澤征爾さんの師匠のひとりでもあります」
へえ、という声が数カ所から聞こえました。
私は小澤さんのことをよく知りませんので声は出ませんでした。
土井先輩はきっとうなずかれることがあっても、声を出されることはないだろうな。
私はそう思いました。
「今日はまずベンチに入れなかった作曲家の作品を聴いてみましょう」
先生が早業でセッティングされたCDコンポから、非常にゆっくりしたテンポでピアノの音が流れ出しました。
先生はホワイト・ボードに曲名を書かれていました。
ベンチに入れなかったのはエリック・サティ、なんとなく聴いたことがあるような曲は「Trois Gymnopédies(3つのジムノペディ)」から、その第1番でした。
演奏は「高橋アキ(ピアノ)」、先生はそう書かれました。
日本の人による演奏が採り上げられて、私はなんだか嬉しくなりました。
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「短時間でしたら、この本をここで見てもらってかまいません」
講義の終了間際に先生がおっしゃいました。
「先日確認したら、この学校の図書館にもひと組所蔵されていましたので……」
学校の図書館にあるなんて、とても耳寄りな情報を講義の終わりに知ることができました。
曲の終わりまで非常にゆっくりしたテンポであるサティの「ジムノペディ第1番」を聴いたにも関わらず、私の気持ちは落ち着かずにちょっとした興奮を感じていました。
私は先生の周りに集まった人たちの輪に加わることなく、土井先輩に話をうかがいたいと思っていました。
本は学校にもあるということですし、街の図書館に……ないとしても別の図書館から取り寄せてもらうことができます。
ところが、土井先輩の話を今からすぐにうかがうことは、それよりもずっと難易度が高いことだと思うのです。
けれど、そう思ってはみたものの、土井先輩の姿はとうに見えなくなっていました。
私よりも遥かに速い足取りで、既に講堂から遠くを歩いていらっしゃるかもしれません。
追いかけてみても、追いつけるかどうか分かりませんし、私が追いかけているつもりでも先輩は全然違う場所にいらっしゃるかもしれません。
これは過去の経験から学んだことでした。
今日のところは諦めることにして、ごく普通のペースで講堂を出ると、私は自分の目を一瞬疑ってしまいました。
すぐに駆け出すなら追いつけそうなところに、土井先輩の姿を認めたからでした。




