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先輩と私と先輩と(ジャズとクラシック)  作者: カワヤマソラヒト
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① Miles Davis & Franz Joseph Haydn

 講義が始まる前の講堂で、私は先ほど土井先輩に貸していただいたCDを見ていました。


    *      *      *


 4日前、私はやっと行き会えた土井先輩に意を決してこう言いました。


「先輩お薦めのCDを、2~3枚貸していただけませんか?」


 私は、土井先輩がとても音楽好きでいらっしゃると知って以来のお願いを、勇気を出して言葉にしたのです。


「ボクのお薦め、でいいの?」


 土井先輩は意外に感じておられるようでした。


「ジャズなら名盤と言われているものがどっさりあるし、レコードガイドもいいものがたくさんあるのに」

「先輩にお願いすれば、必要なときに解説つきですぐ教えていただけると思いますので」


 私は図々しいお願いだと自覚していましたから、先輩に冗談だと思われてもかまわない。

 そのつもりで答えました。

 なのに、土井先輩は少し嬉しそうにされていました。


「そこまで言われちゃうと、仕方ないか。分かった。ちょっと時間をくれよ。見繕って、持ってくる。そうだな、場所が不穏だけど研究室前とか、学食とか、まあどこかで会ったときに渡すよ」

「ありがとうございます」


 私は思わず土井先輩に頭を下げていました。

 はっとして土井先輩の顔を見上げると、先輩は苦笑いをされていました。


    *      *      *


 4日後の「西洋音楽史」、つまり今日この講堂でですが、土井先輩がこちらまで来てくださいました。


「あれ、タマキ?」

「おはようございます、先輩」

「この講義受けてたの? 知らなかった」

「土井先輩は周りにまったく無関心だからです。私、1回も休まずに出てますよ。うちの学科からは先輩と私だけみたいですけど」

「そうか。確かにボクは周りなんて見てないし、誰がいるか気にしたことはなかったな」


 先輩は私の言葉に納得してくださったようでした。


「タマキはいつもこの辺にいるの?」

「そうですね。講堂の、ほぼ真ん中です」

「何か理由がある?」

「だって、いちおう鑑賞もあるんですよ」

「うん」

「でしたら、中央で聴くのがいちばん音響的にいいと思いませんか?」

「へえ、こだわりがあるんだ」

「いちおう、ですよ」

「先生が持ってくるあんな小さなCDコンポでも、違うもんかな。高そうだから、音割れはしないみたいだけど」

「少なくとも、先輩がいらっしゃる席よりはずっとましだと思います」

「そりゃそうだ。って、ボクがどこにいるのか分かってんのか」

「はい。最前列の、右隅ですよね」

「よもやばれているとは……」

「先輩、目立っていらっしゃいますから」

「嘘っ?!」

「嘘じゃありませんよ。最前列ならうしろから丸見えですし、私、土井先輩ならすぐ分かりますから」

「そうだったのか……油断してたな、タマキがいるなんて」

「先輩は私のことなんか、ちっとも興味がないんですよね」

「そんなことないよ。タマキに頼まれたことはちゃんとやってるんだし」


 土井先輩はそうおっしゃって、いつも肩から提げられている黒のバッグ(大きな袋と言ったほうがいいかもしれません)から、何かを取り出されました。


「ほら、頼まれてたヤツ、持ってきたんだ。今渡しても問題ないかな?」

「あ、はい……」


 私は驚いてしまいました。

 土井先輩には失礼ですが、こんなに早く貸していただけるとは思っていなかったからです。


「2~3枚って言われてたけど、そんな枚数では足りなすぎだから、とりあえず2+3で5枚持ってきた」


 土井先輩はにこにこしながら、私にタワー・レコードの袋に入れたCDを渡してくださいました。


「5枚だけ選ぶのにかなり苦労した。泣く泣く落としたディスクが山になってるよ」

「なんだかすみません」

「いいさ、全然気にするなよ。タマキの頼みだし、これでタマキがジャズにはまってくれれば、ボクは身近に音楽仲間ができて嬉しいんだから」

「そう、ですか」


 あの土井先輩がこれほど嬉しそうにされて、しかも熱心に答えてくださったので、私も嬉しくなってきました。


「ありがとうございます。私、一生懸命聴いてみます」

「おい、それは違うぞ。リラックスして聴くように。のんびり楽しめばいいんだから」

「あ、はい、そうですね」

「ボクが初心者向きだと思った5枚なんだ」


 土井先輩はそうおっしゃいました。

 私は音楽好きなので前からジャズに興味は持っていたのですが、知識はゼロで、どこから聴き始めたものか分からず、これまできちんと聴いたことがないままでした。

 どんな素敵な音楽が流れてくるんだろう。

 私には土井先輩が貸してくださったCDがなんだかとてもきらきらしているように見えました。


「さっきも言ったけど、この5枚はただの入口で、聴いてほしいものはまだまだたくさんあるんだ」


 土井先輩の言葉は決して揺らぐことのない真理のように聞こえました。


「だから、タマキが今回のディスクを聴いていいなと思ったら、ボクに言って。また違うのを貸してもいいし、次に聴いてほしいディスクのお薦めリストでも作っておくから」

「それは本当ですか! とても嬉しいです。先輩がそこまでおっしゃってくださるなんて、私、きっと気に入ると思います」


 私はとても感激して言いました。


「よし、じゃあリストだけでも作っておくかな。5枚選ぶときに書き出しておいたメモが残っているし……そうだな、20枚ぐらいピック・アップしてみるか」

「よろしくお願いします」


 私はまた頭を下げてしまいました。

 土井先輩はちらっと苦笑いされてから、最前列の右隅へ行ってしまわれました。

 毎回そこにいらっしゃるので、すっかり指定席です。

 先輩の周り、10mくらいかと思いますが、どなたも座りませんので、やっぱり土井先輩は目立っていらっしゃると思います。


    *      *      *


 土井先輩が貸してくださったのはこの5枚でした。

 アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン』。

 ビル・エヴァンズ・トリオ『ポートレイト・イン・ジャズ』。

 ジョン・コルトレーン『バラード』。

 マイルズ・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』。

 ヘレン・メリル『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』。

 LPジャケットよりも小さなCDサイズとはいえ、ジャケット写真のどれもがクールでかっこよく、それだけでも大人の音楽という気がしました。


      *


 後日分かったことですが、この5枚はどれもがすごく有名で「超名盤」と呼ばれているものでした。

 土井先輩曰く「一家に一枚」なのです。


    *      *      *


「あら、あなたジャズが好きなの?」


 突然声をかけられました。

 いつもエスニックふうの服装をしていらっしゃる女性のかたです。

 今日もアジアっぽい服装をされています。

 私はお名前を知りませんでしたが、土井先輩とは別の意味で、いいえ、本当の意味でとても目立っていらっしゃいました。

 なので、面と向かうことは今までありませんでしたが、個性的な人がいるのだとは知っていたのです。


「『カインド・オブ・ブルー』、私も大好きなんだ。演奏もとってもカッコいいんだけど、ジャケ写もめちゃくちゃカッコいいよね」


 その方は「見せてもらっていい?」と他の4枚もご覧になって、「なかなかハイ・センスだね」とおっしゃいました。


「『カインド・オブ・ブルー』以外はけっこう初心者向きって気もするけど、もしかして、ジャズ入門って感じなの?」

「あ、はい。そうなんです」

「そっか。あ、ゴメン、なれなれしく話しかけちゃって。あなたのほうが私より断然若いなあと思って。私は2年なんだけど、あなたは?」

「1年です」

「だったらよかったのかな。私、けっこう砕けたしゃべりかただから、失礼だったらゴメンね」

「そんなこと、ないですよ」

「にしても、タワーの袋があるということは、誰か友だちにジャズ好きな人がいて、貸してもらったとか?」

「はい。友だちではなく先輩なんですけど……」

「ふうん、なんかいい先輩みたい。きっとオシャレでカッコいい人なんじゃない?」

「うーん、それはどうでしょうか」


 私はつい本音を漏らしてしまいました。


「外見からでは分かりにくいかもしれません。実は」


 私は、最前列の右隅に座っている人がその先輩です、と正直にお知らせしました。


「ええっ! あの闇の世界にいるように見える男が?」


 エスニックふうの服装をした2年の先輩は、これ以上ない驚きを感じていらっしゃるようでした。


「やっぱり、世界は不思議で満ちているのね」


 私はつい笑ってしまいました。

 でも、先ほど聞こえた「闇の世界にいるように見える男」という言葉がすごく引っかかっていました。

 4月に研究室の先輩方からうかがった、土井先輩についての言葉を思い出したからでした。


「あんな怪しげな、ダーク・サイドに落ちたように見える男が、ねえ」


 2年の先輩は首を左右に傾げておられました。


「う~ん……あれでも去年よりはマシになったっていうのかしら」


 先輩はそう小さく声に出されて何ごとか考えていらっしゃるようでしたが、突然はっきりとこうおっしゃいました。


「あ、そうだ。これからあの男のことは『堕落先輩』と呼ぶといいわ。本名よりもそのほうが楽しいし、あだ名にしておけば本人の前でもとぼけられるし。ね、そうしよ」

「はあ……」


 こうして土井先輩に「堕落先輩」というあだ名が生まれました。

 私は土井先輩の苦笑いが見えるような気がしていました。


「それでさ、堕落先輩って、どんな人なの? あなたならよく知ってるんじゃない?」

「あ、私、タマキと言います」

「分かった。タマキちゃん、だね」


 エスニックふうの服装をした2年の先輩はそうおっしゃると、何かを思い出したかのように姿勢を正されました。


「……っといけない、私も自己紹介しなくちゃ」


 2年の先輩はにっこりされたあと、こう続けてくださいました。


「私は佐野って言うの。佐野ゆき。よろしくね、タマキちゃん」


 つい先ほど初めて言葉を交わしたばかりなのに、気さくに接してくださっている……私は佐野先輩と仲よくなりたいと思いました。


「じゃあタマキちゃんは、堕落先輩をどう思う?」

「そうですねえ……」


 私は「堕落先輩」というあだ名をすっかり受け入れていました。

 佐野先輩に悪気はないのだと感じられたからです。

 私が思いを巡らせているうちに講師の先生がお見えになりました。

 私たちは話すのをやめました。


「残念。続きはまたあとだね」

「はい」


 私は佐野先輩へ笑顔で答えていました。


      *      *      *


── この講義では基本的に年代順に採り上げていきます。

── どの作曲家も1回だけではほんのさわりしか分からないと思いますが、とにかくたくさんの作曲家を紹介したいと考えています。


 先生は初回の講義でこのようにおっしゃっていました。

 そして、前回までにヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルと採り上げられてきました。


      *      *      *


 この日採り上げられたのはハイドンでした。

 ハイドンは「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」とも呼ばれているそうです。

 そのことにちなんで、『交響曲第94番“驚愕”』、『100番“軍隊”』、『101番“時計”』から、それぞれ有名な第2楽章を、『弦楽四重奏曲第67番“ひばり”』から第1楽章をダイジェストで聴きました。

 次回はモーツァルトを採り上げるとのことでした。


「ハイドンは聴いたことなかったなあ」


 講義終了後、私の隣の席にいらした佐野先輩のつぶやき声が聞こえました。

 先輩はご自分のショルダー・バッグから出された手帳のページをめくられていました。

 すると今度は「あら」という先輩の小さな声が聞こえました。


「タマキちゃんゴメン。今日は私、このあとヤボ用があるから、また来週でいいかな?」

「はい、もちろんです」

「じゃあまた来週、この席で」

「分かりました」


 以来、私と佐野先輩は、講堂の中央に並んで座るようになりました。


    *      *      *


 何日かあと、研究室の前で「堕落先輩」こと土井先輩と行き会いました。

 もちろん、私は土井先輩が堕落しているなんて思っていません。


「お、タマキ、ちょうどよかった」


 声のほうに目を向けると、土井先輩の顔が見つかりました。

 階段を上がりきることはされず、顔だけで覗き込むように辺りを見渡されてから、先輩はやっと普通に階段を上がりきってこちらへ来てくださいました。

 そんな先輩の様子がおかしかったので、私は訊いてみることにしました。


「土井先輩はやっぱり研究室がお嫌いなんですか?」

「嫌いと言うよりも、向いてないと言うか……そうだな、苦手なんだ」


 先輩は苦笑いを浮かべていらっしゃいました。


「とにかく、いてくれてホントによかった。頑張って来てみたかいがあったよ」


 先輩はレポート用紙を1枚、私へ差し出してくださいました。


「これ、例のリスト。ボクの汚い字じゃ読めないかもしれないけど」

「ありがとうございます。またこんなに早く」


 私はわくわくしながら、受け取ったレポート用紙を念のために拝見しました。

 字は書いた人を表すと聞いたことがあります。

 私の目には流れるように書かれた細かな文字が几帳面に並んで見えていました。

 初めて見ることになった先輩の字からは、私が間違っていないことを示していると感じました。


「大丈夫です、充分読めます。汚くなんてありません」

「それならよかった」


 先輩は安心されたようでした。


「20枚って言ったけど、まだ泣く泣く落としたのがけっこうあるよ」


 土井先輩は笑顔でそうおっしゃいました。


「この前の5枚、聴いた?」

「はい」

「どうだった?」

「どれもとてもよかったです。さすがです、先輩」

「ボクは勉強は教えられないけど、こういうことなら答えられると思うから、じゃんじゃん訊いて」

「ありがとうございます」

「いいんだ。ボクも楽しいし、タマキのためだし」

「そんな……」

「ボクのかわいい後輩だからさ」


 茶化すようにおっしゃると、土井先輩は急に「限界だ」と言い残されて、慌てたご様子で階段を駆け降りていってしまわれました。

 私が呆気にとられていると、先輩の靴音が聞こえているうちに研究室のドアが開き、助手のAさんが出てこられました。

 挨拶のあと、Aさんは掲示板から古い掲示を剥がされ、新しいものを一枚貼られると研究室へ戻っていかれました。

 土井先輩の靴音はもう聞こえませんでした。

 私が「かわいい後輩」だなんて、冗談だと分かっていました。

 冗談好きな先輩なのです。

 それでも、私はちょっと嬉しかったのです。

 土井先輩には内緒ですけど。


      *


 ひとりで正門を出た私は、いつものように左に曲がって下りの駅へ向かいかけましたが、ふと思いついて回れ右をすると、上りの駅の方へと歩き出しました。

 学校から上りの駅まで行くのには商店街を抜けると早いのですが、私はその商店街にある昔ながらの町のレコード屋さんに寄ってみることにしたのです。

 開放的な店構えのお店に入ると、土井先輩にいただいたリストを取り出して、私はジャズのコーナーを見てみました。

 決して品揃えが豊富とは言えませんでしたが、それでも2枚のディスクを見つけることができました。

 エラ・フィッツジェラルドとジョー・パスのデュオ『スピーク・ラヴ』。

 ジョン・コルトレーンとジョニー・ハートマンが組んだ、『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』。

 この2枚です。

 どちらもヴォーカル・アルバムでした。

 ヴォーカルが入っているのは、初心者の私にはよかったかもしれません。

 最初に土井先輩にお借りした5枚にあったヘレン・メリルのアルバムと同様に、慣れ親しんできたポップスには普通ヴォーカルが入っていますから、その延長ですんなり聴くことができると思いました。

 私はこの2枚を思い切って買うと、どきどきしながら帰りました。

 早く聴きたいな。

 そう思いながら下りの電車に乗って。

 こんなことはずいぶん久しぶりでした。


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