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毒とチョコレート

空と海が、競うようにかがやく昼下がりだった。

風はするすると流れ、波は砂浜をかけては、白い泡をたくさん作って、よろこんでいた。

そうして沖のほうへ、はしゃいで、笑って、去っていくのだ。

 波が作った泡の中には、小さな家があった。屋根が白く、壁はボロボロで、窓は枠がゆがんでいるせいで、つねに開いたままだった。

家には浅黒い肌をした青年がすんでいた。家をたずねてくる者がいないので、青年はめったに口を開かなかった。

ただ、目だけがとてもおしゃべりで、青年の目を見た魚は、なんとなくウキウキした気持ちになって、海を泳ぐのだった。

 ある日、青年が斧でサンゴのカケラをわっていると、女が砂浜にやってきた。

 青年よりずっと大きい人だった。黒い髪を長くのばし、ひとみの色はカラメルをこがしたような茶色をしていた。

 女は歩みを止めた。立ちのぼる入道雲をぼんやりとながたあと、青年の家に目をやり、にっこりと笑った。

「こんにちは」

 青年はびっくりした。

「私に話しかけているのですか?」

 数年ぶりに口を開くと、女は「もちろんです」とうなずいた。

「とても目が良いのですね」

 青年がすなおな感想を言うと、女は「あら、ありがとう」と頭を下げた。

「ふふふ」と笑って、また空をながめた。

男もつられて空をあおいだ。

そのまま一年の時が流れた。

男はようやく「どうしてここにいらっしゃるのですか?」と女にたずねた。

「探し物をしているの。でも困ったことに、なにを探していたか忘れてしまって……。おまけに帰る場所も、こうやって歩いているうちに、忘れてしまったのよ」

「それはお気の毒に」

 青年は心から同情した。女はさみしげに笑うと、おどるように足を動かし、海岸線を歩いて行ってしまった。

 青年は女の背中を見送ると、家に入った。

戸棚から皿とフォークをとり出し、テーブルにならべた。湯をわかして、紅茶を入れた。皿にチーズケーキをのせて、一息つこうとしたのだが、フォークがどうにもうまくあつかえない。

さっきの女のほほ笑みが、脳裏に焼きついて、はなれないでいた。

太陽の光が海に飛びこんできた時のあの瞬間に、似ている。水面に輝くきらめきのように、ふたりで過ごした時間がまぶしいものに思えた。

チーズケーキは半分ものどを通らなかった。



その夜。青年に食べ残されたチーズケーキは深く考えをめぐらせていた。

まず自分がどうして一年もほったらかしにされたのに、カビを生やすことなく、皿に乗れたのか。その理由を考えた。

これは案外、カンタンに答えが出せた。

青年と女性がいっしょにいたあのひと時に。見とれていたせいだ。時間が止まったように動かないものだから、こちらの時間まで止まってしまったらしい。

チーズケーキは、自分の導いた答えに満足した。

けれど、二つ目の疑問がどうしても解けない。

チーズケーキは「なあ、君」とフォークに話しかけた。

 フォークはそっけなく「なんだい?」と口を開いた。

「彼はどうしてぼくを半分も食べなかったのだろう?」

「あれは恋わずらいさ。ずっと見ていただろう? 女性といっしょにいたじゃないか。きっと食事ものどを通らないのだろうね。文字通り」

「恋だって?」

 チーズケーキはびっくりして、すっとんきょんな声をあげた。

「はあー。へえー。彼がねぇ」

「まあ、実りはしないね」とフォークは言った。

「冷たいな。応援すればいいのに。何年も彼のフォークをやっているよしみじゃないか」

「もちろん応援はするとも。でもね。あいつはしゃべらない男だ。ほめ言葉も甘いささやきも言えるもんかね」

「それは、そうかもしれないけど」

「だろう?」

「なんとかならないのかい?」

 チーズケーキは悲しそうに言う。

 フォークはなぐさめるように、「わたしも気持ちはいっしょさ」とつぶやいた。

「だがしょせんただのフォークと、君はチーズケーキだもの。自分の力で動けもしない。君も彼に食べられないなら、カビが生えて、固くなることしかできないよ」

 チーズケーキは口を閉じた。自分の酸味がさらに強くなるくらい、考えこんでいるようだった。

 フォークはゴミになるチーズケーキをさみしげにながめ「さようなら」と別れのあいさつをした。


 ***


 チーズケーキが食べ残されたあの日から、一万年の年月がながれた。

とある日本の川原で、彩佳はふうふうと息を切らして歩いていた。

肌にぬった日焼け止めクリームは、汗ですっかり流れ落ちてしまった。帽子の中もベチャベチャになっている。水筒のお茶ももうすぐなくなる。

そうしたら、一度家に帰らなければならない。

彩佳は時々、足元に転がる小石をしげしげとながめては、歩いて行った。日ざしはカンカンと彩佳を照りつける。肌がしびれるような暑さだった。

 彩佳は水筒のお茶でのどをうるおすと、あたりを見まわし、パッと顔をかがやかせた。飛びつくようにひとつの小石を拾う。彩佳はかくばったその黒い小石を手の平で転がすと、「これがいいわ!」と大きな声で言った。

 小石をしっかりとにぎりしめ、彩佳はごつごつした地面に足をとられながら、家に向かって走り出した。

平らな地面に足をつけると、彩佳は心臓をあらっぽく動かした。地面をけって、けって、ぐんぐんとスピードをあげた。

 家に入ると、彩佳は自分の部屋にこもった。家の中にはだれもいない。お母さんもお父さんもでかけていた。おかげで部屋中が、放映前の映画館のように、シンと静まり返っていた。

彩佳は息を整えるよりも先に、ランドセルからノートをとり出し、ページの角っこを手でちぎった。歯の裏にくちびるを巻きこみながら、筆箱からサインペンをつまみあげ、ノートの切れはしに「加山 愛里」と名前を書く。

 友達の名前だ。

「加山 愛里」のうえに、川原の小石を重く置く。石に両手を重ねて、体重をぎゅっとかけた。

 小学校で流行っているおまじないのひとつだった。

 紙に恋のライバルの名前を書いて、石を置けば、ライバルは金しばりにあったように動けなくなるそうだ。

ライバルは好きな男の子に、近づけない。声もかけられない。告白なんてもってのほか。絶対に、ありえない。

 彩佳は重ねた手をジッと見て、もう一度、石を押した。


  ***


 夜になった。小石は長いため息をつきながら、おしりをこっそりもぞつかせた。

自分の下にある紙がツルツルして、座りにくかった。

これは何だろうと思っていると、机のはしに転がった消しカスが、「小石さん、こんばんは」とあいさつをした。

「小石とは、ぼくのことかい?」

 小石はおどろいて言った。

消しカスは消えてしまいそうな小さな声で「はい」と返事をした。

「わたしには、そう見えるのですが……、あの、物ちがいだったでしょうか?」

「ぼくはチーズケーキだよ。しかもとびっきり小さなチーズケーキだ」

「それは大変失礼しました」

 消しカスはすっかり縮こまって、ぺこりと頭を下げた。チーズケーキは憂うつそうに笑った。

「別に気にしないでおくれ」と言う。

「自分の姿を長いこと見ていないものだから、おどろいただけさ。きっとひどいありさまなんだろう。わかっているよ。食べられずに固くなって、おまけに時の流れで砂やチリやごみがこびりついたんだ」

「そうだったんですか」

 消しカスはおどろいたようだった。

 チーズケーキは「君はだれなんだい?」とたずねた。

「今日、生まれたばかりの消しゴムのカスです」

消しカスは答えた。

「『恋』と言う文字を消した時に、生まれました」

「それはめでたい。お誕生日おめでとう」

「ありがとうございます」

消しカスは照れくさそうにお礼を言った。

「でもホントは別の文字を消して、生まれたかったんです」

「それはどうしてだい?」

 チーズケーキは興味津々に聞いた。

「だって『恋』って、みんな好きでしょう。それを消して生まれたものだから、罪悪感があると言うか、肩身がせまいと言うか……」

「べつに君は、『恋』と言う文字を消しただけじゃないか。別に『恋』そのものを消したわけじゃない」

「ええ、まあ。そうなんですけど」

「気に病む必要はないと思うけどね」

「はい」

 消しカスは不安気に返事をする。

「だいじょうぶだよ」

チーズケーキは笑ってやった。

消しカスは「ありがとうございます」とほっとしたようにお礼を言った。

 

 ***


 彩佳は登校するなり、さわがしい教室中に視線を走らせ、黒田くんと愛里の姿を探した。ランドセルを机に置き、教科書やノートのたぐいを机にしまいながら、教室のはじに黒田くんを見つける。

黒田くんは今にも友達と一緒に、グラウンドに飛び出しそうな様子だった。

しわくちゃな笑顔を見せる男の子たちの中で、黒田くんの笑顔は、特別、かっこよく見えてしまう。

目が合わないうちに、彩佳は目をそらした。

ランドセルをロッカーに持っていく間に、愛里を探した。あれ? いない。おかしいと、あせっていると、背中を叩かれた。

うしろに愛里が立っている。癖のない髪をいつもと同じ飾りのついたヘアゴムで止めていた。

にっこり笑って、彩佳に「おはよう」と言ってくれた。だから彩佳も、ちゃんと笑って「おはよう」を返した。

愛里は友達で。一番仲がいい。気が合う。だけど。好きな男の子まで、似なくてもよかったのに。

彩佳は心底、そう思った。



国語、理科、体育、社会、算数……。時間は一分も遅れもせず、早まりもせず、淡々と進んでいく。

愛里は遠巻きに黒田くんをながめていたけれど、それだけで終わった。

彩佳はホッとして、愛里と一緒に下校した。

分かれ道で、いつもどおり「またね」と大きく元気に手をふって、それから家に帰った。

 部屋にもどると、勉強机に置いてある小石は、愛里の名前をしっかり押さえてくれていたようだった。それでチクリと胸が痛んだ。

彩佳は心の中で『別にいいじゃん』と思った。

『ただのおまじないだもの。気休めなんだから』と自分をなぐさめると、今度は漠然とした不安にかられた。

 だって愛里は、ハキハキと物を言う子だから。

 絶対、告白する。

愛里はどう「好きです」と「つき合ってください」という思いを伝えるのだろう。

口で伝えるのだろうか? 手紙? メール? 電話?

タイミングは? あの消えてしまいたいくらい、ピンと張りつめた空気と緊張をどうおさえるのだろう。

鬱々と考えているうちに、彩佳は不安にかられるのがこわくなって、『おまじないをしたもの。愛里は告白なんてしない。だいじょうぶ』と自分をはげました。

そしてまた胸にチクリと痛みが走る。

 明日、学校に行ったら、ちゃんと愛里に「おはよう」とあいさつ、する。愛里はまだ、友達だから。


 ***


黒田くん。好きです。

 心でくり返した彩佳の言葉は、相手には伝わらない。

 胸が苦しい時間は、刻々と積もって、重たくなっていった。


 ***


 チーズケーキは、本棚のてっぺんに紙きれごと追いやられ、日に日にほこりに埋もれていった。チーズケーキはジッとしていた。何も言わなかったし、文句もなかった。

 彩佳がふたたびチーズケーキを見つけたのは、背もうんとのびて、すっかり女性らしくなった頃だ。

 年の瀬の、大掃除をしている最中だった。

来年で高校三年生になる。進学試験が控えている。だから、なんとなく念入りに掃除したほうが、よいことがあるにちがいないと思った。

彩佳は本棚のうえにいるチーズケーキを見つけて「なんだろう?」と首をかしげる仕草をした。

チーズケーキといっしょにほこりと紙きれをつまむと、ふみ台代わりにしていた回転イスから降りた。

黄ばんでざらざらになった紙に「加山 愛里」と書いてある。彩佳はそれを見たとたん、おかしくて笑ってしまった。

小学生の自分が「ただいま!」と息をきらせて、帰って来たようだった。

彩佳はマジマジと、その文字を見返した。笑いじわがまたできる。まなざしは気の強さがにじんでいるが、裏にまわるとやわらかい部分があるようだった。

 チーズケーキは彩佳の笑みを見て、この子に話しかけてみようかしらと、口をまごつかせてから、「こんにちは」とあいさつした。

 彩佳は目を丸くして、部屋中を見まわした。チーズケーキは「君の指先にある小石だよ」と教えてあげた。

「さしつかえなければ、ぼくの頭につもったほこりをとってもらえないかな?」

 彩佳は動かなかった。目を見開いて、チーズケーキを見たあと、「きゃっ」と悲鳴を上げ、チーズケーキをフローリングに落とした。

 チーズケーキはころん、ころんと転がって、ベットのすきまにもぐりこんでしまった。

「おーい。おーい。助けてくれ」

チーズケーキがさけぶ。

彩佳は不可思議な事態に困惑したが、か細い声を聞いているうちに、ひどく悪いことをした気持ちになって、ベットのすきまにうでをさし入れた。



洗面所にチーズケーキを持って行き、水でていねいに洗ってやった。新しいフェイスタオルで水気をふきとると──、手元の小石はやっぱりただの小石に見えた。

彩佳は部屋へもどると、チーズケーキを勉強机にそっと置いた。

するとチーズケーキは、スイッチが入ったように、またしゃべりだした。

「ふう。気持ちがよかった。ありがとう」

 彩佳はチーズケーキを見ながら、おそるおそる会釈した。

「いやね。おどかすつもりはなかったんだよ。実のところ、君にしゃべりかける機会も一生ないと思っていた。でも君の笑顔があまりにステキだったものだから、それを伝えようと思ったんだ」

 彩佳は「どうも」とまた頭を下げた。

 チーズケーキは「ふむ」と思案しているようにうなった。

「君はあまりしゃべるのが好きじゃない?」

 彩佳は「そんなことないけど」と、首をふる。

「ただ、ものすごくおどろいているだけ。だって、しゃべる石なんて、見たことないし」

「ああ、そうか。びっくりさせたんだった」

 チーズケーキは笑った。

「気が動転しているところ悪いけど、ぼくは小石じゃないよ。大昔は小さなチーズケーキだったんだ。それが時間のバカのせいで、このざまだよ。この体だって、砂が体にまとわりついているだけなんだから」

「はあ」

 彩佳はうやむやに言う。やたら古風なしゃべり口調をする小石……、じゃないチーズケーキだ。すこし冗談をまぜても、はめを外すことなく、すぐ型にもどるような具合だ。

チーズケーキは「名前は、彩佳さんでいいのかな」と親し気にたずねた。

「どうして知ってるの?」

 彩佳が目を丸くしてたずねると、チーズケーキはおもしろがって、笑った。

「よく下の階から、名前を呼ばれていたから。彩佳! ごはんよ! 彩佳! お風呂に入りなさい! 彩佳! いつまで寝ているの! って」

 まったく似てはいないが、親の口調をまねている。

「ああ、そうか」

彩佳はみょうに納得してしまった。

 チーズケーキはせき払いをひとつすると、「それで彩佳さん。ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」とたずねた。

 彩佳は「どうぞ」と言う。

「さっきはどうしてその紙を見て笑っていたの?」

「これ?」

 彩佳は紙きれを指さした。

「小学校の時に流行ったおまじないだよ。恋のライバルの名前を紙に書いて、石をのせると、恋が実らなくなるんだって」

「好きな子がいたのかい?」

「うん」

「どんな子?」

「ふつうの子だよ。ただちょっとサッカーがうまかっただけ。それから、いつも楽しそうにしている感じ」

 彩佳は苦笑いした。

「わたしも、この愛里って子もふられたの。彼に彼女がいたんだ」とまた笑う。

「そんなに笑えることなの?」

 チーズケーキは不思議そうにたずねた。

「全っ然。……でもさ。昔の自分って、すごいバカでひどいやつだなーって思うと、なぜか、かわいく思えて笑えてくるの。おまけにライバルといっしょにふられて、ワンワン泣いて、なぐさめ合うの」

 彩佳は紙きれの名前をながめた。

「愛里とは今でも友達なんだ。親友だよ」

 彩佳はすこし考えてから、「なつかしいって感情かな。これ」と言った。

 チーズケーキは「時間が経つと、君みたいに笑えるんだね」としみじみ言った。

「ぼくにはわからないよ」

 チーズケーキはだまりこくってしまった。彩佳は、チーズケーキがしゃべりだすのを待っていたが、その日はとうとう口をきかなかった。



 彩佳はチーズケーキの頭を、毎日ティッシュでふいて、ほこりがかぶらないように気をつけた。時々おはようと声をかけて、水で洗ったりもした。

 冬休みに出されたレポートをこなす合間に、「しゃべる石」についてインターネットで調べても見た。けれど、ピンとくる検索結果は見あたらない。

おもしろ半分に「しゃべるチーズケーキ」と、検索バーに入力したけれど、やっぱり、ダメだった。



 ──年が明けて、一週間が経ったとき。チーズケーキは、本を読んでいた彩佳に、ようやく「ねえ、君。海に連れて行ってくれないかい?」と話しかけた。

 彩佳はさしておどろきはしなかったけれど、あまりに突拍子のない申し出に、ちょっとだけ、ため息をついた。

 今は一月。冬なのだ。


***


 海辺のバス停に降りた彩佳は、コートごしに自分の体を両手で抱き、身ぶるいした。

「真冬の海って、マジありえないんですけど」

マフラーで口もとをかくす。覚悟はしていた。ただ覚悟以上に海辺の町が寒くて、つい愚痴がこぼれてしまった。

「申しわけない。十分注意して。道か凍っているかもしれない。それに風邪を引いては大変だから、ムリはしなくていいのだけど」

 チーズケーキは家を出てから、せわしなく彩佳に声をかけた。

 彩佳は「だいじょうぶよ」と、鳴りだしそうな歯を立てながら言った。ついでに自分が寒がりなのも思い出した。

「バス代払って、ここまできたんだから。二時間かかったのよ。二時間。後に引けないってーの。行くよ。とにかく。さっさと。嫌になる前に」

 後半はかた言の、自分に言い聞かせるようなセリフになった。

 海にむかって歩き、防波堤によじ登ると、見なれぬ冬の海が広がっていた。

夏に泳ぐ海より、ずっとキレイだった。海水はかぎりなく透明に見える。潮風はするどくとがった水晶が、粒てになって飛んでいるようだった。空は色がうすい。すべてのものにえんりょしているようだ。

 彩佳はコートのポケットからチーズケーキをとり出し、海岸を歩いた。雪はつもってないが、砂浜は白く、ひどく足をとられた。

「冬の海って、キレイだね」

 彩佳が言うと、チーズケーキも同意した。

「ぼくはね。南の海にいたんだよ。とても青い、澄んだ海だったけれど、寒い海もいいものだね。りんとしている。ああ、でも、波の音は一緒だ」

チーズケーキは「なつかしいな」とつぶやいた。

「海を見ると、鮮明に思い出す記憶があるんだ。昔の話なんだけれど、話してもかまわない?」

 ていねいな言い方に、彩佳はおかしくて笑った。

「許可なんてとらなくても、勝手に話せばいいのに」

 彩佳は空中で手をすべらせ、話をするようにうながした。チーズケーキは「ありがとう」と礼を言う。

「昔ね。君のような女性が浜辺を歩いていたんだ。何かを探していると言っていた。その女性に、ひとりの男が恋をしたんだ。しばらくいっしょにいたよ。でも男は無口な性格なものだから、女性はそのまま行ってしまった」

「ダメだったんだ」

「たぶんね」

「たぶん?」

「ぼくは男に食べ残されて、すぐに捨てられてしまったんだ。だから話の結末は知らない。ひょっとしたら、彼はあの後、女性を追いかけたのかもしれないし。変わらない生活を送って、死んでしまったのかもしれない」

 彩佳は立ち止まると、大きな流木に腰をおろし、チーズケーキを自分のとなりに下ろしてやった。

「あなたって、いつも何か考えているようだけど、ずっとその男の人のことを考えてるわけ?」

「うん。でも、最近は恋について考えているんだ。昔の詩人みたいに」

 チーズケーキは答えた。

「ふしぎなんだ。恋をした時、あの男は幸せそうで、さみしそうだった。それがとても美しく見えたんだ」

チーズケーキは「でも、それだけじゃない」とうなった。

「数年前にね。彩佳さんの家に『恋』と言う文字を消して生まれたと、落ちこんでいる消しカスがいたんだ。恋はステキだからと。……でも、ぼくはそんな萎縮してしまうほど、恋がすばらしいものとは思えない。だって、幼い君がしたおまじないように、人を呪う心をくすぐるんだ。と言うことは、恋は毒だよ」とチーズケーキは言う。

「でも時が流れれば美しく笑えるのも、恋らしい。……恋はチョコレートでもあるんだね。あれはお菓子の中のお菓子だもの」

「いろいろ出てくるね。頭いいんだ」

 彩佳は笑った。

「君はどう思う?」

「どうって言われてもなあ」

 彩佳は、マフラーからはみ出たおくれ毛をいじった。

「深く考えるものでもない気がするけど」

「むずかしいね」

 チーズケーキは言った。

「まあ、でも……」

彩佳は、チーズケーキをちらりと見た。

「その男の人の恋もさ。チョコレートになるといいね。わたしみたいに実らなくてもさ」

「そう思うよ」

 チーズケーキはうれしそうにほほ笑んだ。

「君に会えてよかった」と言った。

それからしばらくふたりで波の音を聞いていた。荒っぽい音だった。波のいきおいもある。陸にあるすべてのものを拒否して、泣きながら怒っているようだった。

「……ねえ、お願いがあるんだ」

 しばらくしてチーズケーキが彩佳に言った。

「なあに?」

「ぼくを海に向かって投げてくれるかな?」

 彩佳はおどろいて、チーズケーキを見た。

「長いこと君の家でジッとしていたからね。歩くよ。今度はいっぱい歩きたいんだ。それでいろんな恋の話を聞きに行くんだ」

「いつも脈絡ないよね」

 彩佳は立ちあがって、チーズケーキを手のひらに乗せた。

「思いっきり投げるよ。岸に打ち上げられたら、意味ないし」

「ぜひ、そうしてほしい」とチーズケーキはたのんだ。

「まかせて、わたしソフトボール部のレギュラーだったんだから」

 彩佳は筋肉をほぐすように、肩をまわした。コートを脱いで、マフラーと一緒に流木の枝に引っかけた。ギリギリまで海に近づくと、チーズケーキを手で包み、投球のポーズをとる──、チーズケーキのために、こっそりとこぶしにキスをしてから、いきおいよくチーズケーキを投げた。

海に落ちた音は、荒波に飲まれて、聞こえなかった。

 彩佳はしばらくコートを着ないまま、潮風にあたっていた。なぜか寒さとちがうふるえが、胸に押し寄せてたまらなかった。

 彩佳は海のむこうにむかって笑ってやった。

「いってらっしゃい」

そう言った。


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