第1話:名前だけ大英雄
「……おかしいな」
頭を何度か掻いて、ハルトはぼそりと呟いた。
ハルトは王都ヴェンブルク出身の冒険者だ。そして今は、月に一度編成される中規模の魔物討伐遠征のために十五人程度の小隊伍を組んで、王都近郊の森の中を行軍していた。ハルトの馴染みは内の四人。
「──おいっ、この辺はトロールのテリトリーだろ? それなのにさっきから、トロールの『ト』の字すら見えねーんだが! いったいどういうことなんだよ、ジークハルト!」
ハルトはため息をついて返事する。
「わざとらしくその名前で呼ぶなっていつも言ってるだろ、ヴェルフ……少し遅い気もするが、春になっても冬眠から目覚めない個体が多いのかもしれない」
「なんだよ、名前だけ大英雄のくせに!」
興奮した声が森林に放たれてすぐに木々に吸い込まれる。赤と黒に染められた金属鎧に身を包み、背中に長剣を提げる赤髪の男。声の主はハルトを怒鳴りつけるのが趣味のような男だった。
ハルトはそのたびにたじろいで、それが一層ヴェルフを愉しませる。馴染みの中では、こうしてハルトをからかうのは珍しいことではなかった。
しかし、女の声が興奮した男を窘める。
「ハルトだって困ってるのよ。トロールを狩れないならわざわざこんな森まで来た意味がないんだから……モーラの森は他に大して稼ぎになる魔物もいないし」
「ハァ……はいはい、シルヴィアさんはハルトに甘いよな! 上級冒険者のくせに、こんな安い仕事まで受けてハルトに媚びてんのか?」
絹らしきで織られたローブを纏い、右手に長杖を持った銀髪の女。ハルトにとっては冒険者ギルドに加入した頃からの同期であり、このクラン唯一の上級冒険者だ。
「な……っ! 違うわよ! バカじゃないの!?」
シルヴィアは少し顔を紅潮させて怒鳴る。しかしヴェルフには、彼女が横目でハルトを窺うあたり魂胆が見え見えだ。
ギルドに認められて上級冒険者になれば、大規模遠征やランクの高いギルド依頼をこなせるようになる。当然高い報酬が支払われるので、常に命の危険が伴う冒険者の中でも勝ち組と言えた。況してやシルヴィアは引く手数多の魔法使い。
だからこそシルヴィアが、中規模遠征などという稼ぎの低い仕事を受ける必要などないのだ。そこには別の理由が存在することは傍目に見ても明らかである。
──鈍いハルトは気が付いていないが。
「まあまあ……二人とも、そうイライラするなって。しばらく探索して獲物が見つからなければ一旦王都に戻ろう。こんな日もあるさ」
ハルトの仲裁に、ヴェルフもシルヴィアもようやく矛を収める。ハルトがこの小クランのリーダーを務めているのはこういう理由からだった。
と、三人の近くを歩いていたもう一人が口を挟む。
「ハルトさんは本当にリーダー向きですよね。ヴェルフさんもシルヴィアさんも、素直に言うことを聞くのなんてハルトさんぐらいですよ。特にシルヴィアさんなんて──」
「あーっ! メリルは余計なこと言うんじゃない!」
腰をぴったりと締め付けて長く細いスカートと一体になった独特のシルエット、胸元に飾り布のあしらわれた濃紺の修道服に身を包みその眼鏡を涼しげに押さえる黒髪の乙女がシルヴィアをからかった。王都の神殿に仕える修道女のメリルだ。
修道女のメリルと魔法使いのシルヴィアは、回復魔法と攻撃魔法という専門を異にしながらも、近い職場で連携を取りつつ働く立場であるから、結構仲がいいらしい。
「なんと言いましょうか、自分を出さずにまとめ役に徹してくれるというか……だからシルヴィアさんも、ハルトさんを信頼してるんですかね?」
「な……、私は関係ないでしょ!?」
シルヴィアはもう涙目である。耳まで薄く赤らんできているのを見て、ようやくメリルはからかうのをやめた。
いつも通り、ヴェルフにとってのハルトがそうであるように、メリルがいじって遊ぶのはシルヴィアと決まっているのだ。
しかし、仲睦まじく絡む二人の姿を前にしながら、ハルトの意識は全く別のところへ向かっていた。それは彼自身の、とりわけその名前のことだ。
──ジークハルト。
ハルトたちの国・レドの建国神話に関わる大英雄。ヴェンブルクの王宮にはジークハルトを描いた戦記や肖像画が数多く収められているという。長剣を携えて漆黒の長い外套を翻し、行方を阻む魔を片っ端から斬り倒す伝説の騎士。
そして、何の変哲もない一介の傭兵ハルトは、その大英雄とまったく同じ名前なのだった。
「ヴェルフさんだって名前だけ大英雄なんてバカにしたようなこと言いながら、ハルトさんの指示にはちゃんと従いますし」
「な、ば、バッカじゃねえの! 別に、俺はだな!」
「あー、はいはい。ツンデレツンデレ」
「ツンデレっ、なんかじゃねえー!!」
今度はヴェルフとメリルがじゃれつき始めた。ハルトはいよいよため息をついて、今度は知らないふりをした。めんどくさくなったのだ。
「ちょっとあんたたち、いい加減にしなさいよ!?」
「俺じゃねーって! ふざけてんのはメリルだろ!」
「シルヴィアさんも混ざります?」
「混ざらないっ!!」
こんな賑やかな中にいると、悩みだって気にならなくなってしまう。大英雄の名前を掲げながら、大した功績も活躍も挙げられていない自分の不甲斐なさ。
ハルトは自分の名前のコンプレックスを忘れるように軽く頭を振って、再び周囲に視線を巡らせた。やはりトロールの影は──
「────ッ!」
耳に飛び込んだ、異様。
咄嗟にハルトはヴェルフと顔を見合わせる。ヴェルフは反射的に背中の剣を下ろしていた。メリルは胸元の銀の十字架を握って、シルヴィアは長杖を構える。
クランの他のメンバーも互いに装備を整えて、リーダーのハルトに指示を仰ぐような視線を向けていた。
「……音からして二、三百メルト先だろう。数は……視認しなきゃ判らないな」
獣人などの特殊な要員が居れば、これだけ離れていても足音から人数を確認できるのだが、中規模遠征ではそのようなエキスパートが同伴することは稀だ。それこそ高い実力を持った魔法使いよりも重宝される人材なのだから。
「こっちは人数がある。そこまで慎重にならなくても大丈夫なはずだ……とりあえず、気付かれないように敵の構成を見よう」
自分の小声にメンバーが頷くのを確認して、ハルトはそっと足を運んだ。バラついていた隊伍はすぐさま秩序を取り戻した。
前衛はタンク役も務めるハルト、ヴェルフらの剣士たち。中衛はメリルを始めとする修道女、神官たち。後衛に支援に重きを置いたシルヴィア筆頭の魔法使いたち。
規模は小さいながらも均整のとれたクランだった。
「……む、アレじゃねーか? ゴブリンが二、三……いや、五匹いやがる」
ヴェルフの抑えられた声にハルトは頷いて応える。確かに視界の先には、木々に遮られてよく見えないものの数匹の小鬼が確認できた。
「どうせはぐれだろ? たいして稼ぎも良くない不味い獲物だが、無いよりマシだな。ハルト、殺るか?」
確かに、ヴェルフの言うように群れからはぐれたゴブリンが数匹単位で彷徨いていることは珍しくない。
しかしハルトには別に気になることがあった。それはハルトだけではないようで、クランのメンバーが戦闘準備を整える中、訝しむ声をあげる者が一人いた。
「ちょっと待って。あのゴブリン、武装してる……それに、はぐれにしては数が中途半端だわ。だいたいは二、三匹でしょう。五匹は多すぎる」
シルヴィアだった。言う通り、ゴブリンは見るに革らしきで仕立てられた防具をつけ、腰には大小の剣を提げている。数の違和感というものも、ハルトの経験上ではまた事実に思われた。
「武装してたって変わらねーだろ。革鎧ごと貫いて、俺の剣の錆にしてやる」
「ヴェルフ、少し落ち着け」
興奮気味のヴェルフを窘めてハルトは再び考える。ゴブリンの五匹や六匹、屠ることはこのクランのメンバーをすればそう難しくはないだろう。もともとそれほどに強い敵ではない。それに武装しているゴブリンはいくらか金になるのだ。武器や防具はそれなりの値で売れるからである。
結局、ハルトはリスクとリターンを考え合わせたうえで、ゴブリンを倒すことを選んだ。このまま王都に戻ったのでは遠征費が赤字になってしまう。稼ぎが無ければ生活していけないのだ。貯蓄するような余裕は上級でもない冒険者にあるはずもなかった。
「うん……全員で協力して仕留めよう。だけど、慎重にだ。極力陣形を崩さないで、常にメンバーの安全を互いに確認すること」
小さな声で、周りのメンバーにそう言い聞かせる。再びいくつもの首肯が得られて、渋っていたシルヴィアも慎重にやろうという話でようやく頷いてくれた。
ヴェルフに目配せして敵の死角に回り込む。
「…………行くぞ」
ヴェルフはニヤリと笑って、そのまま流れるように剣を運んで──一匹目の一番図体がデカいゴブリンに一太刀浴びせた。
虚をついた奇襲に、傷付けられたゴブリンが苦鳴を上げて一斉に周りのゴブリンがそれに気付く。途端に場に緊張が走った。
「ハルトッ!」
ヴェルフの叫びに呼応するようにハルトは近くのゴブリンを斬りつける。しかし相手も気付いていたためヴェルフのようには行かず、相手の剣と衝突して弾かれる。お互いが勢いに圧されて離れた。だが、それでいいのだ。
「ラス・ラース……ブラ・ラート……レ・ウィ・ウィンディア……ト・ラスト……ウィンド・ブラスト!」
その声に──烈風が疾る。
シルヴィアの唄うような詠唱に合わせて、空気中のマナが集められて大気が微震したように錯覚する。指向性を持たず森に吹き溜まる純粋な魔力を、自分の体内の魔力を使って導く。それが人間が培ってきた魔法という技術の原理である。
そのまま風を操って、シルヴィアは今にもヴェルフに襲いかからんとしていたゴブリン数匹をまとめて押し戻す。強風に木々が葉をぶつけ合って大きな葉擦れが耳をつんざいた。続けて他の魔法使いたちも小さな竜巻を生み出すなどしてゴブリンを圧倒する。
「オラぁ、二匹目だッ!!」
そうこうしているうちにヴェルフは次の獲物に食らいついている。最初に奇襲をかけられたゴブリンは、当たりどころが悪く力尽きたのか地面に伸びている。ハルトはすかさずそれに止めを刺しに、ヴェルフの背後に回った。首に剣を突き立てて、確実に息の根を止める。戦場ではこの確実さが何よりも尊ばれるのだ。
「シルヴィアッ、援護してくれ!」
押し戻されたゴブリンは二手に分かれている。奴らもバカではない。恐らくは片方がハルトたちの相手をして、もう一方で近接戦に弱い中・後衛の神官、魔法使いを狙うつもりだろう。
それを見越してハルトは援護を請う。シルヴィアもハルトの言いたいことが分かったのか、頷いて呪文の詠唱を再開した。
「ル・ルート……ル・レア……レイ・スパークッ!」
長杖の先に嵌った宝珠が黄色に閃いて稲妻を放つ。それは巧妙に味方を避けるように折れ曲がった形を描いては、片側に寄っていた二匹のゴブリンをまとめて強かに打った。感電して倒れた二匹は痙攣する。一時的に動けなくなる麻痺効果を与える魔法だ。援護では重宝するためシルヴィアも多用する。
俺は他の剣士二人に目配せして麻痺したゴブリンの止めを刺すよう頼んだ。それからヴェルフに目を向けて、残った二匹の相手にかかる。
「オラァ!!!」
一匹はよく見れば、他のゴブリンと異なる金属の甲冑を着ていた。二匹目は弓を持ち、背中に矢の入った矢筒を提げている。射手に注意すれば十分に戦えるだろうが、金属の甲冑は厄介だった。剣とぶつかり合って音を立てれば、もしも周囲に他の敵がいた時に気付かれてしまう恐れがある。しかし、奴らがはぐれであるならばそれを気にする必要も大きくないはずだ。
ヴェルフが威嚇の雄叫びをあげながら斬りかかる。援護するように円を描いて走り寄ってハルトは傍から刺突した、が──
「…………っぐ、ぅ」
脇腹に感じる鈍痛。目をやると、深々と矢尻が突き刺さっていた。どくどくと熱くなる傷口に構わずに、視線を上げるといつの間に移動したのか、すばしこく小さなゴブリンが矢を向けているのが見える。
「ハルトさん!!」
膝をついてしまうと、メリルが駆け寄ってきて傷口を診てくれた。すかさず矢を継ぐ射手の狙いを、シルヴィアが風の魔法で乱してくれる。放たれた矢は見当外れの方向へ。その隙にメリルは唱える。
「どうか、ミハイル神の慈愛あれ……!」
傷口に当てられた手のひらが少しずつ暖かくなってメリルがそっと矢尻を引き抜いた。勢いよく血が流れ出すもすぐに弱まる。ハルトは傷口が少しずつ塞がっていくのを感じた。こればかりは何度やられても慣れないものだ。
「無様に晒してんじゃねーよ、ハルト! ちったあこっちを手伝いやがれ!!」
ヴェルフの呼びかけに、ハルトは立ち上がる。身を案じてくれるメリルにもう痛みがないことを伝えるとハルトは慎重に、ヴェルフと対峙するゴブリン二匹と向き合った。
「よし。お前は囮だ、ハルト」
「ハァ……いつもそうなるのな」
「るっせ!! 黙って行け、この怪我人!!」
慎重って何だったんだというぐらいの勢いでヴェルフがハルトを突き出して、つんのめるようにしてハルトはゴブリンの正面に特攻する。待ち構えて剣を突き出す大きいほうのゴブリン──
「気をつけて、ハルトっ!!」
シルヴィアの叫びが聞こえて、体が風に圧される感じを覚えた。出力を抑えた風の魔法で援護してくれたのか。その勢いでなんとか足をさばいて大きいほうのゴブリンの剣を躱すと、弓矢を持った小さい方に半ば倒れこむようにして斬りかかる。重心が安定しないからこその無茶苦茶な斬り込みだった。
「──ッ、く、がああ!!」
が、それが逆に功を奏したのか弓を持ったゴブリンは避けるのに間に合わず、ハルトにあっさりと袈裟に斬られる。
そしてその背後では、ヴェルフが大きいほうのゴブリンと剣を交わしていた。
これぞ好機とばかりに後ろから首を狙う。しかし、それなりに出来るのか身体をひねって甲冑のある部分で剣を受け止めてきた。
「な…………っ!」
──甲高い金属音が、森に響き渡る。
シルヴィアたち魔法使い、またメリルたち神官が、耳を押さえるのが見えた。ハルトの耳もあまりの大きい音にジンジンと痛んでいる。
「ぉ、ぉぉおオラァああぁぁぁぁ!!」
しかし、それはゴブリンもまた同じこと。大きな音で怯んだゴブリンに、しかし未だに戦意を失わなかったヴェルフとハルトは、咄嗟の飛び込みで前と後ろから剣を突き刺した。
「が──は、ッ、アァ……」
断末魔をあげることもできずゴブリンは絶命した。
ハルトはまず周囲を見渡して、五匹のゴブリンの死体と、それが本当に死んでいるかを確認する。怪しいものには死体を辱めるような真似をしてでも、確実に殺しておかねばならない。それを怠れば殺されるのは自分たちなのだ。
「……よし、ちょっとヒヤッとしたが、なんとかなったか……」
ため息をついて、草むらの上に座り込んだ。正直、ハルトはヘトヘトだったのだ。
「ヒヤッとした、じゃないわよ! ヴェルフのやつ、またハルトを囮にするような真似して!!」
「ったく……いいだろーが、生きてたんだし!」
「そういう問題じゃないでしょ!?」
よくもまあ、戦闘の直後に口喧嘩するだけの元気があるものだと思う。ハルトは苦笑いして、戦利品の確認をしようと声をかけてまた二人の仲裁をする羽目になった。
「……なかなか上等な鎧じゃねえか。俺のよりも硬いかもしれねえ」
「本当かよ? ……どうりで傷付かないわけだ」
ハルトとヴェルフが武具を見ている間に、メリルと他の神官が装飾品などを見て、魔法使いたちが見張りをすることになった。ずっと森の中を練り歩いて、何にも出会わなかったのだから、これから何かに襲われるとは考えにくいが、念のためだ。
「うわ、この宝石けっこう大きいですよ! かなりの値打ちなんじゃないですかね、これ!」
メリルも心なしか興奮している。戦闘の名残もあってか、クランは全体が軽い酩酊感に高揚していた。
「よし、とりあえず持てるだけ持って王都に帰ろう。みんな疲れてるだろうから、帰りは気をつけて──」
と、その時だった。
ドサリ、と不自然な音がして、全員がそれに振り返って、あまりにも信じがたいそれを見た。
死体。死体、死体、死体、死体、死体。死体。
どれもこれもめちゃくちゃに荒らされているものばかりだった。原型をとどめていないものもある。それでも、わかる。わかってしまう。色に違いはあれど、どれもローブを纏っているのだ。ましてや、それらはずっとともに過ごしてきた──これを──この死体を自分は、紛れもなく知っているのだ。
──誰からともなく、叫び出した。
「ぁ、あ、ぁぁぁああああああ!!!!!」
シュッ、という音が。
「あああ───ッびぅ……」
悲鳴が、止む。
誰もその光景を信じたくなかった。
現実から逃れるために、また別の誰かが叫び出す。
「ぃやあああああああ────っぐェ」
嘘みたいに、静かな音だ。
空気を切る音だけが、シュッと聞こえるのだ。そうして次の瞬間には、もう生きてはいないのだ。
ハルトは恐ろしくて自分が叫び出しそうになるのを必死で堪えた。叫べば死ぬことはわかっているのだ。これは自分との戦いなのだ。
次々に、叫び出した奴から殺されていく。
姿も見えない誰かに、森の奥から狙われて。
誰かが殺されれば殺されるほどに、恐怖は強く大きくなっていく。耐えられずに叫ぶものが後をたたなくなって、最後に残されたのは奇しくも、ハルトとヴェルフ、メリルだけになった。シルヴィアは──
「っく、く、くふふ、うふふふふ……」
笑い声に顔を上げる。その楽しげに喉を鳴らす声は慣れ親しんだ黒髪の修道女のものだ。当然、憤ったヴェルフが圧し殺すように怒る。
「……おいッ、何笑ってやがる……!」
それでも笑いは止まない。
まるで、壊れてしまったみたいに。
「ぁは、ぁ、ぁ……は、は……」
「テメェ、いい加減に……ッ!!」
ハルトは唐突に思い至って、メリルに迫ろうとしていたヴェルフの鎧をつかんで引き戻した。
「何すんだよ……ッ」
「やめろよ、メリルはもう……それよりここから早く逃げないと、ころ、殺される」
予想よりもずっと自分の声が詰まって、支離滅裂だったことにハルトは驚いた。自分が未だに冷静でいられているはずだという自負は、どうやら捨てねばならないようだった。
「ぁ……ぁはあ、あはは、あははははは!!!」
震える足を立ち上がらせようとして、唐突にメリルが笑い出した。今度の笑い声は抑えられない大きなもので──ヴェルフが咄嗟に飛び込んで口を塞ごうとするのを、ハルトはまた鎧をひっつかんで止めた。止めてしまった。止めなければ、と思ったのだ。
「──ぁあははははははヒゅごッ」
そして、案の定メリルは死んだ。
わかっていた。もう、死ぬのはわかった。ハルトもヴェルフもみんなシルヴィアも死ぬんだった。自分たち以外は先に行ってしまった。早く追いかけたいと思った。ハルトは待ち遠しかった。気持ちが悪くて胃の中のものを全部、内臓ごとひっくり返してぶちまけてやりたかった。口端から涎が垂れているのを、止めようがなかった。
「クソ……クソどもが……クソォォぉおおお!!!」
ヴェルフが、当てもなく森の中を走って、すぐに枝が折れる音と草むらに肉の塊が落ちる音がして気持ち悪い吐き出した酸っぱい味がして意識が冴えなくて何もかもぶっ殺してぶっころしてやりたいんだ。ぜんぶ手当たり次第ぐちゃぐちゃにしてやりたいんだって。
「ぁ……ぁ……あぁああぁ……」
泣いていた。自分のうちに燃え盛る炎のような怒りと憎しみとそれらを全部打ち消してあまりある悲しみを知った。ハルトはただ泣くことしかできなかった。無力である自分が何より悲しかった。
森の奥から、一匹、二匹、と影を現すのはゴブリンだ。それも数十匹なんて単位じゃない。とんでもない軍隊だった。これじゃ敵わなくて当然だ、と思ってまたすぐに諦める自分を後悔した。
あの五匹の武装したゴブリンはこの軍隊の斥候役だったのだ。そして、金属の鎧と打ち合った音で、まんまと軍隊に居場所を教えてしまったのだ。
口元にはへらへらした笑いが張り付いている。ゴブリンたちの浮かべる下卑た笑みと同じものが、しかし本質を全く異にした歪んだ笑みが、ハルトの表情にもあった。
絶望した。生きているのが辛かった。
それでも自分に死ぬことは許されない。ハルトはそう思った。ハルトが死ねば、ハルトの失敗のために死んだ彼らはハルトを許してくれないだろう。ハルトは死んでも死に切れない苦しみの中で生きて生きて生き抜いて、死よりも辛い苦しみを味わって、償いをしなければならないのだ。そうしないと冒険者用の共同墓地で彼らに顔をあわせることさえゆるされないのだ。
「ぶっ、殺して……殺して……や、やる……」
うわ言のように呟いて──
ハルトは、自分の身体が既に、ゴブリンどもの手に握られた刃物の切っ先で、ズタズタに切り裂かれていることに気が付いたのだ。