プロローグ:気付いたらアンデッド
────目が覚めた。
瞼を持ち上げて、見上げる青い空は呆れるほどに長閑で、小鳥の囀りが呼び合うように響いて、風が木々を揺らして葉の擦れ合う音が耳を撫ぜて、世界はこの上なく平和だった。
あまりの心地よさにそのまま仰向けに寝そべっていると、嫌でも幾つかのことに気が付いてくる。
見上げた空は青々と茂る木々に遮られているし、さっきから葉擦れが絶え間ない。するとここは森の中。何でこんなところにいるんだ?
「あ……ッ、あー」
一瞬だけ喉に突っ掛かりを感じたが、すぐに元通りになった。声は、出せる。身体にもこれといった異常はないらしい。ここに至る記憶が混濁していること、それから先ほどから奇妙な頭痛が続いていること以外に大きな問題はなかった。
……いや、待てよ。
問題が、ないわけないじゃないか。たった今、こんなところで──森のど真ん中で、目を覚ましたのだから。
──ここは、普通の人間が、簡単に足を踏み入れていい場所では、決してないのだ。
「ひとまず周りに危険な生き物はいない……か」
ひとつは当然、先住者たちがいるからだ。オオカミやクマならまだいいが、森の中でゴブリンやオークやらに出会ってしまったら最悪だ。
奴らは残虐で暴力を好むから、自分より弱い人間を見つければ平気で襲いかかっては慰み者にする。一度群れからはぐれたオーク数匹に荒らされた村跡を見たことがあるが、見るに堪えないものだった。男は嬲り殺しにされ、女は気紛れに犯されていた。
生きているうちに、あんな光景を見るのは二度と御免だとしみじみ思う。
それだけではない。非力な人間が迂闊に森に近付いてはいけないその理由は、魔力にあるのだ。
森は魔力を濃縮する。人間より遥かに古くからこの地に根を張ってきた彼らは、人間より多くの魔力を蓄えている。太い幹の中に脈々と流れる魔力は、彼らの生命の営みの中で少しずつ、溶かされ、濾され、集められるという。
だから、森は人の住む街よりも、魔力の濃度が高いのだ。それは人にとって生きづらい場所だということでもある。人間の身体、とりわけ血液にも魔力は浸透して、循環しているとはいえども、人間の身体が耐え得る魔力の濃度には限りがあるからである。
つまりは、人間が閾値を超えた魔力濃度の場所に、長く滞在してしまえば、肉体を巡る魔力の量の均衡が崩れて何らかの異常を来すということ。
職業斡旋所の老兵に伝わる諺がある。森の奥には長居するな。そういうことなのだ。
「ダメだ……思い出せない。知識や経験に変わりはないのに、ここまでの経緯だけが綺麗さっぱりだ」
それが今、たった今、森の中で呑気に眠っていた。居眠りしている間にどんな危険なことに襲われるかもわからないというのに。
そうだ、今頃は、寝込みを襲われて、狩りに出たゴブリンの群れに滅多刺しにされていたっておかしくもなんとも──
「────ッ!」
慌てて飛び起きて、自分の全身を確認する。脇腹、背中、腿、鳩尾。傷は無かった。おかしい。
違和感をきっかけに頭痛が酷くなって頭を抱えてしまう。何かを、思い出そうとしている?
おかしい、何かがおかしい。
それは……どうして、刺されたはずの傷が──
「おうい、起きたか兄弟!」
その声に、跳ねるように顔を上げた。
身体を起こして、初めて聞こえた風と葉擦れ以外の音は、嗄れた男の声だった。こんなところに、人間が居たとは。少しだけ嬉しくなって、声に応えるべく、振り返って──
「な──、アンデッド!?」
咄嗟にあたりをまさぐって、幸運にも落ちていた自分の剣を拾う。それを恐るおそる突きつけた先の、そいつは、蒼白な顔色に所々腐り落ちた肌、左腕は肘から下が失われ、右足を引きずっている、どこからどう見ても正真正銘の……
「なんだよ挨拶だな兄弟。お前さんだって──」
「だ、黙れッ! お前、それ以上俺に近づくな!?」
──バケモノ。
あれほど悍ましい姿は、人伝に聞いたことがあるだけで、実際に見るのは初めてだった。
《吸血鬼》の使役するという歩く死体。いつもは森のもっと奥深くにある住処から出てこないはずなのに、どうして──
「待った、おい……いくら俺でも、そんなおっかねえもんで斬られたらくたばっちまう」
形だけ、目の前のアンデッドは恐がる素振りを見せた。しかしそれもすぐに崩して、「もう死んでるんだけどな!」とか戯けている。
アンデッドとの対面。世にもおぞましいバケモノが目の前にいる。今すぐ襲われたっておかしくない状況というに、そのあまりの悪意のなさに、思わず毒気を抜かれてしまった。
向けた剣をそのままにしながら、ひとまず立ち上がる。途中足元に茂った蔓に足を取られそうになるが、慌てて体勢を立て直す。
そうこうしているうちに、勝手にゲラゲラ笑っていたアンデッドの男が何でもない風に声をかけてきた。
「兄弟、起きたのはいつだ?」
「起きた……って、ついさっきだが」
つい質問に答えてしまったが、確かに目が覚めてからそう時間は経っていない。
「そうかそうか、そりゃあ綺麗なまま残ってるよな」
「綺麗……?」
……何を言っているんだ、こいつは。
アンデッドのくせに普通に話しかけてきたかと思えば、さっきから適当なことばかり言いやがって。
「羨ましいもんだぜ。腐りやすい目も、折れたり千切れたりしてるのが普通の腕や足も無傷だ。そこまで状態の良いアンデッドなんて、なかなかお目にかかれるもんじゃねえぞ」
「は…………?」
アンデッド、って、目の前にいるこいつのことだ。しかしこいつの目はよく見れば片方は白く濁り、片方は既に腐り落ちている。腕や足も、見るまでもない。こいつは何の話をしているんだ。
「……おっと、そりゃあすぐに受け入れられないのも仕方ないことだよな。俺だって、目が覚めた時には絶望したもんだ。こんな姿になっちまえばなあ──」
アンデッドは、一本しかない腕で頭を掻いている。いくつも欠損した顔のパーツでも、なんとなく切なそうな顔をしているのが窺えた。
「でもな、兄弟。生きてるだけで儲けもんだとは思わねえか。俺ぁ昔、商人だったんだよ……自慢じゃないが、ただの商人じゃねえ。いくつもの街を股にかけて大儲けする、大商人だ!」
アンデッドのおっさん(見た目からは年齢などもはやわからないが、話し方や声で判断するに若くはないだろう)が誇らしげに語る昔話は、直面している現実とあまりにかけ離れている。どうしてこんなところでおっさんの身の上話なんぞ聞かなきゃならないんだ。
ちっとも危険そうに見えないおっさんの話は続く。
「生きてる頃の俺は、それはそれは金が大好きで──いや、欲が深かったから、こうなっちまったのかもしれねえが──そのせいで誰かに嫌われることなんか、しょっちゅうだったよ」
「はあ……」
退屈な昔話なんかちっとも耳に入らない。こっそりアンデッドの話を聞くふりをしながら、辺りの様子を調べることにした。こいつ以外にアンデッドがいないなら隙を見て逃げ出すこともできるだろう。
こんな話は左から右へ聞き流そう、と決め込んだ。
「それがある日突然、行商の途中に盗賊に襲われちまった。賃金をケチったばっかりに、適当に見繕った護衛役がよりにもよって盗賊のモグラでいやがった。奴ら行商のルートをすっかり仲間にバラしやがって、俺たちゃ呑気に盗賊の待ち構えてる森の中に、ふらふら迷い込んだってわけさ」
ふとそこで話が耳に留まる。何となく訊く。
「……それで、アンタはどうした?」
するとアンデッドは、何やら嬉しそうに笑った。訝って何故笑うのか尋ねると、他人と話すのが久し振りらしい。確かに、話せるアンデッドなど聞いたことがない。こいつはアンデッドの中でも珍しい種類なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、おっさんの雰囲気は何処となく先ほどまでの底ぬけに明るい感じが弱まっている。妙だ、そう思う間もなく。
そして──おっさんは、平然と続けた。
「どうしたもこうしたもねえよ。そのまま俺の行商は賊に皆殺しにされて、惨めに俺だけ蘇っちまった。なんのこたぁねえ……ま、俺が死んだのは自業自得だからいいが、仲間を死なせちまったのだけが心残りさ」
ま、今となっちゃあもう遅いがな、と。おっさんは少しだけ切なそうな顔(腐ってはいるが)をした。それが何となく居た堪れなくて、
「……そうか、そりゃ災難だ。ご愁傷様」
などと口走ってしまう。アンデッド相手に何を言っているかと思わず自己嫌悪しそうになった時、おっさんはガハハと豪快に笑って、すっかり元の調子を取り戻した声で言う。
「つまんねえ話聞かせて済まねえな、兄弟。だがな、災難っつうならお前さんも同じだろう? 不幸な身の上話なら、俺たちいい勝負だと思うぜ」
「……どういう、ことだ?」
──途端に、頭痛がぶり返した。
聞いてはいけないことだ、と思った。聞けば認めざるを得なくなる。認めれば、もう戻れないのだ。
「何だよ兄弟。まだお前さん、自分の立場をわかってやがらねえのか? お前はな──」
「ゃ、嫌だ。止めろ、止めてくれ……」
慌てて否定した。下ろしかけていた剣の切っ先を、強く死体に突きつける。手が震えて上手く柄を握っていられない。さっきまで心地よかった鳥の鳴き声が嫌に耳をつんざいて、呼吸が、声が震える。
それでも、そんなことはお構いなしにアンデッドは言った。どう足掻いても取り返しのつかないことを。はじめから取り返しなどつかなかったことを。
「──もう、死んでるんだよ。とっくにな」
そして、初めて──
彼は初めて、自分の周りにバラバラと、見る影もなく散乱していた、かつて仲間だったものの残骸を、はっきり視界に捉えたのだ。途端に鼻を突く濃厚な臭いが喉の奥から込み上げさせる。何度かえずいて、吐き出すこともできなかった。
「っ……、あ……」
ぼうっと立ち尽くしているうちに、アンデッドが近寄ってきて、落ちていた彼の金属の冒険者タグを拾い上げてまた笑う。
仲間を死なせるだけに飽き足らず、自分だけ死に損なってしまったこの、みじめな男を嘲笑う。
名前を読み上げて──
「ジークハルト、っつうのか、兄弟。何はともあれ、ようこそ、死に損ないの世界へ! お前さんも今日から死ぬまでアンデッドさ!」
それから、お決まりのセリフのように、「もう死んでるんだけどな!」と、付け足した。
「何だよ、何なんだよ……それ……」
目から涙が滲む。ひっきりなしに押し寄せる頭痛の波が赦してくれない。息ができないから必死で空気を呑み込むみたいに下手くそな呼吸をする。
「こんなこと、あるのかよ……」
訳も分からないまま、唐突に、ジークハルトのアンデッド生活が、幕を開けようとしていた。
今まで書いてきたものと毛色がまったく違うので拙いものには目を瞑ってください。続きもがんばって更新します、ともあれ最後まで読んでくださってありがとうございました。