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永遠に続くのではないかと思わせるほど長く互角だった勝負にようやく動きが見え始め、周りで見守っていたギャラリーからどよめきが湧きあがる。膠着状態が異常に長かったためか、ほんの少しの変化にも皆敏感だった。
二人の勝負は誰の目から見ても佐藤のほうが優勢だった。なにせ、誰も数えていないから正確な数はわからないが、相当な量を飲んでいるにもかかわらず、未だ顔色一つ変えていないのだ。それに比べると、高橋の変化は一目瞭然だった。先ほどまではほとんど差もなく佐藤に食らいついていたそのペースが急激に失速したのだ。一体いつからだろうか、座っているのにもかかわらずふらつき、しきりに体を動かしている。顔にこそ出てはいないが酔いが回ってきたのは明らかだった。
「さぁ、どうする?」
佐藤はまだまだやる気満々の様子で右手にジョッキを構えている。それはまるで完成されたポーズのようで、それこそが佐藤本来の姿のようだった。さながら本性を現したモンスターが、傷つきボロボロになった救世主に最後のとどめを刺す。そんな瞬間だ。
「まだ、負けてませんよ」
高橋にも意地があった。今まで飲み比べには負けたことがない酒のみとしての意地だ。この勝負は絶対に負けてはいけない。その一心で何とか食らいつく。
佐藤が楽々と飲み干したのを確認して、ジョッキを口につける。するとまたしても手が止まった。何故動かない! そう叫びたい衝動を飲み込む。周りでギャラリーがなんだかんだと喚いているのが無性に腹立たしかった。この勝負はお前たちを楽しませるためにしているんじゃない。
高橋は顔を上げて大きく深呼吸をし、周りをぎろりと睨み、一気に飲み干して勢いよくジョッキをテーブルに叩きつけた。その衝撃で一瞬ざわめきが消え、二人の間に静寂が訪れる。
「もう無理しないほうがいいよ、高橋くん」
「無理? ……ええ、少し無理をしてるかもしれません」
倒れそうになる体を両手で何とか支えながら、それでもなお高橋は不敵な笑みをこぼした。
「俺は、負けるわけにはいかないんです」
「どうしてそこまで勝ちにこだわるの?」
それは、と言いかけて高橋は口をつぐんだ。代わりにもう一つのジョッキを手に取る。
思わず佐藤は、あ! と声を上げた。ここにきて、この勝負で初めて高橋に先を越されたのだ。それも明らかに限界を超えた高橋が、見るからに無理やりビールを胃の中に押し込んでいる姿はとても危険に思えた。止めなくては、と頭では思っているのになぜか自分ももう一つのジョッキを手に取っていた。この勝負を終わらせたくない思いと、高橋を心配する思いがごちゃ混ぜになって佐藤の思考を停止させ、気が付けばジョッキを空けている。
自分でも気づかないうちに佐藤も酔っていたのだ。高橋の様子が明らかにおかしくなってしまった時点で、この勝負を早く終わらせなくてはいけないと理性では分かっているのに、楽しさに押されて理性が小さくなってしまっていた。
「なまじ酒に強いから、わからないんですよ自分の限界が。俺も、きっと佐藤さんも」
「え?」
「俺、佐藤さんの事いつもよく見てるからわかります。仕事中の佐藤さんは、頼りがいがあってかっこいい。そして、こうしてプライベートで飲みに来てる時の佐藤さんは、気さくで男っぷりがいいのに、やっぱり女性的で素敵です」
突然何を言い出すのか、佐藤には高橋の言っていることの意味を理解できなかった。
「佐藤さん、相当酔ってますよ。いつもよく見てるからすぐわかりました」
「ええっと、多分高橋くんのほうが酔ってるよ?」
「今日は、さすがに自分の限界を知りました」
そう言って高橋は苦しそうに笑った。
「でも、こんなに酔った佐藤さんを見たら、やっぱり負けるわけにはいかないんです」
「そんなに飲み代を払いたくないの? 高橋くんはそんなにケチだったの?」
「そんなことはどうでもいいんです!」
思いのほか声が大きくなって高橋は自分で驚いた。見れば佐藤も驚いた表情をしている。そのとき世界が回った。目の前にいるはずの佐藤の顔が歪み、まるで遠くに見え、ギャラリーたちの声も耳の奥で反響したように聞こえた。いよいよこれまでか、とその瞬間を悟る。せめてもう少し、勝負に負けるわけにいかない理由を伝えるまでは、と踏ん張る。だが「俺は」と声を上げたところで、とうとう体を支え切れなくなって手がテーブルから滑り落ちた。そのまま泥沼に沈んでいくように意識が遠のいていく。
いつまでも続くかと思われた勝負は、意外なほど呆気なく終わりを迎えた。
高橋はテーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。自分が思っていたよりもずっと酔っていたのだろう。周りからざわめきにも似た心配の声が上がった。
「ちょっと、大丈夫?」
心配のあまり慌てて立ち上がると、佐藤も自分の足に力が入らなくなっていることに気付いた。よろめき、倒れそうになるのをテーブルに手をついて何とか堪える。困惑したまま一つ間をおいて恐る恐る足を踏み出すと、今度はちゃんと床をとらえることができた。
「高橋くん?」
突っ伏したままの高橋の顔を確認すると、目を閉じていて一見安らかに眠っているようにも見えた。どうやら酔いつぶれたようだ、と佐藤は安心と寂しさの入り混じったため息をついた。
「今日の勝負はあたしの勝ちだね」
そう言って高橋の肩に手を置いた。すると「まだ勝負は終わってませんよ」と言い出すものだから佐藤は驚きのあまり後ずさりした。その状態でまだやるつもりかと顔をのぞき込むと、やはり目を閉じている。
「もう飲めないでしょ?」
「俺は……負けるわけには……いかないんです」
「だから、なんでよ?」
「勝負に勝って……佐藤さんにとって、必要な男に……なりたいんです」
息も絶え絶えにそう言ったきり、高橋は黙り込んでしまった。佐藤が「え?」と聞き返しても、もう反応はかえってこない。
どうしても負けを認めたくない理由が自分に必要と思ってもらいたいから?
今度こそ完全に酔いつぶれた高橋を見て、佐藤は思わずこみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。
「バカだね、キミは」
月曜の朝は爽やかとは言えない空気が社内に満ち溢れていた。それは、また一週間が始まってしまう事への絶望だったり、週末に嫌なことがあった人の悲しみだったりするのだが、ほとんどの人はなぜ爽やかな朝ではないのか、その理由を知る由もない。ただ、なんとなく憂鬱な気分に流されてしまうのだ。
そんな中、明らかに普段よりも落ち込み気味だったのが、高橋だった。
絶対に負けるはずがないと、自分から仕掛けた勝負に、どうやら負けたようだと気づいたのは土曜日の朝をいつの間にか自分の部屋で迎えた時だった。どうやって帰ったのかも覚えていないという事は、完全に負けたという事に他ならない。飲み比べに初めて負けた悔しさよりも、本懐を遂げられなかったことが悔しかったのだ。
「どうしたの?」
一方。社内の空気とは裏腹に、佐藤の周りにだけは爽やかさが満ち溢れていて、そのアンバランスさに高橋は困惑の表情を隠せなかった。
「いや、元気ですね、佐藤さん」
「当たり前でしょ? 月曜日から元気なかったら一週間もたないよ?」
鼻歌交じりに鞄から荷物を取り出しながら、佐藤は思い出したように「あ」と声を上げた。
「こないだの勝負、あたしの勝ちだからね?」
「ですよね。俺、途中から記憶がなくて……」
「高橋くんつぶれちゃったから、支払いあたしがしたんだよ?」
「すいません、払います。いくらでした?」
慌ててポケットから財布を取り出し、お金を出そうとすると、佐藤はゆっくりと手で制した。
「いいよ。今回はあたしが払ってあげる」
「いや、でも、勝負は俺が負けたんだし」
「その代り、次は高橋くんのおごりだからね?」
そう言って佐藤はにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が今までに見た佐藤の、どの笑顔よりも輝いていて、つられて高橋も笑顔になる。
「いいんですか? 俺で」
「何言ってんの。まだ勝負は終わってないんでしょ?」
「ええ。次は絶対俺が勝ちますよ」
いつの間にか佐藤の爽やかな雰囲気に包まれて、高橋の憂鬱は消えていた。アンバランスな空気は一人から二人に増え、周りからはため息交じりの笑いがあちらこちらで湧きあがる。どうやらモンスターとの死闘は、まだ終わりそうにないと救世主の活躍を願い、いつか倒してくれよと祈る。
そんなことなどつゆ知らず、高橋は今度こそはと気持ちを新たにした。次こそは佐藤に勝ってこの気持ちを伝えるのだ、と。
「また、週末お酒付き合ってよね」
「もちろん。楽しみにしてますよ」