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 ガチンとジョッキがぶつかる音を背中で聞いて店員の女の子は深いため息をついた。その手には空になったジョッキを4つ持っている。空とはいえ結構な大きさであるジョッキを4つも持つとかなり重いらしく、女の子の手は小刻みに震え、そのたびにジョッキがカチカチと音を立てた。

「生4つ追加です」

 それだけ言うと空のジョッキを洗い場へは戻さずにテーブルの上に置いた。

「マジか。12番テーブルの客はバケモンかよ」

 厨房の男は今しがたテーブルに置かれたジョッキにビールを注ぎながらあきれ顔をした。二人のペースが異常に速いために新しいジョッキを用意する暇がないのだ。仕方なく「同じ客が飲むのだから」という理由で同じジョッキに注ぎなおしている。

「もう勘弁してほしいですよ。あたし筋トレのために働いてるわけじゃないんですけど」

「俺もこんなペースで飲み続ける客は初めてだよ。ヘルプ頼んでおいてやるから、もう少し頑張れ」

 そう言ってなみなみとビールが注がれたジョッキを4つ差し出す。女の子はあからさまなため息とともにそれを受け取った。


 二人の勝負は30分経っても互角のままだった。佐藤がジョッキを空けると、すかさず高橋も飲み干す。佐藤にとってそれは少しだけ予想外だった。

 入社当時、まだ右も左もわからない高橋は、まるで手のかかる弟のようだった。簡単な仕事を割り振ってはミスをし、そのミスを訂正すると今度は別のミスを犯す。初めはなんて使えない奴だ、と頭にくることもあった。なぜ自分がこんな手のかかる新人のお守りをしなければいけないのかと課長に問い詰めたこともあった。

 それでも時間が経つと高橋という男の姿が少しずつ見えてきた。確かに要領は悪いし、いちいち仕事も遅いが、性格は真面目で、一度教えたことは必ず覚えた。何より同じミスを2度は繰り返さないという事が佐藤を安心させた。話をしてみれば気さくで屈託がなく、手のかかる弟はいつしか可愛い弟へとその存在を変化させていた。

「高橋くんは結構飲めるらしいよ」

 そう聞いたのは高橋が入社して2か月も経った頃だった。何の脈絡もなくその話が課長の口から飛び出した時佐藤は、そう言えばと思った。そう言えば新人歓迎会には出席しなかったんだ、と。

 しかしその話はにわかには信じられなかった。なにせとうの高橋という男は酒など一滴も飲めないような顔をしているのだ。話をしていても酒の話など出たためしがないし、高橋という男の周りに酒の存在を感じたことがなかった。そこで、佐藤はその日試しに誘ってみることにした。するとどうだろう。意外と飲めるのだ。可愛い弟の意外な飲みっぷりに佐藤は歓喜した。

 それまでたとえ仲のいい社員だとしても飲みに誘うと明らかに乗り気な返事をもらえなかった佐藤にとって、2つ返事でむしろ意気揚々と付いてきてくれる存在は何物にも代えがたい天からの贈り物のように思えた。心の底から望んで止まなかった存在。それが一緒に楽しく酒を飲める相手だったのだ。

 高橋はその役目に適任だった。弟のような存在だからあまり気兼ねすることなく誘うこともできる。それが何より大きかった。

 その高橋が、なにやら自分に勝負を挑んできているのだ。何を思ったのか定かではないが、どうやら勝つつもりらしい。可愛い弟の挑戦だ。受けないわけには行かない。

「まだいけるの?」

「当たり前です!」

 勝負は二人とも20杯目に突入していた。全く持って予想外だと、佐藤は心躍らせる。ここまでついて来れるとは正直思っていなかった。こうなると高橋という男の底を見たくなってしまう。

 新たなジョッキを持ってきた店員に追加を注文して受け取る。店員が少し疲弊していたように見え、少しだけ罪悪感を覚えたが楽しい勝負にそれも瞬時に消えた。

「高橋くんはどこまでついて来れるかな?」

「絶対俺が勝ちますよ。覚悟してください」


 二人の周りにはいつしか人だかりができ始めていた。仕事帰りのサラリーマンの姿が目立つ。みな一様に興奮していた。彼らもまた仕事の疲れを癒しに、または日頃のうっぷんを晴らしにこの居酒屋へ足を運んだのだろう。そんな中で二人の豪快な勝負に心躍らせてしまうのは仕方のない事なのかもしれない。終始ペースを握る佐藤を応援する者もいれば、絶対に食いついて離れない高橋を応援する者もいる。応援の数も二分して勝負の行方は未だ互角のままだった。

「すげぇな。どんな胃袋してんだ? あの二人は」

 人だかりの中、店内を駆け巡る噂を聞きつけて、見に来ていた男が呟いた。カジュアルなジャケットにデニムと、一見してサラリーマンのようには見えない。

「さぁな、人っていうものは様々だ。中には桁外れの酒豪もいるだろうよ」

 連れと思しき女が答える。冷ややかな眼を二人に向け、口元には冷笑を浮かべていた。こちらはというときっちりとスーツを着こなした、いわゆるできる女といった感じで男とは正反対だった。

「お前もたいがい酒は強いほうだけどな」

「わたしはドライマティーニ専門だ。ビールは口に合わない」

「それにしても、なんだってあんな勝負をしてるんだろうな」

「さぁな。だがよく見てみろ、明らかに男のほうが年下だ。おおかた何か譲れないものを賭けてでもいるんだろう」

 そう言うと冷ややかだった女の眼に少しだけ暖かさが滲んだ。その眼はまるで壮絶な勝負を繰り広げている二人のすべてを見透かしているかのようでもあった

「なんだよ? 譲れないものって」

「お前のような遊び人にはわからないようなことだろうな」

「お前は何でも知ってるかのように話すな。そんなんだからいつまでたっても彼氏の一人もできないんだ」

 男がため息交じりにそういうのとほぼ同時に周りにどよめきが走った。何事かと目をやると、今まで互角だった二人の勝負に初めて動きがあったのだ。

「どうした兄ちゃん」誰かが声をかける。すると別のほうから「姉さんのほうは顔色一つ変えてねぇぞ」とまた声がかかった。


 きっちりと店員が持ってきた2つのジョッキを空け、余裕の表情を浮かべる佐藤の前で、高橋は驚きの表情を隠せなかった。2つめのジョッキを半分飲んだところで手がぴたりと止まってしまったのだ。意識がはっきりしている分、何が起こったのか自分でも測りかねていた。

 こんなことは高橋にとって初めての経験だった。頭ではまだまだ全然いけるつもりなのだが、手が一向に動かない。ジョッキを口に持っていくことができない。

「どうしたの?」

 佐藤は涼しい顔をして問いかける。

「高橋くんがそれ飲んでくれないと、次にいけないよ?」

 まるでもっと遊ぼうと誘いかける子供のように佐藤はその目に楽しさを浮かべて高橋を見つめた。その顔には誰の目から見ても酔った様子は微塵も見受けられなかった。

 まさか、と高橋はジョッキに映る自分を見つめた。飲み比べの勝負で負けるはずがない、と自分に言い聞かせる。動くのを拒否する右手を無理やり動かして残りのビールを飲み干す。

「まだまだ、勝負はこれからです」

 そうは言ったものの、高橋の目からは佐藤の姿が歪んで見えた。認めたくはないが、どうやら酔いが回ってきたようだ。

「そうこなくちゃ」

 心底嬉しそうに佐藤は目を輝かせた。ここまで飲んだのは佐藤にとっても初めての経験だった。自分は一体あとどれくらい飲めるのだろう? そう考えると胸の鼓動が早くなる。

 丁度いいタイミングで店員が新しいジョッキを運んでくる。先ほどから続く同じ作業だ。空のジョッキを渡し、新しいジョッキを受け取る。そしてこの2つを飲み干した頃にまた、店員が新しいものを運んでくるのだ。この楽しい勝負はもしかしたら永遠に終わらないのではないか? 佐藤はそんな気がしていた。

 だが、店員からジョッキを受け取ろうとしてかすかに違和感を覚えた。自分が思っていた位置と実際に差し出した手の位置が若干ずれていたらしく、うまく受け取れずにジョッキを取りこぼしそうになったのだ。

 まさか、と自分の手を見る。こんなことは初めてだ。もしかして自分は酔っているのだろうか? ジョッキに映る自分の顔をじっとのぞき込む。

「さぁ、行きますよ佐藤さん」

「うん? まだこれからだよ」




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