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「くぅー、染み渡るぜ」
心の底から歓喜の声を上げて、佐藤ひかりは空になったジョッキをテーブルに置いた。週末の夜ともなると俄然活気が満ち溢れる居酒屋の店内には、ざわざわと陽気な声があちらこちらから飛び交っているその中でも佐藤の声はひときわ大きく、店内の隅々にまで届くのではないかと思うほど澄み渡っていた。
「相変わらず、一杯目を空けるの早いですね」
高橋裕也はあきれ顔でそう言ったがその中に驚きの色は含まれていなかった。それは社内の人間ならごく当たり前のことで、佐藤ひかり=酒豪と共通の認識を誰しもが持っていた。佐藤にとってみれば最初の一杯は車でいう所のアイドリング状態なのであって、飲み干さないほうが異常事態に近いのだ。
「そういう高橋くんこそ、綺麗に飲み干してるじゃん」
佐藤は高橋の前に置かれたジョッキを指さしてにやりと笑った。自分の目の前に置かれた空のジョッキをちらりと見て高橋は肩をすくめる。高橋もまた、最初の一杯を一気に飲み干していた。
「やっぱり、そうこなくちゃね」
社内にはモンスターがいる。
高橋が入社するまで社内の人間は週末が近づくたびに大きくなるモンスターの息吹に震えあがっていた。誰もが餌食になるのを避けるため週末にはなるべく目立たないように息をひそめ、大半が無事に週末を迎えられることに安堵する中、毎週必ず数人の社員がモンスターの餌食となり、二日酔い、長いときは三日酔いの苦しみに散々な週末を送っていた。
本人にその意思はなくとも、社員を恐怖で統治していたアルコールモンスター。その名を佐藤ひかりといった。
救世主現る。
高橋には入社直後から重要な任務を、本人にも知らされないまま与えられていた。それは新人歓迎会で高橋がその飲みっぷりを披露したことで、課長および部長クラスの人間が極秘裏に進めたものだったのだが、そのおかげでほぼすべての社員が救われたといっても過言ではなかった。
救世主はその名に恥じることなく、毎週のようにやってくるモンスターの攻撃を一手に引き受け、あのモンスターと互角に渡り合うという死闘を演じて見せた。社員全員の切実な願いとして、いつか救世主がモンスターを退治してくれるものと願っていた。
そう、それはさながら伝説の剣を携えた救世主が誰もかなうことのなかったモンスターの首を持ち帰り、世界に平和が訪れる瞬間だ。人々はその瞬間歓喜に包まれ、救世主は英雄となる。誰もがその時を今か今かと待ちわびていた。
もちろんそんなことなど当事者の二人は知る由もないが。
「高橋くんがうちに来てくれて良かったよ」
佐藤は店員が運んできた二杯目のジョッキをそのまま受け取ると、片方を差し出しながらそう言った。
「どうしてです?」
「自分でいうのもなんだけど、あたしってお酒強いじゃん。あたし的には楽しく飲んでるつもりでも他のみんなはどんどん潰れていくんだよね。なるべくみんなで楽しく飲みたいからペースを抑えたりもしたんだけど結局ダメで。もしかしたらあたしと差し向かいで飲める人なんていないんじゃないかって思ってたんだ」
いつもニコニコと笑顔を絶やさない佐藤の顔に、その時ほんの少し寂しさが滲んだのを高橋は見逃さなかった。
ジョッキを前に出しながら高橋は不敵に笑う。
「佐藤さん、もしかして自分が一番酒に強いなんて思ってません?」
条件反射的に自分もジョッキを前に出しながら佐藤は首をかしげる。
「もしかして高橋くん、あたしよりもお酒強いと思ってる?」
「やりますか?」
「受けて立つよ」
二つのジョッキがぶつかり合ってガチンと気持ちのいい音が響き渡った。それを合図に二人は同時に中のビールを一気に口の中へと流し込む。
飲み干したのはほぼ同時だった。すかさず高橋が近くを通った店員を呼び止める。
「いいですか? 飲み放題終了まであと一時間半ほどです。この制限時間内にどっちが多く飲めるか、量と速さの勝負です」
高橋の提案に佐藤は目を輝かせた。なにせこの自分に勝負を挑んできた男は初めてだったのだ。今まで意図せず数々の男たちを飲み負かしてきた佐藤にとって勝つ気満々で勝負を挑んできた高橋の若さは新鮮だった。
「いいよ。じゃあ負けたほうが今日の支払いね」
店員にジョッキを二つずつ注文して佐藤は目を細めた。
勝負が始まると間もなく店内がざわつき始めた。どうやらものすごい勝負をしている二人がいるらしいと瞬時に店中に噂が広がった。
初めに気付いたのは隣のテーブルで男女4人で飲んでいた大学生だった。なにせすぐ近くを店員がひっきりなしに行ったり来たりしているのだから、気付かないわけがない。見れば隣のテーブルに座っている会社員風の二人がものすごいペースでジョッキを飲み干しているのだ。店員は常に4つのジョッキをもってやってくるにもかかわらず、空のジョッキを持って帰るとすぐにまたやってくる。そして何よりすごいのは運んできた酒をその二人は涼しい顔で瞬く間に飲み干してしまうのだ。
「おい、あれ何杯目だよ?」大学生の男が囁く。
「わかんない。数えてたわけじゃないけど、もう十杯以上は飲んでるよ」
隣で青い顔をしながら女の子が答えた。自分たちのテーブルに置かれた酒やつまみの類など忘れたかのように4人の目は隣のテーブルにくぎ付けになっていた。
息をのんで大学生たちは見守る。二人の勝負は今のところ互角に見えた。
「言うだけあって、高橋くんもなかなかやるね」
「まだまだ序の口ですよ」
テーブルの上にずらりと並んだ空のジョッキに二人の笑みが映る。
高橋は高揚していた。目の前にいる佐藤ひかりは自分の教育係で、仕事中は何かと指導してくれる存在だ。その教え方は厳しくもあったが、それ以上に優しさが感じられた。
入社して半年が経ち、段々と仕事が分かってくるとようやく周りが見えるようになるものだ。そこで初めて自分の仕事をこなしながら人に仕事を教えることの大変さがほんの少しだけわかった。そして改めて佐藤ひかりという人物がいかに仕事のできる人間であるかを理解した。
いつしか高橋は佐藤を尊敬するようになり、そして尊敬は憧れへと変わった。
そして今、その憧れの佐藤と差し向かいで飲み比べをしているのだ。高橋の耳にも佐藤が酒豪であるとの情報は入っていたが実際自分の目でその酒豪ぶりを見たことはなかった。これはチャンスだ。確かにここまで自分のペースに余裕でついてくるのだから噂は本当だったのだろう。だからこそこれは高橋にとってチャンスだった。もしこの飲み比べて勝つことができれば、先ほど佐藤がほんの少しだけ見せた寂しさを自分が埋めることができるのではないか。そうすれば、憧れの存在である佐藤と肩を並べるとまではいかなくとも、その背中に少しくらいは近づくことができるような気がしていた。
もちろん負ける気などさらさらない。今まで自分よりも酒に強いものになど出会ったことがない高橋にとって、これは負けるはずのない勝負なのだ。
店員が新しいジョッキを持ってくる。二人はそれを同時に受け取り目を合わせた。
佐藤の目がきらりと光る。高橋はその目を見て口元に小さな笑みを浮かべた。
「さぁ。勝負はこれからですよ」
「当たり前でしょ。さぁ行くよ」