城
今朝は昨日より日差しが強い。七月半ば、夏の始め。黒々としたアスファルトの道路に、ほんの少し陽炎が立っている。
丘の上にある僕の家から、岬の端にある大学へ向かうための下り坂は、海岸線に沿って大きく湾曲している。ガードレール越しに、エメラルド色の海原が見えた。波は穏やかなようだ。靴と靴下を脱いで、軽く足を浸したら、きっと気持ちいいだろう。
にぃ、にぃという鳴き声が聞こえたから、視線を空に向けてみると、ウミネコが四、五羽、じゃれ合うように舞っていた。空の色は海の色より透明で、ラムネ瓶と同じ色をしていた――突き抜けるような、純粋な青。遮るものなど何もなく、またあってはならない、無垢な青。
自由に飛ぶウミネコたちには、空が、自分たちのいる空間が、そんな美しいものに見えているのだろう。余計なもののない広がり、あるべき本当の自然。彼らはそれを見、それを享受する権利がある。だからあれほどに、のびのびと飛べている。
人は違う。
人類という種族には、別なものが見える。とても余計で、不自然なものが。
今日も、今この瞬間も、僕の目の前にそれはある。
海面からほんの数十メートルの高さで、芋虫のように身をよじりながら浮遊している、白レンガ造りの巨大な塔が。
■
「ねえ、放課後になったら見に行かない? シロシベ塔。
すごいよあれ、今朝調べてみたら、もう九百八十メートル越えてた。来月までには千メートルに届くんじゃないかなぁ」
昼休み。同じゼミの北中さんが、目をきらきらさせてそんなことを言ってきた。
ひと口かじった照り焼きチキンサンドイッチを飲み込んでから、僕はため息をつく。広い世の中には、あの妙に動物的な動きをする気持ち悪い浮遊塔を、神秘的な芸術品だと見なす人たちがいることを、認めないわけじゃない。そういう美的感覚の持ち主が、同じ教室の中にいるということも、特に嫌ではない――でも、まるで同じ感覚を持つ同志のように僕を扱い、ましてや笑顔で鑑賞会に誘ってくるのは、さすがにちょっと、どうかと思う。
「やだよ。北中さんひとりで行ってきなよ。僕はそのまま家に帰る」
「えー? なんでよ。九百八十メートルだよ? 見ごたえあるよー。
用事でもあるの? お母さんにお留守番頼まれたとか、お使い頼まれたとか、見たいアニメがあるとか、デートとかデートとかデートとか」
「思いつく用事の例が偏ってるよ。いや、用事なんてないけど……単に見る気がないだけだよ。あのウネウネしてるのじーっと見てると、こう、頭の奥が焦げ臭くなる感じするもん」
「あー、それはあるわねー。実際、アレを長時間見続けるのは、それなりに神経に負担かかるらしいし」
「でしょ? 無理して体に悪いことしなくてもさ、フツーに本とか読んで健康的に過ごした方が、」
「それはそれこれはこれ。私はアレをじっくり見たいの。それも誰か他の人と」
ぐい、と顔を寄せて、圧力をかけるように言ってくる北中さん――黒目がちで、まつげが長い彼女は、とんでもなく強い目力の持ち主だ。このアーモンド形の綺麗な目に凄まれると、自分がシャーレの中の細菌か何か(つまりとてつもなく小さなもの)になってしまったような錯覚に襲われる。
「というわけで行こうね? 展望台の屋上でお菓子食べながら、だらだらゆっくり観測しよー」
微笑んだ彼女に、ほとんど反射的に頷いてしまって、僕は微量の後悔とともにもうひと口、サンドイッチをかじった。
基本的に、やる気のない人間は、やる気のある人間には勝てないものだ。
■
その日の午後の授業は、僕も北中さんもひとつだけだったので、十五時前には早くも放課後を迎えることができた。
コンビニで買ったお菓子やジュースの詰まったビニール袋を片手に下げた、ワクワク気分の溢れ出るような北中さんと一緒に、キャンパスの端っこの展望台に登る。
かつては灯台として使用されていたこの施設は、海と空を気持ちよく眺めるためには最高の場所であると言える。しかし、学生にはあまり人気がない。なぜか? 言うまでもなく、シロシベ塔を見るのにも最高の場所であるからだ。
というか、どうしてもあのウネウネが目に入ってしまうので、正常な感覚の持ち主ではとても落ち着かない。よってここに来たがるのは、北中さんのような、アブノーマルな神経の持ち主だけに限られる。
――の、はずなのだが。今日に限っては、先客がいた。
「あ、シロシベがいる。珍しいなー、こんな高いとこまで上がってくるなんて」
北中さんの肩越しに、僕にもその人影は見えた。
展望台に備えつけてあるコンクリート製のベンチに、うつぶせに寝転がっている。裾にもさもさとしたファーをつけた真っ白なワンピースドレスに、背中の半ばまでの長さしかない、短い黒いマント。首にはさらに、白いマフラーを巻いているという、恐ろしく暑そうな装いの女性。肩のラインで切り揃えられた琥珀色の髪はつややかで美しいが、先の方がやや色落ちしているようだ。ワンピースはノースリーブであるらしく、細く青白い腕が体の左右に投げ出されているが、そこにはミミズののたくったような、青紫色の刺青じみた模様が見える。足には、発泡スチロールのように白い飾り気のないサンダルを履いていたが、右足に履いている分はほとんど脱げかけ、かろうじてストラップが親指に引っかかっている状態だ。
身長と体型からして、中学生から高校生ぐらいの少女のように見えなくもないが――それが少女、とはまた全然違う存在であることを、僕も北中さんも知っている。
「やほー、シロシベー。元気してるー?」
まるで昼寝をしているようなそいつに対し、北中さんは親しげに声をかけていた。
声をかけられた側は、居眠りから覚めたように、もぞりと身じろぎしたのち、ゆっくりと首を回して、こちらを向き――。
「うへえへひひひひひひ。今日の忍者は晴れだよ。揚げ物を深く漂白してゴールすればいいのだ」
赤く輝く不気味な目と、ヨダレをたらたらと溢しているかさかさの唇をニヤーッと笑わせて。挨拶とも何ともつかない意味不明な言葉を吐いた。
だが、そのリアクションに北中さんは怒りも動揺も表すことなく、というか何の感慨も見せず、笑顔でベンチに近付き、そいつの――シロシベ・キューベンシスの襟首を引っ掴み、猫の子のように片手で持ち上げると、そっと展望台の端の影になっている場所に移動させた。
「はいはい、今日も絶好調だねーシロシベは。でも、きっと日なたよりは、暗いところの方が渇かなくて済むと思うからそっち行ってねー」
「悪いがタマネギは甘えん坊の武器。あずき粥と強盗事件でしか活躍できないのさ。うへ、うへへ」
ひょい、と薄暗がりに置かれたシロシベは、相変わらずよくわからないことをつぶやきながら、背中を丸めて動かなくなった。どうやら、湿っぽさがお気に召したらしい。
――これらの流れを、そばでただただ見ていた僕は――つくづく、この人間社会はおかしなことになっている、という気持ちを強くし――深く、深く深く、うなだれた。シロシベ・キューベンシスの存在は、もはや人類にとっては、その辺の犬猫程度のものでしかないのだ。
「あー、やっぱり軽いねー、シロシベは。全体が菌糸だから当たり前だけど。
でも時々うらやましくなるなー。私があれくらい軽かったら、毎晩お風呂場の体重計に乗るの、怖がらずに済むのに。……さ、席が空いたから、キミはそっち座って。そんでもってポテチの袋開けてよ。シロシベ塔見ながら食べるんだー」
「ダイエット中ならポテトはやめようよ。あとシロシベさん触った手でお菓子食べようとしないの。ウェットティッシュ持ってきてるから、ちゃんとキレイに拭いて」
「えー、いいじゃん。別にシロシベ汚くないよー?」
「それでもダメ」
ぷらぷらと面倒臭そうに振られる北中さんの手を掴み、強引に指の一本一本まで、ウェットティッシュで拭ってあげる。おかんになった気分である。彼女はシロシベほどではないが、いろいろなことに無頓着だ。
ふたりで並んでベンチに座り、海の方を眺める。正確には、僕・開いたポテトチップスの袋・北中さんの順でベンチに座って、シロシベ塔を眺めている。あの塔は朝見た時と同じで、やっぱりウネウネ蠢きながら、自らを成長させ――というか、建築? し続けている。虚空から生じたレンガ片や材木を取り込み、積み木のように組み合わせて、じわじわと、しかし着実に完成に近付いている。
「ふあー、やっぱりでかいねー。もうそろそろ出来上がるのかなぁ」
「じゃない? 前は千二十メートルになったところで、赤道の方に運ばれていったんだよね。今回も、それくらいまで育ったら巣立っていって……また、最初から新しいのが、ウネウネ作られ始める」
「ああ、いいねその表現。巣立つかぁ。じゃあ、この湾はシロシベ塔の巣なんだねぇ。親鳥は赤道にあるグレート・キャッスルってとこかな?」
「どうだろ? 巣立ったヒナが親のところに行くってのはおかしくない?」
「ううん、言われてみれば……シロシベはどう思う? ある意味シロシベ塔の生みの親なんだから、何か意見ない?」
もちろん、北中さんとて、返答があると期待して口にした質問ではなかっただろう。シロシベには、会話できるような知性はない。人の言葉を集積し、ランダムにアウトプットするのがせいぜいなのだ。
実際、その時もシロシベは「カレーが、あるいはフォートマンモスが」とか言いながら寝返りを打っていただけで、何も答えは返してこなかった。
北中さんは、にへへと苦笑し。僕は、特に何も言わず。それからしばらく、無言でシロシベ塔を眺め、合間にポテチをつまんだりして過ごした。
「不思議だよね」
「ん? 何が、北中さん?」
「あの塔。あんなにくっきり、見えてるのにさ。私とキミとで、一緒に眺めるぐらいにリアルなのにさ。ただの幻覚に過ぎないなんて。不思議だと思わない?」
僕は振り向いて、彼女の横顔を見つめた。海風になぶられた長い黒髪をかき上げる北中さんは、意外にも憂鬱そうな表情をしていて。
「あそこには何もなくて、私たちの脳があそこに『塔がある』って感じてるだけなんてのは……不思議な感じ。何も見てないんだよね、私たち。海も見てないし、塔も見てない。でも、同じものを共有してる。何ていうか、次元の違う場所を覗き込んでるような気持ち。
シロシベはどうして、人類にこんな塔の幻覚を見せてるのかな? ううん、シロシベに意識はないんだっけ。生みの親のシンガー博士に聞くべき質問だよね……まあ、答えなんて、返してもらえるわけはないんだけど……」
「…………」
北中さんの感じた疑問は、もうかれこれ百年以上、世界中の人間が抱き続けているものだ。
そして、今後もけっして答えが出ることはないだろうし、手放すこともできないだろう。
海の上で、塔が組み上がっていくという幻覚。
全人類がその幻覚を共有していて、それを人類に強いているシロシベ・キューベンシスは、疑問に答える能力を持たないのだから。
■
シロシベ・キューベンシスという存在は、西暦二千八十二年、アメリカのヒューバート・シンガーによって生み出された。
当時六十九歳だったシンガーは、遺伝子工学の世界的権威であり、ボストンの郊外に個人の研究所を持つほどの大富豪でもあった。彼の業績は、百年が経った今の教科書にも、ちゃんと載っている。三十を越える疫病を駆逐し、千二百を越える新しい野菜を作り、それ以外にも一万近い発明と特許技術を生み出し、数千万の恵まれない人たちの命を救った。ノーベル賞を獲ったこともある、とっても、とっても偉い人――なのだが、同時にとてつもない変わり者でもあったらしい。
とてつもなく落ち込みやすく、何の前触れもなく憂鬱な気分になっては、何ヵ月も屋敷に閉じこもって出てこないこともザラ。かと思えば、急に活動的になって、一年間の休暇を取り、世界中の美術館を渡り歩いてみたりする。
そんな、普段から何をするかわからない人だったから、周りの人たちもシンガーの奇行に慣れっこになっていた。ある日突然、彼が自らの研究所を閉鎖し、雇っていた研究員たちを全員追い出して、自分ひとりだけで何かをやり始めた時も、また天才がいつもの気まぐれを起こしたのだろうと思われ、誰も心配する者はいなかった。
だが、それがいけなかった。
自分だけの研究所で、シンガーは何を思ったのか――というか、どういう理論でそれを成功させたのか――菌糸類に運動性を持たせ、動物に近い生き物にするという、わけのわからない発明を成し遂げていた。
人間そっくりの姿をし、歩き、喋るキノコ。それを最初に見せられた不幸な人間が誰であるのか、僕は知らないが、きっとその人は、たちの悪い冗談としか思えなかったことだろう。普通の人間に、キノコっぽい服装をさせて、「わたしキノコよ」と言わせてるだけ――それ以外の感想を持てなかったことだろう。
だが、シンガーは大真面目だった。彼は確かに、歩き喋るキノコ人間を作ったのだ――無邪気なシロシベ・キューベンシスを。
このネーミングは、シロシベの元となったPsilocybe cubensisというキノコに由来する。このキノコ、日本ではシビレタケモドキという名で、字ヅラだけで察せる人もいるかも知れないが、そう、思いっきり毒キノコである。
合成麻薬のLSDに似た成分を含んでおり、摂取すると幻覚を見たり錯乱したり、とてつもなく危険なことになる。シロシベはそんな、動かないキノコであった頃の性質を忠実に継承し、常に幻覚を見て、錯乱しているかのような人格を、デフォルトとして持っていた。
瞳孔は常に開きっ放しで、けたけたと笑いながらわけのわからない言葉を垂れ流す。手足は感電したようにぶるぶると震え、まっすぐになるのを嫌がるかのように、体を右か左に傾けて立つ。さすがの天才ヒューバート・シンガーも、人の知能をキノコに与えるほどの仕事はできなかったらしい。だが、それ以外の余計な機能をいくつも、シンガーはこの新生物に与えていた。
まず、シビレタケモドキの怖れられる原因の最大のもの、LSDに酷似した毒性。
それを弱めるとか打ち消すとかでなく、むしろ桁違いに強化したものを、シロシベはたっぷり含有していた。
彼女の肉(?)だけでなく、吐き出す胞子にも、同様の成分が含まれており――シロシベ・キューベンシスの周囲、半径十五キロの範囲内で呼吸をした人間は、例外なくその幻覚剤のお世話になることが判明した――というか、シンガー自身が堂々とそう発表した。
「だが皆さん。私の愛しいシロシベが、かつてマジック・マッシュルームなどとあだ名される危険なキノコであったとしても、これからはもう、その印象に引きずられ続ける必要はありません」
シンガーは悪びれることなく、そう前置きして、シロシベの発する幻覚成分について、詳しく説明を行なった。
曰く、彼女がばら撒くのは幻覚を起こさせる成分ではあるが、シビレタケモドキ本来の成分とは根本的に異なる。
曰く、それは幻覚を見せる以外、人体には何の悪影響も及ぼさない。精神的高揚も、鎮静作用も、錯乱につながる効果は一切ない。
曰く、見せる幻覚の内容を、完璧に固定した。シロシベの成分を摂取した者は、空中の決められたポイントに特定の建造物を見るようになるが、それ以外のものを見ることはない。
曰く、だから安心して欲しい。
――何がだ。たぶん、誰もがそう思った。
全然安心できない。すごくヤバい予感がするから、隔離するか処分しろ。世間がシンガーにそう抗議し始めた頃には、もう遅かった。
シンガーが、シロシベ・キューベンシスに与えた、もうひとつの余計な機能。それは、爆発的な繁殖能力だ。
シロシベは、ほとんど二十四時間、胞子をばら撒き続けている。半径十数キロという超広範囲に対して。
しかも、ばら撒かれた胞子の一粒一粒が、ものすごく簡単な条件で成長し、新しいシロシベ・キューベンシスとなる。シロシベが世間に発表された翌日には、ペンシルバニア州、ウエストバージニア州、ケンタッキー州、テネシー州で、それぞれ数百体のシロシベ・キューベンシスがぶらぶら歩いているのが確認された。その翌日には、全アメリカでシロシベが跋扈し、さらに一週間が経てば、北アメリカ全土、南アメリカ全土、ロシア、中国、日本などで、それぞれ同じ顔をしたキノコ少女が発見され――とうとう、一年も経たないうちに、地球上においてシロシベ・キューベンシスの存在していない土地は、どこにもなくなってしまった。
恐ろしいことにシロシベは、熱帯雨林のアマゾンのジャングルにも、ヒマラヤ山脈の空気の薄い頂にも、北極や南極の氷の上にも、エヘエヘ笑いながら存在しているのだ。菌としても、彼女たちの生存能力は並外れている。人類がその時点で七十億人であったのに、シロシベ・キューベンシスは、一年の間に二百八十億体にまで増殖した。気の遠くなるような増え方である。
ある意味シロシベは、人類の前に初めて現れた、非人間の侵略者だった――もっとも、彼女たちは菌なので、わずかな栄養と水分以外何も摂らないし、一体一体はわずか十日ほどで寿命を迎えて崩壊するので、人類が貴重な資源や居場所を奪われたりするような事態にはならなかったが。
まあ、それはいい――全然よくないけど、どちらかというと小さなことだ――シロシベは何もしない。その辺を歩いたり、道端でゴロゴロしたり、茂みの中でブツブツ独り言を言っていたり、犬の糞を見つめてニヤニヤしたりしているけど、本当にちっとも人にちょっかいを出してこないので、やがて世界中のどこででも、図体のでかい野良犬みたいなものとしての扱いが定着した――それよりも、人類に対して大きな影響を与えたのは、彼女たちの出す胞子による、強力な幻覚作用だった。
シンガーの宣言した通りに、誰もが、それを見るようになった。
海の上で。山の上で。あるいは、街の上空で。
どこからか現れたレンガや材木、瓦などが生き物のように集まり、組み合わさって、塔や城壁が建築されていくという、荒唐無稽な幻覚を。
これが不思議なもので、みんながみんな、同じ場所に、同じ幻覚の構造物が浮いているのを見る。僕らのいる地域では、大学のそばの湾の沖に、白レンガの塔が浮いているのが見える。他の地域では、城門だったり、石垣だったり、いろいろだ。ただ、みんなが特定の場所に特定のものを見る、という現象は、世界共通である。
あまりにみんなの見ている幻覚が一致しているので、それが幻覚でなく、空中に立体映像を映し出しているんじゃないか、という人もいた。だが、それは違う。写真にはその塔は写らない。だが誰もが、同じ方向を指差し、あそこに塔があると言う。
この、シロシベによる共有幻覚――通称、シロシベ塔(あるいは、シロシベ館)によって、空は支配されてしまった。
人類が、美しい空だけの空を見ることはなくなった。空を見上げると、見ないようにしても、目の端にシロシベ塔が映る。ウネウネと生き物のようにうねる、気色の悪い建築物が。
確かにシンガーの言う通り、幻覚を見せられてはいても、それで体調を崩した人はいなかった! 本当に、シロシベ・キューベンシスは、何の害もない、ただ幻覚を見せるだけのキノコ少女に過ぎなかったのだ。だが――だが、だからといって、文句なしというわけにいくはずがない。
世界中が、シンガーを非難した。
当たり前である。
始終、ありもしない幻覚が見えているというのは、非常にうっとおしいのである。それ以外にも、まるで麻薬中毒患者のような、というかそれそのものな姿をした、シロシベ・キューベンシスがそこらじゅうに溢れていることについても、いたたまれない気分になると抗議した人がいっぱいいた(ただ、これに関しては、「よく見るとちょっと可愛い」とファンになった人も多くいたので、それほど多い声ではなかった)。
何でこんなことをした! 言え! とばかりに、シンガーは七十億人から問い詰められるはずだったのだが――そうはいかなかった。
シロシベ・キューベンシスを世に発表した、その翌日には、ヒューバート・シンガーは自家用ヘリに乗り、どこへともなく姿をくらましてしまったからだ。
彼がどこへ行ったのか、誰も知らない。広い大西洋の真ん中に向かい、死体も残らないように自殺したのだ、という説が最も有力とされているが、確かではない。カナダの山奥へ逃げ込み、ひっそりと余生を送ったという人もいるし、整形してオーストラリアに渡ったと書いてある本もある。
何にせよ、シンガーはいなくなった。シロシベ・キューベンシスという新生物によって、世界をどうしようもなく変えた上で。あらゆる責任と説明を放棄して。
――それから、百年が経つ間に、もちろんいろいろなことがあった。
まず、世界中の科学者が、山のようにあるサンプルを元に、キノコ少女シロシベ・キューベンシスの研究を開始した。
研究テーマは大きく分けて三つ。
ひとつめは、シロシベの繁殖力を抑える方法を開発できないか? というもの。これができれば、幻覚性の胞子で空気が汚染されることもなくなり、人類は妙な幻覚から解放される。
ふたつめは、もっとダイレクトに、シロシベの幻覚成分を解毒する方法を開発できないか? というもの。メリットはもちろん、ひとつめの研究テーマと同じである。
そして、みっつめは、シンガーが何を思って、シロシベ・キューベンシスを生み出したのか? という疑問を追及するものだった。
トチ狂っても、やはり天才であったことは否定できないヒューバート・シンガー。彼がこの大事件を起こした裏には、何か知られていない意図があるはずだ、という考えから、この研究路線はスタートした。それさえ解明できれば、シロシベの存在するメリットを見出すことができるかも知れないし、幻覚への対処法も明らかになるかも知れない。
三派に分かれた研究チームは、相互に連絡を取り合いながら、一歩ずつ、着実に、シンガーとシロシベの謎をメスで切り開いていった。
まず、これは成果と言えるかわからないが、シロシベの繁殖を阻害することは実質上、不可能であることがわかった。
彼女は姿形、挙動こそ、世界中のどの個体も変わらないが、その遺伝的性質は、恐ろしく急速に進化し続けているということが明らかになったのだ。彼女を破壊できる殺菌剤が、どこかにあったとする――それが、どこかの個体に使用されたとする――するとなぜか、世界中の他の個体に、殺菌剤の情報が伝達され(どうやらラジオや携帯電話のように、電磁波を使用する連絡方法であるらしい)、即座にその成分への抵抗がシロシベの体内に作り出される。
寒さ、暑さ、乾燥、放射線などの条件に対しても、あっという間に彼女は耐性を身につけた。仮に世界中で核戦争が起きたとして、人類が絶滅したとしても、シロシベは生き残るだろう。彼女を滅ぼすことは、ゴキブリやインフルエンザを駆逐すること以上に難しいのだ。
幻覚成分を解毒することも、ほとんど同じ理由で不可能だとわかった。
シロシベの放出する胞子は、呼吸によって人の体内に取り込まれると、生きたまま粘膜から血管内に侵入し、脳内に寄生する。
そして、脳細胞の中で、まるで医者が個人に合った薬を処方するように、ひとりひとりに少しずつ違った種類の幻覚成分を合成するのだ。
その日の体調や、栄養の状態によって、分泌される幻覚剤の量も増減する。同じ個人でも、その日とその翌日とで、治療法が全然違ったりするのだ。これではとても、全人類に対し共通の治療法など見つけ出せない。
そして、みっつめの研究テーマ――シンガーの動機解明――については、ほとんどまったくと言っていいほど、前進がなかった。
どう考えても、シロシベを世界に蔓延させる動機が見出せない。キノコ人間を世界中にばら撒いて、どうしようというのか。幻覚を見せて何の得があるのか。
シンガーの生い立ちや趣味、イデオロギーからも、何も出てこなかった。彼は、社会に混乱を巻き起こすことを好むような性格の持ち主ではなかった。むしろ秩序と平和を重んじ、戦争や暴力といったものを強く怖れていたと、親しい人たちは証言している。
趣味は美術鑑賞。特に好んだのはエル・グレコやルーベンス。キリスト教の宗教画に関心があったようだが、キリスト教徒というわけではないらしい。特定の政治結社や思想団体に所属した形跡もなし。結局、彼が世界的な大事件を引き起こした理由は、突発的な狂気によるもの、としか判断のしようがなかった。
研究者たちが足踏みを続ける中、一番の成果を挙げたのは、一般大衆だった。事件発生から二、三年のうちは、世界中で大混乱が起きたものだが、ピークを越えると、みんなシロシベの存在や、幻覚が見えることに慣れ始めた。
無害なシロシベは、スズメやヒヨドリのように日常の中に存在する動物として受け入れられた。目に見えるが触ることはできないシロシベ塔は、雲や月や太陽のような扱いになった。国によっては、月見に似たシロシベ塔観察会が文化として根付いたところもある。みんな、そういつまでも騒いでいるわけにはいかないのだ――世界は大きく変わったが、変わったままでも何とかなるように、常識の方をすり合わせていった。
五年ほどで、シロシベの騒ぎは喉もとを過ぎて、人々は熱さを忘れた。
あとにはただ、もやもやとした謎と、けたけた笑うシロシベの群れと、巨大で邪魔っけなシロシベ塔が残るのみ。
■
今の時代には、アマチュア天文家や、鉄道マニアのような趣味人のくくりで、シロシベ塔マニアとでも呼ぶべき人たちが生まれつつある。
北中さんもそのひとりだ。彼女は子供の頃からあの変な塔にロマンを感じ、同じ年頃の少女たちがアニメの魔法少女やきらきらのアクセサリーに夢中になっている間にも、ひとりで山や高いビルに登り、一日中でも建設中のシロシベ塔を見て過ごしていたという。
今でも長期休みになると、世界中を巡って、いろいろな場所で多種多様な姿の塔を見て歩いているらしい。その思い出話を語る時の彼女は、本当に楽しそうで、ちょっとまぶしいぐらいだ。
「幻覚だから写真や映像に撮れないのが残念だけどねー。でも、香港のシロシベ塔は忘れられない壮大さだったよ。この湾の塔ももちろん立派だけど、あそこのはだいぶ違ってたなー。何て言うか、長いだけじゃなくて、太い?」
右腕を、空中のシロシベ塔に向けてまっすぐ突き出し、人差し指だけをピン、と真上に立てて。北中さんは話す。
「塔っていうと円柱ってイメージだけどー……どっちかというと、半球に近い? それも半径三、四キロの。直径じゃないよ? 圧迫感が並じゃないよね。息苦しくなるぐらいの重さが伝わってきたよ。
もちろん、赤道のグレート・キャッスルも見た。不思議な話だけど、香港の塔よりこっちの方が、圧迫感は少なかったなー。大きさ自体はグレート・キャッスルの方が何千倍も大きいのにね? 距離のせいかな? それとも完成度のせいかな。今でもわかんない」
彼女の言うグレート・キャッスルというのは、世界中のシロシベ塔が集まってできた、超弩級サイズのシロシベ塔――いや、城である。
僕たちの街の湾で作られている塔もそうだが、世界各地で発生したシロシベ塔は、ある一定のサイズまで成長すると、赤道の方へゆらゆらと流れていく。
そして、赤道に着くと、東から西に向かって地球の周りを回りながら、お互いに引き寄せ合って組み合わさって、さらに巨大な建築物となっていく。
それはまるで、工場で作られた部屋や屋根の部品が、クレーンで運ばれて組み立てられて、ひとつの家屋となるような光景だという。いわゆるプレハブ工法だ。もちろん、その表現の何万倍もの壮大さが、そこにはあるのだろう。だが、直に見ていない僕には、ピンとくるものではない。
「外国のシロシベ塔は、ずっしり大きくて。日本のはすっきりスマートって印象だね。ん、んー……おお、ねえねえ、やっぱりまた大きくなってるよあの塔。この人差し指と腕の長さで、だいたいの大きさを計算するんだけどね? こりゃー来月どころか、三日もかからないかも。千メートル越すの」
いかにもワクワクが抑えきれない、という様子で、ひたすらにはしゃいでしゃべりまくる北中さん。
僕はそんな彼女の言葉を、ほとんど右から左に聞き流しながら、ポテチをつまんでいた。
「……グレート・キャッスルは、さ。できあがったら、どんな姿になるのかな?」
「あん?」
ふと思いついた疑問が、つい口に出た。北中さんは眉をひそめて、シロシベ塔を計測していた右腕を下ろした。
「いや、世界中で作られてるシロシベ塔が、さ。赤道に集まって、グレート・キャッスルのパーツになってるじゃない。
シロシベ塔もグレート・キャッスルも、一応見た目は建築物だよね? だったらいつか、グレート・キャッスルが、ひとつの城として完成する日が来るのかな。それとも、あれはただパーツの寄せ集めに過ぎなくて、際限なく集まるばかりで、永遠に完成なんてしないのかな。どっちだろう?」
「あー……確かに謎だわね。専門書でも、グレート・キャッスルが完成するのかどうか、考察してるのがあったけど、結論は出てなかったわ。
実物見たけど、城……に、見えなくもないけど……どっちかというと、でかい岩の塊っぽい格好だったから、計画性を持って作ってるのか、全然わかんなかったし」
「でかい岩? ピレネの城、みたいな?」
「アレよりはずっとめちゃくちゃ。粗大ゴミ置き場をこう、ギュっておにぎりにしたみたいな感じ?
しかし、うーん、そっかそっか、グレート・キャッスルの完成形かぁ……考えたこともなかったなぁ。案外面白い研究テーマかも」
「どうかな? さすがに、もう思いついて深く突き詰めてる人がいるんじゃない? シロシベ塔関係の学術書なんて、もう何万冊も出てるわけだし」
シロシベ塔を扱う学問は、非常に幅広い。医学、遺伝子工学に携わる者は、当然これを教科書の中に見るし、歴史研究家も、シロシベ塔の成り立ちや成長過程を記録している。社会学者は、世界各地でシロシベ塔がどう認識されているかを研究しているし(アフリカなどには、神の棲み家として崇める部族も存在している)、シロシベ塔をテーマにした小説や詩も多く書かれているので、文系の大学でもこの幻覚の塔について学ぶことになる。
かくいう僕も、ゼミでシロシベ塔の出てくる小説を研究している。――といっても、現代文学という広いカテゴリを研究していく中で、それの出てくる作品をいくつか、サンプルとしてピックアップしている、というだけのことだが。
北中さんに至っては、完全にシロシベ塔テーマの作品にのみ集中して読み込んでいる。何がそこまで彼女をそうさせるのか、僕にはわからない。彼女と意見が一致しているのは、ただひとつ、R・P・ロドニィの『ねじれと洋梨』(二千百二年)は最高だということだけ。
「明日にでも、教授に聞いてみよっと。グレート・キャッスルが完成したらどんな姿になるか、予想してる研究論文があるかどうか。わかんないって言われたら、理学部の人たちに聞いてもいいわ。少なくとも私は知らない……キミもそうだよね? じゃあ調べてみる価値はあるよ。面白そう、すっごく面白そう」
「そこまで? ……いや、まあ、つまらなそうって言われるよりは、ずっと良かったけど」
北中さんはこの日、これ以降、ほとんど何も喋らなかった。腕組みをして、ただじーっとシロシベ塔を見つめていた。その表情は真剣そのもので、彼女がシロシベ塔へ向ける思いの深さを感じさせた――できればそれを、自分ひとりで消化して欲しいと、心から思う。何度も繰り返すが、僕は別にシロシベ塔そのものは好きじゃないのだ。
日が暮れて、海も空も塔もオレンジ色になり始めた頃に、ようやく僕たちは帰路についた。
「明日はお弁当を、この展望台で食べるのもいいかもね」
別れ際、そんなことを提案してきた北中さんに、さすがに勘弁してくれと言った僕は、別に冷たい奴でも何でもないはずだ。
塔が見えない別のところだったら、いくらでも歓迎するのに。そう、いくらでも。
■
シロシベ・キューベンシスの出現によって、唐突に世界は変わった。
ヒューバート・シンガーの発明によって、たったひとりの仕事によって、七十億人とその子孫たちの人生が変わった。文化が、学問が、歴史が、社会が変わった。
このことが表しているのは、世界の転換点が訪れる時には、必ずしも前兆があるわけではないということだ。
その日も僕は、海岸線沿いの下り坂を降りて、大学へ向かおうとしていた。
足取りは、少しばかり重い。昨日、展望台で一緒にシロシベ塔を眺めたあとの帰り道で、北中さんとケンカをしてしまったのだ。ゼミの教室で彼女と顔を合わせねばならないと思うと、かなり気まずい。
まったく、それは突然の変化であり、予測できない転換点だった。北中さんは人の都合に対して、あまり考慮をしてくれない、はっきり言って無遠慮な人だが、それと同じくらい、他人の無神経なふるまいに対して寛容だ。僕なんか、彼女が大好きで大好きでたまらないシロシベ塔を、ことあるごとに「気持ち悪い」「見たくない」「あれが好きな人は趣味が悪過ぎる」などとこき下ろしているのに、怒られたことも嫌がられたこともない。普通、自分の好きなものをけなされたらイラッとしそうなものだが、北中さんはそういうことをしないのだ。
だいぶ前に、待ち合わせの約束に遅刻した時も、笑って許してくれた。彼女から預かった、書きかけの論文が入ったメディアを失くした時も、「一緒に探そうか」と言われただけで、責められた覚えがない。――もちろんそれらの件については、深く深く反省している。反省しているけど、そんな彼女の性格を知って友達付き合いをすると、かなり気が緩んでしまうのは、仕方がないことではないだろうか。
だから昨日、北中さんが大噴火したのには、本気で度肝を抜かれた。
僕がとんでもなく酷いことをした――と、いうわけでは、ないと思う。でも、かといって、北中さんが理不尽な理由で怒っている、というわけでもない。ことは少々複雑で、非常にデリケートな心情の上に成り立っている。
順を追って説明すると。昨日の放課後、帰り道で。僕は北中さんから告白された。
頭の中が焦げ臭くなるぐらい、長くシロシベ塔を見て。げんなりした気持ちで歩いている時に、何の前触れもなく言われたのだ。
『今、ふたりっきりだよね。ちょうどいい機会だし、雰囲気も悪くないから、言っちゃうね。
私、キミのことが好きだよ。キミさえよければ、カレシカノジョの間柄になりたいと思ってる。どう思う?』
気付いてみれば確かに、彼女の言う通り、雰囲気は悪くなかった。丘と岬をつなぐ海岸線の道路の途中。海と空は、茜色と群青のグラデーションを描いていた。北中さんの愁いを帯びた微笑みはセピア色に見えたし、のたうつシロシベ塔を無視すれば、その光景は今まで見たどんな絵画より鮮烈で、美しかった。
不覚にもドキリとしたのは否定しない。というか、正直ものすごく嬉しかった。北中さんは素敵な人だ――それは、ずっと前から思っていたことだ。シロシベ塔マニアであるという点だけは本気でうんざりするが、それをカバーして余りあるぐらいの魅力が彼女にはあった。
僕は口に出さないだけで、彼女を好いていた。ただし、極めて仄かに。日常の一部として、同じゼミの良く話す友人として、彼女の存在を受け入れていて、それで満足していた。
だからこそ、そこに一石を投じる彼女の告白は衝撃的なもので。僕はそれを受け入れることに、かなりの勇気を必要とした。
告白を受けてから、たっぷり数十秒の間を置いて。僕は、じっとこちらを見つめている彼女に『僕もそう思う』と返事をした。
その時の北中さんの笑顔は、どう言葉を尽くしても表しようがない。サンタクロースにプレゼントをもらった子供のように無邪気で、全力で挑んだ戦いに勝ったスポーツ選手のように輝いていて、女性としての可愛さは――適当な美人の肖像画をいくつか思い浮かべたけれど、これというものが選びきれない。とにかく、胸がきゅーっとする種類の可愛さではあった、と思う。
だから、反射的に僕は、彼女を抱きしめた。
両腕で、小柄な北中さんの全身を包むように、ぎゅっと、強く。
そして、彼女がびっくりした表情を浮かべているところに、そっとキスをした。
――たぶんだけど、これがいけなかった。この衝動的な愛情表現が、北中さん的にはお気に召さなかったようだ。
唇と唇が触れ合った、およそ二秒後。僕は顎を、北中さんの拳によってかち上げられていた。
きれいなアッパーカットだった。脳をぐわんぐわんと揺らされ、たまらずよろめいた――そこに、彼女のカバンが飛んできた。教科書やノートが何冊も入った、重い奴が。顔面に水平に、バシィとぶつけられて、今度こそ僕は、仰向けに倒れ込む――でも、そこで終わりじゃないのが北中さんという人だ。
『アホ』『バカ』『くたばれー』と、散々な言葉を浴びせられながら、何かホウキのようなものでバシバシと叩かれた。その時はわからなかったが、なんと彼女、偶然通りがかったシロシベの首を掴んで、それこそホウキのように振り回して、僕をぶん殴っていたのだ。
シロシベ・キューベンシスは、体格こそ平均的な高校生の少女ぐらいあるが、スカスカの菌糸でできているため、体重はかなり軽い。水気のないスポンジの塊のようなもので、どんなに大きな個体でも、三キログラムはしないだろうと言われている。
だが、いくら軽くて、掴みやすくて、手近にあったとはいえ、よりによってシロシベで人を殴るだろうか、普通?
十回か二十回ほど、僕をタコ殴りにしておいてから、北中さんはダッシュで逃げていった。ボロボロになった僕と、苦痛も何もないので全然平気な顔をしているシロシベをほったらかして。
――うん、まあ、つまり、それで全部だ。
要するに、僕が調子に乗り過ぎたのだ。告白して受け入れて、めでたく恋人同士になったとはいえ、いきなり抱きしめたり、えっと、キスしたりしたのは、北中さんの基準からすると、品がなかったということなのだろう。
彼女は悪くない。でも、僕の行動も、それほど非常識ではなかった――はずだ、と、思いたい。
カレシカノジョなら、しても不思議じゃない行為だと思う。というか、普通にしたい。今だってしたい。北中さんを抱きしめた時の細さ、温かさ。唇の柔らかさ、しっとりとした感じ。全部思い出せる。ヴィヴィッドな感動とともに。
しかし、北中さんがそれを嫌だと言うなら。僕はその点について、譲歩しなければならない。
というか、もう致命的に嫌われたのでは? そう考えるのが怖い。完全に幻滅されて、『あの告白は間違いだった、恋人関係は解消して欲しい』とか言われたら、僕はしばらく立ち直れない自信がある。
北中さんが逃げていった直後。僕は彼女の携帯端末に、電話をかけた。
でも、出てくれなかった。夜になっても、今朝も念のためかけてみたけど、やっぱり出てくれない。
普通に拒否されている。
この事実がすごく、怖い。
通じ合えたと思った喜びの直後だからこそ、通じ合えない寂しさが、不安が、怖い。
脳裏に浮かぶのは、北中さんの輝くような笑顔と、そのあとの僕を罵る怒り顔。
そのふたつが、幻覚のように僕を惑わせ、平静でいたい心をかき乱す。
辿る道はいつものものなのに、ずっと色合いを欠いているように見えた。
――ところが。その印象は、僕の憂鬱だけが生んだものではなかった。
いつものくせで、海の方を見る――すると、本当に何かが欠けていることに気付いた。いつもあるべきもの――普段の位置から、シロシベ塔がなくなっているのだ。
あるのは、透明感のある海と空だけ。あの存在感たっぷりの、ウネウネ踊りまくっている異物がない。
しばし視線をさ迷わせて、ようやくその理由に思い至る。そうか、あのシロシベ塔は建築を終えたのだ。北中さんの予想よりだいぶ早いが、まああんな理屈の範疇外の存在だ、たまには気まぐれを起こすことだってあるのだろう。今頃は、海上を南へ南へと漂って、赤道に向かっているのに違いない。
いや、夜のうちにできあがっていたのなら、もうとっくに赤道に達して、グレート・キャッスルに取り込まれたのかも。どちらにせよ、明日にはまた新しいシロシベ塔の建設が始まるのだろう――この湾の上に、塔がうねっていない時間は、ごくわずか。
「あ、そういや北中さん、展望台でお弁当食べたいって言ってたっけ……塔がなくなって景色もいいことだし、今日誘ってあげようか」
仲直りのきっかけとしては、悪くないアイデアかも知れない――そう思えて、心の中でガッツポーズさえしかけたが、よく考えたらこれは僕の感覚での『いい考え』であって、北中さん的にはきっとまったく逆であろうということに、すぐに気付いて落胆した。彼女はシロシベ塔が好きなのだ。あの気色悪い塔を見ながら食事をするのを望んでいたのだ。お目当てのものが留守にしてる瞬間を見計らっての申し込みとか、怒られるに決まってる。
「A国で内戦が起きているよ。市街地で自動車爆弾が破裂したよ。これが風邪薬のパイナップル化現象というわけ」
唐突に耳元で声がしたので、振り向くと、ぷるぷると小刻みに震えるシロシベ・キューベンシスの、夢見がちなニヤニヤ笑いが目に飛び込んできた。
「群馬県が要塞化して日本から独立しようとしているよ。うへへ、焼肉VSトゥールビヨン式機械時計。ポチにメチルパラペンをハートブレイクさせる弱点はない」
「……そうかー。わかった。とりあえず車に轢かれないようになー」
放っとくと車道の真ん中でくるくる舞い踊りそうなので、一応彼女の手を引いて、丘のそばの茂みに案内してあげる。シロシベはやはりキノコであるせいか、乾燥したアスファルトの道路より、湿った茂みの中の方が落ち着いた表情をする。わたわた、ふらふらと動き回っていたのが、心なしかホッとした様子で、背中を丸めて「うふふふふ」と、満足げに笑うのだ。
「繰り返すよ。A国で内戦が起きている。日本では群馬県が独立しようとしているよ。うへ、うへへへへへ」
「はいはい。教えてくれてありがとうね。でも、そうかぁ……やっぱり世間じゃ、争いが尽きないもんだねぇ」
僕は小さくため息をつく。僕と北中さんの、こじんまりとした仲違いだけがこの世の悲劇ではない。もっと悲惨で真剣な対立が、地球上のいたるところに溢れている。
シロシベは基本的にわけのわからないことしか言わない。だが、実在する国や地域の名前を口にした時に限っては、耳を傾ける価値がある。なぜかはわからないが、世界のどこかで起きている戦争に関連した情報については、彼女はかなり正確なことを言うのだ。彼女の仲間たちが、電磁波によって始終連絡を取り合っていることはすでに述べたが、「どこで戦争が始まった」「どこでテロが発生した」などの情報を手に入れると、世界中の個体がいっせいにそれをわめき始める。
おそらく、現場にいる個体が直接見た情報を、世界中の仲間に即時配信しているのだろう。その正確さと速さは、インターネットにおける地震速報に匹敵する。
他の言葉がミキサーにかけられた百科事典レベルのクオリティなのに、なぜこの手のニュースだけ正確なのか? 戦争を嫌ったというヒューバート・シンガーの性格にその答えがありそうだが、具体的なことはわからない。まさか、争いごとのニュースを速く配信させるためだけに、シロシベを生み出したわけでもないだろうに。
「…………」
いや、きっと、シンガーの最大の目的は、塔の幻覚に関連しているはずだ。戦争のニュースは、目的を達成するための一要素に過ぎない気がする。いったい、シロシベは何をさせられているのか? シンガーは何を願っていたのか――?
「……そんなことを考えるのは、北中さんひとりでいいよなぁ」
少なくとも、僕の仕事ではない。
熊笹の茂みの中で、本当のキノコのように傘っぽい髪だけを突き出してジーッとしているシロシベをしばらく見ていた。彼女も、ぷるぷる震えず、けたけた笑わず、意味不明なことを喋り散らさなければ、意外と癒し系だ(もっとも、こんな評価は、シロシベ愛好家の皆さんにとっては、三流以下だそうだが。彼らは、全身を痙攣させ、頭を九十度傾けた、瞳孔開きっぱなしの一番イッている状態のシロシベこそ至高だと言う)。
どれくらい見ていたのか、気がつくと遅刻寸前だったので、僕は慌てて大学に向かって駆け出すはめになった。
途中、五十体ぐらいの別のシロシベとすれ違ったが、今度は無視した。今日はなんだか、通学路にシロシベが多い気がする。風向きのせいで、この辺に個体が集まる季節なのだろうか。
何とかギリギリで、教室に飛び込むことができた僕だったが、その瞬間に、今度は北中さんに捕まった。
「キミ、キミキミ! 大ニュース、大ニュースだよ! ネット見た? ネットネットネット!」
左手でタブレットを振り回し、右手で僕の肩をがしりと掴んで、彼女はいつも以上に興奮した様子でまくし立ててきた。
その表情は、その瞳は、昨日以前より曇っているということは全然なく、むしろ三、四倍強は輝いて見えた。なんだこれ。昨日の今日で気まずそうにしてないとか、僕としては予想外にもほどがある。
「あ、あのさ北中さん、昨日のことだけど……」
「それはあと。言いたいことはわかるけどお願いだからあと回し、ぜひお願い。今は一緒に展望台に行くのが絶対に必要なの! 授業とかうっちゃっていいから、さあさあ、ちゃきちゃき歩いてついて来て! 私たちは歴史的瞬間を、できるだけ早く、最高の場所で目撃しなくちゃいけないのよ!」
僕の肩を掴む彼女の手の力は、思いのほか凄い。さすがは昨日、シロシベを振り回して僕をノックアウトしただけはある。ぐい、と引っ張られる――抵抗するつもりはないけど、抵抗したとして勝てたかどうか――それだけのエネルギーが、北中さんの全身からほとばしっていた。爆走する機関車のような彼女に引きずられる形で、僕は教室をあとにし、校舎からも飛び出して、キャンパスの端にある展望台に登っていく。昨日と同じ行動を繰り返しているような気分だ――だが、明らかに違う要素もあった。まず、今日はお菓子を持ってきていない。昨日来たのは放課後だったが、今日は午前中、授業をサボってやって来ている。
そして、最も大きな違いは、シロシベの存在だ。昨日は、展望台の上に、彼女は一体いただけだった。でも、今日は、いったい何なんだ? 展望台を取り囲むように、ざっと百体以上のシロシベが集まって、頭をぶんぶんと左右に振っている。展望台の上に登る螺旋階段の中にも、十数体はいたし、てっぺんにも八体、ものすごく元気そうな奴らが集まって、合唱するように笑いまくっていた――あははえへへうえへえへひひひひひうふふふ――と。ずっとずっと待ち焦がれていた待望の瞬間が、すぐそこに迫っているとしたら、きっとこれくらいテンションが高くなるものだろう――だが、いったい何が起ころうとしているのか? 僕はまだ知らされていない。
「あーもー! シロシベ、邪魔ー! もうちょっと向こう寄って! ねえねえキミ、ベンチの上を確保して! 一緒に座って見ようよ! 予報によると、あと三十分もないはずだから!」
舞い踊るシロシベたちを掻き分けて、北中さんは叫ぶ。僕も彼女を手伝って、邪魔なシロシベを影になった展望台の端の方に誘導し、ふたりでベンチに腰を落ち着けてから、ようやく尋ねた。
「……で、北中さん。結局、何があるの? ネットがどうとか、歴史的瞬間がどうとか言ってたけど。そろそろ、聞かせてくれてもいいよね?」
「あ、うん。実はね、凄いことが起きたのよ。昨日キミと、あんな話をした直後に、まさか起きるとは思わなかったんだけど。
ね、ほら、覚えてるでしょ? 赤道のグレート・キャッスル。世界中のシロシベ塔が集まった、めっちゃくっちゃなでっかいお城。あれの話、してたよね」
「ああ、うん。覚えてる。確か、あれが完成したらどうなるのかって、僕が言ったんだよね」
「そう、それよ。まさにそれが、昨日、現実になっちゃったの」
僕は眉をひそめて、北中さんの顔を見直した。
「いや、そんな顔されても、ウソじゃないのよぅ。ネットのニュースで、昨日の夜からガンガン流れてるんだから。
最初に発見したのは、ブラジルの観測所よ。そこの職員が、グレート・キャッスル完成の瞬間を目撃したの」
「完成の瞬間、って……どういうこと? 確か、凄いめちゃくちゃな構造物なんだよね? どの時点で、それが完成だってわかるの?」
「それは私にもわからないわ。ネットニュースじゃ、ずいぶん抽象的な表現しか使われていなかったし。ただ、昨日の午後十時に、観測所が、ブラジル政府が、城の完成を確認したって声明を発表してる。
しかも、その声明を出したのはブラジルだけじゃないの。コロンビアも、インドネシアも、ケニアも、同様にグレート・キャッスルの完成を目撃し、宣言した。ケニアの発表が、今日の午前二時だったから、完成した城は四時間で地球をほぼ一周してるのよね。
で、ここからが重要なんだけど。そのあとでニカラグアが、タイが、インドが、サウジアラビアが、エジプトが、順々に完成した塔を確認したって発表を出したの……わかる? グレート・キャッスルは、赤道に沿って移動するルートからズレて、徐々に北に向かって移動してる……」
はっ、として、僕は東の空を振り向いた。北中さんは、先ほどからすでに、その方角を見つめて、期待いっぱいの微笑みを浮かべている。
「そう、もうすぐ、私たちの番なの。アメリカ合衆国の空を横断したグレート・キャッスルは、今、太平洋の上を、この日本に向けて驀進中。もうすぐ、あの東の水平線から姿を現すことになっているの。
この瞬間を見逃すとか、あり得ないでしょ。私は絶対に見たい。見晴らしのいいこの場所で。キミと一緒に」
さらりと言われたその言葉に、僕の胸は思いがけず締めつけられた。脳裏には、昨日の甘い出来事と苦い出来事が同時に蘇り、渇望に近い感覚で、恋心の決着を望んだ。
「き、北中さん。やっぱり、今のうちに話し合っておきたいんだけど。昨日のこと」
「ストップ。……来たよ」
真剣極まる、彼女のひと言。
僕は仕方なく言葉を飲み、あらためて水平線に注視した。
透明な海と空。その境界線から――それは、ぬっと這い出してきた。
まず感じたのは、驚きだった。燃える太陽より、そそり立つ入道雲より、ずっとずっと、ずっとずっとずっと強烈なインパクトとともに、目に飛び込んでくる。
圧倒的な視覚情報の本流に、脳が熱くなるのを感じる――手足がぶるぶると震え、呼吸をするのも忘れる――それは感動だった。
ああ、これが。これが。グレート・キャッスルの完成形。
「…………きれい」
北中さんの呟きが、僕の心情も完璧に代弁してくれた。それは――僕たちの目に映った、その完成された城は――文字通り完成されていた。これ以上は絶対に手を加えようがない、完全な美しさの権化が、悠然と浮かんでいたのだ。
美しい城! それ以上に簡潔で、相応しい表現があるだろうか? 輝かんばかりの美は、数学的であり文学的であり、さらには音楽的でさえあった。大きさは、ざっと見渡すこともできないほど巨大で――横幅だけで千キロメートルは下るまい――城というより島、島というより大陸というべきスケールであった。上半分は高過ぎて(大気圏外に突き出している)目視することも叶わない。奥行きともなると、もう想像すら及ばない。しかし、そこまで巨大であっても、確かにそれは建築物だった。無数の窓、無数の塔、無数の柱、無数の石垣、無数の梁、無数の扉、無数の階段。それらがまるで、無駄のない数式のように、最高のバランスで配置され、見る者に知的な快楽を与える。
あの気持ちの悪い、ミミズのように動くシロシベ塔が寄り集まって、どうしてこうもきれいなものが出来上がるのだろう? まったく理解できないが、それは確かにそこにあり、嵐のような感動で僕の心を揺さぶり続ける。
見れて良かった、確かにこれは、見逃したら後悔する種類のものだ。
飛ぶ城は、湾の上を滑るようにこちらへ移動してきて、僕らの頭上を乗り越える。ここに至って、僕はそのグレート・キャッスルが、幻覚の産物であるということを思い出した。太陽を向こうに回していても、影になることなく城の底を鑑賞できた。感動のし過ぎで涙が出てきた。僕がもし神様を信じていたら、きっとひざまずいて祈りを捧げていただろう。
僕と北中さんは、いつの間にか手を握り合っていた。彼女の右手を、僕の左手が。彼女と一緒にこれを見れた幸せを、ゆっくり、心落ち着けようと必死に努力しながら、噛み締める。
「北中さん。これが……これが、グレート・キャッスルの完成、なんだね」
「うん。これが、きっとヒューバート・シンガーの望んだものだよ。いや、きっとじゃなくて、間違いないよね。幻覚だからこそ作り得た、雄大美麗なお城……美術鑑賞が趣味だったっていうシンガーは、この大芸術作品が作りたかったんだ」
頷き合う。それは確信だった。百年前に死んだ天才科学者の望んだ夢に、今、僕らの世代がようやく追いついたのだ。
「――――いや、それは完全な答えではない/城はあくまで目的のための手段である」
突然、思いがけぬ声がして、僕と北上さんは飛び上がった。いったい、誰が、いつの間に、僕たちふたりきりの展望台に上がってきたのか? 割り込んできた第三者の正体を知るべく、振り返って――僕はまた、飛び上がりそうになった。
「ヒューバート・シンガーの計画は/これにてコンプリートされた/しかし彼の期待は/これより先の未来にこそある/
未来を担う人々よ/質問に答えよう/シンガーはそれができるよう/私にプログラミングを施している」
機械的に、無感情に。まるで合成音声のように、まっ平らな声で僕たちに話しかけてきたのは。
さっきまで馬鹿笑いを続けていた、八体のシロシベ・キューベンシスたちだった。
■
飛ぶ城から目が離せない。しかし、シロシベたちもまた、とても無視することはできない程度に、僕らの興味を引いた。
なんといっても、彼女らは喋ったのだ。意味のわかる言葉を。これまで、まともに文章らしい文章を語ったことのないこの生物が、まるで普通に知性を持っているように、話しかけてきたのだ。
「質問に答えよう/未来を担う人々よ/問いを発言せよ/私はそれに答えるようプログラムされている」
シロシベたちはもう一度繰り返した。別々の固体が一文ごとに交代して発言し、一連の意味の通る文章を発生させている。
今の彼女たちは馬鹿笑いをやめている。痙攣もしていない。体を斜めに傾けてもいないし、口からよだれも垂らしていない。真面目な表情で――というか、何かに乗っ取られたような空っぽの表情で、僕たちを見ている。
「質問に答えよう/未来を担う人々よ/問いを発言せよ/私はそれに答えるようプログラムされている」
三たび繰り返された言葉に、北中さんが一歩前に出た。
「質問、していいのね? 答えてくれるのね? 何でも?」
「その通りである/シンガーが答えを用意してある問いであれば/問題なく回答が可能だ」
シロシベの返答に、北中さんは満足げに頷く。そして、瞳を好奇心できらきらと輝かせ始めた――ああ、駄目だ、これは駄目だ、何も考えずに突っ込んでいくパターンだこれ。
「き、北中さん、こいつらは……」
「大丈夫、害はないはずよ。たぶん、こいつらのDNAに記述されていた時限式のQ&Aシステムだと思う。城が完成したら立ち上がるように設定してあったんだよ。
創造主のシンガー博士が、自分のしたことの意味を、世間に説明するために……今ごろ、世界中のシロシベも、同じように話し始めてるんじゃないかな。どう、この想像、合ってる?」
「合っている/私はヒューバート/シンガーの代理回答者である/彼が問われると予想した質問の答えを/彼に代わって回答するのが役目である/次の問いを発言せよ」
コンピュータ・プログラムについてくる、トラブル・シューティングみたいなものか、と、僕は納得する。
あれは、別に知性を持っているわけではないが、問いかければ答えてくれる。あらかじめ用意された質問と一致した質問をされた場合に、それに対応するあらかじめ用意された答えを提出するだけの、単純なシステム。
だが、だからこそ正直だ。このようなシステムを用意していたということは、ヒューバート・シンガーもいずれ、隠し立てすることなくすべてを世間に告白するつもりだったのだろう。百年間お預けされていた答えに、今、僕たちは触れる機会を得た。要するにこれは、それだけのこと。あの完成した城を見れたのと同じ、単純な、幸運の結果。
「……じゃあ、聞くわよシロシベ。さっきの言葉はどういう意味?
城を作ることはシンガーの目的じゃなく、手段だって言ったわよね。なら、彼の目的というのは何?
なぜ、あの城を作ったの? なぜ、あなたたちを作ったの? 最終的に、何をどうするのがゴールだったの?」
「彼は/世界に平和をもたらしたいと思った」
シロシベは簡潔に、百年前の科学者の野望を語り始めた。
「ヒューバート/シンガーは/戦争や暴力を怖れた/なのに世の中には/戦争と暴力が溢れていた/彼はそんな地球上では安心して生きていけないと感じ/どうすれば世界中の人間が争わずに済むかを/必死に考えた/
まず/疫病と貧困をなくそうと考えた/彼はそれなりの成果を上げた/医療の発達と安定した食糧生産によって/貧しさと不健康を原因とした/生きるための戦争は激減した/しかし不充分だった/富める者たち/健康な者たち/知的で道徳的な者たちの間でも/やはり争いは起きていた/
強い指導者を育成したり/宗教で人々をまとめようという試みは/最初から避けた/強者は弱者と同じくらい争いを生むし/宗教が火種となった戦争も/枚挙に暇がない/
武力でも/イデオロギーでも/経済力でも/宗教でもない/もっと根本的で強制的な方法でなければ/人々の心をひとつにすることはできないと/ヒューバート/シンガーは結論した」
「その方法が……えっと、あなたたちや、あの凄いお城なの?」
「その通り/我々/シロシベ/キューベンシスによって/全人類に共通の幻覚を見せ/全人類にあの城が完成するところを見せれば/人類は変わる/シンガーはそう考えた/あの城は/間違いなく/全人類にとって/素晴らしいものだからである」
僕と北中さんは首を傾げた。シロシベは、シンガー博士にプログラムされた回答をただ喋っているだけなのだろうが、文章の意味がいまいちわかりにくい。
「どうして博士は、そう予想したの? 確かにあの城はすごいよ。すごいきれいで、感動した。
でも、人類すべてがそう思うはずがないじゃない。みんなひとりひとり、価値観が違うんだもの。ここにいる彼だって、シロシベ塔が作られてる時点じゃ、気持ち悪いって思ってた。世の中には、あの完成した塔でも、美的感覚に合わないって人がいっぱいいるはず。だから、あの城ひとつで全人類の心をひとまとめにするなんてことは、たぶんできない……」
「否/あなたの認識には誤解がある/あの城を見て/感動しない人間は/ひとりも存在しない/
あれは非実体であり/個々人の見ている幻影であるということを思い出して頂きたい/共通の城は現実世界に存在しない/あの城を見るひとりひとりの脳の中にしか/あの城は存在しない/
あの城は/ひとりひとりの美的感動の象徴である/同じ城を見ている者はいないし/見ている城の姿も/ひとりひとりで違っている/その人間が『美しい』と思う形の城を/その人間が頭の中で作り出し/見ている/
ゆえに/全人類があの城を見て感動する/価値観の違いなどは関係がない/その人の価値観/美意識に合った城を見る/という仕掛けである以上は」
僕は、ぽかんと口を開けて、その言葉を聞いていた。じわじわと、シロシベの言っている意味が、頭に染み込んでくる。そして、その染み込み具合に比例して、驚きと納得が湧き上がってきた。見上げると今も、僕の頭の上を、城は通過し続けている。実在しない、僕の頭の中にだけある、僕の脳が作り出した城が。
「百年かかった/
正確には百六年と八十五日と七時間三十一分二十八秒/その間/シロシベ/キューベンシスの胞子は/寄生した人々にシロシベ塔の幻覚を見せながら/その脳の状態をモニタリングしていた/脳神経の活動状態を/その記録を/シロシベの菌糸と電磁波によって構成されたネットワーククラウドに集積し/分析していた/
人が感動した時/人が幸福を感じた時/脳のどの位置の神経細胞が活性化するか/どのようなホルモンがどれだけ分泌されるか/詳細に観察/検討し/人類の脳に共通の神経回路/美的感動を司るサーキットを特定した/
城が存在すると仮定される座標に/視線を向けた時/城の幻覚を見せると同時に/美的感動を司る神経回路を刺激している/
あの城の美しさは/感動的な性質は/人種にも国家にも文化にも宗教にも歴史にも貧富にも言語にもジェンダーにも因らない/純粋に生理科学的なものである/また/実在しない故に/独占もできない/奪うこともできない/解釈の差も生じない/目の見えぬ者にも見え/日々に希望のない者にも幸福を与える/故に人類共通/普遍的な概念となるであろう/すべての人々に好かれるものになるであろう/
ヒューバート/シンガーは願っている/『あの城が美しい』/『あの城を愛している』/という意識で/全人類が互いに共感を持つことを/互いへの共感が/互いへの理解となり/互いを傷つけることや嫌うことへの忌避感につながって欲しいと/そう願っている」
僕も北中さんも、言葉がなかった。
そんな理屈で、シンガーはここまでのことをしたのか? いや、理解できないとか、その考え方に嫌悪を覚えるとか、そういうことじゃない。もっと、その、根本的なところで。つまり――。
「え、えっと、さ。シロシベ。これ、聞いていいのかわかんないんだけど……シンガー博士は、その、本気でそういうつもりで、わざわざあなたたちを作ったの? 世界を変えて、百年かけて、あのでっかいお城を作ったっていうの?」
おずおずと尋ねる北中さんに対し、シロシベは頷く。
「肯定である/疑いなくその気持ちが/シンガーを行動させた」
「……こう言ったら、悪いかも知れないけどさ……えーっと……無理だとは思わなかったの? 同じ本が好きな人同士や、同じ映画が好きな人同士でも、ケンカぐらいするでしょ? みんなが好きになれるものを作ったからって、この世から争いがなくなるだろうっていうのは……さすがに、子供っぽ過ぎるような気がするんだけど……」
そう。僕も、それを真っ先に思った。
理解があろうと、通じ合うものがあろうと、人々は争う。同じ神様を信じ、同じルールに従う人たちの間でも、戦争は起きてきた。
数々の奇跡を成し遂げたヒューバート・シンガーの仕事であっても、さすがにこれは完全な的外れだったと思う。彼は天才であったが変人であり、おそらく世間知らずだった。人類は彼が思うほど、素朴ではない――たぶん。
城の完成は、まったくの無駄ではないだろうし、多くの人々に感動と希望を与えるだろう。でも、きっと、あの城がこれから先、地球上を何週しようと、世界から争いはなくならない。
「シンガーは/」
シロシベは、先の北中さんの言葉を、それまでと同じような質問であると捉えたのだろう、虚ろな瞳で淡々と、答えをアウトプットし始めた。
「無理だと/理解していた」
え?
「全人類にとって美しく見える城の存在は/おそらくいくつかの紛争を止め/いくつかの仲違いしている者たちの/手をつながせる役に立つだろう/だが/それ以上は進めない/完璧な平和は/作り出せない/人の意識は複雑で/微妙な要素によって荒れ/また穏やかにもなる/たったひとつの大きな材料で/制御できる波ではない/
シンガーは何十年も考え/シロシベ/キューベンシスと/幻覚の城を用いるメソッドを思いついたが/それが彼の限界だった/彼の才能と思考能力では/これ以上に有益な世界平和実現の手段は/発明できなかったのだ/
だがそれでも/彼はシロシベ/キューベンシスを作り/幻覚の城を/不完全な方法で世界を変えることを選んだ/それが彼にできる中で/一番可能性のある方法で/一番大きな一歩を踏み出せる方法だったからだ/
パーフェクトではない/だが/パーフェクトではないからと言って/何もしないという選択は/彼にはできなかった/
自分のできる最高の仕事をした上で/あとは/後続の才能に任せようと/シンガーは考えた」
「……………………」
「完璧な城は不完全な平和の象徴/シンガーの踏み出した一歩に過ぎない/これ以降の平和は/この時代の人々に託すしかない/
あの城を見て/その美しさを見て/あなたの隣にいる人のことを考えて欲しい/一緒の世界に生きている人たちのことを考えて欲しい/あなたの子孫が/世界中のいろいろな人たちの子孫と/手をつないで城を眺める時代の来ることを想像して欲しい/
その未来が平和なものであることを願って欲しい/そのために思考し/努力を重ねて欲しい/世界中の人間の努力は/ヒューバート/シンガーひとりの才能を上回るだろう/彼よりずっと優れた方法で/ずっと効果的に平和を実現できるだろう/
彼には不可能だった/完全な世界平和を/いつか実現して欲しい/あの城はそれを訴えるために空を飛んでいるのだと/そう思って欲しい」
「……………………」
今度こそ、僕も北中さんも、言葉を失った。
あの美しい城は、あそこまで完成されていながら、まだ不完全なのだ――夢を叶えられなかった天才の、挫折の象徴だったのだ。
天に君臨し、美しい姿で人々を見下ろしていながら、振りまいているのは平和への祈りだけなのだ。
とてもとても素晴らしい。だが、何もしない。死者の遺産には、何もできない。
何かするのは、今に生きている僕たちだけなのだ。
「次の問いを発言せよ」
シロシベたちは、己の職務に忠実に、無感動にそう言った。だが、僕たちには、それ以上問うべきことはなかった。
そのまましばらく立ち尽くしていると、やがて彼女らは、またいつも通りの震えながらけたけた笑うシロシベ・キューベンシスに戻った。質問されなければ、質疑応答システムは自動で終了するようだ。そして、それと同時に、彼女らは展望台にい続ける理由も失ったようで、一体、また一体と螺旋階段を下りていき、姿を消した。
あとに残ったのは、僕と北中さんと、百年前と変わらない姿をした海と空だけ。その頃には、頭上のグレート・キャッスルも、西の空へ飛び去ってしまっていた。
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「昨日はごめんね」
展望台からの帰り道で、僕は北中さんに謝った。
だけど、彼女は僕の謝罪に対して、むしろ慌てた。
「いや、違う違う違うでしょ! 悪いの私じゃん! 殴ってしばいて逃げたの私の方だよ!?」
「それでも、北中さんにそうさせたのは僕だし。今思うと、やっぱりちょっと無神経だった……いきなり、あれはなかった、よね」
「あー……うん、まぁ……うん、びっくりした。キミのこと、ああいうことするタイプだとは、思ってなかったし」
思い返すと、それだけで頬が熱くなる。我ながらなんであんな思い切ったことをしたのか。きっとあの瞬間の特殊な空気が、グレート・キャッスル並みに、僕の脳を支配していたせいだろう。
「あ、でも、勘違いしないで欲しいんだけど! わ、私、別にキミにああされたのが嫌だったってわけじゃなくて! さっきも言ったけど、とにかくびっくりして、んでもってすっごくすっごく恥ずかしくて! だからあれは、その、照れ隠しっていうか! それ以外に含むところはないっていうか!」
どうしよう。赤い顔でわたわたと言いわけする北中さんがすごい可愛い。
やっぱり僕は、彼女が好きだ。そして嬉しいことには、彼女も、僕のことを嫌いになってはいないらしい。
「……手、つないでいい?」
僕は昨日の教訓を生かして、それをする前に一応、北中さんに問いかけた。すると彼女は、自然にスッと僕の左手を握ってきた。
「それくらいはね、黙ってしてくれてもいいと思うよ、私」
にかっ、と、白い歯を見せて彼女は笑う。
そういうものなのだろうか。
そういうものなのだろう。
同じものを美しいと思うどころか、お互いのことを好き合っていても、人は完璧に相互理解ができているとは言えない。
ならばこそ、少しずつ知っていくべきなのだろう。
ヒューバート・シンガーに望まれなくても、それは自分自身でしたいと思う。
僕は北中さんの柔らかな手を、力加減を確かめるように、ゆっくりと握り返した。