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序幕

 ふと気がつくと、どこか見知らぬ建物の廊下に一人立って居た。

 僅かな月明かりが窓から差し込むばかりの木の床が、ワックスでもかけたかのように微かな光を鈍く反射して輝いていた。どうやら、木造の建物の中に居るらしかった。

 自分の姿を見る。汚れのない白いYシャツの上に黒の学ラン。履いている皮靴も学ランと同じ色だ。左腕には腕時計をはめている。

 ポケットに無作為に突っ込まれた皺だらけのハンカチとポケットティッシュの他には、荷物も何も持っていなかった。着の身着のままといった所か。

 盤面を見ると、四時丁度を指したまま時計の針は止まっていた。外は既に夜になっているというのに・・・・・・壊れているのだろうか。

 窓の外を見ると、丁度目の前に背の高い木の葉っぱが見えた。邪魔だと思いつつ辺りを見下ろす。

 高さから推察して、どうやら自分のいる場所は建物の二階らしいことがわかった。広い敷地の、しかし白みがかった土が広がる他には何も無い敷地が広がっていた。飾りっけなど欠片も無い。


 なんとか目覚める前の記憶を思い出そうとするが、”何も”思い出せなかった。自分が目覚める直前どころかそれ以前の記憶すら何も思い出せない。

 分かったのは自分が服装からして学生だろうということ、そして自分自身に関する記憶だけすっぽりと抜け落ちているということだけだ。

 訳も分からぬまま、誰も居ない廊下を歩きつつ辺りを見渡した。カツカツと革靴が、木で出来ているらしい床に触れて音を立てる他には何も聞こえて来なかった。

 廊下の脇の茶色い壁には、幾つかの引き戸が間隔を開けて存在した。戸の上には工作室、美術室、美術準備室などと書かれたプラカードが、戸の一つ一つにぶら下がっていた。

 それを見て、分からないことだらけの中でようやく理解できることが一つ出来た。


(――ここはきっと、学校だ)


 口には出さず、静かにそう判断した。自分以外に音を立てる者がいないその場所で声を出すのは、なんとなく躊躇われたからだ。

 なぜ自分がここに居るのかは分からなかったが、辺りの状況と、幾つか思い出せた知識からそれだけはわかった。

 とはいえ、分かったから状況がどう変わるということもない。


(――何にせよさっさと外に出よう。ここは気味が悪い)


 訳がわからない状況ではあったが、夜闇の中で見る学校は気味が悪かった。

 部屋の中を確かめることすらせずに、そのまま直進する。外に出ることさえすればなんとかなるだろうと、そう思えた。

 そのまま歩き続けると下へ向かう階段と上へ向かう階段の二つが見えてきた。どうやらこの建物にはまだ上があるらしい。

 とはいえ目的はあくまで外だ。気にせず下へと降りた。

 足を乗せるたび、階段がギシリ、ギシリと音を立てる。自分が原因だというのに、驚いて心臓の鼓動を早めた。

 意図してやったわけではない。体重を軽く載せただけでも音がするのだ。一応手入れされているらしく見た目こそ新しく見えたが、実際は相当に年代物の校舎なのだろう。

 それでもなるべく静寂を保てるよう、ゆっくりと一歩ずつ降りていった。


 そうして一階へとたどり着いた所で、同じ階の遠く離れた所から何か物音がするのが聞こえた。

 自分が今まさに進もうとしていた廊下の、その先をさらに曲がった所から、床を鈍く軋ませるような大きな音と、何かがぶつかり合う激しい音が同時にした。その後空を裂くような悲鳴が続いたかと思うと、しばらくして、無理やり泣き声を押し殺すような唸り声が辺りに響いて、それと同時にぴちゃぴちゃ、ずるずると、瑞々しい音が流れて来た。


(――誰か居たのか・・・・・・?)


 二階に居る時は自分が立てる音の他には何も聞こえないものだから、他にもこの校舎に誰か居るとは思っていなかった。身体を悪寒が走る。

 嫌な予感がした。さっきの音はまともな人間が立てる音とはまるで違う、異常な、狂気的な、もっと別の何かが響かせた物だ。

 ひょっとすると人間じゃないのかもしれない。馬鹿げているとは思わなかった。闇に包まれたこの場所では、何が潜んでいようとも不思議じゃないと思わされた。

 それでも確認はしておこうと、できるだけ足音を立てないよう、こっそりと音の元へと忍び寄る。

 そうしてとうとう廊下の先を覗きこんで――自分の愚かな選択を心の底から後悔した。


 十mほど先に居た"それ"は、体の輪郭こそ人に近かったが、まともな明かりの無い廊下でも化物だと一目で認識できた。

 窪んだ眼窩をギラギラと光らせて、狼の様に尖らせた口から覗く鋭い歯の隙間からはだらしなく赤い汁をしたたらせていた。肌はまるでゴムの様につるつるとして毛一本さえも見えず、鈍い色を放っていた。二本の足には馬のような蹄が、二本の手の先からは3本の鉤爪が紅色に染まっている。

 続いてそいつの足元を見る。床を自身の腹から流れ出る臓物と体液で赤く染めた、犠牲者の姿がそこにはあった。かろうじて着ている服装と髪型から女学生であろうということは分かったが、抉るようにあちこち体を齧り取られていたものだから生前の姿がまるで想像出来なかった。

 顔からは元の形が判別不能なほどに肉が削ぎ取られ、白い物がそこから覗いていた。

 そんな彼女を嘆くよりも憐れむよりもまず先に、自身の身体を鮮烈な恐怖が突き抜けていった


「っ・・・・・・!」


 耐え切れず、声が僅かに漏れた。その声が聞こえたのか、歪な形のする横に尖った耳をピクピクと動かした後、こちらへと目を向けて来た。

 思いがけず視線が合った。何かを嘆くような色を浮かべていた窪んだ眼窩が、喜悦の色が満ち溢れていく。


(――しまった・・・・・・気付かれた!)


 僅かに残っていた勇気を奮って体を動かすと、一目散にもと来た道を駆け出した。

 続いて後ろから、暴力的な音がこちらへと向かって来る。どこか悲鳴にも似たその特徴的な唸り声と共に、床を蹴る蹄の音は、痛々しいほどに激しくなっていく。

 視界の隅に先程見た幾つもの部屋が入ってくるが、そこへと逃げ込むつもりにはならなかった。部屋に逃げ込んだところで、きっと扉をあの鉤爪でやぶられてそこで終わりだろう。

 二階の廊下を駆け続けた。がむしゃらに、必死に、ただひたすらに。それでも後ろから聞こえる音は次第に大きくなっていく。

 自分の全力の駆け足よりも、僅かにだが化物の方が早かったらしい。

 視界の先に、また階段が見えた。一階へと落ちるように階段を何段も飛ばして降りる。足に激しい衝撃が伝わるが、なんとか堪えて再び床を蹴りだす。



――・・・・・・て



 後ろとは別方向から何か聞こえた気がしたが、はっきりとは分からなかった。

 気にしている余裕も無い。廊下を駆け抜けていく。そうしていると、気づけば曲がれる通路のない廊下の先に、扉が見えた。

 先ほどまでの、教室に続く木の引き戸ではない。透明なガラスと木の枠で造られた大きな扉だ。外に広がっている校庭が、遠く、暗闇からでもよく見えた。


(――助かった!)


 扉までの廊下は一本道だ。他に逃げ場も無い。同時に後ろから聞こえてくる音がゆっくりと遠ざかっていくような気がした。引き離すなら今だとばかりに、一気に走り抜けた。


 扉の前へ辿り着いた。さっきまでの激しい足音が嘘の様に、背後から聞こえていたそれは静まり返っていた。

 恐る恐る後ろを振り向く。化物の肉欲に満ちていた残忍な瞳が、今ではどこか悲しげにすら見えた。歩みも緩やかに、一歩一歩踏みしめるような歩き方へと変わっていた。

 裂けた口を上下に震わせて、何かをつぶやくようにこちらを見ている。その光景を疑問に思わないでも無かったが、それ以上観察するつもりにもなれなかった。

 急いで扉の取っ手を回して、勢い良く前に押した。そして気付く。


(――開かない・・・・・・!)


 取っ手を回して引いてみる。やはり開かない。

 取っ手にもその回りにも鍵穴らしい物は見当たらないというのに、いくら繰り返しても扉は開く気配が見られなかった。せいぜいガチャガチャと、小うるさい音を立てたぐらいか。

 鍵が掛かっているとしても、それ以外の理由で開かないのだとしても、とてもやらずには居られなかったが、その動作を繰り返すことの無意味さを理解して諦めた。

 再び後ろを振り向く。唯一の通り道は化物が塞いでいる。続いて必死にドアの透明部分を蹴りだした。ガラスなら革靴でも蹴破れるかもしれないという期待を込めて。

 だがしかし、それすらもまるで効果はなかった。ガラスとは思えない強度のそれには、せいぜい静かな校舎の一部を賑やかすくらいの意味しか無かった。

 絶望が体を支配する。ゆっくりと体を後ろに向けて、化物を振り返った。

 化物の掠れるような、枯れたような泣き声にも似たその唸りが、今でははっきりと耳に入ってきた。



『すま・・・・・・イ・・・・・・』



(――・・・・・・すま・・・・・・い? すまないと、そう言ったのか?)


 聞こえてきた声を、妙に冷静になった頭の中で反復して、組み換え直した。

 途中で走るのを辞めた理由は分かる。一本道に獲物を――自分を追い詰めたのだから、無駄に走って追い立てる必要も無いと考えたのだろう。

 だとしても自分に謝る理由は何なのか。まさか殺したくないのに殺したとでも言うのだろうか。だとしたら笑えない冗談だ。

 訳が分からなかった。こいつは先程まであの少女を襲って無残な姿へと辱めた化物のはずだ。

 化物は床をコツコツと、自分の革靴が立てた足音とは違った音を立てて徐々に近づいて来た。



――・・・・・・て



 唐突に、脳に直接響くような声が聞こえた。

 かすれてこそいたが、目の前の化物とはまるで違う。どこか優しげな、それでいて懐かしい感じのする女性の声だった。先程微かに聞こえてきた声と同じもののような気がする。

 幻聴が聞こえ出すとは、もはや自分の正気はどこかへと飛んでいってしまったらしい。

 化物との距離は更に近づくが、もはや抵抗する意思さえも失せていた。



――お・・・・・・て



『すま・・・・・・イ。オ・・・・・・のイ・・・・・・は・・・・・・』



 再び女性の声が、今度は僅かにだが、しかし前よりもはっきりと聞こえた。

 それを上塗りするかの様に目の前の化物が声を発した。近くで見るとよりいっそうその姿の異様さが分かった。もう手をのばせば届く距離だ。

 先ほどと同様にかすれて聞き取りづらくなった声だったが、やはりこれから殺すつもりなのだろう自分に対しての謝罪の言葉らしかった。


(――謝るくらいなら最初からやらなきゃ良いのに)


 赤く、鈍く光る鋭い鉤爪が、自分の喉へとゆっくりと食い込んでくる。不思議と恐怖はなかった。あるのはただ、後悔だけ。


(――もしあそこで部屋に逃げ込んでいたらどうなった? こいつに何か武器を持って立ち向かっていたら、うまくすれば倒せたのか? もっと早くに意識があったなら、あの女の子を助けられたか?)


 今よりはマシな最後だっただろうか。ひょっとすると、うまくやり過ごして逃げ切れたかもしれないし、この化物を倒してあの可哀想な女の子を助けられたかもしれない。

 もっとも、今更悔やんだところでどうしようもないことだろうが。

 3本の鉤爪が喉に深く食い込んで、血が流れた。首を握るようにして締めるその力が、徐々に強まっていく。


 (――俺は・・・・・・死ぬのか・・・・・・?)


 そのまま喉が引き裂かれようという、その寸前で――先程の女性の声が、はっきりと、うるさいくらいに、頭の隅から隅へと響いた。



「――起きて!」

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