第八章~帰路~
狂女との一戦を無事に終えた龍はかなりの時間をかけて、長い空間を上る。
電力はすでに普及しているようだが、肝心の昇降機が無惨に破壊された……というか破壊したので、敵との遭遇は皆無に終わっている。
早くしないと敵さん達が厄介な調査に来てしまうだろう。
「木登りする猿みたいなブサ男はっけーん」
「……」
懸命に上っていると聞き慣れた生意気な声が聞こえた。苛立ちに染まりそうな表情を抑え、声のした方を見る。
エレベーターの通る空間の壁に小さな穴が空いており、そこに電灯でこちらに照らす香織と叢が座っていた。
「任務は完了だ。帰るぞ」
即座に龍は反対側の壁を蹴って、その勢いで彼らのいる足場へと渡った。
着地すると同時に叢は立ち上がり、奥へと進む。香織が続いたので龍もそれにならった。
「龍、よくやってくれた。予想を遥かに超える出来だ」
「二回くらい死にかけたけどな、因みに一回はこいつの仕業」
「おちゃめだろう?」
「てめぇの目は節穴かビー玉でも詰まってんのか。茶目っ気で殺されちゃ堪らねぇよ」
叢が歩く速度を落とし荒れた壁に手を伝う。金属の擦れる音がしたと思い後ろを見た途端、言葉を失った。
動かぬ筈の壁が意思を持ったように動き出し、通ってきた穴を塞いでしまったのだ。
「くく、やはり強さは罪であるな。そうは思わんか」
「……」
「どうした。俺の力に疑問があるならそう言え」
目の前で機械仕掛けのように壁が凹凸し、回転して、坑道が出現している光景に一種の感服を覚えていた。
“俺の力”と言うからにはこの現象は叢によって引き出されているのだろう。
「こうして壁を変形させ道を作れば、帰還が容易に出来る」
「壁を変形させんのは容易じゃねぇけどな」
「違いない」
叢がかりそめの通路を切り開きながら不敵に笑う。
「……叢、てめぇはどこで何やってたんだ?」
「聞いてどうする。まさか、俺の行動を逐一知らないと気が済まないのか」
「そう言う言い方されるとなぁ……まぁ、そうだ」
「いやらしい、不潔」
香織が幼い声音で言い放つ。陰気を含みつつも蔑むような目で見上げてくる少女に、龍は軽くたじろぐ。
「いやいやどうしてそうなるんだよ。興味があるってだけだ」
「あなたは興味があったら女にキスしたり、押し倒すの?」
「……」
「……なんで黙ってるの」
「いや、見てたのかと……」
「?」
「ナンデモナイデス」
デュオネとの間に起きたことが香織に露見しているわけではないようだ。
向こうの策略やこちらの演技とはいえ、あの恥ずかしい行為を見られていたかと思うと、冷や汗が流れてしまった。
しかし返答がたどたどしくなってしまっている。悟られなければいいのだが。
「ククク……」
意味深な何かを含んだ笑いは止めて欲しい。心理の読み取りにおいて常人の域ではない叢がやると、無性に怖いのだ。
というか多分バレた。
「いやはや、戦闘においての実力は怪物さながら、あっちの方も野獣だったか」
「どういう意味ですか?」
「香織にはまだ早い」
「……気になる」
「叢はケチだよなぁ香織。いいぜ。この俺が教えてやるから、今夜ひとりで部屋へ来い」
龍の脳内に淫らな想像が浮かんだ。従順、そして折角だからM気質に調教してやろう。
ポンと香織の頭に手を置く。すると突然、凄い力で肩をつかまれた。
「止めはしない。お前らは男と女だ。だがしかし、龍、まだ……生きていたいだろう?」
叢の握力に力がこめられる。脅し方も堂に入ったものだ。肩をつかまれ微笑まれた龍は蛇に睨まれた蛙になっていた。
どれだけ香織が大事なのか。恋や蘭乃に対しては感じられない特別な思いがあるようにも見受けられる。
「まさかてめぇロリ――」
ザクリ。
先の言葉を塞ぐようにそんな音が聞こえた。痛みを感じた手の甲には小刀が刺さっている。
湧水のように吹き出す枝分かれした血液が虫の触角みたいになっていた。
「いい加減手をどけて。あと、父上はロリコンじゃない。まだ無礼が続くようなら刺す」
「痛い痛い痛い! 刺さってる! 軽く刺さってるから!」
「やったー」
ええと。と、心にワンフレーズを置いて、事態を整理する。
手に突き立つ小刀も、無愛想かつ生意気に喜ぶという器用なことをする香織も、今の龍にはどうでもよかった。そんなことよりも。
「…………父上?」
声がぎこちなく引き攣った。
「うん」
「叢のオッサンが?」
「うん」
「お前の?」
「私の」
「何だって?」
「父上なの」
「…………誰が?」
「しつこい」
香織が不機嫌そうに顔をしかめる。言い捨てる声が、龍の脳を直接殴りつけた。
冗談キツイぜ。
龍は眩暈に頭をおさえる。それくらい精神的な動揺だった。困惑する龍に愉快そうな声が割り込んだ。
「叢 香織。俺の一人娘だ。このジトっとした愛くるしい目は俺にそっくりだろう?」
「えっ」
龍は驚きを禁じ得なかった。しかしそうなれば叢の香織への反応に納得がいく。
香織の話になるとテンションが上がったり、やけに過保護だったり、残忍でも一人の父親を垣間見せていたのだ。
その娘である香織もそうだ。龍には生意気に歯向かうが、叢への態度は目を疑うほど従順だったではないか。
ちらりと龍は確認の意を持った視線を香織に向ける。歩調は軽やかだが、表情は無愛想なこと極まりない。
もしかするとそれは叢の下で成長したがゆえの性格なのだろうか。愛想がないのは冷酷な笑みを孕んでいるからで、表情が乏しいのは心理を読ませないためで、度を過ぎた悪戯は子供だと誤信させるためで。
思い出してみれば、屋上での殺意は偽りなきモノだった。頸動脈を切ることに迷いはなく、つまりは人を殺めることにまごつく様子もない。
次から次へと新たな憶測が龍の脳内を巡る。
そしてその全てが悪逆非道、叢正人生の子供であるというだけで肯定されていく。
「はっ、どうりで肝が据わったガキだと思ったぜ。恋や蘭乃とは空気がまるで違う」
「可愛さもな」
「親馬鹿うぜぇ……いや、可愛いを否定したんじゃねぇぞ?」
「だからキモい」
見事に撃沈。どう足掻いても懐いてはくれないらしい。冷淡で酷薄な人間ほど意外な場面や言葉でころりと態度を変えたりするイメージがあるのだが。
いや、諦めてはいけない。もっと攻撃的で、嗜虐的で、少しでもそっちの気質のある女ならそれが目覚めるような行為をしなければならない。
やはり監禁調教だろう。
「いやいやいやいや」
思考がどうにも明後日を向いてしまう。やはりって何だ。さも当然のように犯罪行為を促してきた。
割と本音で言っている気がしないでもない事実が一段と龍を悩ませる。
「なぁ、この俺って変態か?」
「問いの真意が不明だしアホ。でも答えは『うん』」
「やかましいわ!」
落ち着け落ち着け。龍は自分に言い聞かせ、心をクールにする。冷静だ、感情に溺れてはいけない。
しかし、どうしてしまったのだろうか。このまま残念な思考に取りつかれ、可哀想な子というレッテルを貼られかねない。
(……どうしてか屈服させたくなるんだよな、こいつ)
猪口才な態度だからか。それとも――彼女が幼いから。
「それだけは違うッ!」
「何が」
「いえ、この俺はノーマルです。幼女に興味ありません」
香織が不思議そうに顔を傾ける。無垢な仕草だったが目が冷たいので可愛げがないどころか、軽く馬鹿にされているらしかった。
そんなこんなで、三つ分の跫音を暗い世界に響かせていると、先頭を歩いていた叢が止まった。
「龍、ここを蹴破ってくれ」
目先にはまだ荒い壁が龍たちを妨げていた。しかしわざわざ蹴破る必要性が見当たらない。今までどおりにモーゼの如く壁を掻き開ければいいのではないか。
「少しでも無駄な消費を抑えたい。もっとも、今回は俺の心ではないが。お前の力で破れる壁だ、頼む」
「……誰の使ってんだよ」
「細かい奴だ。あいつらが民間人から採取した心を俺が少しばかり強奪したまで。特定の人物を挙げることは出来ない。知らないからだ」
龍が睨みを利かせてもその男は揺らがない。逆に、僅かに肌を掠める凶器のような気配を龍は感じていた。
「……まさかこの期に及んで、アストラルハーツの使用が許せないなどとぬかすのではあるまいな、龍」
叢は龍の携える日本刀を目視しつつ問う。漆黒の鞘に収められた刀は振るうものであり、戦う意志そのものでもあった。
それを手にした龍に悔恨など許されないのだ。白銀であろう刃を深い赤色に染めなければならない。
「確かに感情は人間を構成するにおいて重要であり大切だ。だが、俺が言いたいのはそうではないのだ」
「じゃあ何だよ、仰々しい」
「他人に感情を動かす人間は、和紙よりも薄く、ガラスよりも脆く、夢幻よりも儚く、そして道化のように愚かである――」
叢は話を続ける。
「他者の立場に立つ。他者の気持ちを汲む。……出来ないことを出来るように促し、振る舞うカス共が、俺は嫌いだ」
告げられた言葉、その冷酷さは、正常な人間ならば背筋を凍らせ恐怖に足を竦める程だっただろう。
「他人が惨たらしく殺害されても、同世代の女子生徒が集団レイプされても、見知らぬ誰かの心を蝕んでも、他国が未曾有の大災害に見舞われても、『俺には関係ない』と心の底から言い切る人間、いや、その思考にすら至らない人間は……」
――強い。
そう結んだ叢の言葉が、細い針のように龍の意識の奥深くまで突き刺した気がした。
それは一瞬のことで、龍自身にはまるで理解出来ない程度の感覚だった。
「はぁ~、もはやてめぇの思考回路にはついていけねぇよ」
降参でもするように両手を肩の辺りに上げて、龍は覇気の抜けた言葉を投げた。
その様子に叢は嘲笑の交じった言葉を漏らす。
「ついて来る必要もなければ、理解する必要もない。くだらねぇ、の一言で俺の考えを突き飛ばせばいいのだ」
「……はいはい、そうでござんすか。ったく」
彼の真意など天地がひっくり返っても掴めそうにない。半ば諦めたように叢を後ろに下げさせて、壁の前に立った。
やればいいんだろ、やれば。
龍は自棄になりつつも踏み締めるように最後の障壁を蹴る。花弁が開くように亀裂が入り、蹴った位置から外側へとぼろぼろと大小の塊に砕けていく。
砕けていくに従い、少量の光がどんどんと暗闇に差し込まれ、その空間の全貌が龍の目に映し出された。
「開いたぞ、叢……あれ?」
声をかけ振り返ってみたが、がたいのいい男もちっちゃい幼女もいなかった。
龍は面食らったように今し方通った洞穴の奥を見るが、照明なしではそこまで見えない。
致し方ない。
今はこっちに集中しよう。
「……」
「あ、あ……っ、どうして……天羽くんが……?」
待て、落ち着け。今日何度目か解らない言葉を心に必死に呼びかける。
龍が数日前に起床時に聞こえた声、まああれは幻聴だったわけだが、自分のことながら惚れ惚れするくらいクールに対処してみせたのを思い返す。
不測の事態こそ、冷静であるべきだと龍は思う。少しずつでもいい、少しずつ自分に冷静さを染み込ませていくのだ。
「っ……ここ、わ、私の部屋……あと、き、きき着替え中なんだけどどどどど……」
顔をトマトみたいに赤くしている下着姿の恋など見えない。そう、水色の下着など見えないのだ。腕で隠しそうとした胸が潰れて逆にムラムラとしてきてなどいないのだ。
「よっ、ただいおっぱい」
「っ!?」
あ、やばい、語尾がおかしい。冷静になれ。九字護身法を唱えるんだ。えーと。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前、胸、胸、胸……」
「っ!?」
「この俺デストロイッ!」
思わず龍は土下座するように地面に額をぶつけた。ぐるりと世界が回る。違う、回ったのは自分の視界だ。
手放しそうな意識を無理矢理縫いつけるようにして、龍は仰向けに寝そべる。頭がいやでも冷えてきた。
「だ、大丈夫?」
頭の近くに下着姿の女性が立っている。覗き込むように前屈みになり、膝を折ったものだから、それはもう絶景と言わざるを得なかった。
が、服を着ることも忘れ、馬鹿みたいなことで意識を朦朧とさせた自分を心配してくれる恋の直向きさに、龍のよこしまな気持ちは雲散霧消していた。
「……ただいま」
ぶっきらぼうに告げた挨拶に、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに陽光のような笑顔を見せてくれた。
「……えへへ、おかえりっ」
帰ってきた仰向けの男、向かえるは淡い下着の女の子。後から思えば異質な空間だったのだが、それはそれとして。
叢と香織はビルの正面から普通に帰って来た。
謀られたのか、役得だと考えてくれたのか。どちらにしろ香織にはいろいろな意味でお礼をしようと龍は思った。