第四章~悪漢~
◇
再び意識を取り戻したとき、龍は見知らぬベッドに寝かされていた。
仰向けの視界。くすんだ色の天井と、ランプのみに照らされた薄暗い部屋。
「どこだ? ここ……」
目が覚めた龍の意識は驚くほどはっきりしていた。自分が謎の男と戦い勝利したこと。何かに手招かれるように意識を手放してしまったこと。
覚えていないのは、どうして、どうのようにしてこの場所へ来たのかだ。
「病院……じゃあないな」
ふと扉の開く音がして、誰かが入ってくる。足音がひとつ、続いて甘ったるい匂いが室内に入り込む。
龍が視線だけを送るとそこに豪勢な毛皮をあしらった、大きく胸元の開いたドレスを着た女が立っていた。
扇情的な服装からは、スレンダーな体型が窺える。
「あ~らぁ? 目が覚めちゃったの? もうっ、ざ~んねん」
色香を感じさせる声と共に、高いヒールのロングブーツがコツンと鳴らす。
妖艶に微笑む女。龍は何か危険な物を感じて腕を体の横につき、身を起こそうとする。が、女はのしかかるようにしてその体を押さえた。
「駄ぁ~目。もう少しだけ安静してね。そ、れ、にぃ、今の君素っ裸よぉ?」
龍は自分の体を見下ろす。体中が包帯で包まれており、その上に薄い布団が被せられただけだった。
「鍛えてるのね~、体つきも凄く逞しくて凛々しいわ~」
体つき、も。それが詳しく何を指していたのかは知らない。知りたくもない。
「……あんたが治療したのか? 生きていられるような傷じゃあなかった筈だが」
「だってぇ~、ソウさんが生かせって言うんだもんっ」
くねくねと体をしなやかに曲げて弁明する。止めなさい。あと「もんっ」とか言うなよ、この姉ちゃんもいい歳だろ。
「ア゛アァ?」
「ひっ」
「……ねぇ。あたしぃ……何歳に見えるぅ~~?」
「十八」
「まぁ! 嬉しいわぁ~」
即答してさしあげると、ぱあっと明るく笑う。歳は触れない方がいいらしかった。彼女の顔に修羅を見た気がする。
……元より口にすら出してない気がするのだが。
「い、いやぁそれにしても美しい方ですね。華奢なお体がまた何とも……」
途端にカチン、という音が聞こえた気がして、龍はおそるおそる顔を上げる。
彼女が唇は笑顔のまま目元をひくつかせていた。
「華奢……つまり出るべきところも出ていない……と」
「ひっ」
彼女にとってプロポーションの話もタブーだったようだ。華奢は褒め言葉だと思うのだが。
と、龍が弁解の言葉を紡ごうとしたとき、荒々しく扉が叩かれた。
扉の向こうから聞こえてきたのは思いがけない、けれどある意味納得のいく声だった。
「蘭乃さん! 天羽くんはっ……天羽くんは大丈夫なんですか!? 開けて下さい!」
「はぁ~……開いてるわよ、好きに入って来なさい」
言うや否や勢いよく扉が開けられた。そこには目一杯涙を溜めた恋の姿。ベッドの上で目を覚まし、起きていた龍を見て大きく息を呑んだ。
そして耐え切れなくなったとばかりに物凄い勢いで龍に飛びつき抱きしめた。
「天羽くん……っ! ごめんね、ごめんねっ!」
「ぐ、ぐあああっ!」
「こらこら恋ちゃん。怪我人に抱き着いちゃ駄目よぉ~?」
柔らかい胸に顔面を押し潰されて、龍はもがいていた。男としては大変嬉しいのだが、それよりも遥かに全身の傷が痛い。
「わ、ご、ごめんなさい……」
力を緩める恋。慌てて龍はその抱擁をすり抜けると、改めて向き直った。
やはり恋もここにいたのだ。おそらく龍と恋は倒れたところを助けられたのだろう。一番安心したのは恋が勢いよく飛びついて来るくらいに元気だったこと。
しかし、この二人……。
龍はとりあえず素朴な疑問を投げかけることにした。
「聞いていいか。ここはどこなんだ。お前らは知り合いのようだし……何か教えろ」
「ご、ごめんね天羽くん。それはまだ出来ないの」
恋が本当に申し訳なさそうな顔で謝る。理由があるのだろう、無理矢理言わせる必要もないがどうしても気にはなる。
「怪我が治ったら、必ず会って欲しい人がいるの。話はそれから……かな」
「そんなことか……」
まぁいい。誰かに会うくらいで済むのならすぐに終わる。龍は軽く鼻で笑った。
「じゃあお前ら、一旦外へ出ていってくれ」
「駄目よぉ、何するつもり?」
「服を着るんだよ。それとも何か、またこの俺の体を見たいってのか」
「……まあ、お誘い?」
「ま、またぁ!? ちょっと天羽くん! ど、どどどういうことよっ!」
「はよ出てけ」
その後、妖美な笑みを浮かべる女と狼狽する恋を何とか説得し、外に追い出すことに成功した龍。
ふぅと体を起こしつつ深く息を吐く。頭が果てしなく痛い。体の傷など大した問題ではない。このまま捻り潰され頭蓋と脳髄が飛び散りそうだ。
「っ……ぐ、っ……」
痛い、痛い、痛い。
しかしどれだけ痛みを感じようともそれを表情や発汗で、彼女らに看破されるわけにはいかない。
龍は出来る限り鈍感になろうとする。引き裂く痛みに、引き寄せる感覚に、引き立つ予感に、引き出される記憶に――。
「……桜の、木」
思わず漏れた言葉。……駄目だ駄目だ。今は考えようとするな。龍は必死に押さえ込む。
「……サ、……ナ……? ――――――っ、がァ!」
龍は頭を思いっ切り壁に叩きつけた。ぐわんぐわんと視界が揺れる。
……けれど嵐がいつかは消え去るように、ゆっくりと、ゆっくりと、脳を圧迫していた何かが引いていく。
そして痛みも苦しみも遠のいていった後には、何に遮られることのない清涼な思考が蘇っていた。
「……ふぅ、行くか」
龍は部屋の角にかけてあった服を乱雑に掴み、さっさと着替え始めることにした。
「――さぁ、案内しろ」
龍が勢いよく部屋の扉を開け、出て来たかと思うとそんな事を言い始めた。
流石に困惑する女二人。特に龍の体の状態を知っている蘭乃にとってそれは有り得ないことだった。
「だ、駄目じゃな~い。安静よ安静、最悪部屋にはいなさい。面会は、傷が癒えてからよぉ」
「傷は癒えてないが歩ける。多少痛かろうがいいさ」
「あのねぇ~……」
そういう問題ではない。言いかけるが龍はもう薄暗い廊下をさっさと進んでいた。
場所すら知らないくせに、病人とは思えない行動力。思わず蘭乃は声をあげてしまう。
「そっちじゃないわよ!」
前を行く人影が足を止め、くるりと振り向き戻って来る。その男はにやりと口元を緩めていた。
「案内してくれんのか?」
「はぁ~……あなた、随分といやらしい性格してるわねぇ~」
「否定はしないぜ」
「……こっちよ」
半ば諦めたように蘭乃は先頭を歩き出す。龍と恋はそれに従いついて行く。
三人の足音が、暗く長い廊下を進んでいた。暗闇の中、蘭乃と恋が持つランプだけを頼りに進む。
「なぁ、月波。ここは何だ? 電気も点いてないし、窓もない。つか今何時だよ。それくらいは良くね?」
「ん~大丈夫かな。電気が点いてないのは電気が通ってないから、窓がないのは地下だから。今は……夜の九時頃だよ」
「さんきゅ」
どうやらここはどこかの廃墟の地下だろう。薄汚れた天井やひび割れた地面などから容易く推測出来る。
電気が通ってない事実もその材料になった。しかしそうなるといろいろと厄介だ。
何故こんな場所を拠点とする? 電気も通らず、清潔感もどちらかと言えば当然悪い。
一つ挙げるなら金がないという事。が、それは感情よりも金銭で溢れている今の時代考えられない。考えられないのだが……。
龍は後ろを歩く恋を見る。そして蘭乃という女。二人の共通点、いや、龍含め三人の共通点があった。
「解った。お前ら全員、装置付けてねぇな」
「あら、大正解よぉ。後でご奉仕してあげる♪」
「ご褒美じゃねぇのな」
「ちょっと蘭乃さん……天羽くんにいやらしいことしないで下さい」
嫉妬か、可愛いやつめ。
と、そんなお馬鹿な会話と有り得ない妄想をしてる間に蘭乃の足が止まる。光に照らされ浮かび上がるのは木製の扉だ。
それは龍がいた部屋の扉とは違い実に質素で、堅固さからは程遠い。
「ここだよ。天羽くん……失礼のないようにね。だ、大丈夫! 天羽くんなら……生きて戻れる、よ……?」
物騒な疑問形止めて。
「下手すれば殺されるわよぉ」
マジすか。
一気に重圧がのしかかる。命を助けられた筈がどうしてまた危機に晒されるのか。
まずは落ち着いてシミュレーションをしよう。
イメージするとしないでは成功率がかなり違うらしい。
最初に二回ノック。もし返事があれば失礼しますと一言断り、扉を開ける。
もし無視されてもノックし続けよう。いつかは諦めて出て来てくれるだろう。
そして中に入れば自己紹介、最後に自分を生かしてくれた事に感謝する。
「……よし!」
「気をつけてね、天羽くん」
「ああ、任せろ……!」
龍は長い脚をゆっくりと振り上げる。怪訝な顔で龍を見る恋と蘭乃。
そんなことお構いなしに、閉ざされた扉を蹴り飛ばした。
「――だらっしゃあ!」
『ブッ!!?』
恋と蘭乃が吹き出していた。
龍は開いた扉の中に無遠慮に踏み入ると、その奥に座る一人の男を見つけた。
男は上質のスーツを着ており、その下には隠しようもない逞しい体つきが伺える。
「おらおら、金出せオッサン! パラリラパラリラ」
「何やってんの天羽くんッ!?」
「このお馬鹿……っ!」
「痛たたたたた!」
蘭乃のハイヒールの踵がぐりぐりと足の甲をえぐる。俺が悶え苦しんでいると男が口を開いた。
「――出て行ってくれ」
ずしりと心に沈みこむような重い口調。男の目は酷く冷酷で容赦がなかった。
「ち、違うんです! か、彼ちょっと頭打ってて、痛い子になってるんです! だから悪気はないんです!」
「誰が痛い子だごらぁ、こちとら正真正銘の――ぐへぇ!」
「ぼ、僕ちゃんは黙っておきましょうねぇ……っ! 後でお仕置きでちゅからねぇ~っ!」
恋のフォローに異論を唱えようとするも蘭乃に無理矢理押さえ込まれてしまった。
しかし彼女らの懸命の努力も虚しく、男は再度口を開く。さらに重い圧を込めて。
「出て行ってくれ」
龍は彼との間に修復不可能なくらいの溝を作ってしまったようだ。恋も蘭乃も呆れ果てている。流石にふざけすぎた。
後悔はしない。短期間だが十分に楽しめた、それだけで良いじゃないか。
もし心残りがあるとすれば、これからの生活が実に空虚になることくらいだ。
「んじゃ、失礼するぜ。感謝の言葉は言わないが、気持ちは頑張って受け取れ」
「何を勘違いしている」
「はぁ?」
龍は思わず素っ頓狂に聞き返した。男はそれを無視し、静かに告げた。
「蘭乃、恋、出て行ってくれ。この男と話がしたい」
「え? ……あ、はいっ」
言われた意味を一瞬理解出来なかった恋は数拍遅れて返事をすると、ぺこりと頭を下げた。
蘭乃は男と龍を交互に見つめ、やがてため息を吐いて踵を返す。恋もそれに続いた。
「……わかったわ。もうふざけては駄目よ?」
「善処する」
その返事を受け、もう一度ため息。限界まで開いた扉はギギギと不快な音を奏でながら、完全に閉まった。
扉が閉まると同時に龍は男と向き合う。それは向こう側も同じでお互いがお互いを探る。
「……鍵、閉めてくれ」
「何が起きても邪魔は入らないようにしたいんだな」
「そういうことだ」
男が笑みを浮かべる。はっ、と笑い返した龍は扉まで歩きしっかりと鍵を閉め、振り向く。
「……」
(あ~……ごく最近にもあったな、こういう状況)
龍はまたもや拳銃を向けられていた。そろそろご勘弁願いたかった。
(お前ら拳銃好きだなー)
Tシャツ青ジーンズ男の次はスーツ男と、随分とバリエーション豊かな経験だ。脅したいだけか、それとも撃ってしまうのだろうか。
脅しと射撃、比は八対二が妥当か。龍は銃弾が飛び出すであろう穴をじっと見つめる。
「随分と物騒じゃねぇか。扉蹴飛ばしたのまだ怒ってんのか」
「……」
「なぁ」
「……」
「……おーい」
男は何もしないままゴトリと拳銃を机に置いた。結果は撃つのでも脅したのでもなかった。おそらく……試された。龍はそう感じていた。
「殺意を向けられた人間は必ず反応を示す。困惑、恐怖、戦慄、慟哭、さまざまだ」
男は話を始めた。行動に劣らず物騒な内容だが聞いてやることにする。
「で?」
「お前は珍しいタイプだ。殺意と解ると愉悦に染まった。俺が引き金を引いたなら、お前はその殺意を纏うが如く豹変していただろう」
……全くその通りだった。男が撃とうが撃つまいが関係ない。たが、もしも銃弾が肉体を貫いていたのなら、龍は男を殺すつもりでいた。
「いや、な。この俺だってあんな帽子野郎と出会うまでは普通だったんだぜ?」
「ほう、詳しく話せ」
「……聞いちまったんだよ。この俺は死なないってな。そしたら恐怖って感情が面白くって面白くって」
何を言ってるのか理解出来ないと思ったが、男の表情は全く疑問を持っていなかったので龍は構わず続ける。
「叶う恋愛は幸せだ。だが、叶わぬ恋愛は辛くないか? 死の恐怖ってのは身を震え上がらせる。じゃあ死なない恐怖はどうだ。……愉快だ。楽しくて楽しくて仕方がなかった」
まともな人間なら一生理解出来ない感覚だろう。当然だ。人はいずれ死ぬのだから。
「フッ、面白い男だ。お前のような男は有史ただ一人だろう」
……今の話で理解出来たのだろうか。龍自身でも曖昧な部分は多いのだ。「死なない」なんて誰に言われのたか覚えてないし、何だって自分はそれを信じてるのか。
だいたい死ぬ恐怖を感じないだけであり、恐怖自体は感じている。死ななくとも四肢の動作や視力など、体の機能が停止すれば死んだも同然だ。
「つかお前さっき脳天に銃口向けたよな。馬鹿野郎! 死ぬわっ! あ、いやこの俺は死なない……いや死ぬわっ!」
何を言ってるのだろうか。
これ以上残念な子と思われるのは嫌なので、龍はおとなしくすることにした。
「……生粋の馬鹿なのか? 間接的にとはいえ命の恩人によく喧嘩を売れる」
「試してんだよ、あんたを」
ドアを蹴り飛ばしたのもそうだ。挑発し人を虚仮にして、おちゃらかし己を馬鹿に見せる。あえて懐に入り込み、掻き回し、思考を喰らってやるのだ。
それでも冷静に龍という人物を対処できるこの男は上等だ。つけ加えてこちらの真意すら探り絡めとろうとしてきた。
「そんなことは知っている。だから俺もやり返しただろう?」
「知ってんなら馬鹿言うな」
「いや、馬鹿なのは本当だ」
このオッサンはいつか殴ってやろう。龍は心の中で静かに誓った。
「俺の名は叢。叢 正人生だ」
「叢さんってやっぱりあんたか。つかマサトオー?」
「伸ばすなカスが。正しい人生と書く。くくっ、俺のような悪人に相応しい名だろう?」
龍の背筋が冷える。その笑みは悪人そのもの。声量こそないがその圧迫感……己の持つ悪など残影でしかないようにすら感じた。
(面白ぇ……)
龍にふつふつと沸き上がる昂揚。それを確認した叢はにやりと意味深に笑みを深くさせた。そして示す、一つの分岐点。
「俺の組織に加われ、龍」
鬼が出るか蛇が出るか。未来など知るよしもない。だが、知らないからこそ求める。知りたいからこそ歩む。
価値なき世界に終止符を。
「さあ、お前の《心》を見せてみろ――」