第二章~邂逅~
むせかえるような花の匂いを感じていた。その向こうから降り注ぐ眩しい光。
「おはよう、龍」
ふと、自分を呼ぶ声がした。女の声だ。清らかで、凜とした声。ぼうっとしていた頭が冷やされた気がした。
「……おはようさん」
目を開けると質素な天井が見えた。寝台の上で体を横たえていた龍は軽く返事をして起き上がった。
何度か瞬きをした後、目を動かして周囲を見回してみる。脱ぎ捨てられた学生服や乱暴に置かれたのか中身が飛び出した学生鞄。
枕元にあった携帯電話を見てみると、時刻はたった今六時を回ったところだ。まだ起きるには早い時間だった。
「……」
ここで一つの疑念。それは自分を起こした声の主。平静を保ちながら、まあ色々と考えていた。
先に言っておくと心当たりは全くない。軽く返事をしたものの心臓は跳ね上がってるし、声のした方向をあえて見ていない。傍から見れば実にクールだ。
「貴様……何者だ」
決まった。完璧過ぎる対応。冷静というのはときに恐ろしい牽制となる。
拳銃を突き付けられた状況で無言で微笑んでみせる……たとえ虚勢だったとしても自ずと効果は現れる。
この場合も有効だ。相手はどうやってか部屋まで上がり込んでいる。しかも平然と朝の挨拶をしてきた、普通驚くだろう。
だが、驚かない。そんな素振りを見せない。その時点で、龍は相手の思惑を外させる事に成功したのだ。
「えっ」
素っ頓狂な声が出る。誰のでもない、龍本人の声だった。
「………………ヤベェ」
部屋にいたのは俺ただ一人であり、期待した女の姿は何処にも見当たらなかった。
ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのか。穴があったら今すぐ頭から突っ込んでしまいたい。
「もう行ってしまおう」
決して幻聴ではなく、単に夢うつつだっただけだ、と無理矢理自分を納得させながら学校へ行く準備を始めることにした。
「桜……か? いやいや、もう七月だ。鼻までいかれたか」
初めに感じた花の香りだけが、今も微かに鼻腔をくすぐっていた。
◇
『……ており、この事件は未だ人々の心に深い傷痕を残している事でしょう。続いて、新たに設立が検討されている超大型のレジャー施設……』
街中の大画面ディスプレイから流れるニュースを聞きながら、龍は最寄り駅へと歩みを進めていた。
深い傷痕などと笑わせる。どれだけ深かろうが、どれだけ重かろうが今の時代においてそれは一時的なものでしかない。
『……また本日午後から、あの心-ココロ-テクノロジーが記者会見の場を設け、重大発表を行うとの事です。その様子は全国生中継で……』
龍は歩みを止めていた。聞きたくなかった単語が耳に入ってきたからだ。
重大発表。日本を平和にしたとされる組織だ、誰もが何か何かと期待しているだろう。
「馬鹿馬鹿しい――」
「そうなの? 私としては凄く気になるけど」
誰に言ったのでもなく呟くと、覚えのない女声が後ろから聞こえてきた。
「また幻聴か」
「ちょ、何それ! よく解らないけど私を馬鹿にしたことだけは解るよ!」
おっ、今度は返事をする幻聴か。これは人生においてかなり貴重な体験となるだろう。面白い、楽しませてもらおう。
「ところで幻聴さん、カレーライスは好きか?」
「え、何よ突然。う~ん、好きかと嫌いか聞かれたら……好きだよ」
「では、パスタは好きかな」
「それは大好き! 私、イタリア料理が好きなの!」
「鼻から食べられるのか?」
「もっちろん! イタリア料理なら何でも……鼻からっ!?」
なかなかに馬鹿だ。だが今いる下手な人間よりも人間らしい。久々にまともな会話が成立している。それも当然か。
……幻聴、楽しいな。
「なぁ、お前名前とかあったりするのか? あるなら教えろ」
「ひ、人をからかっておきながら……うん、いいよ。私は月波 恋、呼び捨てでもいいからね」
……月波恋。明るい声だ。不思議なくらい気に障らない。むしろ彼女の笑い声を聞いてみたくなるほどだ。
しかし今自分がしている事を絶賛後悔中。
朝からこの街中で幻聴と会話しているんだ。周りからは好奇の視線に晒されているのは間違いない。
もし同じクラスの奴らに見られでもすれば今以上に居場所がなくなってしまうではないか。
「あの、さ。そろそろこっち見てくれてもいいんじゃないかな……? 流石に……ね、顔すらも会わせてくれないだなんて女の子として傷つくというか……」
「じゃーな、幻聴もとい月波。これ以上は堪えられん」
「……ふぇ?」
龍はそう告げすぐさま歩き出した。待ってよ~、とまだ声が聞こえてくる。そうか、幻聴なのだから逃げる事なんて到底出来ないじゃないか。
……無視するしかないな。
「……ねぇ」
整備された歩道を歩いて五分足らず、耳が付くとはまさにこの事。決して不快ではないのだが……聞きたくないのは確かだった。
「ねぇってば~! もうっ、何でこっち向かないのよ~」
「はぁ、幻聴の分際で何がしたいのか知らないが無理矢理にでも振り向かせりゃいいじゃねぇか」
お前に腕があるのならな。
「……い、いいよ。そこまで言うならやってあげる。私も、これ以上は待てないしね」
「ほう」
実に興味深い。手も足もないお前がどうしてこの俺を振り向かせようとするのか――龍は笑みを浮かべながら足を止めた。
後ろから深呼吸の音が聞こえた。……呼吸するんだな。そう思い龍はハッとした。月波恋、彼女はだだの幻聴ではない。返事をすれば、笑いもとれ、呼吸までしてみせた。
(まさか、こいつ……四肢があるというのか!?)
もはや彼女の存在は龍の中で幻覚という域を超越していた。さらに言うなら一人の人間と大差なく接せる。だとすれば四肢があってもおかしくはない。
(まずい! この俺が……振り向かされるだと?)
「見せてあげます、月波恋……真の力を!」
「真の力……だと……」
「……」
「……」
「……も、もし振り向いてくれたら……わ、私の胸……触っていい、よ」
――全力で振り向いた。
「え、いっ……いやぁああ!! 何で振り向くの~! えっち! 馬鹿! あ、あなたこうなるのを待ってたんでしょ!」
「何と言おうと胸は揉む、揉みしだく。予想以上の結果でこの俺は満足している」
頬を赤く染め胸を隠すようにして動揺する女の姿がそこにはあった。しっかりと輪郭を持った人間だった。
というかはっきり言えば途中から解りきっていた。本当に幻聴だったなら病院に来てもらっていただろう。
「安心するがいい、下着の着用は認めよう」
「~~~~っ! 変態!」
恥ずかしさを含んだ声と、綺麗なビンタの音が澄み渡る青い空に響き渡った。
「……だ、大丈夫? 本当にごめんね、まさかあんな事言われるなんて思ってなかったから」
恋に引っ叩かれた側の龍の頬はまだ微かに赤みを帯びていた。……ビンタってなかなか痛いんだな。
「けれど良かったよ、やっとこっちを向いてくれたし」
明るく微笑む少女。笑顔ひとつで、柔らかな陽だまりの中にでもいるような温かな気持ちにさせてくれる。
穏やかな茶色の髪を二カ所で束ねた華奢な体つきの少女は、龍を観察するようにくるくると周りを歩く。
「ふ~ん……」
「何だよ、この俺の体に興味あるのか?」
「な~んかいやらしい言い方。ま、別にそういう訳じゃないの。あなたの名前は?」
ぐいぐい来やがる。しかし既に龍は彼女の名前を聞き、答えてもらっている。ここで嫌だとは言える筈もなく。
「……天羽。天羽龍」
「そっか、これからよろしくね。天羽くん!」
何がよろしくなのか知らないが悪い気はしないのでそれに答えておく。
そもそも何故彼女――月波とこうして話しているのだろうか。龍の記憶では彼女から話しかけてきた筈だ。
「んで、結局何の用なんだ」
「……天羽くんが……とても不快そうな顔をしてたから」
恋が言った理由はそれだけ。暗い表情をした龍が気にかかっただけ。それだけではあるが、よくよく考えれば今の時代、暗い表情をした人間などそうはいない。そんな感情はすぐに金となり霧散するからだ。
だから恋は気になった。大画面ディスプレイを眺め、その間、ずっと負の感情を抱いていた龍が。
そして、そんな彼女も……不安、心配、似たような感情を今も抱いていたのだ。
「お前……お前も、まだ心を残していたのか」
「そうだよ……ふふっ、私たち仲間だね。天羽くん」
知らなかった。いや、何処かには居るとはずっと思っていた。龍と同じ喜怒哀楽欠けることない心を持つ者、同じ信念の者。
それが今、龍の目の前にいる。この感情の欠けた人間が入り組む日本で、紛う事なき本来の心を持つ人――
「それじゃ、行こっ!」
ぐいっと腕が引かれ、恋は歩きだす。龍も無意識のうちに抵抗する事なく足が動いていた。
「って、おい。何をする気だ。この俺はこれから学校にだな」
「何言ってるの! 私と居たほうが絶対楽しいよ! 保障してあげる!」
――違いない。龍はぴょこぴょこ跳ねるツインテールの髪を見ながら、そう思った。