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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第八話 新しい願い

 六月の第二土曜日は中学部にあるプールの開放日であり、小学部の児童達は三時間授業が終わってからプールで遊んでいた。香苗達はお弁当まで用意してお昼を過ぎても泳いでいたが、ついに疲れ果ててプールを後にした。駐車場の満開となった額紫陽花がくあじさいの花壇を通り抜けながら、路子がさも気怠そうに言った。

「あー、ダルー……競争すんじゃなかったー」

「ハハ、照ちゃん先生より速かったっけ。平泳ぎだけ」

「あー、忘れた……頭動かねー」

「ハハハ!」

 香苗は笑いながら振り返って、後ろを歩く美夏に尋ねた。

「美夏ちゃん、今日何メートル泳いだ?」

 美夏はにっこりと微笑んでおっとりと答えた。

「うーん、二回往復できたから、一〇〇メートルかな」

「おー!去年まで泳げなかったのに、凄いじゃん!」

「へへー」とはにかみながら、美夏は下駄箱の上靴を袋に入れて言った。

「じゃあ、私帰るね」

 香苗は一瞬きょとんと美夏を見て尋ねた。

「……あ、そっか!美夏ちゃん今日、塾の日だっけ?」

「うん!」

 路子は美夏の顔をじっと見てから、自分の上靴を取って言った。

「……美夏、ちょい待ってたらすぐ終わるけど」

「……もうすぐ迎えに来てくれるから」

「そっか、じゃあな」

「うん、バイバイ!」

「バイバーイ!」

 児童玄関を出た美夏が駐車場へ向かって歩いていると、ふと樅のトンネルからビニール袋を持った由之真が現れた。また畑に行っていたのかと思いつつ、美夏は由之真に軽く手を振って言った。

「バイバーイ!」

「………」

 しかし由之真がそれに答えず、美夏に歩み寄ってビニール袋を差し出した時だった。

「由ちゃーん!」

 美夏と由之真が声の方へ目を向けると、白い夏服を着た照が駆け寄ってきた。美夏はその白いセーラー服が照にとてもよく似合っていると思い、憧れの目で照を見た。いつも元気で優しくて綺麗な照が大好きで、自分にもこんな素敵な姉がいたらどんなに毎日が楽しいだろうと思うと、美夏は由之真が羨ましかった。

「由ちゃん、今帰るとこ?」

「……そうだけど、待って」

 そんな美夏の羨望を余所に、由之真は美夏に向き直って言った。

「これ、菅原さんの分」

「え?……あ!凄ーい!今日はこんなにとれたんだね」

 美夏がビニール袋を覗くと、三本のキュウリと丸形ズッキーニ二個、そして二掴みほどのさやえんどうが入っていた。

「私の分って、これ全部?いいの?」

「うん。まだまだとれるし」と由之真が答えた時、駐車場に一台の車が入ってきた。

「あ、お母さん来た!ありがとう八岐くん!じゃあね。照さんバイバーイ!」

「バイバイ」

「バイバイ美夏ちゃん!」

 美夏は走って車へ向かい、急いで助手席に乗り込んだ。照はその様子を眺めながら、ふとあることを思い出して言った。

「そう言えば由ちゃんさ、三鷹のお爺ちゃんとこなんだけど、御神札おふだ届けに行ってくれる?」

「……今日?」

「ああ、ううん。……来週の土曜か日曜でいいの。三鷹のお爺ちゃん家知ってる?美夏ちゃん家の近くなんだけど」

「……わかった」

「帰るんでしょ?」

「うん、バッグ取ってくる」

「うん、待ってるね」

 由之真は一度駐車場を出る車に目を向けてから、児童玄関へ向かって歩き出した。



「えっ!一〇〇メートルも!?……ホントー?」

「ホントだよ。一回も足つかなかったんだよ」

 美夏の母親はわざとらしく大袈裟に驚き、これまた大袈裟に感嘆した。

「一回も?凄いわねえ!お母さん二五メートルしか泳げないのに!ビックリだわ!」

「へへー、私の勝ちー!お母さんの負けー」

「負けちゃったー!フフフ!」

 たとえどんなに大袈裟に聞こえても、美夏にとって母親の言葉は疑う余地のない言葉だった。美夏は由之真から受け取ったビニール袋を開いて、嬉しそうに言った。

「お母さん、見て見て!」

「……あらぁ、凄ーい!学校の畑でとれたのね?」

 ついさっきの美夏と良く似た反応をした美夏の母親……菅原勝代すがわらかつよは、三十路という年齢ながらも百合恵より少し年上にしか見えない、若々しい温和な顔立ちのショートカットの女性だった。美夏は満面の笑みを浮かべて、元気に答えた。

「うん!さっきね、八岐くんがとってきてくれたんだよ!」

「へー……山田くんって、あの運動会で凄かった子?」

 美夏は勝代を睨めつけ、少し不満げに答えた。

「そーだけど、山田じゃなくて、八岐だよ。何回も言ってるのに」

「ごめんごめん!やまたくん!天ぷらのやまたくんね!もう覚えたわ!そう言えば下の名前も、なんだか男らしいっていうか、古っぽい感じだったわね?」

 美夏にとって由之真は毎日会う同級生だが、勝代にとっては運動会で一度会ったきりの、つい最近までずっと「山田くん」だと思い込んでいた少年だった。しかも「山田くん」は、勝代が美夏の持ち帰ったお土産の天ぷらを食べた時に深く刻まれた記憶なので、急に濁点だけを取り除いて微妙にイントネーションを変えるのは意外に難しかった。そもそも由之真への関心が薄い原因は、美夏が由之真を殆ど話題にしないからだが、運動会から娘の話に時折現れるようになったので、勝代は真面目に由之真を覚えようと思った。

「もう、ちゃんと覚えてよ!由之真だよ」

「ゆうのしんね!美味しい天ぷらの、やまたゆうのしんくん!トロフィー落っことした、やまたゆうのしんくん!もーバッチリよ!」

「ハハハッ!天ぷらもトロフィーもいらないよ!」

「いーの!お母さんはこれが覚えやすいんだから!フフ……美夏ちゃん、息は大丈夫?」

 美夏は大きく深呼吸してから元気に答えた。

「大丈夫!」

「そう……お薬は?」

「ちゃんとバッグに入ってるよ」と答えつつ、美夏は一応バッグの中を覗いてもう一度答えた。

「うん、ちゃんとある」

 菅原家は去年の春に引っ越してきたが、その全ての原因は美夏の病弱な身体にあった。美夏は幼い頃から特に喘息がひどく、薬を多用せず少しでも空気の綺麗なところで生活すべきという医師の勧めによって、菅原家は元の公舎から車で一時間以上離れたこの地に移り住んだ。幸いにも転地療養の効果は絶大で、清澄な空気と新鮮な食べ物と楽しい学校生活によって、美夏は日に日に元気になった。そして今や普通の子と変わらぬ生活が送れるようになったばかりか、転んで怪我をしても泣かない強い子に育った、と勝代は思っていた。一方、美夏の父親は公務員だが、毎朝一時間以上かけてマイカー通勤していた。しかし我が命より娘が大事の父親にとって、そんなことは美夏の健康と比べることではなかった。

 家賃が安い公舎に住んでいるので生活は安定していたが、勝代は美夏が外で遊べる状態になったことを機にパートへ出た。それは娘の健康が確実なものとなれば、引越す前に住んでいた市街に戻り、そこに新しい住まいを建てようと計画していたからだった。美夏を塾に通わせているのもその計画の一つで、可能な限り質の高い中学へ自宅から通わせてあげたいと思う親心だった。しかし、先月十一歳になったばかりの少女に、そんな親心がわかるはずもなかった。

 美夏が塾へ通い始めたのは先月からだが、はじめ美夏は自分が塾へ行く理由がわからなかった。由之真が転入するまで自分の成績は一番だったし、学習塾のレベルが自分より低い場合さえあり、美夏は塾通いが時間とお金の無駄であるとしか思えなかった。しかし両親が自分にしてくれることを一遍も疑ったことがない美夏は、理由はどうあれ素直に受け入れ、言われるがまま塾に通っていた。

 そんなある日のこと、美夏は塾で中学入試対策用のテストを受けさせられ、あることを察知した。そしてその夜眠れぬほどの激しい不安に襲われた美夏の小さな胸は、およそ半年ぶりの喘息発作を起こした。心配する両親を見て、美夏は元気を取り戻そうと明るく振舞い、幸いにも容態は半日で快復して医師は一時的な発作という診断を下した。両親もそれを信じて、次の日には日常が戻った。

 しかし美夏には、どうしてみんなと同じ中学へ通えないのか、どうして両親がそうさせるのかがわからなかった。美夏は毎日考え、考えに考えたが、両親のマイホーム計画を知らない美夏にわかることは、みんなとの別れという絶望の未来だけだった。そんな娘の心痛を知る由もない勝代は、車を停めて言った。

「いつもどおり、お父さん五時には来るから。お腹空いたらこれで軽く食べてね」

 美夏は母親の手から五〇〇円玉を受け取りながら、微笑んで答えた。

「うん、お母さん気を付けてね」

「うん!……あ、今日は一〇〇メートル泳いだご褒美に、夜は美夏ちゃんが食べたい物にしよっか!なんにする?」

「えっと……ハンバーグカレー!私サラダ作るね!」

「うん!それじゃあ、頑張ってね」と勝代は美夏の頭を優しく撫でて、美夏はにっこりと微笑み車を降りた。



 次の週、図工の時間に段ボール紙で指を切ってしまった美夏は、保健室で路子の手当を受けていた。幸い傷は浅く、てきぱきと手当を済ませた路子は、記録ノートに怪我の具合を書きながら切り出した。

「あー……あのさ……」

「……なあに?」

 書き終えた路子は一度美夏の目を見て、それからまたノートに目を戻して言った。

「……どうしたのさ?」

「え?……なに?」

 路子はもう一度美夏の目を見て、今度は目を逸らさずはっきり言った。

「つーか美夏、最近ずっと下ばっか見てるぞ?……なんかあったか?」

「………」

 美夏は呆然と路子を見つめてから、急に深刻な顔をして俯いた。

「………」

 そのまま黙ってしまったが、路子は辛抱強く待った。すると美夏は一度顔を上げたが、路子の目を見る前にまた俯いてしまったので、路子は素っ気なく言った。

「恥ずいとかなら、別にいいけどさ………」

 そして少し考えてから、今度は急に不満を込めた声で言った。

「困ってんならさ……言えよ……言わないとこっちが嫌さ」

「!」

 路子を怒らせるつもりなどなかった美夏は、慌てて顔を上げた。しかし路子は少しはにかんだ苦笑を浮かべながら、静かに優しくもう一度尋ねた。

「あー、どうしたのさ?」

「………」

 美夏は路子の優しい目を見た瞬間、生まれてはじめて心が言いたいことで埋め尽くされ、ただ言いたくてしかたないのにどうしても言えなくなった。美夏は口を開け、目からぽろぽろと零れる滴にも気付かず、何度か言おうとしたが言えなかった。路子は美夏が言えるようになるまで黙って待っていた。するとついに美夏の口は、言葉を思い出した。

「……わたし……私ね………」

 言葉が出たことで落ち着きを取り戻した美夏は、路子の目を見て続けた。

「……みんなと同じ……中学……行けない……」

「!?」

 美夏の深刻な様子から、美夏が何を言おうと路子は覚悟しているつもりでいた。しかしそれは遥かに予想を超えた言葉であり、路子は眉間に皺を寄せながら恐る恐る尋ねた。

「……マジか?」

 そう問われてはじめて、それが自分だけの考えであることに美夏は気付いた。しかし自分の考えが間違っているとは思えず、曖昧な答え方をした。

「……たぶん……きっとそうだと思う……」

 その曖昧な答えは、こうと決めたら譲らない路子に希望を与えてしまった。そして路子は、その曖昧さに全てを賭けて尋ねた。

「……たぶんて……決まってないのか?」

「……うん……でも……絶対そう……」

「なんでさ?」

「……」

 路子の容赦ない問いに答えるのは辛かったが、美夏はしどろもどろに塾のことを話し始めた。その話を黙って聞いていた路子は、ふとあることに気付き、腕を組んで少し考えてから尋ねた。

「……それ言ったのか?」

「……え?」

 美夏は質問の意図がわからず、不安そうに聞き返した。路子は美夏にもわかるよう、今度ははっきり尋ねた。

「あー……他の中学なんて行かないって、ちゃんとお母さんに言ったのか?」

 それは一度も両親に逆らったことのない美夏にとって、どうしても言えない言葉だった。美夏の一番の願いは、美夏の健康を望む両親の願いを叶えることであり、親に逆らうことは自分の願いを否定することに他ならず、それ故に美夏は逆らいたいのに逆らいたくないという葛藤を抱えていた。

 しかし、すっかり元気になって両親の願いを叶えた今でも、美夏の心は両親の願いを叶えることを望み続けていた。それは健康になった今でも、まだ病弱だった頃の心を少し引き摺っているからであり、言い換えれば、急に元気になった身体に心の成長が追いついていないだけだったが、それを知る由もない美夏は、俯き、首を横に振りながら答えた。

「……言ってないよ……だって……言えないし……」

「なんでさ?」と喉まで出掛かったが、これ以上理由を尋ねるより是が非でも言わせた方が早いと感じた路子は、別な言い方を選んだ。

「あー…でもさ………言わなきゃわかんないことあるだろ……言わなくてもわかることあるけどさ……私はバカだから、美夏に聞くまでなんにもわかんなかったし……」

 美夏はゆっくり顔を上げ、苦笑混じりにおっとりと答えた。

「……路子ちゃんはバカじゃないよ」

「バカだよ……美夏とか八岐に比べたら考え無しさ」

「……」

 不意に出てきた八岐という言葉は、何故か美夏の心を少しだけ軽くした。美夏は由之真の顔を思い浮かべながら、思ったことを素直に口にしていた。

「八岐くんは……ちょっと違うよ。変わってるんだと思う。だって天ぷら揚げたりするんだもん。フフフ」

 美夏が笑ったので、路子もそれに合わせた。

「あー、確かに変わってんな……つーかあんなヘンな奴見たことね。ハハハ!」

「フフフ、ヘンだよね。フフフフッ!」

 美夏の心が持ち直したと感じた路子は、美夏の背中をそっと押した。

「あのさ……うちの母さん、私スカートはかないのに、スカートばっか買ってくるのさ……でも、もう買ってくんなって言えないじゃん?言ったら絶対泣くし………だから、何となくだけど……美夏が言えないのって、何となくわかる気するけど………」

「………」

 美夏は黙って聞いていたが、今度は路子から目を逸らさなかった。路子も美夏の目を見て、優しく言った。

「……でも、それは言った方がいいよ。言わないと……わかんないし」

 そして美夏は一度目を落とし、また路子の目を見つめて答えた。

「……うん」

 二人が保健室を出ると、香苗が廊下の壁に背もたれて待っていた。香苗は美夏の顔を見て少し心配そうに尋ねた。

「……美夏ちゃん、大丈夫?」

 美夏の胸にはまだ不安が残っていたが、今は心からそう感じて答えた。

「うん、大丈夫!」

「……そっか!」

 香苗は嬉しそうな顔を路子に向けてから、美夏に向かって元気に言った。

「美夏ちゃん、先生が図書室の本一緒に選んでって!」

「うん!」

 美夏は、こんな風にいつも誰かに何かを頼まれるこの学校が大好きだった。前の学校では休みがちでお客様扱いされていたが、ここではいつも誰かが自分を必要としてくれるし、美夏はそれが嬉しくてしかたなかった。だから家でもどんどん家事を手伝いたかったが、母親が美夏に求めたのは家事よりも勉強であり、親友との別れだった。

 それでも美夏は、美夏が困ると自分が嫌だと言ってくれた路子のために、母親を泣かすことになっても言おう、と決心した。しかし、今はまだ言える勇気が出ないので、もう少しだけ時間をかけようと思った。美夏はそんな臆病な自分が嫌だったが、たとえそれがどんなに臆病な勇気でも、美夏が言おうと決めた瞬間、美夏は前よりずっと広い道に足を踏み入れていた。



 しかし、言おうとしている内に次の土曜が来て、美夏はとても焦っていた。今日は塾の日ではないが、来週また入試対策テストがあるので、勝代が問題集を買ってきてしまったからだった。美夏は机の上に問題集を置いてみたが、どうしてもページを捲る気になれなかった。しかたないのでとりあえず宿題から手を付けていると、勝代が部屋に入って来て言った。

「ちょっとスーパー行ってくるね。……あ、冷蔵庫にアイス入ってるから」

「……うん、気を付けてね」

 勝代が出かけて少し経ってから、美夏は鉛筆を置いてキッチンへ向かった。そこでふと美夏は、テーブルの椅子の上にある勝代の財布を見つけた。そして今ならまだ間に合うと思い、冷蔵庫にアイスを戻し、財布を手に取り玄関を出た。勝代が二つあるどちらのスーパーへ向かったのかわからなかったが、とりあえず美夏は近い方へ向かった。路地へ出ると真夏のような陽射しが熱くて、美夏は帽子をかぶってくればよかったと思いつつ、顔をアスファルトに向けた。すると不意に路子の言葉が頭をよぎり、自分はこんな風に下ばかり見ていたのかもしれないと思った時、美夏の心がまた焦りだした。

(……あっついわねえ……帽子かぶってくればよかったわ)

 勝代は坂を見上げながら額の汗を手のひらで拭った。今美夏が歩いている路地を真っ直ぐ行くと、三分ほどで近い方のスーパーに着くが、勝代はその中間にある勾配のきつい一方通行の道路を左へ下って、遠い方のスーパーに行っていた。そしてスーパーに着くなり財布を忘れたことに気付き、美夏が歩いている路地へ向かってその坂道を引き返していた。この道に日陰があるからこちら選んだのだが、こんなに暑いなら日陰なんて関係ないと勝代が後悔していると、前方から男の子が一人下ってくるのが見えた。

(……あら、あの子……トロフィー落とした……やっぱりそうだわ)

 由之真は勝代に気付かず、ゆっくり左右を眺めながらゆったり歩いていた。その由之真を見ながら、もし擦れ違ったら天ぷらのお礼を言おうと勝代が思っていると、由之真の後方から明らかにスピードを出し過ぎている宅配便の二トントラックが由之真に迫ってきた。しかし由之真が左へ寄ったので勝代が安心した、その時だった。

(……!?)

 由之真のすぐ後ろにトラックが迫った瞬間、丁度路地から出てきた娘の姿が勝代の視界に入った。しかし美夏が左右を確認せず、俯いたまま道路に足を踏み入れたのを見た勝代の心臓に、釘を打ったような痛みが走った。

「美夏っっ!!」と叫んだつもりだったが、声は出なかった。由之真は突然路地から現れた美夏に気付いたが、同時に自分のすぐ後ろにトラックが来ているのもわかっていたので、当然美夏はそれに気付いて立ち止まるだろうと思った。しかし、俯いたままの美夏に立ち止まる気配がないと判断した刹那、由之真は左足で地を蹴った。

「……っっ!?」

 突然右腕を掴まれ後ろへ強引に倒された美夏は、ただ目を見開くしかなかった。美夏は道路にぺたりと座り込み、目の前を通り過ぎたトラックが少し進んで停まったのを見ても、元よりトラックに気付いていなかったので、何が起きたのかわからなかった。しかし突然美夏の耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。

「大丈夫?」

(………八岐くん?)と思っただけで、美夏はぽかんと口を開けて由之真を見上げた。

「気を付けて……じゃあ」と由之真が言った時、トラックから飛び降りてきた男が大声をあげた。

「大丈夫かっ!?」

 そしてそのすぐ後に、今度は絹を裂くような女性の叫び声が響き渡った。

「美夏ーーーっっ!!」

「!?」

 その声に驚き立ち止まった男を押しのけ、勝代は半狂乱になって美夏に飛びついた。そして荒々しく美夏の身体を掴み、腕や足や背中を調べ、鬼気迫る母親に怯える美夏の顔を両手で挟み、眉間に皺を寄せ恐ろしい目で美夏の目を見据えながら声を震わせた。

「………どこも……痛くない?」

「……うん。痛くないよ」と美夏が恐る恐る答えた瞬間、勝代は美夏を抱きしめながら、恥も外聞もなく泣き崩れた。

「………」

 美夏は母親の腕の中で、ようやく自分がトラックにはねられそうになった事に気付いた。そして美夏の胸に生きている安堵と死の恐怖が同時に込み上げてきて、美夏も母親にしがみついて泣きじゃくった。悲鳴を聞きつけ家から出てきた近所の住民達によって、辺りは騒然となった。そして勘違いした誰かが呼んだ救急車のサイレンを耳にした時、勝代はやっと我に返り、咄嗟に人だかりを見渡した。しかしその人だかりの中には、娘の命の恩人はいなかった。



 美夏を抱きかかえたまま家に着いた勝代は、もう一度美夏の身体を丹念に調べてから、今度は安堵の涙を流した。美夏もしだいに落ち着いて、二人はソファーに座り、無言で寄り添い合った。そして大きく安堵の吐息を洩らしてから、勝代は呟いた。

「よかった……ホントに……よかった………」

 美夏は謝ろうかどうか迷ったが、ただ「……うん」と答えた。勝代は優しく美夏の肩を抱いて、頭を撫でながらもう一度呟いた。

「……よかった……」

 一部始終を見ていた勝代は、自分の傍らに娘がいることがまだ信じられない気持ちだった。あの時確かに、美夏はトラックの前に飛び出した。そしてトラックと美夏の距離感がなくなる寸前、美夏は由之真によって後ろへ引き倒された。それでも車に掠ったように見えた勝代は、たとえ命に別状はなくても無傷であろうはずがないと思った。しかし美夏には、掠り傷一つ無かった。

「………」

 勝代は美夏の頭に自分の頭を擦りつけた。あの時もし由之真がいなかったらと思うと、震えが止まらなかった。美夏は母親の震えに気が付き、何とかして母親を安心させようと口を開いた。

「……あのね、お母さん……八岐くんが……引っ張ってくれたんだよ」

 勝代は顔を美夏に向けて、やっと心から微笑んで言った。

「……うん……お母さん、ぜーんぶ見てた……」

「……そうなんだ……」

「ねえ、美夏ちゃん……あの道はあんまり車通らないけど、ちゃんと左右を見てから渡ってね?」

「うん……ごめんなさい……考えてて……」

 美夏は俯き、素直に謝った。しかしすまないという気持ちからか、我知らず本当のことを口にしていたが、勝代はそれを聞き逃さなかった。

「……なに考えてたの?……心配事があるんだったら、お母さんに話してみない?」

「………」

 その目が路子とよく似た優しい目だったので、美夏は今ならどんなことでも話せると思った。

「あ……あのね……私ね……」

 美夏は息を吸い込んで、ずっと胸に秘めていた辛い塊をついに吐き出した。

「……みんなと……同じ中学校に……行きたい……」

「!?」

 美夏は勝代が唖然としている内に、思いの丈を静かにぶつけた。

「……私……塾じゃなくても、ちゃんと勉強できるよ………私、ここに来たから、こんなに元気になったんだよ………ここにいれば、もっと元気になるし………私……ここにいたい……みんなと一緒の……中学に……」

 勝代が美夏を抱きしめたので、美夏は最後まで言えなかった。しかしもうそれ以上は言う必要がなかった。勝代は昔よくしていたように、美夏のおでこに自分のおでこを当てながら優しく囁いた。

「もう……塾は行かなくていいわ……中学校も、みんなと一緒でいい」

 一瞬勝代は、何故最初にそう言ってくれなかったのかと思った。しかしすぐに、美夏に塾を勧めた理由をきちんと説明していなかったことに気付き、原因の発端が自分にあることを悟った。良かれと信じてしたことだが、今の美夏が去年までの美夏とは違うことを勝代は今初めて実感していた。美夏は顔を上げ、まじまじと母の目を見て尋ねた。

「……ホントに?」

「ホントよ」

 美夏は一瞬瞳を輝かせたが、すぐにまた俯いてしまった。

「でも……でも……お父さん、がっかりするよね……」

 勝代は目尻に皺を寄せながら悪戯っぽく、「そーねぇ……」と惚けてから答えた。

「大丈夫、絶対がっかりしないわよ!だってお父さん、元々あんまり塾のこと乗り気じゃなかったし……美夏ちゃんが自分で決めたんだって聞いたら、きっと……わっ!」

 勝代の言葉が終わる前に、美夏は母親の首に飛びついていた。あんなに不安だったのに、急に全てが、何もかもが良くなった。もし美夏に翼があったら、そのまま天高く舞い上がっていたほど美夏は嬉しかった。そして笑おうと思ったが、涙が出てきて止まらなかった。勝代は心の底から美夏を愛おしいと思った。そして去年まで病弱だった美夏が、身体だけでなく、心も十分元気になったことを実感しつつ、この田舎へ来て本当によかったと思った。そして美夏が落ち着いた頃、ふと勝代が言った。

「美夏ちゃん………山田くんに、ちゃんとお礼しなくちゃね。命の恩人だものね」

 美夏は眉間に皺を寄せ、勝代を睨めつけて言った。

「……山田じゃないってば!やーまーたっ!!」

 


終わり

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