第七話 赤いバトン
「あと一回!これでラストね!」
五月最後の土曜の放課後、百合恵は額の汗を袖で拭ってから思い切り息を吸い込み、ホイッスルを吹いた。
ピッ!
「おりゃあっ!」
気合いと共に、香苗は三〇メートル先で待っている路子目がけて猛然と駆け出した。路子は香苗がテイクオーバーゾーンに入るや否や全速力で地を蹴った。
「ほいっ!」
そしてバトンゾーンギリギリで香苗からバトンを受け取り、五〇メートル先に引いてある白線の手前でトップスピードに乗り、路子がその白線を過ぎた瞬間、美夏が前を向いて走り出し、バトンゾーンの五メートル手前で路子は美夏に追いついた。
「はいっ!」
美夏は見事にバトンを受け取り、そして三〇メートル先で待っているアンカーに向かって力の限り腕と脚を振った。美夏が白線を越えた時、アンカーはそろそろと動きだし、バトンゾーンのぴったり上でバトンを受け取った後、百合恵はもう一度ホイッスルを吹いた。
ピピーーッ!
そして百合恵はガッツポーズを取りながら、みんなに向かって声を張った。
「パーフェクツッ!」
「よっしゃー!リベンジだーっ!」
「おーーっ!」と香苗と路子はハイタッチを交わし合った。
三時間授業である土曜日に弁当を持参してまで百合恵達がしていたのは、明日開催される合同運動会の花形種目である、リレーの練習だった。リレーで最も重要なのはバトンパスなので、香苗達は何度も練習を積み重ねてきた。そしてついにそれぞれの運動レベルに合ったパスの方法を編み出して、それを見事に磨き上げた。香苗の雄叫びを聞いた百合恵は、苦笑しながらもみんなを誇らしげに眺め、これはひょっとしたらひょっとするかもと思った。
村立第二小学校と菜畑小中学校小学部の合同運動会では、菜畑小の児童達は各学年それぞれ二小の一クラスに混ざって参加していたが、リレーだけは別だった。四年生から六年生の種目である男女混合リレーは学級対抗種目の一つだが、菜畑小の児童はこの時だけクラスを離れ、学校を代表する「菜畑小チーム」として毎年観客を大いに沸かせていた。そして香苗達は三年生の時、自分達も来年はリレーで観客を沸かすものだと思っていた。
ところが去年の四年生のリレーに参加できたのは、路子だけだった。理由は三人しかいないからで、百合恵は他の学年から一人借りるとか、路子か香苗が二周走るのはどうかと食い下がったが、公平でないという理由で菜畑小四年生チームは消滅してしまった。もちろんその時は路子や六年生チームを精一杯応援したが、百合恵達は運動会が終わっても何かやり残したような気がしてならなかった。しかしそこへ四人目の由之真が現れたことによって、菜畑小五年生チームが誕生した。
もちろんそれだけでも嬉しいが、それは新体力テストの時だった。由之真の運動能力が、二小の女子の中で一二を争う路子と殆ど同レベルであることを知った百合恵の胸に、ふとある野望が生まれた。この時百合恵は二小の先生から、保護者の申し出により本年度の合同運動会は低学年の徒競走がなくなったので、プログラムの隙間を埋めるアイデアを求められていた。早速百合恵は、思い切って一か八か駄目元で、従来の五年生男女混合四〇〇メートルリレーを、倍の八〇〇メートルにしてはどうか、今や八〇〇メートルはどこもやっていないので、きっと会場は大いに盛り上がるに違いないと提案した。そう提案した理由は、足の速い二人がいれば優勝も夢ではなく、長いリレーは何が起こるかわからないと考えたからだが、意外にもそれはすんなり採用されてしまった。そして百合恵が野望をみんなに告げると、路子が不敵な笑みを浮かべて、「……リベンジだな」と呟いた。
斯くして百合恵の野望はみんなの野望となり、四月の末から一ヶ月以上もリレーの練習を積み重ね、野望は着々と実を結びつつあった。そして百合恵はホイッスルを吹いてみんなを集めて言った。
「よし!じゃあ、みんな今日は明日に備えてよく眠ってね!眠くなくても眠ること!それから病気と怪我は絶対禁止です!いい?」
「はーい!」
「以上です!さようなら!気を付けてね!」
「さよーならー!」と言ってから、香苗がにやりとしながらみんなに呼びかけた。
「みんな、やるよ!」
みんなは円陣を組んで、円陣の中心で手を重ねて香苗が言った。
「せーの!リッ!」「ベッ!」「ンッ!」「…ジ」
「ヤマっち遅っ!ちゃんと合わせてよ!もっかい!」と香苗は由之真にダメ出ししてからもう一度仕切り直した。
「せーのっ、リッ!」「ベッ!」「ンッ!」「ジ」
「フーーーっ!」
それは自分達を鼓舞するために香苗が勝手に考えた円陣で、リレーの練習の度にそれをしていた。しかし気持ちはわかるが、リベンジとは復讐とか仕返しという意味なので、百合恵は苦笑しながら尋ねた。
「みんな……それホントに向こうでやるの?」
すると美夏が笑いながらおっとりと答えた。
「向こうではやんないんです」
「そうそう!やったら、やる気バレバレじゃん!やるならこっそりだよ!」と香苗がすかさず愉快そうに付け足した。
百合恵は一瞬吹き出しそうになったが、必死でそれを噛み殺し、とにかくみんなが運動会を楽しんでくれているのが嬉しかった。最近の運動会は児童より保護者の方が一生懸命で、児童の方は面倒がっていると聞いていたが、幸いにも菜畑小にそんな児童は一人もいなかった。そればかりか路子の提案で、路子達は全員運動会の係についていて、運動会全体を少しでも盛り上げようとしていた。
百合恵は校門を出て行くみんなを眺めながら、運動会で一度も一等賞をとったことがなかった自分の小学校時代を思い出していた。もしみんなが優勝したら、それは自分の優勝でもあり、学校の優勝でもあるので、そう思うと百合恵は急にわくわくしてきた。
昨夜の天気予報は、今日の天気を晴れと予言していた。しかし今日の天気が雲一つ無い見事な快晴となったのは、香苗だけでなく自分もてるてる坊主を吊したからに違いないと百合恵は思った。もっとも、それを柏葉に見られてしまったのは不覚だったが、ともかく今日は申し分のない運動会日和だった。
児童達は八時半に集合して、二台のマイクロバスに分乗して二小へ向かった。香苗達は二小の五年一組に加わって、全員白組となった。開会式では優勝旗と各学年の優勝トロフィーが返還され、香苗と路子と百合恵はそのトロフィーを見据えた。そしてすぐに種目が始まり、みんなはそれぞれの係に奔走し、百合恵もクラス担任のサポートや、柏葉と共に菜畑小児童の引率に従事した。そしてあっという間に午前のプログラムが終了し、香苗達は菜畑小の保護者が陣取る席へと向かった。
そこで香苗達は由之真の保護者に会えると思っていたが、由之真の祖母は香苗の母親に豪華な弁当を渡してすぐに帰ってしまったとのことだった。運動会に保護者が来ないことが信じられない香苗は、由之真に無邪気な質問をした。
「ヤマっち……照ちゃんは?」
「……今日は剣道の試合。団体戦で優勝するって張り切ってた」
香苗はどうして照が来てくれないのか?と尋ねたつもりだったが、由之真が笑顔で答えたので、「…そうなんだ」としか言えなかった。保護者達も香苗と同じように感じていたので、すぐに由之真を招き入れ、あれもこれもと料理を勧めた。見かねた香苗は頬を染めながら自分の母親に抗議した。
「お母さんダメだよ!ヤマっち元々あんまり食べないんだから!」
香苗の母親はきょとんとしながらも、それに笑顔で言い返した。
「あらら!お婆ちゃんが折角作ってくれたんだから、そんなこと言わないで香苗ちゃんももっと食べてよ!」
「食べたいけど、これからリレーあるし!重くしちゃダメなのさ!」
すると路子の父親が、路子の頭を優しく小突きながら言った。
「なーんだよ?だからお前そんなぽっちしか食わねぇのか。リレーって何時からだよ?」
路子は俄に頬を染めながら、素っ気なく答えた。
「ちゃんと読めよ。プリントに書いてあんじゃん」
「おっ、次の次だな!ビデオ撮っから、前みたいに転けて泣くなよ?」
「泣かねーし、撮んなくていーよ!もう帰れよ!」
「ハハハッ!帰るかっつの!まあ、頑張れ。全部見てっからな!」
路子は真っ赤になって「フンッ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その方向にいた由之真と目が合ってしまったので、慌てて目を逸らした方向には美夏がいた。美夏は少し強ばった笑顔で路子に尋ねた。
「路子ちゃん……ちょっと練習しない?」
路子はすぐに、美夏の気持ちを察して答えた。
「……おお、やるか!」
二人が立ち上がって歩き出したことに気付いた香苗は、すぐに由之真に声を掛けた。
「ヤマっち行くよ!」
「うん」
由之真は手早く弁当を風呂敷で包み、香苗の母親に向かって言った。
「これ、お願いします」
「え?」
昼の時間はまだ十五分以上残っていたので、香苗の母親は由之真と香苗を交互に見て言った。
「……もう行っちゃうの?」
「最後のおさらいすんの!」
「……」
香苗の母親は、家の中ではけして見せない娘の真剣な眼差しに気圧され、しばし呆然としてしまった。そして何とも言えない少し寂しげな笑みを浮かべながら、美夏の母親に言った。
「……なんだか、みんな本気だねえ」
「……そうみたいですねえ。頑張り過ぎないといいんだけど……」
娘が時折思いつめた顔をしていたことに気付いていた美夏の母親は、美夏の身体がまだ弱かった頃の口癖がつい出てしまった。しかし、美夏の母親と仲の良い路子の母親が、笑ってその呟きに答えた。
「フフ、大丈夫よ!美夏ちゃん、もうすっかり元気なんだから!」
そして午後の最初の種目が始まった時、美夏は思わず溜息をついていた。それに気付いた路子は、何も言わず悪戯っぽい笑顔を美夏に向けた。正直なところ、美夏は駆けっこが苦手であり、ましてリレーともなればプレッシャーは倍となって美夏の華奢な身体に重くのしかかった。そして香苗と路子はそれを知っていたからこそ、百合恵が決めた順番を変えて、美夏を第三走者に決めた。
香苗と路子は何度も綿密に話し合い、美夏がどれだけプレッシャーを受けずに走れるかが、この長いリレーに勝つ鍵である、という結論に達した。美夏は一人で走ればけして遅くはないが、競争となると途端に力んでしまい、呼吸が乱れて実力が出せなくなってしまう。そのことは百合恵も知っていたが、スタートは物怖じしない香苗でアンカーは勝負強い路子と思い込んでいたので、百合恵は美夏を第二走者に配置した。その組み合わせで幾度か練習して、バトンの繋ぎもタイムも悪くはなかった。しかし香苗と路子は、もし勢いに乗る前に大差がついた場合、結局アンカーに一番負担が掛かると考えた。
そして実のところ、由之真も競争が苦手だった。それは本人以外全員が気付いていて、百合恵は単に由之真が競争嫌いなだけだと思っていたが、実際にいつも由之真と競い合っている二人は違う考えを持っていた。二人は由之真が競争嫌いではなく、周りの状況に合わせてしまう悪い癖があると考えていた。そして二人は、きっと由之真は本気で走らず順位を維持しようとするだろうと予想した。それならばいっそ由之真をアンカーに置いて、本気にならざるを得ない状態にしてしまえ!そして美夏にはその事だけを伝えて、全ては由之真に掛かっていると思わせ、そちらに意識を向かせることでプレッシャーを軽減させよう!というのが香苗と路子の必勝作戦だった。
もちろんその作戦を成功させるには、第一走者の香苗と第二走者の路子で、一位か二位になっていなければならない。しかし二人は、自分達が必ずそうできると確信していた。この場合できるかどうかではなく、しなければならないから是が非でもそうする自分達を信じる他はないのである。そしてついに五年生男女混合学級対抗八〇〇メートルリレーを告げるアナウンスが流れ、会場が沸きだした。
トラックに集められた戦士達を前にした時、百合恵の胸は早鐘を打っていたが、それを悟られぬよう不敵な笑みを浮かべて言った。
「さてと、みんな………ちょっとリベンジしようか!」
「おっしゃーっ!」と香苗は一度自分の膝を両手で叩いて、路子から赤いバトンを受け取った。そして大きく深呼吸をして、路子を睨めつけてからスタートラインへ向かった。百合恵は写真を撮るために、いそいそとフィールドの外へ出た。
リレーは割合に本格的なものだった。トラックは一周二〇〇メートルで、走者は五年生四クラスに菜畑小チームを入れて五組。第一走者はセパレートコース(決められたコース)を走り、一〇〇メートル地点を過ぎたらオープンコースとなる。第二走者からはコーナートップ(コーナーの旗を通過した順に内側から並ぶ)となり、バトンパスはテークオーバーゾーン内であればどこで行ってもよい。しかしペナルティーは厳しく、コースアウトや内側からの強引な追い越しは、即失格だった。スタートの方法は自由で、香苗はクラウチングスタートだった。そして会場が静まり、スターターがピストルを高々と挙げた。
「位置についてー、よーい……」
パーンッ!
スタートは一回で決まり、香苗は見事スタートダッシュに成功して、オープンコースを過ぎた時点で一位と僅差の二位だった。香苗は髪を波打たせながら直線を駆け抜け、第二コーナーに入るまでその順位を維持したが、コーナーを抜ける時に追い上げてきた三位走者に背後を捕らえられた。しかし歯を食いしばって耐え抜き、そのままの状態で路子の右手をバトンで叩いた。
「ハイッ!」
路子はバトンを左手に持ち替え、眉間に皺を寄せて第一コーナーに飛び込んだ。しかしコーナー手前で三位走者に抜かれた時、百合恵は「あっ」と小さい悲鳴を上げたが、路子の実力はこれからだった。第一コーナーを抜けた路子が頭一つ分前傾姿勢になった瞬間、その加速に会場がどよめいた。
「ミチいけーーっ!」
路子はあっという間に直線の中間で二位走者を抜き去り、第二コーナーに入ってすぐ一位走者の背後に迫り、そして美夏にバトンを渡した時には二位走者に三メートル以上の差を付けていた。
「ハイッ!」
前に走者がいない美夏は、(私は一人で走ってるんだ!)と心で叫びながらあらん限りの力で地を蹴った。これは競争ではなく、あくまでも自分との戦いであって、他の走者も一人で走っているのだ。美夏がそう思いながら第一コーナーを抜けた時、突然美夏の右を男子が駆け抜けた。いつもの美夏ならそこで焦ってしまうのだが、今は何故かその男子がとても狡いと感じて、怒りによって焦りを忘れた美夏は、その男子の背中を猛然と追いかけた。
「おおっ!美夏ちゃんいけーっ!」
「いけるぞ!美夏いけーーっ!」
香苗と路子の声援に押された美夏は、第二コーナー中間まで二位を保った。しかしコーナーを抜ける瞬間三位走者につかまり、そして「長いリレーは何が起こるかわからない」と百合恵自らが予言した通りの事態となり、会場にどよめきが走った。
「っ!?」
「……ああっ!?」
美夏を追い抜いた走者が強引に美夏の前へ割り込み、地面を蹴り上げた前走者の足が美夏の振り上げた足に掛かった。美夏は途端にバランスを失い、足は縺れ、体重が急激に前へ移動した。
「ふあっ!?」
咄嗟になんとか踏ん張ろうとしたが、身体は真っ直ぐ一回転して、美夏は自分が転んでいるというより地面と空がぐるっと回転したかのように感じた。しかし転がり方がよかったのか、美夏は地面に腰を下ろしたような体勢で滑り込んだ。そして目を回した美夏が呆然としかけた瞬間だった。
「!」
突然すぐ目の前に何かが迫って来たので、美夏は反射的に目を閉じた。しかし美夏にぶつかったのは風と砂だけで、美夏は自分の左手が引かれるのを感じて目を開けた。するとその時、ドッッ!という地面を踏み鳴らすような音がして、同時に砂埃が舞い上がり、閉じかけた美夏の瞳には踊る誰かの髪が映った。
「……美夏ちゃんっ!!」
「大丈夫か!?」
香苗と路子が地面に座り込んでいる美夏に駆け寄り、美夏は二人に支えられながらフィールドに入れられたが、その時ようやく自分がバトンを持っていないことに気付いた。
「……あれ?バトンは!?」
「ヤマっちが取ったよ!アレ!」
「……え?」
香苗が指さす方向を見た美夏の目に、自分が渡した覚えのない赤いバトンを持って猛然と駆ける由之真の姿が映った。香苗は美夏の身体が前のめりになった時点で思わず目を閉じてしまったが、すぐに目を開けた時に誰かが美夏に迫り、その誰かが美夏から素早くバトンを奪い取った。香苗はその時初めてそれが由之真であることに気付いたが、路子は由之真と美夏のバトンパスを見届けようと思い、由之真の方へ目を向けていた。ところが香苗が悲鳴を上げる寸前に、由之真が突然逆方向へ走り出したので、路子は美夏が転ぶ瞬間を見ていなかった。
由之真が数歩でトップスピードに乗った瞬間、会場は一旦静まり、第一コーナーの終わりで三位と四位走者の二人の外側を風のように駆け抜けた時、また会場がざわめきだし、その時香苗と路子は寒気を感じた。そして三人目の後ろに追いついた時に、また会場が静まり、トラックの半分を過ぎた辺りでそれを追い抜いた瞬間、大声援が沸き起こった。由之真は瞬く間に三人を追い抜き、二位に躍り出たのだった。
「ヤマっちいけーーっっ!!」
「いっけーーっっ!!」
「………」
香苗と路子は力の限り叫んだ。美夏は両手を固く握りしめ、自分の膝から血が流れていることにも気付かず、口をぽかんと開けながら由之真を見つめていた。
「………」
美夏と同じように口を開けながら、百合恵はまだ自分が見ているものを信じられずにいた。美夏が転倒した瞬間に百合恵が考えたことは、みんなにどんな慰めの言葉をかけたらよいかということだった。しかし赤いバトンを持った走者は次々と前走者を抜き去って、第二コーナーの中間で一位走者の背後を捕らえていた。百合恵は一瞬でも諦めかけた自分を恥じながらも、目の前を疾風が如く駆け抜けた走者が本当に由之真であることを確認した瞬間、我知らず叫んでいた。
「いけーーっっ!!いけーーっっ!!」
由之真は微塵も失速せず、およそ三〇メートル以上離れていた一位走者との距離を、第二コーナーの終わりでゼロメートルにした。そしてついにゴール手前二メートルのところで、一位走者を二位走者にしてしまった。
ワーーーッ!!
割れんばかりの大歓声の中、由之真はすぐには止まれず、そのまま二〇メートル以上進んでからようやく足を止め、膝からゆっくり地面に座り込んだ。
「やぁったーーっっ!!」
香苗達は奇声を上げながら駆け寄り、それぞれ勝手に賛辞を贈った。
「ヤマっち凄っ!すごーーっっ!!」
「八岐、グッジョブッ!!」
「ありがとう八岐くん!ありがとう!!」
しかし由之真には三人の声が、遠くの方から聞こえるようでよく聞き取れなかった。由之真は立ち上がろうと片膝を立てたが、思うように身体が動かず、横に立っていた路子の胸に寄り掛かってしまった。
「おわっ!……おい……八岐?」
「……ヤマっち?」
「どいてっ!」
遅れて到着した百合恵が割って入り、由之真を抱き起こしながら声を張った。
「八岐くん!?……八岐くん聞こえる?」
しかし由之真は一拍おいですぐに答えた。
「……聞こえます。大丈夫です」
由之真の声を聞いて全員が大きく安堵の息を洩らし、今度は香苗が路子に寄り掛かりながら何かを言おうとした時だった。
「どうしました?大丈夫ですか?」
「……おわっ!?」
実行委員担当教員の呼び掛けに振り返ると、いつの間にか自分達の周りに人垣ができていたことに気が付いて百合恵達は慌てた。
「だ、大丈夫です!ちょっと疲れ過ぎたみたいで……休ませますので!」
そして百合恵は惜しみない拍手の中、由之真を背負ってそそくさと救護席へ向かった。香苗達もその後を追ったが、途中で決勝係の児童に呼び止められ、そこで美夏と由之真のバトンタッチが微妙であり、記録係が撮影していたビデオを見ながら判定中であることを聞かされ愕然とした。しかし三人とも由之真が気になっていたので、とりあえず結果は後で聞きに行くと答えて、再度救護席へ向かった。
百合恵は由之真をロールマットの上に寝かせ、救護係の児童から濡れタオルとビニール袋入りの氷水を受け取った。そしてタオルを由之真の額にのせて、氷水は漏れぬようビニール袋の口をきつく結んでから、由之真の脇の下に当てて静かに言った。
「冷たいかもしれないけど、我慢して。少し身体の中を冷やさないとね」
「……はい」
「目眩とか、頭痛いとか、気分悪いとかはない?」
「ないです」
「そう……」
百合恵が由之真の答えに偽りがないことを確認してほっと胸を撫で下ろしていると、香苗達が到着した。香苗は早速由之真の傍らに座って、心配そうに顔を覗きながら由之真に話しかけた。
「ヤマっち……遺書書いた?」
「……書いてない」
「……フフフ……」
二人のやりとりを苦笑しながら見ていた百合恵は、ふと誰かに背中をつつかれ振り返った。すると路子が手招きをしたので、百合恵がきょとんとしながら歩み寄ると、路子は百合恵の耳元に顔を寄せて小声で言った。
「あー……なんかバトンの受け渡しがどうとかで、今ビデオ判定してるって」
「……そうなの」
百合恵は腕を組みながら、自分の記憶を思い返してみた。百合恵が見ていた限りでは、あの時二人のバトンタッチは確かにテイクオーバーゾーン付近での微妙なものだったが、美夏は転んでもバトンを落とさなかったし、由之真が脱兎の如く美夏に駆け寄り美夏の手から直接バトンを取った時も、美夏に触れたようには見えなかった。しかし今は考えてもしかたがないので、とにかく結果を待つしかないと百合恵が思った時だった。膝の消毒を済ませた美夏が言った。
「じゃあ私、結果聞いてくるね」
「……うん」
路子が返事をして、美夏は小走りに実行委員席へ向かった。それを見た百合恵は一瞬自分が行くべきかと思ったが、ふと三人が役割を決めていたのではないかと考え、美夏の帰りを待った。しかし結果は、美夏の帰りを待たずに知ることとなった。
「やったーっ!!」
その喜びに満ちた大声は間違いなく美夏のものであり、勝利を意味する声だった。
「やったねっ!!」
「おうっ!!」
「……静かにしてください」
香苗と路子がハイタッチを交わし合ったが、由之真の他にも休んでいる児童が二名いたので、香苗達は救護係から注意を受けた。しかし美夏が喜びの涙を流しながら駆け戻ってきた時には、二人はたった今受けた注意をすっかり忘れ、三人で抱き合って喜び合ったが、救護係は諦めたのかもう止めようとしなかった。
百合恵は由之真の傍らで、その光景を微笑みながら見守っていた。本当は自分も混ざって大喜びしたかったが、胸に湧いた熱いものが目から溢れてこないようにするだけで精一杯だった。しかしふと百合恵が、喜び合う三人を眺める由之真の微笑みを見た時、百合恵の防波堤は一気に決壊して、暖かい大粒の滴が百合恵の頬を伝った。
「あっ、先生泣いてる!チョー泣いてるし!」
それにいち速く気付いた香苗が百合恵を茶化したので、百合恵はみんなに喜び過ぎだと注意して誤魔化そうと思ったが、出てきた言葉は涙の言い訳だった。
「……だって……嬉しくて……」
そして百合恵は由之真がゴールした直後から、ずっと言いたくてしかたがなかった言葉をやっと口にした。
「みんな凄い!……よく頑張ったわ……先生馬鹿みたいに嬉しい!……ありがとう!」
百合恵の率直な謝辞にみんなは満面の笑みを返して、香苗は路子の肩を拳で押しながら嬉しそうに言った。
「イェーイ!ミチ!作戦大成功!!」
「ハハッ!リベンジもなっ!!」
「ハハハハッ!」
そして美夏が実行委員席で受け取ってきた、一等賞の証であるピンクの星のシールをみんなに渡した。しかしみんなはそのシールを、全て由之真の胸に貼った。百合恵はその時の由之真の困った笑顔が愉快でしかたなかった。そして苦笑しながら移した視線の先に、おそらく児童達の弟や妹達と思われる幼児達が、花壇の周りで楽しそうに遊んでいるのが見えた。その後ろの葉桜の遠く向こうにある灰色の空は、忍び寄る紫陽花の季節を予感させた。しかしそれは同時に、その後の光り輝く大好きな季節への誘いでもあると感じて、百合恵は胸を躍らせた。
ふと気付くと、由之真が立ち上がって同じ方向を見ていたので、もしかしたら由之真も同じ気持ちで空を見上げているのかもしれないと思った。その視線に気付いた由之真は、百合恵に顔を向けて言った。
「係に戻ります」
「……そう。でも、無理はしないようにね!」
「はい」
そしてみんなはそれぞれ自分が担当する係へ戻り、百合恵も仕事へ戻ろうとした時だった。
「櫛田先生」
「……あ、校長先生!いらしてたんですか」
「ええ……見てたわよ。凄かったわねえ!」
金曜日に持病の痛風が出たので、校長は今回の運動会は不参加の予定だったが、病院帰りにふと寄ってみたとのことだった。校長は由之真が去った方へ目をやりながら、懐かしそうに言った。
「ほんと、由貴より意地っ張りね……でもあの強さは、きっと八岐の血ね」
「………」
由之真の祖母である石狩由貴と校長がいとこ同士であることを百合恵が思い出した時、校長が微笑みながら続けた。
「……次の朝礼で、あの子達を特別に表彰しようと思うの。……記念に何か変わった賞状をデザインしてくださらない?急ぎませんから、櫛田先生の自由な発想で」
「はぁ、それはいいですね!わかりました!」
「では、明後日学校で」
「はい!お気を付けて」
百合恵は校長を見送りながら、朝礼の表彰式で変わった賞状を授与されたみんなが驚く姿を想像してほくそ笑んだ。しかし当日、みんなが密かに作った畳ほどあろう賞状を授与された自分自身が一番驚く羽目になろうとは、この時百合恵は夢にも思っていなかった。
閉会式の行進で菜畑小一同がアナウンスされた時には、大きな拍手が沸き上がり、みんなは頬を真っ赤に染めながら威風堂々と手を振った。菜畑小五年生チームは頭にシロツメ草の花冠をして、代表者の路子が優勝トロフィーを受け取り、それを由之真に渡す時にまた大歓声が起こった。しかし掴み所が悪かったのか、トロフィーの外側にある細い支柱が抜けた。
「あ」
「バッ!?」
咄嗟に路子が掴もうとしたが、時既に遅く、トロフィーは地面に落下し、ガシャン!という派手な音を立ててガラスの部分が粉々に砕け散った。
「あーーっ!壊しちゃダメじゃんかヤマっちっ!!」
「……ごめん」
会場の大歓声は一瞬の沈黙を経て大爆笑となり、つい今まで四人の走者を抜いて菜畑小五年生チームを優勝に導いた英雄だった児童は、その瞬間から「トロフィーを壊した子」として語り継がれることとなった。
終わり