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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第六話 八岐の子猫

 由之真は東の小高い丘に上がり、雨に煙る畑を見下ろした。今日は畑に溜まる雨水を逃がす幾つかの溝を掘ったが、その溝がきちんと機能しているのを確かめてから鍬を拾って樅のトンネルへ向かった。そしてトンネルを抜けた時、ふと誰かに呼ばれた気がして足を止めた。

「……」

 そのまま少し耳を澄ますと、それは声ではなく何かの微かな感情だった。由之真は鍬を軒下に置いて、その感情が流れてくる前方の駐車場へ向かって歩き出した。呼び掛けてしまうと誰が答えるかわからないので、由之真は駐車場の中央に立ってゆっくり辺りを見回した。すると中学部の校庭と駐車場を仕切る花壇と花壇の間に、小さな段ボール箱が置いてあった。

「……」

 その段ボール箱は雨に濡れそぼち、所々に小さな穴が開けられていた。



 今年のゴールデンウイークは五連休のはずだったが、五月の最初の土曜である今日、ジャンケンに負けた路子は動物達の世話をするために学校へ向かっていた。しかし火曜の午後から木曜にかけて、大好きだった祖母の墓参りに行けたし、遊園地にも連れて行ってもらえたし、昨日は美夏の誕生会に招かれて声がかれるまでカラオケで騒いだ。そして明日も香苗達と映画を観に行く約束であり、現時点で路子のゴールデンウイークは不運な今日を除けば申し分ないものだった。

 しかしそんな不運な今日こそが、路子にとって大切な思い出の日になることを今はまだ知る由もないが、腕時計を見ると時刻は十一時五〇分だった。土曜は百合恵が半日出勤で、飼育小屋の作業は十二時までと決まっていた。それを過ぎると月曜の朝と交替しなければならず、路子は小走りに校庭を横切ってまずは飼育小屋へ向かった。そしてまだ飲み水が交換されていないのを見て、ほっとしながら児童玄関に入った。

(……あ、来てんのか……)

 下駄箱にある由之真のブーツに気付いた路子は、思わず苦笑した。はじめの内路子は、放課後必ず畑へ行く由之真を変わったヤツだとしか思っていなかったが、この頃には雨が降ろうと休日であろうと畑へ行く由之真に感心していた。そして路子が、(なんであんなに畑好きなんだ?)と思いながら上靴を履いた時だった。

「……!」

 不意に現れた影に驚き振り返ると、いつの間にか児童玄関の外には鍬を持ったびしょ濡れの由之真が立っていた。一拍おいてから由之真は静かに言った。

「……こんにちは」

「……おっす」

 そして由之真が飼育小屋の方へ向かったので、路子も職員室へ向かった。

「こんにちはーっす」

「……こんにちは!ご苦労さま!」

 職員室には百合恵しかおらず、自分の遅れが百合恵の帰宅を遅らせると思った路子は、まず遅れたことを素直に謝った。すると百合恵は笑いながら答えた。

「ああ、先生今日はね、八岐くんとお弁当食べてから帰ろうと思ってたから、時間はそんなに気にしないで、ゆっくりやって。……多めに作ったから、よかったら路子ちゃんもお昼一緒にどう?」

「あー、帰って食べるから、いいです」

「そう、じゃあ頑張って」

 飼育小屋の鍵を取って職員室を出た路子は、また児童玄関で由之真と会った。しかし、ポンチョを脱いだ由之真が片手で抱えているものを見て、路子は唖然としてしまった。

「……」

 由之真はポンチョを傘立てに置き、首に巻いていた白いタオルを下足場に敷いてから、それをタオルの上にそっと置いた。その白い小さな生き物は、少し湯気が立つ濡れた身体を小刻みに震わせていた。由之真が下足場に両膝をついてその生き物の濡れた身体をタオルで優しく拭いはじめた時、ようやく路子は我に返った。

「あー…八岐……その猫、どうしたのさ?」

 由之真は一度路子を見上げて、また子猫に目を戻して答えた。

「……駐車場にあった……段ボール箱の中にいた」

「………段ボール箱?」

「うん」

 由之真は立ち上がり、ポンチョのポケットから濡れた一枚の紙を取り出し、それを路子に渡した。路子が紙を開くと、鉛筆で「だれかかってください」と書いてあり、瞬間的に路子の胸に不快な怒りが込み上げてきたが、路子は子猫を拭っている由之真に尋ねた。

「……飼うのか?」

 由之真は少し間をおいてから、静かに答えた。

「……うん」

 路子は由之真の傍に歩み寄り、眉を顰めて子猫を見つめた。子猫は目を閉じぐったりしていて、時折手足を震わせて呼吸は不規則であり、どう見ても異常な状態だった。

「……こいつ大丈夫か?……つーかヤバくね?」

「………」

 由之真はそれに答える代わりに、転入以来はじめて路子に頼みごとをした。

「天野さん……俺のバッグ、職員室の先生のロッカーに掛かってるんだけど、持ってきてくれない?」

「……ああ」

 路子は急いで職員室に戻り、由之真のバッグを探した。路子が何も言わずに入ってきたので、忘れ物でもしたのかと思った百合恵は声を掛けなかった。しかし路子は由之真のバッグを持って職員室を出ようとしたが、ドアの前で振り返って百合恵に声を掛けた。

「……先生、ちょっと来て」

「……なあに?」

「あー、いーから……ちょっと」

 路子達が児童玄関に戻ると、由之真は下駄箱に背もたれ、下足場の上にあぐらをかいて子猫を自分の腹に抱きかかえていた。由之真の姿を見た百合恵は無意識に深い溜息をついて、これから起こり得る厄介な事態を半ば覚悟しながら尋ねた。

「……八岐くん……それは?」

 由之真は答えず、「ありがとう」と路子から受け取ったバッグから素速く白いバスタオルを取り出し、そのタオルで子猫の身体を優しく包み込んだ。答えない由之真をじれったく感じた路子は、由之真から渡された紙を百合恵に差し出して言った。

「先生、これ」

 百合恵はそれに目を通し、路子は子猫を見ながら言った。

「……駐車場にあった、段ボール箱ん中にいたって……」

 百合恵はすぐに紙から目を逸らし、苛立たしげに吐息を洩らした。以前二小の先生から、飼えなくなったペットを学校に放置されたと聞いたことがあったが、子供の頃猫を飼っていた百合恵は、そのような行為に及ぶ気持ちが理解できなかった。そしてそれが現実となった今、百合恵が憤りながらも解決策を案じていると、先に路子が提案した。

「先生、何とかなんない?……動物の病院行くとか」

 百合恵は軽く首を横に振って答えた。

「先生車検で……今日は車じゃないのよ」

 路子は不満そうに眉間に皺を寄せ、少し考えてから百合恵の目を見て言った。

「……じゃあさ、電話したらさ、来てくれるかも」

「……そうね」

 連休中なので望みは薄かったが、路子の縋るような目を見た百合恵はすぐに職員室へ戻り、電話帳を見ながら比較的学校に近い三軒の動物病院に電話した。しかし二軒は留守電で、もう一軒は繋がらず、ペットショップにもかけたがやはり繋がらなかった。百合恵は首を横に振りながら、路子の目を見ずに伝えた。

「……連休でどこも休みだわ」

 路子は俯きながら「……なんだそれ」と呆れたように呟いた。しかしすぐに顔を上げて、真剣な目で言った。

「先生、保健室開けて。冷蔵庫に牛乳入ってるから、あっためれば飲むかも」

「……ええ」

 百合恵は子猫に牛乳を飲む力が残っているとは思えなかったが、とにかくこんな時は思いつく限り、できる限りのことをするしかなかった。百合恵は路子に保健室の鍵を渡し、路子は保健室の冷蔵庫から牛乳を取ってきて、それを職員室で火にかけた。その間に百合恵は宿直室から古い毛布と小さな電気ストーブを持ち出してきた。そして下足場に毛布を敷き、電気ストーブをつけて、その上に路子が水と牛乳を注いだ二枚の皿を置き、子猫を毛布に降ろすよう由之真に言った。由之真は毛布にそっと子猫を寝かせた。

「ほら……ほら!……」

 路子が子猫の鼻先に皿を寄せても、子猫の反応は変わらなかった。しかし間もなく子猫の呼吸が荒くなり、路子は急に怖くなったが、由之真がそっと優しく抱きかかえると呼吸は次第に和らいだ。その光景は、まるで母親が赤子を抱いているようだと百合恵は感じた。他にできることを路子が頭で探していると、また呼吸が荒くなり、子猫はフルフルと手足を痙攣させた。

「………」

 その痛々しい姿に耐えられず、路子も百合恵も目を逸らしそうになった時だった。由之真は子猫をそっと自分の顔に近づけ、そして子猫の額に優しく頬ずりしながら何かを囁いた。すると途端に手足の痙攣が止まり、呼吸も和らいだ。由之真は路子に顔を向け、薄く微笑みながら静かに尋ねた。

「……撫でる?」

「………」

 その言葉に路子は素直に従い、子猫の額や背中を優しく撫でた。子猫の毛は乾いていてとても柔らかかったが、体温は路子の手よりもぬるかった。路子は何度も何度も子猫を撫でた。由之真がもういいと言うまで撫でようと思った。すると不意に子猫が今まで一度も開けなかった目を薄く開け、それに驚いた路子の手を一度だけ弱々しく舐めた。

 一瞬路子は希望を持ちかけたが、子猫はまた目を閉じて、今度は下顎を開いて一定の間隔の奇妙な、「しゅ…しゅ…」という呼吸をしはじめた。百合恵はそれが下顎呼吸であり、あともう僅かで子猫の力が尽きることを知っていたが、もちろんそれは言わなかった。しかし路子はその呼吸に覚えがあり、すぐにそれが祖母の臨終の際の呼吸と似ていることを思い出した。そして、子猫が自分の手を舐めたのがお別れの挨拶であることに気付いた瞬間、今まで必死に押さえつけていた何かが胸の奥で爆発し、それは路子の目から一気に溢れ出た。

「……んっ……うっ……くっ……」

 嗚咽を噛み殺し震えながら、路子は子猫を撫で続けた。それをただ見守るしかない百合恵は、小さな滴を頬につたわせながら由之真を見た。由之真は最初から何も言わず、ただずっと穏やかに子猫を見つめ、優しく抱いていた。百合恵は、少なくとも子猫が孤独な最後からは救われたと思うことで、何もできなかった無力な自分を慰めた。そして子猫の呼吸は次第に弱まり、完全に止まった。それでも路子はしばらく撫で続け、ついに撫でるの止めた時、しゃがれた声で言った。

「……先生、学校のお墓に……埋めていい?」

 学校のお墓とは、学校で飼育している動物達のお墓のことであり、路子と同じ事を考えていた百合恵はすぐに答えた。

「ええ、もちろん」

 路子が泣きはらした目を真っ直ぐ由之真に向けたので、由之真は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んで答えた。

「……うん」

 三人が外へ出ると、雨はいつの間にか上がっていて、雲間から青空がのぞいていた。由之真は物置から二本のショベルを持ち出し、三人は飼育小屋の裏の藪路を通り抜けて東の小高い丘に上がった。丘の東側の日当たりの良い緩やかな傾斜に幾つかの石が置いてあり、それが動物達の墓石だった。

「この辺なら、どこでもいいわ」と百合恵が言うと、路子は「お前が決めろ」と言うように由之真を見た。由之真は辺りを見渡し、夏椿の傍をショベルで掘り始めた。路子も子猫を百合恵に預け、ショベルで土を掘った。六〇センチ程掘って、由之真は百合恵から子猫を受け取り、子猫をそっと穴の中に納め、一度優しく土をかけてから言った。

「石と花を探してきます」

「……じゃあ、土をかけてるわね」

「はい」

 由之真はそのまま畑に降りて、路子と百合恵は子猫に土をかけた。二三分後、由之真は拳ほどの白い石と真っ白なフランス菊の花束を持って戻ってきた。由之真が最後の土を入れて、ショベルの背で土を固めてからその上に白い石を置いた時、雲間から差した陽の光で辺りが照らされ、石がきらきらと輝いた。そしてフランス菊を供え、三人は手を合わせてそれぞれ心で子猫に別れを告げた。



 百合恵はストーブを片付けると言って校舎へ戻り、由之真と路子は飼育小屋の水道でショベルを洗った。そして、ふと由之真が口を開いた。

「……照が………ずっと前照が、怪我した子猫を拾ってきたんだけど、怪我が酷くて……その子は助からなかった」

「………」

 路子は黙ってショベルを洗っていたが、由之真は続けた。

「……でもその三日あとに、今度は怪我した子犬を拾ってきて……クロは今、石倉医院にいる」

「!?」

 クロと聞いてぎょっとした路子は、怪訝な顔で由之真に尋ねた。

「……なんで……石倉医院って、アサイの隣の?」

 路子の家はアサイスーパーの近所で、更に石倉医院は路子の掛り付けの病院であり、路子はそこで飼われているクロという名の柴犬しばいぬをよく知っているばかりか、クロは路子が大好きな犬だった。しかし、アメリカにいたはずの由之真がクロを知っているとは信じがたく、路子は由之真の答えを待った。由之真はショベルの水を切ってから、にこやかに答えた。

「……うん。クロは照が助けた子で、名前を付けたのは俺。……石倉医院は照の……石狩家の親戚だよ」

「……はあ!?……マジで?」

「うん、マジで」

「……じゃあクロって……照さんの犬だったのか?」

「うん」

「へぇっ!」

 たとえ偶然だとしても、それは路子にとって衝撃の事実だった。四年も一緒にいた照が、どうしてその事をいままで教えてくれなかったのかと思いながらも、路子はある事を急に思い出して、明るい声で言った。

「あのさ、クロもうすぐ子供生むんだけど、私一匹もらって飼うのさ!」

 実のところ、由之真はそれを照から聞いて知っていたが、「そうなんだ」とだけ答えた。路子はふと思い付いて、クロの名付け親である由之真に尋ねた。

「あー……八岐は飼わないのか?欲しかったら石倉先生に言ってやろうか?」

「ありがとう、でも家は昼間誰もいないから、今は飼わない」

「そっか……でもこれ聞いたら香苗絶対びっくりするな!……あ!私が言うから、八岐は内緒な!」

「うん」と由之真は笑顔で請け合った。

「………」

 戻ってきていた百合恵は、飼育小屋の手前で路子の嬉しそうな声を聞いて驚いていた。あんなに沈んでいた路子をこんなに明るくさせるとは、由之真は一体どんな魔法を使ったのだろう?と思いつつ、とにかく用意した陳腐な慰めの言葉を使わずに済んで良かったと思った。そしてたった今来たように装った声で言った。

「……路子ちゃん、小屋の掃除手伝うわ」

「あっ!そーいやしてないし!」と答えた路子の声に張りを感じた百合恵は、もう大丈夫だと確信した。そして驚きは重なった。

「あっ」

 オカメインコの巣箱をそっと覗いた路子は、小さな驚きの声をあげた。そしてさも嬉しそうな顔を百合恵に向けて、興奮しながら囁いた。

「先生!生まれた!雛いる!オカちゃんの雛!」

「えっ!孵ったの!?」

 百合恵がそっと巣箱の横を覗くと、確かにピンクの小さな雛が動いていて、小さな震える声が聞こえてきたが、更によく見ると一羽ではなかった。

「凄いわ、二羽一遍に孵ったのね……孵ったばかりかもしれないから、刺激しないようにしましょう!」

「うん!」

 そして二人は小屋をいつもより丁寧に掃除して、いつもより多めに餌をやって職員室へ戻った。職員室では由之真がお茶を入れて、お昼の準備をすっかり整えていた。いつも美味しそうな由之真のお弁当を見て、路子の腹はグゥと鳴り、そのすぐ後に百合恵の腹も鳴って、百合恵は照れ笑いながら言った。

「路子ちゃんも、一緒に食べましょう!」

 路子は苦笑して頭を掻きながら答えた。

「あー……じゃあ電話してきます」と路子は廊下の公衆電話へ行きかけたが、百合恵はそれを止めた。

「これでかけていいわ。ゼロ押してからね」

 百合恵は三つ作ってきたおにぎりを一つ、そして唐揚げと卵焼きを路子に分けた。由之真はいつもの三段お重をテーブルの真ん中に差し出し、食べたい分のご飯だけを蓋に取り分けてから、路子に「好きに食べて」と言った。路子は百合恵にもらったおにぎりを頬張りながら、前から思っていた疑問を口にした。

「あー、八岐さ……いっつもだけど、多過ぎないか?」

 由之真は苦笑して答えた。

「うん……でも照が……無理に詰めるから……」

「……?」

 路子はきょとんとしたが、百合恵はすぐに悟った。

「なるほど、作るのは八岐くんでも、盛り付けは照ちゃんの係なのね」

 そこで照が無理に詰める理由に気付いた路子は、意地悪そうな笑みを浮かべて尋ねた。

「あー、もっと食べて、おっきくなれってことか?」

「……うん」と困った笑顔で頷いた由之真がおかしくて、路子と百合恵は愉快そうに笑った。

「フフフ!でも、いくらなんでもこれは先生でも食べきれないわよ」

「ハハ!私も無理!ハハハハッ!」

 そして百合恵達は連休中のことを話し合い、最後はデザートに由之真の東京土産のとらやの羊羹を平らげて、三人は学校を後にした。



 百合恵と路子は帰る方向が同じなので、二人は連れ立って歩いていた。連休中の話しは続いていて、ふと路子が連休最後の日の過ごし方を百合恵に尋ねると、百合恵は嬉しそうに答えた。

「明日?明日は先生久しぶりにね、朝から晩まで頭痛くなるくらい、映画見に行くつもりなのよ!」

「え゛っ!」

「……えってなあに?……先生が映画見ちゃダメなの?」

「いや、あー、そーじゃなくって……あー…」

「……なんなの?先生何かヘンなこと言った?」

 少しは妙なことを言ったが、それより路子は話すべきかどうか迷ったあげく、別に隠すこともないと判断した。

「明日、うちらも映画行くから……」

「あら!そうなの……じゃあ向こうで会っちゃうかもね」

 百合恵は近所のスーパーでばったり会うのと同じくらいにしか考えていなかったが、路子にとっては、嫌とまでは言わないが、なんだか気恥ずかしいことだった。

「……先生、なに見んの?」

「別に決めてないけど、できたら三本以上見ようと思ってるわ」

(大人見かよっ!)とすかさず心で突っ込みながらも、路子は帰ったら早速香苗達と相談しよう思った。しかし、ふと思い直して言った。

「じゃあさ……もし先生が先にうちら見っけたらさ、急に出てきてよ。あー、うちらが先に先生見っけるかもしんないけど」

 途端に百合恵は目を輝かせ、悪戯っぽく口を歪めて言った。

「ほほー、路子ちゃんも悪よのう!フフ!その話し乗ったわ!」

「ハハハッ!」

 斯くして企みは生まれたが、この時二人は、翌日映画館のトイレで百合恵と鉢合わせた香苗が「ほわっ!?」と大声をあげ、男性従業員に駆け込まれるという騒ぎになろうとは露も思っていなかった。

 一頻り笑った後、ふと思い出した百合恵は路子に尋ねた。

「路子ちゃん……八岐くんと水道で、何話してたの?」

 路子は一瞬きょとんとしたが、すぐにあまり見せない優しげな笑みを浮かべて答えた。

「あー……先生石倉医院の、クロ知ってる?」

「ええ、クロちゃんでしょう?」

「あのさ………実はクロって前は照さん家の犬でさ、名前付けたの八岐なんだって」

「……へっ!?……クロちゃんが?照ちゃん家の犬だったの?」

 自分と同じような百合恵の驚きぶりに、路子は大いに満足しながら答えた。

「マジマジ!うちでクロの子一匹飼うからさ、私もびっくりした!」

「へー!そうなの……へー!」

 小さい村なのだから、そういうこともあるかと思ったが、やはり百合恵は不思議な縁を感じずにはいられなかった。そして同時に、由之真は路子がクロの子を飼うことを知っていたと確信し、たとえクロの事実が偶然であれ、あの場でそれを話した由之真の機転と思いやりに感心しながら感謝した。考えてみれば、今日は悲喜こもごもで濃密な一日だったが、今はとても晴れやかな気持ちに満ちていることを百合恵は実感し、そしてそれは路子も同じ気持ちだった。

 子猫のことはとても悲しかった。でも、オカちゃんの雛はとても嬉しかった。そしてこれから生まれるクロの子を思うと、路子の胸は以前よりも高鳴った。名前を付けて、家にいる時はできるだけ世話をして、そしてもしその子の命が尽きる日が来たら……由之真があの子猫にしたように、自分も最後の最後までその子をずっと抱いていようと路子は心に誓った。



終わり

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